第65話 森の奥の異変
異変は、朝ではなく昼過ぎに起きた。
その日は、珍しく穏やかな一日になるはずだった。
トマは修復された鍬を使って、畑の端を少しずつ起こしていた。
ダリオは分水板の試作図を描きながら、何度も「これはまだ作らん。図だけだ」と自分に言い聞かせている。
セリアは薬草予定地の小さな芽を見守り、子供たちはその周りで妙に小声になっていた。
「芽、昨日より背が高い?」
「たぶん」
「声、小さく」
「うん」
そんな会話が聞こえるだけで、村の空気は柔らかかった。
リーゼは広場の端で、若者たちに避難経路の確認をさせていた。
「走るな。慌てるな。どこへ行くかを先に決めておけ」
「でも魔物が来たら走りますよ」
「走るのはいい。考えずに走るなと言っている」
「難しいです」
「だから練習だ」
相変わらず厳しい。
けれど、若者たちはもう彼女を怖がるだけではなくなっていた。
俺は地下工房で、周辺村から預かった井戸水の追加記録を整理していた。
ハルマ村の水は、濁りが少し増えている。
北沢集落の水温低下は続いている。
ミード村の止血草古種は、低湿度処置を始められる段階に入った。
ひとつずつ、記録する。
焦らず、断定せず、でも見逃さず。
それがこの村のやり方になりつつあった。
その時、中枢室の結晶柱が低く鳴った。
いつもの柔らかい反応ではない。
喉の奥で詰まるような、硬い音だった。
《周辺反応:異常》
《対象:北東森林域》
《魔物反応:該当なし》
《古代補助施設反応:あり》
《周辺祠:異常起動》
「祠……?」
俺はすぐに表示を拡大した。
村の地図の外側、北東の森の奥。
以前から中枢室が「周辺修復候補」として示していた祠のひとつが、黒い点滅を始めていた。
《周辺祠:黒石祠》
《状態:休眠解除》
《水路復旧に連動》
《封鎖術式残滓:活性化》
《危険:周辺水脈停滞/結界補助線干渉》
背筋が冷えた。
水路復旧に連動。
つまり、俺たちが旧水路を戻したことで、眠っていた何かが起きた可能性がある。
いや、起きたのが自然なのか、誰かが起こしたのかは分からない。
けれど、タイミングが悪すぎる。
ミリア監査員から届いた警告が脳裏をよぎった。
周辺祠、水路網、古代補助施設の異常に注意。
「先生!」
地上からトマの声がした。
俺が階段を上がると、トマも広場の方から駆けてきていた。
「外周結界が変だ。森の方だけ、光がちらついた」
「中枢室でも反応が出ました。北東の森の祠です」
「魔物か?」
「魔物反応はありません」
「じゃあ何だよ」
「古代補助施設。封鎖術式残滓が活性化しています」
トマは一瞬だけ黙り、それから嫌そうに顔をしかめた。
「また、あの嫌なやつか」
「はい」
村長宅へ、すぐに主要な面々が集まった。
村長、俺、セリア、リーゼ、トマ、ダリオ、ニコル。
机の上には、北東森林域の簡易地図を広げる。
ダリオは地図を見た瞬間、表情を険しくした。
「黒石祠か。こいつは古い水路網の補助点だな」
「知っているんですか」
「王都技師組合の古地図で見たことがある。水路そのものじゃない。水の流れと結界補助線を繋ぐ、いわば中継点だ」
「そこが起きた」
「ああ。旧水路を戻したことで、流れが届いたんだろう」
リーゼが腕を組む。
「それは悪いことなのか」
「本来なら悪くない」
ダリオは地図を指で叩いた。
「でも、封鎖術式の残滓が絡んでいるなら話は別だ。水が戻ったことで、止めていた術式も目を覚ました可能性がある」
セリアが不安そうに言う。
「水路を直したせいで、危険が広がったんですか」
「違います」
俺はすぐに言った。
