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第62話 最初の芽

 最初に気づいたのは、セリアだった。


 朝の治療所は、まだ薄い光の中にあった。

 窓辺に干した布は夜露を少し含み、棚の瓶は静かに並んでいる。


 セリアはいつものように、薄めた浄化水を小瓶に移し、薬草予定地へ向かった。


 水路の音は細い。

 けれど、もう頼りないだけの音ではなかった。


 ちょろちょろと、畑の端を撫でるように流れている。


 薬草予定地の木札には、ニコルの字でこう書かれていた。


『傷洗い草・試験栽培

触らないこと』


 その下に、子供たちが読めるように小さく書き足された文字。


『まだ小さいので、そっと見る』


 セリアはその木札を見るたび、少し笑ってしまう。


 触らないこと。

 そっと見ること。

 急がないこと。


 神殿では、そんなふうに言われたことはなかった。


 早く結果を出せ。

 もっと強く光れ。

 なぜ安定しない。

 なぜ他の聖女候補のようにできない。


 そんな言葉ばかりだった。


 けれど、ここでは違う。


 水も、炉も、剣も、種も。

 みんな少しずつ戻していく。


 セリアは薬草予定地の前にしゃがみ込んだ。


 土の表面を確認する。


 一つ目。

 まだ動きはない。


 二つ目。

 少しだけ盛り上がっている。昨日、根形成を確認した種だ。


 三つ目。

 変化なし。


「今日も、少しだけ湿り気を……」


 そう呟いた時だった。


 二つ目の土の盛り上がりの先に、ほんの細い緑が見えた。


 あまりにも小さかった。


 草と呼ぶには頼りない。

 葉と呼ぶには、まだ形も整っていない。


 土を押し上げて、やっと外の光に触れたばかりの、細い細い芽。


 セリアは息を止めた。


 手を伸ばしそうになって、慌てて自分の指を握り込む。


 触らない。


 触ってはいけない。


 ただ、見る。


 見守る。


「……出た」


 声は、ほとんど息だった。


 誰にも聞こえないくらい小さかった。


 けれど、セリア自身には十分だった。


 彼女は立ち上がり、治療所へ走りかけた。

 でも、途中で止まった。


 走ったら、土が揺れるかもしれない。


 そんなはずはないと分かっていても、急ぎたくなかった。


 だから、歩いた。


 少し早足で。


「レオンさん」


 地下工房の入口近くで水車の記録を見ていた俺は、顔を上げた。


「どうしました?」


 セリアは胸元に手を当てて、息を整えてから言った。


「出ました」


「何が?」


「芽です」


 一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。


 次の瞬間、俺は記録板を閉じた。


「薬草の?」


「はい。傷洗い草の芽が、一つ」


 近くにいたトマが振り返った。


「芽!?」


「声が大きいです」


 セリアが即座に注意する。


 トマは慌てて口を押さえた。


「悪い。芽、出たのか?」


「はい。まだ小さいです。本当に小さいので、静かに見てください」


 その言葉は、すぐに村へ広がった。


 ただし、トマが「静かにだぞ!」と叫んだので、結局かなり騒がしかった。


 薬草予定地の周りには、村人たちが集まった。


 子供たちは前へ出たがり、大人たちに肩を押さえられている。


「見えない!」


「順番だ」


「触らない!」


「分かってる!」


 リーゼは腕を組み、少し離れた場所に立っていた。


 だが、彼女の視線はまっすぐ薬草予定地に向いている。


 ダリオは腰に手を当てて、妙に真面目な顔をしていた。


「小さいな」


 トマが覗き込みながら呟く。


「小さいです」


 セリアは頷いた。


「でも、出ました」


 俺は鑑定する。


《傷洗い草・試験栽培一》

《発芽:確認》

《根形成:良好》

《地上芽:初期》

《状態:安定・要保護》

《推奨:直接接触禁止/水量最小/日差し調整》


「状態は安定しています。直接触れないこと。水は最小。日差しが強すぎる場合は、薄い布で調整しましょう」


 ニコルがすごい勢いで書き始める。


「発芽確認……状態安定……直接接触禁止……」


 村長が杖をついて近づいてきた。


 小さな芽を見て、静かに目を細める。


「出たか」


「はい」


 セリアの声は震えていた。


「出ました」


 村長は深く頷いた。


「よい朝じゃ」


 それだけだった。


 でも、それだけで十分だった。


 子供の一人が、小声で聞いた。


「これ、強いの?」


 セリアは少し考えた。


「まだ弱いです」


「弱いの?」


「はい。風にも、強すぎる水にも、踏まれることにも弱いです」


「じゃあ、強くないじゃん」


 セリアは芽を見つめた。


「でも、生きようとしています。だから、強いです」


 子供は少し黙った。


 それから、小さく頷いた。


「じゃあ、守る」


「はい。そっと守りましょう」


 リーゼがその会話を聞いて、少しだけ口元を緩めた。


「小さいが、強いな」


 セリアは振り返る。


