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第64話 ローゼン家、包囲網を失う

 王都の噂は、最初ほど勢いを持たなくなっていた。


 もちろん、消えたわけではない。


 リベル村には危険な古代設備がある。

 追放鑑定士が村を拠点にしている。

 元聖女候補が治療所にいる。

 騎士団を離れた女剣士が防衛役をしている。


 そうした話は、まだ酒場でも商会通りでも囁かれている。


 だが、そこに別の声が混ざり始めていた。


「いや、リベル村に行った者の話だと、ちゃんと記録を取っているらしいぞ」


「水路を勝手に広げてるんじゃなくて、昔の水路を少しずつ戻してるだけだとか」


「神殿検査でも、あの聖女候補に暴走兆候はなかったらしい」


「周辺村の代表が見に行って、危険な村ではなかったと言っているそうだ」


 噂は、噂で上書きされる。


 そして今回は、ただの噂ではなかった。


 周辺村の代表者たちが実際にリベル村へ行き、井戸水の確認を依頼し、古薬草種の相談を持ち帰った。


 それが王都へも届き始めていた。


 冒険者ギルドの掲示板には、ミリア監査員の名で短い告知が張り出された。


『リベル村は、提出済み設備台帳および旧水路復旧記録に基づき、周辺村からの相談受付を開始。

現時点で、周辺水脈を独占または不正操作している事実は確認されていない。

井戸水確認等については、各村代表の意思確認と記録を前提とする』


 その文面は淡々としていた。


 だが、淡々としているからこそ強かった。


 防衛局もまた、内部資料としてリベル村の自主管理能力を暫定評価する方向へ傾き始めていた。


 行政庁のオルブライトは、会議室で資料を並べていた。


 リベル村の設備台帳。

 旧水路記録。

 周辺村代表来訪記録。

 薬草試験栽培記録。

 そして、クラウス技師の測定具問題。


 彼は資料の束を見つめ、静かに言った。


「これで、管理不能な危険村という線は弱いですね」


 向かいに座るラウル査察官が頷く。


「少なくとも、そう断定すればこちらが弱くなる」


「ローゼン家側は、支援予算の凍結をまだ使うでしょう」


「使うだろうな。だが、周辺村がリベル村へ相談を持ち込み始めた。締めすぎれば、今度は周辺村の不満も買う」


 オルブライトは眼鏡を押し上げた。


「水は政治になります」


「もうなっている」


 ラウルは窓の外を見た。


「だが、リベル村は分水未実施、将来協議事項と記録している。あの村は妙なところで慎重だ」


「そこが評価できます」


「本人たちに言ったら嫌がるだろうがな」


 オルブライトは少しだけ口元を緩めた。


「慎重な辺境村ほど、行政庁にとってありがたいものはありません」


 その頃、ローゼン侯爵家の執務室では、空気が冷えていた。


 侯爵の前には、何通もの報告が置かれている。


 周辺村代表がリベル村に再訪。

 リベル村が井戸水確認と古薬草種確認の相談を受ける。

 ギルドが中立告知を掲示。

 防衛局がリベル村の設備台帳を有効資料として扱う。

 行政庁が管理区域縮小案を検討継続。


 どれも、ローゼン家にとって面白くない内容だった。


「包囲が緩んでいる」


 侯爵は静かに言った。


 アルヴィンは頭を下げたまま答える。


「はい。周辺村の不安は一部残っていますが、リベル村が相談を受ける形になったため、敵対へは向かっていません」


「なぜだ」


「リベル村が、即座に水を分けるとも、拒絶するとも言わなかったためです。記録期間を設け、関係村代表との協議を条件にした。その慎重さが、逆に信用を生んでいます」


 侯爵の指が机を叩いた。


 こつ、こつ、と硬い音が響く。


「辺境村が、妙な知恵をつけた」


「レオン・アスターと、ダリオ・ガンツの影響が大きいかと」


「除名技師が、ここで役に立つとはな」


 侯爵の声に、かすかな苛立ちが混じった。


「クラウスは?」


「行政庁から一時除外されています。こちらと距離を置く手配は進めています」


「完全に切れ」


「承知しました」


 アルヴィンは答えた。


 だが、胸の奥に小さな違和感が残る。


 クラウスを切れば、今回の測定具問題は技師個人の過剰判断として処理できるかもしれない。


 だが、古い告発文書まで出てきた。


 ダリオ・ガンツが昔、ローゼン家案件で管理紐付け機構を告発していた。


 これを完全に個人の問題として処理するには、少し無理がある。


 侯爵はその沈黙を見逃さなかった。


「何か言いたげだな」


「……クラウスを切るだけでは、根本の疑念は残ります」


「だからこそ、より大きな問題で上書きする」


 侯爵は地図を広げた。


 リベル村。

