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「鑑定しかできない無能」と追放された俺、実は壊れた才能を直せる唯一の神職でした〜捨てられ聖女と辺境村を修理していたら、勇者より先に国を救ってしまった〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第6話 守るはずの結界が、魔物を呼んでいた

 遠吠えは、一度きりでは終わらなかった。


 夜の森から、低い声が何度も響いてくる。狼のようで、狼ではない。獣の喉に、濁った魔力を混ぜたような音だった。


 リベル村の夜は暗い。


 王都のように街灯があるわけでもなく、家々の窓から漏れる灯りも少ない。昨日井戸が戻り、水車が動き、村に少しだけ笑い声が戻ったばかりだというのに、夜になると森は当然のように不安を連れてくる。


 俺は空き家の窓を開け、外を見た。


 村の外周にある木柵の向こうは、黒い森だ。

 風が吹くたび、枝が擦れ合い、人の声のような音を立てる。


 机の上には、書きかけの羊皮紙がある。


《防衛結界:破損》

《魔物誘引反応:微弱》


 微弱。


 その言葉が、余計に嫌だった。


 完全に壊れているなら、まだ分かりやすい。だが微弱ということは、少しずつ、長い時間をかけて魔物を引き寄せてきた可能性がある。


 村人たちは、リベル村が運悪く魔物に狙われやすい土地なのだと思っているのだろう。


 違う。


 この村は、守られていなかった。

 それどころか、守るはずの結界が歪んで、村の場所を魔物に知らせていたのかもしれない。


「……最悪だな」


 思わず呟いた。


 その時、扉が小さく叩かれた。


「レオンさん、起きていますか」


 セリアの声だった。


 扉を開けると、彼女は小さな灯りを手に立っていた。肩に薄い布を羽織っている。眠れなかったのか、顔に不安が浮かんでいた。


「どうしました」


「遠吠えが聞こえて……それで」


「怖くなりましたか」


 尋ねてから、少し言い方が子供扱いだったかと思った。


 だがセリアは素直に頷いた。


「はい。怖いです」


 その正直さに、かえって胸が詰まった。


 彼女は聖女候補だった。人を癒やす力を持っている。けれど、怖いものは怖い。村から拒まれ、神殿から捨てられた少女が、夜の森の声に怯えるのは当たり前だ。


「でも、それだけじゃありません」


 セリアは続けた。


「胸の奥が、ざわざわするんです。昨日までは分からなかったのに、今は村の外側から嫌なものが流れ込んでくる感じがして」


「嫌なもの?」


「うまく言えません。黒い水が、足元に染み込んでくるような……」


 俺は机の羊皮紙を見た。


 セリアの聖女としての感覚が、壊れた結界の魔力を感じ取っているのかもしれない。


「明日、防衛結界を見ようと思っていました」


「防衛結界……」


「この村を守っているはずのものです。でも、どうも壊れているらしい」


 セリアの顔が強張った。


「それは、危ないんですか」


「たぶん。今すぐ村が滅ぶ、というほどではないと思います。でも放っておくとまずい」


「私にも手伝えますか」


 答えはすぐに出なかった。


 セリアは昨日からずっと力を使っている。井戸、水車、怪我人の治療。魔力回路の封印はまだ残っている。無理をさせれば、また暴走する可能性もある。


 それでも、彼女の目は逃げていなかった。


「手伝ってほしいです」


 俺はそう言った。


「ただし、無理はしないこと。少しでも苦しくなったら言ってください」


「はい。レオンさんもです」


「俺も?」


「はい。今日もふらついていました」


「見てましたか」


「見ていました」


 セリアは真面目な顔で頷いた。


「レオンさんは、自分のことを後回しにする癖があります」


 出会って二日目の相手にそこまで見抜かれるとは思わなかった。


「……気をつけます」


「約束です」


「分かりました。約束します」


 セリアは少し安心したように息を吐いた。


 遠くで、また遠吠えが聞こえた。


 今度はセリアも顔を上げる。

 怖がってはいる。けれど、逃げるためではなく、確かめるために森の方を見ていた。


 翌朝、村長に事情を話すと、彼は長い間黙っていた。


「守りの結界が、魔物を呼んでおるかもしれん、と」


「まだ断定はできません。でも、異常があるのは確かです」