「水路を直したから危険になったのではなく、元々埋められていた危険が見えるようになったんです」
セリアは少し息を止めた。
それから、ゆっくり頷いた。
「見えたなら、記録できますね」
「はい」
リーゼが静かに言った。
「見えたなら、守れる可能性もある」
村長は地図を見つめていた。
「調査は必要じゃな」
「はい。ただし、全員で行くわけにはいきません」
俺は言った。
「村の防衛も必要です。薬草予定地も、治療所も、畑も守らなければ」
トマがすぐに言う。
「俺は行く」
リーゼも短く言った。
「私もだ」
セリアは胸元に手を当てた。
「浄化が必要なら、私も行きます」
ダリオが工具箱を軽く叩く。
「祠の構造を見るなら、俺もいる」
村長はひとりずつ見た。
「では、調査隊はレオン殿、リーゼ、セリア、ダリオ、トマ。ニコルは村に残り、記録と連絡。儂も村に残る」
ニコルが少し悔しそうに顔を上げた。
「僕は行かなくていいんですか」
「行かなくてよい、ではない。残ってほしいのじゃ」
村長は穏やかに言った。
「村に記録係がいることは、防衛でもある」
ニコルはその言葉を飲み込み、真剣に頷いた。
「分かりました。村側記録を残します」
トマが彼の肩を叩く。
「紙の盾、頼むぞ」
「はい」
調査前に、準備を整えた。
リーゼは剣と短剣。
トマは弓と予備矢。
セリアは浄化水、布、簡易治療道具。
ダリオは工具箱の中身を厳選し、余計なものを置いていく。
「よく分からん棒は?」
トマが聞く。
「持っていかない」
「持っていかないのか」
「よく分からんからな」
「正しい判断だな」
俺は修復針、記録板、封印袋を持つ。
封鎖術式の欠片が見つかった時のためだ。
出発前、セリアは薬草予定地の前にしゃがんだ。
小さな傷洗い草の芽が、薄い布の影で揺れている。
「行ってきます」
彼女は小声で言った。
トマが首を傾げる。
「芽に?」
「はい」
「返事するか?」
「しません。でも、言いたかったので」
リーゼが静かに言う。
「悪くない」
村長は調査隊を見送りながら言った。
「無理はするな。分からぬものは持ち帰れ。判断は村で行う」
「はい」
俺たちは北東の森へ入った。
森は思ったより静かだった。
鳥の声が少ない。
風はあるのに、葉擦れの音が妙に鈍い。
リーゼが先頭を歩く。
足運びに無駄がない。
トマは少し後ろで弓を構えられる位置を保つ。
セリアは中央。
ダリオは地面や木の根を見ながら歩く。
「水の匂いが変だ」
ダリオが呟いた。
「水の匂い?」
「湿ってるのに、流れてない匂いだ。沼とも違う。水がどこかで足止めされてる」
俺は周囲を鑑定する。
《北東森林域》
《水脈:停滞傾向》
《結界補助線:微弱干渉》
《封鎖術式残滓:散在》
「やはり、水脈が停滞しています。封鎖術式の残滓もあります」
セリアが息を呑む。
「この森全体に?」
「薄く、散っています」
リーゼの表情が険しくなる。
「魔物がいないのが逆に不気味だな」
「魔物も避けているのかもしれません」
トマが嫌そうに言う。
「魔物が避ける場所に俺たちは入ってるのか」
「今さらですね」
「先生、時々ひどいよな」
少しだけ笑いが出た。
その笑いが、森の重さを少しだけ押し返した。
しばらく進むと、木々の間に石が見えた。
最初は岩かと思った。
だが近づくにつれ、それが人工物だと分かる。
黒い石で作られた、小さな祠。
高さは大人の腰ほど。
表面には古い紋様が刻まれている。
そして、その紋様の奥で、黒紫の光がゆっくり脈打っていた。
セリアが小さく声を漏らす。
「……あれが」
ダリオの顔から軽口が消えた。
