第69話 王都へ行くか、村に残るか
王都技師組合資料の閲覧申請が出された翌朝、リベル村はいつも通りに動いていた。
水車は回る。
旧水路は細く畑へ水を運ぶ。
傷洗い草の芽は、昨日よりわずかに背を伸ばしている。
トマは修復された鍬を使い、畑の端を少しずつ起こしていた。
何も変わらない朝に見えた。
けれど、村長宅の机の上には、王都行きの可能性を示す文書が置かれている。
それだけで、空気は少し重かった。
「技術説明者は、俺だろうな」
ダリオが言った。
いつものように椅子にもたれてはいるが、声に軽さはない。
「黒石祠の管理印を、俺の記憶と古い図面で照合する。そういう話なら、俺が行かなきゃ始まらん」
「記録者はレオン殿になる可能性が高い」
村長が静かに続けた。
俺は頷いた。
「はい。行政庁、防衛局、ギルドとのやり取りを考えると、俺が行くのが自然です」
トマが腕を組んだ。
「自然って言われてもな。先生が村を離れるのは、正直きついぞ」
「分かっています」
俺は答えた。
村の井戸、水車、旧水路、治療所、外周結界。
全部が少しずつ安定してきたとはいえ、まだ完全ではない。
俺がいない間に何かあれば、対応が遅れるかもしれない。
セリアは机の端に置かれた文書を見つめていた。
「王都へ行くなら、何日くらいですか」
「移動を含めて、少なくとも数日。資料閲覧が長引けば、もっとかかります」
「……そうですか」
その声は小さかった。
リーゼは窓際に立っている。
朝の光が彼女の横顔にかかっていたが、その表情は硬い。
「護衛は必要だ」
短く言った。
トマがすぐ反応する。
「俺が行くか?」
「村の見張りは誰がやる」
「それは……」
「トマは村に残れ。お前がいると、村人が落ち着く」
トマは少し照れたように顔をしかめた。
「そういう言い方されると反論しづらいな」
リーゼは俺を見た。
「私が行く」
部屋が静かになった。
セリアがすぐに顔を上げる。
「リーゼさん、王都は……」
「怖い」
リーゼは隠さなかった。
「騎士団も、ローゼン家も、腕輪のこともある。王都へ戻ると考えただけで、右手が冷える」
彼女は自分の手首を見た。
「だが、黒石祠の管理印がローゼン家と繋がるなら、私の腕輪とも繋がるかもしれない。目を逸らしていたら、いつまでも向こうの都合のいい噂で終わる」
「無理はしなくていいです」
セリアが言った。
リーゼは少しだけ笑った。
「お前にそれを言われる日が来るとはな」
「私も言われてきましたから」
「そうだな」
二人は短く視線を交わした。
言葉は少ない。
でも、この村で積み重ねたものがそこにあった。
村長が杖を鳴らした。
「行くかどうかは、必要だからではなく、本人が選べ」
その言葉は、部屋の中にゆっくり落ちた。
「レオン殿も、ダリオ殿も、リーゼも。村に必要だから行け、とは言わぬ。行くなら、本人意思で行く。残るなら、本人意思で残る」
ダリオが苦い顔で笑った。
「この村は、いちいち本人意思を突きつけてくるな」
「嫌か」
「嫌じゃない。逃げ道を塞がれる感じがするだけだ」
「逃げる道も残しておる」
村長は淡々と言った。
「ただ、選んだという記録は残る」
ダリオはしばらく黙った。
それから、深く息を吐いた。
「俺は行く」
声は低かった。
「技師組合の門を見たら、吐き気がするかもしれん。クラウスの名前を見たら、昔のことを思い出すかもしれん。でも、あの印を見たのは俺だ。負けた記録を、今度は使う番だ」
トマが言った。
「無理すんなよ」
「するさ」
ダリオは即答した。
「無理しないと王都なんぞ行けるか」
セリアが眉を下げる。
「それは少し心配です」
「大丈夫だ。無茶はしない。無理はするが、無茶はしない」
「違いが難しいです」
「俺にも難しい」
少しだけ笑いが起きた。
だが、すぐに視線は俺へ戻った。
俺は机の上の文書を見た。
王都技師組合。
資料閲覧。
黒石祠。
ローゼン家。
クラウス。
そして、勇者パーティー。
王都へ行けば、きっと過去と向き合うことになる。
追放された日のことを、まだ完全には消化できていない。
カイルは謝った。
エレナもガレスも変わろうとしている。
それでも、王都という場所には、俺が「無能」と呼ばれた記憶が染みついている。
リベル村では、俺は修復鑑定士として扱われる。
だが、王都へ戻れば、また追放鑑定士と呼ぶ者もいるだろう。
「俺も、怖くないわけではありません」
そう言うと、セリアが少し驚いた顔をした。
俺は続けた。
「王都に戻れば、昔の評価に晒されるかもしれない。勇者パーティーの元鑑定士として見られるかもしれない。リベル村の代表として失敗できないとも思います」
トマが口を開きかけたが、黙った。
俺は自分の手を見る。
「でも、行く必要があると思っています。黒石祠のことも、地域封鎖術式のことも、この村だけで閉じていたら証拠が足りない。王都の棚にある記録を見なければ、また“似ているだけ”で終わります」
村長が静かに聞いている。
「だから、行きます。ただし、条件付きです」
「言ってみよ」
「リベル村の正式な記録者として行きます。個人ではなく、村の記録と委任状を持つ。行政庁、防衛局、ギルドの立ち会いを必須にする。ダリオさんの技術説明を記録し、閲覧した資料の写しまたは閲覧記録を求める。単独行動はしません」
ダリオが頷く。
「いい。俺も単独で組合内を歩きたくない」
リーゼが続ける。