 村長の家には、主だった村人が何人か集められていた。昨日水車修理を手伝った男たち、昨日助けた老人、村の女たちの代表らしい中年の女性。セリアは俺の隣に立っている。


 集まった人々の表情は重い。


「結界が壊れているのは、前から分かっていたんじゃないのか」


 水車修理で泥だらけになっていた男が言った。名前はトマというらしい。


「魔物が増えてたのも、そのせいなら納得だ。だが、直せるのか?」


「調べてみないと分かりません」


 俺は正直に答えた。


「ただ、井戸や水車と同じ仕組みに繋がっているなら、完全ではなくても応急修復はできるかもしれません」


「応急って、どのくらいだ」


「少なくとも、魔物を呼ぶ状態を止める。それが第一です」


 村人たちが顔を見合わせる。


 希望というより、不安が勝っている。

 無理もない。昨日までただの貧しい村だった場所が、急に古い魔道設備だの、結界破損だの、魔物誘引だのと言われているのだ。


 村長が杖を床に軽く打ちつけた。


「レオン殿。何が必要だ」


 その一言で、ざわめきが止まった。


「人手です」


 俺は答えた。


「結界の柱が村の外周にあるはずです。たぶん四つか六つ。探して、状態を見たい。石や草に埋もれている可能性があります」


「森へ入るのか」


「外周ぎりぎりまでです。奥には行きません」


「魔物が出たら?」


「逃げます」


 あまりに即答だったせいか、トマが目を丸くした。


「戦わないのか」


「俺は戦闘職じゃありません。勝てる準備がないなら逃げるべきです」


 少し前までなら、それを恥ずかしいと思ったかもしれない。


 勇者パーティーでは、戦えないことを何度も責められた。前に出られない。派手な魔法も使えない。敵を斬れない。


 けれど、この村で必要なのは勇者の真似ではない。


 壊れている場所を見つけ、被害を減らし、助かる方法を選ぶことだ。


 トマは数秒黙った後、にやりと笑った。


「正直でいいな。俺はそういう方が好きだ」


 村の女性が頷く。


「逃げ道を決めておくなら、子供たちは中央の倉庫に集めた方がいいね」


「そうですね。結界確認中は、外へ出ないようにしてください」


「怪我人が出た時の場所も決めておいた方がいいです」


 セリアが遠慮がちに口を挟んだ。


 皆の視線が彼女に向く。


 セリアは一瞬怯えたが、すぐに続けた。


「昨日の空き家を、簡単な治療所にできると思います。水も戻りましたし、布と清潔な桶があれば、応急処置くらいなら」


 村の女性が少し驚いた顔をした後、柔らかく頷いた。


「じゃあ、私たちで用意するよ。セリア、後で必要なものを言っておくれ」


「……はい」


 セリアの声が少し明るくなった。


 会議というほど立派なものではない。

 だが、村人たちは動き始めていた。


 俺ひとりが何かを直すのではない。

 村全体が、自分たちの村を直そうとしている。


 午前のうちに、外周の調査が始まった。


 村を囲む木柵は古く、ところどころ傾いている。その外側に、草に埋もれた石柱があった。高さは俺の腰ほど。表面には古い文字が刻まれているが、苔と泥でほとんど読めない。


 最初の石柱に触れた瞬間、視界に情報が浮かんだ。


《リベル防衛結界・南東柱》

《状態:機能低下》

《魔力伝導率:三十四%》

《異常:反転波形微弱》

《修復可能》


「反転波形……」


 嫌な言葉だ。


「どうだ?」


 トマが後ろから尋ねる。


「壊れています。完全停止ではないですが、魔力の向きが一部逆になっている」


「向きが逆?」


「魔物を遠ざけるはずの波が、逆に薄く漏れてます。餌の匂いみたいになっているのかもしれません」


「そりゃあ、魔物も来るわけだ」


 トマは苦い顔で森を見た。


 セリアが石柱の前に膝をつく。


「これ、黒い感じがします」


「分かりますか」


「はい。井戸の時の黒い煙に似ています。でも、もっと薄くて広いです」


 俺は頷いた。


「たぶん、同じ腐食です。結界石が劣化して、魔力が濁っている」


「浄化すればいいんですか?」


「少しずつ。いきなり全部やると、結界全体が揺れるかもしれません」


 セリアは真剣に頷いた。


 俺は石柱に手を当て、流れを見る。

 井戸や水車よりも複雑だ。村全体を囲む結界の一部だからだろう。一本の柱だけを直しても、他の柱との繋がりが歪んでいれば意味がない。


「まず全部見ます」


