第61話 外部技師登録
契約書というものを、ダリオ・ガンツは嫌っていた。
それは、彼が文字を読めないからではない。
むしろ逆だった。
読みすぎたから、嫌いになった。
王都技師組合にいた頃、彼は何度も契約書を見た。施工契約、守秘義務、責任範囲、技師倫理規定、組合規則、処分通知。
どれも綺麗な言葉で書かれていた。
安全のため。
信頼のため。
秩序のため。
王都技術の名誉のため。
そして最後には、その紙が彼を組合の外へ押し出した。
だから、村長宅の机の上に新しい契約書が置かれた時、ダリオはしばらく黙っていた。
いつもの軽口がない。
トマが少し心配そうに覗き込む。
「大丈夫か?」
「契約書を見ると胃が痛くなる」
「昨日、豆を四杯食ったからじゃなくて?」
「それも少しある」
「あるのかよ」
少しだけ笑いが起きた。
けれど、ダリオの顔はすぐには緩まなかった。
村長は契約書を指で押さえ、穏やかに言った。
「今日、署名せよとは言わぬ」
「分かってる」
「読んで、疑って、直したいところがあれば言え。これは村がダリオ殿を縛るための紙ではない」
セリアが小さく続けた。
「守るための紙、です」
ダリオは彼女を見た。
「昨日も聞いたな、それ」
「はい。大事なので」
ニコルが記録板を抱えたまま、少し誇らしそうに言う。
「紙の盾です」
「その呼び方、だんだん本当に強そうに聞こえてきたな」
ダリオは苦笑した。
契約書の表題は、ニコルの丁寧な字で書かれていた。
『リベル村外部技師登録契約書』
内容は長くない。
一、ダリオ・ガンツは本人意思により、リベル村の外部技師として登録を希望する。
二、作業範囲は水路、農具、外部補助設備、素材加工補助とし、地下工房中枢部への無断立ち入りを禁ずる。
三、古代設備、結界柱、修復炉関連設備に触れる場合は、村長、レオン・アスター、または指定立会人の許可を必要とする。
四、作業内容、使用器具、異常発見は設備台帳に記録する。
五、提出外機能を持つ器具、管理紐付け系器具、対象者の同意なき測定器具を持ち込まない。
六、契約は本人申請と村長承認により解除できる。
七、ダリオ・ガンツの過去の組合除名歴のみを理由に、不当に扱わない。
八、リベル村の安全を損なう行為があった場合、村長判断により作業停止とする。
ダリオは黙って読んだ。
一度ではなく、二度。
三度目は、声に出して読んだ。
「本人意思により……か」
その言葉のところで、彼は少しだけ止まった。
リーゼが椅子の背にもたれながら言う。
「この村では、最初にそれが来る」
「知ってる。何度も聞いた」
「それでも読む必要がある」
「ああ」
ダリオは続きを読んだ。
作業範囲。
立ち入り制限。
器具の持ち込み。
記録義務。
解除条件。
途中で何度か眉をひそめたが、紙を投げ出すことはなかった。
「第五条」
彼は指で紙を叩いた。
「提出外機能を持つ器具を持ち込まない。これはいい。だが、俺の道具には古すぎて機能がよく分からんものもある」
「その場合は、使用前に鑑定します」
俺が答える。
「持ち込んだ時点で違反にはしません。未確認のまま使わない、という意味にしましょう」
ニコルが慌てて文言を直す。
『未確認の提出外機能を持つ器具は、使用前に鑑定確認を行う』
ダリオは頷いた。
「それならいい」
次に、第七条で止まる。
「過去の組合除名歴のみを理由に、不当に扱わない……誰が入れた?」
村長が答えた。
「儂じゃ」
「余計な優しさだな」
「必要な境目じゃ」
村長は静かに言った。
「過去をなかったことにはせぬ。だが、過去だけで今を決めることもしない」
ダリオは何か言い返そうとして、やめた。
その顔は、少しだけ困っているように見えた。
セリアがそっと言う。
「嫌なら変えられます」
「いや」
ダリオは契約書を見たまま答えた。
「残してくれ」
短い言葉だった。
でも、重かった。
昼過ぎ、契約書の修正が終わった。
村長、俺、セリア、リーゼ、トマ、ニコルが同席する中で、ダリオはもう一度全文を読み上げた。
紙を読む声は、最初より少し安定していた。
最後まで読み終えると、彼は自分の名前の横で筆を止めた。
「昔、俺が署名した紙は、だいたい後で俺の首を絞めた」
誰も急かさなかった。
炉の低い音だけが、地下からかすかに響いている。
ダリオは続けた。
「でも、これは……まあ、首輪じゃない気がする」
「紙の盾ですから」
ニコルが小さく言った。
ダリオは笑った。
「そうだったな」
そして署名した。
『ダリオ・ガンツ』
少し癖のある、力強い字だった。
村長が続いて署名する。
俺は立会人として名を書いた。
セリアとリーゼも、本人意思確認の立会人として署名した。
トマは少し戸惑っていたが、村側作業立会人として印を押した。
「俺の字、必要か?」
「必要です」
ニコルが真面目に言う。
「トマさんも立会人です」
「そ、そうか」
トマは少し照れながら、不器用な字で名前を書いた。
その後、地下工房へ降りた。
ダリオの登録は、中枢室で行うことになった。
彼は階段を降りる途中、何度も壁や床を見ていた。