「私は護衛として同行する。ただし、王都騎士団への出頭ではない。リベル村防衛役として、村長の委任を受けた護衛だと明記してほしい」
「書きましょう」
ニコルがすでに筆を構えていた。
村長はリーゼを見る。
「本当に行くのか」
「行く」
「怖くてもか」
「怖いからこそ、記録を持って行く」
リーゼの声は震えていなかった。
セリアは唇を結んでいた。
「私は……」
皆が彼女を見る。
セリアは少し迷い、それからはっきり言った。
「私は村に残ります」
その言葉に、俺は少し安心した。
同時に、胸の奥が少し痛んだ。
「治療所と薬草畑を守ります。芽も、患者さんも、周辺村から預かった古薬草種もあります。レオンさんたちが王都へ行くなら、ここを守る人が必要です」
リーゼが頷く。
「重要な役目だ」
「怖いです」
セリアは素直に言った。
「レオンさんたちがいない間に、もし何かあったらと思うと怖いです。でも、ここで待つのも、逃げではないと思いたいです」
「逃げではありません」
俺は言った。
「村を守る役目です」
トマが胸を叩いた。
「俺も残る。見張りと畑と、何かあった時の連絡だな」
「あと、勝手に水量板を動かさないこと」
ダリオが言う。
「動かさねえよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「動かすな」
村長が言った。
「はい」
トマは即座に答えた。
ニコルも口を開いた。
「僕も残ります。村側記録と、王都へ行く皆さんの不在中の記録を取ります」
「頼みます」
俺が言うと、ニコルは少し緊張した顔で頷いた。
「はい。紙の盾、守ります」
ダリオが笑った。
「いい顔になったな、紙の盾職人」
「まだ少し恥ずかしいです」
「そのうち慣れる」
「慣れるんですかね」
村長は全員を見回した。
「では、方針は決まった。レオン殿、ダリオ殿、リーゼが王都行き候補。正式許可が下りるまでは準備のみ。セリア、トマ、ニコル、儂は村を守る」
俺は頷いた。
「はい」
方針が決まると、不思議と空気が少し軽くなった。
不安が消えたわけではない。
ただ、形が見えた。
何を怖がっているのか。
誰が行き、誰が残るのか。
どこまでを条件にするのか。
曖昧な不安は、人を重くする。
形にした不安は、持ち上げられることがある。
午後は、王都行きに備えた書類作りに費やした。
リベル村代表記録者委任状。
外部技師同行理由書。
防衛役同行許可書。
技師組合資料閲覧時の条件書。
単独行動禁止確認書。
トマが途中で頭を抱えた。
「紙、多すぎだろ」
「王都へ行くので」
ニコルが真面目に答える。
「その説明、便利だな」
ダリオは契約書を読みながら言った。
「単独行動禁止か。俺が逃げ出す可能性も考慮されてるな」
「逃げたい時は言ってください」
セリアが言う。
「止めるかもしれませんが、理由は聞きます」
ダリオは少し目を丸くした。
「……そういうことを真面目に言うから、この村は困る」
「困りますか」
「少しな」
リーゼは自分の同行許可書を読んでいた。
そこには、はっきりと書かれている。
『リーゼ・ヴァルトは、本人意思により、リベル村防衛役として王都行き調査隊に護衛同行する。
本同行は、王都騎士団への出頭、召喚、または身柄引き渡しを意味しない。』
リーゼはその一文を指でなぞった。
「この文、強いな」
「必要です」
俺は答えた。
「王都で、言葉をすり替えられないように」
「ありがたい」
彼女は短く言った。
その声は小さかったが、確かに届いた。
夕方、俺は薬草予定地へ向かった。
セリアが先にいた。
小さな芽の前で、膝を抱えるようにしゃがんでいる。
「考え事ですか」
「はい」
セリアは芽から目を離さずに答えた。
「レオンさんたちが王都へ行く間、この芽を枯らしたらどうしようって」
「枯れたら、記録して次を考えます」
そう言うと、セリアは少し笑った。
「レオンさんらしいです」
「冷たいですか」
「いいえ。少し安心します。失敗しても、終わりではないと言われている気がして」
彼女は芽を見つめた。
「でも、枯らしたくはありません」
「はい」
「治療所も、畑も、村も。守ります」
その言葉は、誰かに言わされたものではなかった。
セリア自身の意思だった。
俺は深く頷く。
「お願いします」
夜。
中枢室に、今日の決定を登録した。
《王都行動計画:準備段階》
《同行候補:レオン・アスター/ダリオ・ガンツ/リーゼ・ヴァルト》
《村内防衛:村長バルド/セリア・ルミナス/トマ/ニコル》
《目的:王都技師組合資料照合》
《条件:行政庁・防衛局・ギルド立ち会い/単独行動禁止/記録保持》
《出発:正式許可後》
俺は個人記録を書いた。
『王都へ行くか、村に残るかを協議。
ダリオは技術説明者として同行意思。技師組合への強い抵抗はあるが、逃げたくないと発言。
リーゼは護衛として同行意思。王都への恐怖はあるが、本人意思で行く。
俺はリベル村正式記録者として同行する方針。
セリア、トマ、ニコル、村長は村に残り、治療所、薬草畑、畑、水路、防衛記録を守る。
正式許可までは準備。』
最後に書く。
『行く者にも、残る者にも怖さがある。
それでも、それぞれが自分で選んだ。
この村らしい決め方だった。』
炉の火が低く揺れている。
王都へ続く道は、まだ遠い。
だが、もう見えない道ではなかった。
村に残る灯りを背にして、俺たちはいずれ、その道を歩くことになる。