「全部?」


 トマが顔をしかめる。


「村を一周するのか」


「はい。全体の壊れ方を見てからじゃないと、直す順番を間違えます」


「なるほどな。歯車と同じか」


「近いです」


 トマは斧を肩に担ぎ直した。


「なら行こう。昼までに半分は見たい」


 村の外周を歩きながら、俺たちは石柱を探していった。


 南東、南西、西、北西、北東。全部で五本見つかった。おそらく本来は六本あったはずだ。東側の一本が見つからない。


 いや、見つからないのではない。


 壊れて埋まっている。


 東の木柵の外れで、俺は足を止めた。


 草むらの下に、割れた石があった。苔に覆われ、土に半分沈んでいる。


 触れる前から分かった。


 ここが一番悪い。


《リベル防衛結界・東柱》

《状態:大破》

《結界波形:反転》

《魔物誘引反応:中》

《緊急修復推奨》


「……これか」


 俺が呟くと、トマが顔をしかめた。


「嫌な顔してるぞ」


「一番まずい場所です」


 セリアも胸元を押さえた。


「ここ、苦しいです」


「離れてください」


「でも」


「今は見るだけです」


 俺の声が思ったより強くなったのか、セリアは少し驚いた顔をした。すぐに俺は息を吐く。


「すみません。ここは危ない」


「分かりました」


 セリアは素直に下がった。


 俺は割れた石柱の周囲を調べた。


 地面には魔物の足跡がいくつもある。最近のものだ。結界の反転した波形に誘われて、ここへ寄ってきているのだろう。


「ここから入られていたんだな」


 トマが低い声で言った。


「おそらく」


「何年もか」


「たぶん」


 トマは拳を握った。


「俺たちは、穴の空いた柵をありがたがっていたわけか」


「柵に穴が空いているだけなら、まだましです」


「もっと悪いのか」


「ここは、外から見ると目印になっています」


 トマはしばらく黙った。


 それから、深く息を吐く。


「腹が立つな」


「結界にですか」


「いや。何も知らずに、村が弱いから仕方ないと思ってた自分にだ」


 その言葉は、妙に重かった。


 弱いから仕方ない。

 壊れているから仕方ない。

 失敗したから仕方ない。


 セリアに向けられていた言葉と、少し似ている気がした。


「直しましょう」


 俺が言うと、トマがこちらを見た。


「できるのか」


「やってみます。ただ、今日中に全部完全修復は無理です」


「なら、何からやる」


「この東柱の誘引反応を止める。それから、残り五本と仮接続して、村全体に最低限の防御を戻す」


「必要なものは」


「人手、石材、縄、鉄杭、清水。あと、セリアの浄化魔力」


 セリアが一歩前へ出る。


「やります」


「無理はしない条件で」


「はい」


 トマが斧を担ぎ直した。


「よし。村に戻って皆を呼ぶ」


「危険を説明してからでお願いします」


「分かってる。怖がらせすぎず、甘くも見せない。そうだろ?」


「はい」


 トマは走って村へ戻っていった。


 俺は割れた東柱の前に立つ。


 足元から、嫌な魔力が上がってくる。

 薄い黒い煙のようなものが、見える気がした。


「レオンさん」


 セリアが隣に来る。


「離れていてくださいと言いましたよ」


「少しだけです」


 彼女は森の方を見ていた。


「私、昨日まで自分がここにいていいのか分かりませんでした」


「はい」


「でも、この村を守れるなら、守りたいです」


 声は震えている。

 それでも、確かな意思があった。


「怖いです。でも、逃げたくないです」


 俺は少し考えたあと、頷いた。


「なら、一緒にやりましょう」


 セリアの表情が柔らかくなる。


「はい」


 昼過ぎには、村人たちが集まった。


 石材を運ぶ者、草を刈る者、木柵を補強する者、子供や老人を中央へ移す者。村は昨日とは違う緊張に包まれていた。


 だが、不思議と沈んではいなかった。


 誰もが、自分にできることを探している。


 村長も杖をつきながら現場へ来た。


「儂にもできることはあるか」


「村長は村の中央で指揮を。何かあった時、皆が誰の声を聞けばいいか分かっていた方がいい」


「なるほど。年寄りには年寄りの仕事か」


「一番大事な仕事です」


 村長は少しだけ笑った。


「うまいことを言う」


 作業が始まった。