「触らないでくださいね」
セリアが念を押す。
「分かってる。見るだけだ。技師に見るなと言う方が拷問だが、触るなは守る」
「本当ですね?」
「本当だ」
中枢室に入ると、結晶柱が淡く光った。
修復炉の火は低く、安定している。
俺が中枢室へ手を当てる。
《外部技師候補:ダリオ・ガンツ》
《本人意思確認:必要》
《設備制限契約:確認》
《村長承認:必要》
《登録範囲:外部技師/水路・農具・素材加工補助》
ダリオは表示を見て、目を丸くした。
「本当に俺の名前が出るのか」
「出ます」
「気味悪いな」
「正直ですね」
「正直じゃない技師は炉を爆発させる」
ダリオは一歩前へ出た。
結晶柱には触れない。
契約書を胸の前に持つ。
「ダリオ・ガンツ。本人意思により、リベル村の外部技師登録を希望する」
いつもの軽さはなかった。
「作業範囲を守る。勝手に触らない。変な道具を使わない。記録を残す。嫌なことがあれば文句を言う」
最後だけ少し彼らしかった。
村長が杖を鳴らす。
「リベル村村長バルドの名において承認する。ただし、本人意思と村の安全を最優先とする」
中枢室の光が、ダリオの足元へ広がった。
《本人意思確認》
《設備制限契約確認》
《村長承認》
《外部技師登録:開始》
淡い光が、ダリオの工具箱を包む。
彼は一瞬、肩を強張らせた。
「工具箱まで見るのか」
「登録範囲の確認でしょう」
「俺の相棒だ。変なことするなよ」
工具箱がかすかに震えた。
《登録器具:基本工具一式》
《危険術式反応:なし》
《未確認器具:三》
《使用前鑑定推奨》
ダリオが顔をしかめる。
「未確認三つ……たぶん奥の古い測量針と、変な歯車と、よく分からん棒だな」
「よく分からない棒を持っているんですか」
セリアが聞く。
「技師はだいたい、よく分からん棒を一本は持っている」
「本当ですか?」
俺は答えに困った。
リーゼが小さく笑った。
《外部技師:登録完了》
《ダリオ・ガンツ》
《素材加工補助:低位開放》
《水路補修支援:微弱上昇》
《農具修復補助:開放》
修復炉の火が、一瞬だけ少し明るくなった。
壁の一部に、新しい紋様が浮かぶ。
作業台の奥に、小さな加工台がせり出した。
古い鉄、魔物素材、木材を組み合わせるための簡易設備らしい。
ダリオの目が輝いた。
「……おい」
「触らないでください」
「まだ何も言ってない」
「顔が触る顔でした」
セリアが言うと、トマが吹き出した。
ダリオは両手を上げた。
「分かった。触らない。許可を取る。記録する。くそ、面倒だな」
「嫌ですか」
俺が聞くと、彼は加工台を見つめたまま言った。
「最高に面倒だ」
「それは?」
「最高に面白いって意味だ」
分かりにくい。
だが、少なくとも嫌ではなさそうだった。
その日の午後、さっそく農具修復補助の試験を行った。
錆びた鍬を一本、作業台に置く。
ダリオが状態を確認し、俺が鑑定する。
《錆びた鍬》
《状態:刃こぼれ/柄劣化》
《修復可能》
《推奨:刃研ぎ/柄交換/魔獣牙片微量補強》
ダリオは満足そうに頷く。
「黒牙猪の牙片を少し混ぜる。強くしすぎると土を傷めるから、本当に少しだ」
「強ければいいわけではないんですね」
セリアが言う。
「強すぎる道具は、使う側を壊す」
ダリオの言葉に、リーゼが少し反応した。
「剣も同じだ」
「ああ。腕に合わない剣は、敵より先に自分を斬る」
鍬の修復は、派手ではなかった。
刃を研ぎ、欠けを埋め、柄を替える。
黒牙猪の牙片を薄く削り、補強材として入れる。
それだけだ。
だが、出来上がった鍬は見違えた。
トマが持ってみる。
「軽い。でも頼りない軽さじゃない」
「いい道具ってのは、持った時に仕事を邪魔しない」
ダリオが言う。
「明日、畑で使ってみろ」
「おう」
トマは嬉しそうに鍬を肩へ担いだ。
「飯の未来が近づいたな」
ダリオがにやりと笑う。
「じゃあ、次は分水板の試作だ。飯の未来のためにな」
リーゼが呆れたように言った。
「結局、全部飯に戻るのだな」
村長が頷く。
「飯は村の基礎じゃ」
セリアも少し笑った。
「薬草も、飯も、道具も。全部つながっていますね」
俺は修復された鍬を見た。
紙で追い出された技師が、紙で居場所を得た。
そして最初に直したのは、王都の大きな炉ではなく、辺境村の錆びた鍬だった。
それが、妙にこの村らしかった。
夜、個人記録を書いた。
『ダリオ・ガンツ、本人意思によりリベル村外部技師として登録。
設備制限契約を締結。
作業範囲:水路、農具、外部補助設備、素材加工補助。
中枢室への無断立ち入り禁止。器具使用前鑑定。記録義務。
登録後、素材加工補助、水路補修支援、農具修復補助が低位開放。
錆びた鍬一本を修復。』
最後に、少し考えてから書き足す。
『紙で居場所を奪われた技師が、紙で新しい居場所を得た。
この紙は、首輪ではなく盾であってほしい。』
炉の火が、低く穏やかに揺れていた。
その横で、ダリオの工具箱が静かに置かれている。
まるで、長い放浪の後でようやく腰を下ろした旅人のようだった。