「黒石祠だ」
俺は近づきすぎない位置で鑑定する。
《黒石祠》
《分類:古代水路網・結界補助施設》
《状態:異常起動》
《水路復旧に連動》
《封鎖術式残滓:活性化》
《機能:周辺水脈制御/補助結界調整》
《現在機能:停滞方向へ偏向》
「水脈を停滞させる方向に偏っています」
俺が言うと、ダリオが低く唸った。
「やっぱりな。本来は流れを整える祠だ。それが逆向きに使われている」
「直せるのか?」
トマが聞く。
「ここでいきなり触るな」
リーゼが先に言った。
「罠の可能性がある」
俺は頷いた。
「はい。今日は状態確認と記録。触れるとしても、外側の残滓確認までです」
セリアは祠を見つめていた。
顔色は悪い。
けれど、目は逸らさない。
「また、流れを止める術式なんですね」
「はい」
「人だけじゃなく、水も、畑も、村も」
彼女は胸元に手を当てた。
「全部、自分が駄目になったように見せる」
その言葉に、リーゼの目が鋭くなる。
トマは黙って拳を握った。
ダリオは工具箱を地面に置き、膝をついた。
「外側だけ見る。中は触らん」
俺が鑑定で確認しながら、祠の周囲を一歩ずつ調べる。
石の根元に、黒い線が何本も伸びていた。
それは木の根のように地面へ潜り、水脈の方へ広がっている。
《封鎖術式根》
《状態:活性化初期》
《接続:周辺水脈/旧水路補助線》
《危険:無理な切断により水脈逆流》
「根のような術式があります。無理に切ると逆流する可能性」
ダリオが舌打ちした。
「嫌な組み方だ。直す相手に罠を仕込む思想が同じだな」
その時、祠の奥の光が一度だけ強くなった。
黒紫の光が、森の中へ薄く広がる。
トマが弓を構える。
「何か来るか?」
「魔物反応はありません」
俺は表示を見る。
《周辺祠:異常起動進行》
《封鎖術式残滓:活性上昇》
《推奨:長時間滞在回避》
《推奨:記録後撤退》
「長居は危険です」
リーゼが即座に判断した。
「撤退だ」
セリアが少しだけ祠へ近づきかけた。
俺は止める。
「セリア」
「……はい。分かっています。今日は触りません」
彼女は悔しそうだった。
だが、止まった。
「浄化したい気持ちはあります。でも、今やるべきではないんですよね」
「はい」
「なら、記録します」
セリアは震える手で、自分の記録板に書いた。
『黒石祠。
流れを止めるような反応。
今は触らない。
浄化したいが、焦らない。』
リーゼがそれを見て頷いた。
「良い判断だ」
俺たちは祠を封印袋に入れることはできなかった。
大きすぎるし、地面と繋がっている。
代わりに、外側の剥がれた小片を一つだけ採取した。
《黒石祠外殻片》
《封鎖術式残滓:微弱》
《証拠保全可能》
採取を終えた瞬間、祠の光がまた薄く脈打つ。
まるで、こちらを見ているようだった。
撤退する前に、俺はもう一度振り返った。
森の奥。
黒い石祠が、木々の影の中で淡く光っている。
その光は、灯火ではなかった。
水を止め、土を眠らせ、村を衰えさせるための、古い悪意の残り火のようだった。
俺は記録板を閉じた。
「戻りましょう」
リーゼが先頭に立つ。
セリアは一度だけ祠を振り返り、それから前を向いた。
トマは弓を下ろさない。
ダリオは工具箱を背負い直す。
「次は準備して来る」
彼は低く言った。
「炉の出力も、道具も、記録も足りん。だが、見つけた」
俺は頷く。
「はい。見つけました」
見えないまま村を弱らせていたものが、またひとつ姿を現した。
それは危険だ。
だが同時に、前進でもある。
隠れていた傷は、見えなければ治せない。
森の奥で、黒石祠はまだ淡く光っていた。