「はい」


「お前もだ」


 セリアは一瞬、言葉を失った。


 それから、少し赤くなって目を伏せた。


「私は、まだそんなに強くありません」


「怖くても立っている。十分だ」


 リーゼの言葉は短い。


 けれど、まっすぐだった。


 セリアは小さく息を吸った。


「ありがとうございます」


 ダリオが頭をかきながら言う。


「いやあ、種ってのは偉いな。昨日まで土の下だったくせに、今日は村中を黙らせてる」


 トマが笑った。


「お前も黙ってるもんな」


「俺は元々、必要な時は黙る」


「嘘つけ」


 村人たちが笑う。


 けれど、その笑いも自然と小さかった。


 誰も大声で騒がなかった。


 目の前にあるものが、あまりにも小さかったからだ。


 その小ささが、村人たちに優しさを思い出させていた。


 昼前、薬草予定地の周りに簡単な囲いを作ることになった。


 立派な柵ではない。


 細い枝を四本立て、柔らかい紐を張るだけだ。


 ダリオが言う。


「強すぎる囲いは駄目だ。風が通らなくなる」


 セリアが頷く。


「守りすぎても駄目なんですね」


「そうだ。守るってのは、閉じ込めることじゃない」


 その言葉に、リーゼが少し反応した。


「今のはいい言葉だ」


「だろ」


「ダリオにしては」


「余計だ」


 ニコルが木札を新しくした。


『傷洗い草・一芽確認

触らない

水をかけすぎない

大声を出さない』


 トマがそれを見て首をひねった。


「大声って芽に悪いのか?」


「分かりません」


 セリアは真面目に言った。


「でも、静かな方がいい気がします」


「じゃあ書いとけ」


「書きました」


 子供たちは木札を読み、口に指を当てながら近づくようになった。


 午後、設備台帳に新しい項目が追加された。


 ニコルが慎重に書く。


『薬草試験栽培記録

傷洗い草・試験栽培一

発芽確認。

根形成良好。地上芽初期。

管理者:セリア・ルミナス。

水量最小。直接接触禁止。日差し調整予定。

村人へ注意喚起済み。』


 村長がそれを見て言った。


「これも未来の証拠じゃ」


 ニコルは頷いた。


「はい。ちゃんと残します」


 セリアは自分の個人記録を書いていた。


『今日、傷洗い草の芽が出ました。

とても小さいです。

少し風が吹いただけで倒れそうに見えます。

でも、土の中から出てきました。

神殿では、私は失敗作と言われました。

でも、この芽を見ていたら、まだ小さくても、弱くても、生きようとしているなら、それだけで十分すごいのだと思いました。

私も、そう思える日を増やしたいです。』


 書き終えたセリアは、しばらくその文字を見ていた。


 リーゼが横に立つ。


「見せてもらっていいか」


「はい」


 リーゼは記録を読み、静かに返した。


「良い記録だ」


「ありがとうございます」


「私も書く」


 そう言って、リーゼも自分の板に短く書いた。


『小さい芽が出た。

弱い。

だが、上へ出た。

私はそれを強いと思った。』


 セリアはその文字を見て、少し泣きそうに笑った。


「リーゼさんらしいです」


「短すぎるか」


「いいえ。とても」


 夕方、村人たちはいつも通り食事の準備を始めた。


 特別な料理はない。


 豆の煮込みと黒パン。

 少しだけ干し肉。

 井戸水。


 けれど、トマは木椀を掲げた。


「今日は芽が出た祝いだな」


 ダリオが笑う。


「静かに祝えよ。芽が驚く」


「じゃあ小声で」


 トマは小声で言った。


「芽、えらい」


 子供たちが真似をする。


「芽、えらい」


「芽、がんばれ」


「触らない」


 その最後の一言に、皆が笑った。


 村長はその様子を見て、静かに目を細めていた。


「小さな芽ひとつで、村はこれほど明るくなるのじゃな」


「はい」


 俺は頷いた。


「それだけ、皆が未来を待っていたんだと思います」


「そうじゃな」


 村長は水路の方を見た。


「水が戻り、土が湿り、種が芽を出す。どれも当たり前のようで、当たり前ではなかった」


 その言葉は、村の一年分の重みを持っていた。


 夜、俺は中枢室で記録を書いた。


『薬草予定地にて、傷洗い草の発芽を確認。

一芽。

状態安定、要保護。

村人へ直接接触禁止、水量最小、大声注意を共有。

設備台帳に薬草試験栽培記録を追加。

セリア、発芽を自分自身の回復と重ねて記録。

リーゼも個人記録を作成。』


 最後に、今日見た小さな緑を思い出しながら書く。


『最初の芽は、村を救うほど大きくはない。

けれど、村人たちに未来を信じさせるには十分だった。』


 炉の火が低く揺れる。


 地上では、細い芽が夜風に揺れているはずだ。


 弱くて、小さくて、まだ何の役にも立たない。


 でも、確かに生きている。


 リベル村はその小さな芽を、誰も踏まないように囲いを作った。


 それは薬草を守るためだけではなく。


 たぶん、自分たちの中にようやく生まれた希望を守るためでもあった。

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