第67話 地域封鎖術式
黒石祠の拓本は、村長宅の机の上に置かれていた。
薄い布に写し取られた、円と三本線の管理印。
それだけを見れば、古い工房印か、石工の印にも見える。
だが、祠の周囲に絡みついていた黒い術式根を思い出すと、ただの印とは思えなかった。
ダリオは朝から、その拓本を睨んでいた。
豆の煮込みにも手をつけず、椀を前に置いたまま、ひたすら布の模様を見ている。
トマが心配そうに声をかけた。
「食わないのか?」
「食う」
「冷めるぞ」
「冷めても食う」
「それは食うって言わねえだろ」
いつもの軽口はある。
だが、声に力がない。
ダリオの中で、何かが引っかかっているのは明らかだった。
俺は拓本の横に、昨日の鑑定記録を置いた。
『黒石祠。
古代水路網・結界補助施設。
現在機能:停滞方向へ偏向。
封鎖術式残滓活性化。
旧管理印あり。ローゼン家関連術式と一部類似。』
リーゼは腕を組み、壁際に立っていた。
「一部類似、では足りないか」
「はい。断定には弱いです」
「だが、無関係とも言えない」
「そうです」
セリアは昨日採取した外殻片を見ていた。
封印袋の中で、黒い石片は光を失っている。
けれど、浄化水を近づけると、かすかに濁りが出た。
「この祠、リベル村だけに影響しているんでしょうか」
その問いに、ダリオが顔を上げた。
「いや。たぶん違う」
部屋の空気が少し変わった。
「昨日、祠から三方向に線が出ていただろ。リベル旧水路、北東地下水脈、未確認補助線。あれが本当に繋がっているなら、影響はリベル村だけじゃない」
「周辺村も?」
トマが言う。
「あり得る。ハルマ村の井戸の濁り、北沢集落の水温低下。偶然にしちゃ、タイミングが合いすぎる」
俺は中枢室の簡易地図を写した紙を広げた。
リベル村。
旧水路。
黒石祠。
北東地下水脈。
ハルマ村。
北沢集落。
ミード村。
点と線を繋ぐと、嫌な形が浮かび上がる。
村長が目を細めた。
「水脈を縛る網、か」
「はい」
俺は鑑定記録を重ねて読む。
「水を止めるだけではなく、少しずつ流れを鈍らせる。井戸が濁る。水路が詰まる。畑が痩せる。薬草が育たなくなる。村人が減る。外から見れば、自然に衰えたように見える」
セリアの顔が白くなった。
「人だけじゃなく、村ごと……」
彼女は言葉を探すように、胸元へ手を当てた。
「自分が駄目になったと思わされるんですね」
誰もすぐには答えなかった。
神殿で失敗作と言われた少女。
腕輪で剣を封じられた剣士。
組合から除名された技師。
追放された鑑定士。
この村には、そうやって自分が悪いと思わされかけた者たちがいる。
だから、その言葉の重みが分かった。
リーゼの目が鋭くなる。
「許せんな」
低い声だった。
剣には触れていない。
だが、怒りは隠していない。
トマも拳を握っていた。
「水路が詰まったのも、畑が駄目になったのも、村が弱ったのも、全部村のせいじゃなかったかもしれないってことか」
「全部ではないでしょう」
俺は慎重に言った。
「自然劣化もあったはずです。人手不足も、魔物被害も、長い時間の影響もある。でも、そこに封鎖術式が重なっていた可能性は高いです」
ダリオが頷く。
「直接壊さない。じわじわ弱らせる。原因がひとつに見えないようにする。嫌な仕事だが、うまい」
「褒めるな」
リーゼが言う。
「技術の話だ。人としては最悪だ」
ダリオは苦い顔で返した。
俺は黒石祠の外殻片へ修復針を近づけた。
中枢室の光が薄く走る。
《黒石祠外殻片》
《封鎖術式残滓:微弱》
《術式性質:停滞/劣化偽装/復旧阻害》
《範囲推定:地域型》
《分類候補:地域封鎖術式》
表示された言葉に、部屋が静まった。
「地域封鎖術式……」
ニコルが震えた声で記録する。
「地域、ということは」
「村一つではなく、この一帯を対象にしている可能性があります」
俺は答えた。
セリアが小さく息を吸った。
「そんなことをして、何のために」
村長が静かに言った。
「弱らせた土地は、安く買える。弱った村は、支援を受け入れやすい。人が減れば、管理もしやすい」
その言葉は穏やかだった。
穏やかな分、余計に怖かった。
リーゼが歯を食いしばる。
「王都のやり方だ」
「まだ王都と断定はできません」
俺は言った。
「でも、王都式の管理印に近いものがある。ローゼン家関連術式との一部類似もある。証拠としては、まだ足りない」
「足りない、か」
「はい」
リーゼは悔しそうに目を伏せた。
「いつも、それだな」
気持ちは分かる。
腕輪。
才能封鎖術式。
水路封鎖呪印。
黒石祠。
どれも繋がっているように見える。
だが、断定するには足りない。
怒りだけで言えば、相手に逃げ道を与える。
だから、また記録しなければならない。
セリアは祠片を見つめていた。
「浄化は、できますか」
俺は鑑定を続ける。
《地域封鎖術式》
《状態:一部活性》
《完全解除条件:不明》