 旧水路。

 周辺の祠。

 森。

 古い水脈。


「リベル村が安定し、周辺村と繋がれば、あの地域は自立する。自立した辺境は扱いにくい」


「では、どうされますか」


 侯爵は冷たく笑った。


「危機が必要だ」


 アルヴィンの背筋がわずかに強張る。


「危機、ですか」


「そうだ。管理委員会の権限を広げるに足る危機。リベル村だけでは対処できないと示す危機。周辺村が、やはり王都の管理が必要だと思う危機」


「魔物を使うのは危険です。防衛局が敏感になっています」


「魔物でなくてよい」


 侯爵の指が、地図上の森の奥にある小さな印を叩いた。


「古い祠がある。水路網と結界補助に関わる施設だ。あの辺りは、昔の術式が残っている」


 アルヴィンは息を止めた。


「まさか、封鎖術式を」


「動かすのではない。眠っているものが、リベル村の水路復旧に反応した。そういう形にする」


「実際に反応する可能性は?」


「ある」


 侯爵は淡々と言った。


「封鎖は完全ではない。水路が戻れば、連動して古い残滓が起きるかもしれん」


「それを利用する、と」


「利用ではない。危険を発見するだけだ」


 侯爵はそう言った。


 王都の者がよく使う言い方だった。


 やっていることは同じでも、言葉を変えれば別の形に見える。


 アルヴィンは頭を下げた。


「手配します」


「慎重にな。リベル村は記録する。下手な痕跡を残すな」


「承知しました」


 侯爵は地図から目を離さなかった。


「芽は小さいうちに摘むものだ。だが、あの村の芽はもう土から出た。なら、周りの土ごと揺らす」


 リベル村では、その頃、何も知らない子供たちが薬草予定地の前でしゃがみ込んでいた。


「昨日より伸びた?」


「ちょっと伸びた」


「声小さく」


「うん」


 セリアはその横で、薄い布を日よけ代わりに調整している。


 傷洗い草の芽は、まだ細い。


 それでも、昨日より確かに立っていた。


 トマは修復された鍬を試しながら、畑の端を少しずつ起こしている。


「この鍬、いいな。手が疲れにくい」


 ダリオは得意げに腕を組んだ。


「俺が直したからな」


「鍬が偉いのか、お前が偉いのか」


「両方だ」


「言い切った」


 リーゼは畑の外周を歩き、防衛線を確認していた。


 村長は木陰からそれを見守っている。


 俺は中枢室で、周辺村から預かった井戸水と古薬草種の記録を整理していた。


《周辺修復相談:進行》

《ハルマ村井戸水:記録期間中》

《北沢集落井戸水:記録期間中》

《ミード村止血草古種:試験修復準備可》

《リベル村拠点安定度:上昇》


 拠点安定度は、少しずつ上がっている。


 それが嬉しい反面、どこか落ち着かなかった。


 安定すれば、狙われる。


 今までの流れが、そう教えている。


 その日の夕方、ミリア監査員からの短い文書が届いた。


『王都におけるリベル村への悪評は弱まりつつある。

ただし、ローゼン家側が別の危機を作る可能性あり。

周辺祠、水路網、古代補助施設の異常に注意。』


 最後の一文を見て、俺は眉を寄せた。


 周辺祠。


 それは中枢室が以前から次期課題として表示していたものの一つだった。


 村長宅で文書を共有すると、リーゼがすぐに言った。


「次は森か」


「可能性があります」


 ダリオも顔をしかめる。


「水路が戻ったことで、古い補助施設が反応することはあり得る。問題は、自然反応か、誰かが突くかだ」


 トマが鍬を壁に立てかけた。


「また面倒な話になってきたな」


「はい」


 セリアは薬草予定地の方を見た。


「でも、今は芽を守らないと」


 村長は静かに頷いた。


「その通りじゃ。森に目を向ける。だが、足元の芽も、水路も、畑も忘れぬ」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『王都でリベル村への悪評が弱まり始めている。

周辺村代表の証言、ギルド告知、防衛局評価が影響。

ローゼン家は包囲網を失いつつある。

ただし、ミリア監査員より、別の危機を作る可能性への警告。

周辺祠、水路網、古代補助施設に注意。』


 最後に書く。


『村が安定すると、次の揺さぶりが来る。

それでも、今日は芽が少し伸びた。

その事実も、同じくらい大事だ。』


 炉の火が低く揺れている。


 外では、薬草の芽が夜風に震えているはずだ。


 王都では、誰かがその芽を摘もうとしている。


 けれどリベル村では、皆がその小さな芽を踏まないように歩いている。


 その違いを、俺は忘れたくなかった。

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