 まず、割れた東柱の周囲を掘り出す。石柱は見えていた部分よりずっと大きく、地中で三つに割れていた。断面は黒ずみ、触れると指先が痺れる。


「素手で触らないでください」


 俺は村人たちに指示する。


「布を巻いて、直接触れないように」


 セリアは清水を入れた桶の前に座り、両手をかざす。

 水に淡い光が宿っていく。


「これでいいですか」


「はい。その水で石の表面を洗います。腐食を少し落とせるはずです」


「分かりました」


 清めた水を使い、村人たちが石柱を洗う。黒い汚れが流れ落ちるたび、嫌な匂いがした。腐った鉄と湿った土を混ぜたような匂いだ。


 次に、割れた石柱を鉄杭と縄で仮固定する。


 完全には戻せない。

 だが、結界の流れが通る形に組み直すことはできる。


「右の破片を少し上げてください。違う、もう少しだけ。そこで止めて」


「ここか!」


「はい。次、左を内側へ」


「重いぞ、これ!」


「一度置かないでください。流れがずれます」


「流れって言われてもな!」


 トマが汗だくになりながら叫ぶ。


 俺も余裕はなかった。

 視界には線が幾重にも走っている。結界柱同士を結ぶ魔力の線。腐食した流れ。逆向きに漏れ出す誘引波。


 一手間違えれば、反転が強くなる。


 セリアの浄化水をかけながら、石柱を繋ぎ直す。

 黒い煙が何度も上がる。そのたびにセリアが光を送って抑え込む。


「セリア、少し弱めて」


「はい」


「今度は右側へ。そう、その流れです」


「……分かります。少しだけ、どこへ流せばいいか分かります」


「なら、その感覚を信じて」


 セリアの光が、割れた石柱の隙間へ染み込む。


 黒い煙が薄くなる。


 俺は石柱に手を当てた。


《修復鑑定:発動》

《東柱:仮接続》

《反転波形:低下》

《魔物誘引反応:中→低》


 まだ足りない。


 でも、まずは一段階。


「誘引反応が下がりました」


 俺が言うと、周囲から安堵の息が漏れた。


 だが、その直後だった。


 森の奥から、枝の折れる音がした。


 全員が振り向く。


 低い唸り声。


 一つではない。


「魔物だ!」


 トマが斧を構えた。


 木々の間から、灰色の魔狼が姿を現す。三体。いや、後ろにもう二体いる。


 東柱の誘引反応に引かれて近づいていた群れだろう。修復で反応が変わり、警戒して出てきたのかもしれない。


 村人たちに緊張が走る。


「全員、村の中へ下がってください!」


 俺は叫んだ。


「トマさん、時間を稼げますか」


「逃げるんじゃなかったのか!」


「逃げるための時間です!」


「分かりやすいな!」


 トマが笑い、斧を構える。


 村人たちが石材を置き、後退する。セリアは立ち上がろうとしたが、俺は首を横に振った。


「セリアは結界柱から離れないでください」


「でも、魔物が」


「ここが崩れたら、もっと呼びます」


 セリアは息を呑んだ。


 それから、震える手をもう一度石柱に置いた。


「分かりました」


 魔狼たちが低く唸る。


 トマだけでは止めきれない。村人の中に戦闘慣れした者はほとんどいない。


 俺は魔狼を鑑定する。


《灰角魔狼》

《弱点:後脚腱/左眼上部》

《特性:嗅覚強化/低位魔力誘引に反応》

《警戒状態》


「トマさん、正面から受けないでください! 後脚が弱い!」


「簡単に言うな!」


「左から来ます!」


 俺が叫んだ瞬間、魔狼が跳んだ。


 トマはぎりぎりで斧の柄を構え、牙を受け止める。別の村人が横から鍬を突き出し、魔狼の後脚を打った。


 魔狼が悲鳴を上げる。


「本当に効いたぞ!」


「だから言いました!」


「言われても怖いもんは怖い!」


 怒鳴り合いながらも、村人たちは踏みとどまっている。


 セリアの光が強まった。


 東柱に、白い線が走る。


 俺はその流れを掴む。


 今しかない。


「セリア、東柱から南東柱へ流してください!」


「南東……!」


「昨日の井戸の時みたいに。押し込まないで、繋ぐだけ!」


「はい!」


 白い光が地面を走る。


 見えないはずの結界線が、一瞬だけ浮かび上がった。村の外周を囲む古い魔法の道筋。


 東柱から南東柱へ。

 さらに南西へ。


 まだ弱い。

 でも、繋がった。


《結界線:仮復旧》

《外周防護:最低限展開可能》


「全員、木柵の内側へ!」


 俺が叫ぶ。