《必要:修復炉出力上昇/接続点特定/術式管理印照合》
《現時点推奨:応急安定化のみ》
「完全浄化は無理です。今の修復炉の出力では足りません。祠の接続点も全部分かっていない。無理に浄化すれば、水脈が逆流する危険があります」
セリアは悔しそうに唇を結んだ。
「では、応急処置だけですね」
「はい」
「分かりました」
その声は震えていた。
でも、彼女は止まれた。
リーゼが静かに言う。
「焦って踏み込まない。昨日、芽にも教えられたばかりだ」
セリアは少しだけ笑った。
「そうですね。芽に笑われてしまいます」
トマがぼそっと言う。
「芽は笑うのか?」
「たぶん笑いません」
「だよな」
少しだけ空気が緩んだ。
村長は机の上にある地図を指した。
「次にすることを決めよう」
俺は頷いた。
「まず、黒石祠の調査記録を整理します。地域封鎖術式という分類は、まだ内部記録に留める。外部へ出す時は、“地域型の水脈停滞術式の疑い”くらいに抑えます」
「断定しないためですね」
ニコルが言う。
「はい」
ダリオが続ける。
「それと、祠の管理印の照合が必要だ。俺の記憶だけじゃ弱い。王都技師組合の資料に似た印があるはずだ」
その言葉で、部屋の空気がまた重くなった。
王都技師組合。
ダリオにとって、古い傷の場所。
ダリオ自身も嫌そうな顔をしていた。
「言いたくないが、資料がいる」
「王都へ行く必要が?」
セリアが聞く。
「たぶんな」
ダリオは苦々しく答えた。
「古い施工補助図、管理印一覧、ローゼン家案件の記録。あの辺りを見れば、黒石祠の印と照合できるかもしれない」
リーゼが静かに言う。
「王都か」
その声には、ほんのわずかに硬さが混じっていた。
リーゼにとっても、王都は安全な場所ではない。
騎士団、腕輪、ローゼン家。
戻れば、過去が近づく。
俺は言った。
「今すぐ決める必要はありません。まずは村の記録を固めます」
村長が頷く。
「それでよい。急ぐな。だが、目は逸らすな」
午後、俺たちは中枢室で黒石祠の情報を再登録した。
外殻片、拓本、地図、現地記録。
中枢室の結晶柱が低く光る。
《黒石祠情報統合》
《分類:地域封鎖術式・一部》
《影響候補:水脈停滞/水路閉塞/畑劣化/井戸濁り/薬草生育阻害》
《ローゼン侯爵家関連術式との一致率:四十一%》
《断定不可》
《推奨:照合資料追加》
「四十一%……」
リーゼが呟く。
「足りないですね」
俺は答えた。
「でも、ゼロではありません」
ダリオは腕を組んだ。
「資料があれば、上がるかもしれん。下がるかもしれん。どちらにせよ、見なきゃ分からん」
セリアが中枢室の光を見つめる。
「もし、本当に地域全体を弱らせる術式だったら、周辺村にも伝えるべきですよね」
「はい。ただ、伝え方が難しいです」
俺は言った。
「不安だけを広げると、ローゼン家の思う壺になります。まず、井戸水記録を続けてもらう。異常がある村から順に、現地確認の準備をする。危険を煽るのではなく、記録を増やす」
村長が満足そうに頷いた。
「よい。噂に対して、噂で返すな。記録で返す」
トマが苦笑した。
「また紙の盾か」
「今回は水の盾でもある」
ダリオが言った。
「流れを戻すこと自体が証拠になる」
夕方、セリアは薬草予定地へ向かった。
小さな傷洗い草の芽は、今日も細く立っている。
彼女はその前にしゃがみ、しばらく何も言わなかった。
リーゼが隣に立つ。
「どうした」
「森の祠のことを考えていました」
「怖いか」
「怖いです」
セリアは素直に答えた。
「でも、この芽を見ていると、全部が止められていたわけではないんだと思えます。水路も、種も、完全には死んでいなかった。なら、周辺村も、まだ戻せるかもしれません」
リーゼは芽を見た。
「そうだな」
「でも、私たちだけで全部背負うのは違うんですよね」
「ああ。善意で踏み込みすぎるな、だ」
セリアは少し笑った。
「この村の合言葉が増えていきますね」
「多すぎるな」
「でも、必要です」
二人はしばらく小さな芽を見ていた。
夜、俺は個人記録を書いた。
『黒石祠の外殻片および拓本を中枢室に登録。
分類候補:地域封鎖術式。
影響候補:水脈停滞、水路閉塞、畑劣化、井戸濁り、薬草生育阻害。
ローゼン侯爵家関連術式との一致率四十一%。断定不可。
完全解除には、修復炉出力上昇、接続点特定、管理印照合が必要。
王都技師組合資料の確認が必要になる可能性。』
最後に、セリアの言葉を思い出して書いた。
『人だけではない。村も、自分が駄目になったと思わされることがある。
なら、修復とは水路や炉を直すだけではない。
村に、自分はまだ生きていると思い出させることでもある。』
炉の火が低く揺れている。
地上では薬草の芽が立っている。
森の奥では黒石祠が眠りきれずにいる。
王都には、照合すべき資料がある。
道は、少しずつ王都へ伸び始めていた。