 トマたちが一斉に下がる。


 魔狼が追ってくる。

 その瞬間、東柱が淡く光った。


 ばちん、と空気が弾ける。


 先頭の魔狼が見えない壁にぶつかり、後ろへ弾き飛ばされた。


「結界だ!」


 誰かが叫んだ。


 魔狼たちは唸りながら、村の外をうろつく。だが入ってこない。何度か体当たりをしたが、そのたびに薄い光に弾かれる。


 完全な防御ではない。


 長くは持たない。


 それでも、魔物は止まった。


 村人たちの顔に、信じられないという表情が浮かぶ。


「守られてる……」


 セリアが呟いた。


 その声は震えていた。


「私たち、守れてます」


「はい」


 俺は石柱から手を離さずに答えた。


「まだ仮です。でも、守れています」


 魔狼たちはしばらく唸っていたが、やがて森の奥へ引いていった。誘引反応が弱まり、結界も復活しかけていると判断したのだろう。


 姿が完全に消えるまで、誰も動かなかった。


 やがてトマが地面に座り込んだ。


「ああ……怖かった」


 その一言で、皆の緊張がほどけた。


 誰かが笑い、誰かが泣いた。


 村長が村の中央から駆けつけてくる。いや、駆けているつもりなのだろうが、杖をついた早歩きだった。


「無事か!」


「無事です」


 俺が答えると、村長は周囲を見回し、結界柱の淡い光を見て言葉を失った。


「これは……」


「仮復旧です。まだ完全ではありません。でも、魔物を呼ぶ状態はかなり弱まりました」


 村長は深く息を吐いた。


 そして、村人たちを見た。


「皆、よくやった」


 誰もすぐには答えなかった。


 自分たちが何をしたのか、まだ実感できていないのだろう。


 やがてトマが、泥だらけの手を見下ろして言った。


「俺たちでも、直せるんだな」


 俺は頷いた。


「はい。ひとりでは無理でした」


 それは本心だった。


 俺だけでは石柱は動かせなかった。

 セリアだけでは流れを整えられなかった。

 村人がいなければ、魔狼を止める時間も稼げなかった。


 壊れた村を直すのは、俺ひとりの仕事ではない。


 セリアが静かに石柱から手を離した。


 顔色が少し悪い。


「セリア」


 声をかけると、彼女は無理に笑おうとした。


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない顔です」


「……少し、疲れました」


「治療所へ」


「でも、まだ作業が」


「約束しましたよね」


 そう言うと、セリアははっとした顔になった。


 それから、素直に頷いた。


「はい。休みます」


 村の女性たちが彼女を支えて連れていく。


 以前なら、セリアに近づくことをためらったかもしれない人たちが、今は自然に肩を貸していた。


 その背中を見送りながら、俺も少し膝から力が抜けた。


 トマが横に来る。


「お前も顔色悪いぞ」


「俺は大丈夫です」


「今、セリアに同じこと言って怒ってただろ」


「……休みます」


「そうしろ」


 トマはにやりと笑った。


 夕方。


 東柱は仮固定されたまま、淡い光を保っていた。

 村全体の空気も、昨日とはまた違う。


 井戸が戻った時は、救われた喜びだった。

 水車が動いた時は、暮らしが戻る期待だった。


 今日は違う。


 自分たちで村を守ったという、静かな熱があった。


 夜になっても、森から遠吠えは聞こえなかった。


 俺は空き家の机で、結界の状態を書きつけていた。


 東柱、仮復旧。

 南東柱、機能低下。

 南西柱、補修必要。

 北側二柱、未浄化。

 結界全体、最低限の防護成功。


 そして、最後にこう書いた。


 ――この村は、まだ直せる。


 筆を置いた時、視界に新しい表示が浮かんだ。


《リベル防衛結界:第一層仮復旧》

《魔物誘引反応:低下》

《外周防護:微弱展開中》

《推奨:完全修復には結界中枢の確認が必要》


「結界中枢……」


 井戸、水車、外周柱。


 すべてが繋がっているなら、この村のどこかに中心があるはずだ。


 俺は羊皮紙に、古い修復工房という言葉を書きかけて、手を止めた。


 まだ見つけていない。

 だが、この村には何かが眠っている。


 その確信だけが、夜の静けさの中で強くなっていた。

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