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第58話 水路の分水計画

 水は、ただ流れるだけでは済まない。


 リベル村の旧水路に水が戻ってから、そのことを村人たちは少しずつ理解し始めていた。


 最初は喜びだった。


 乾いた畑に水が届いた。

 薬草予定地の土が湿った。

 傷洗い草の古種に、見えない根が出た。


 それだけで十分だった。


 だが、周辺村の代表たちが訪れた翌朝、ダリオは旧水路の前で腕を組み、難しい顔をしていた。


「どうしました?」


 俺が声をかけると、ダリオは水量調整板の横を指さした。


「ここに、もう一枚板を入れられる」


「補強ですか?」


「違う。分水板だ」


 その言葉に、近くで鍬を持っていたトマが反応した。


「分水?」


「ああ。水を二方向に分ける板だ。今はリベル村の畑へ流している。だが、構造を見る限り、昔はここからもう一本、東側へ水を逃がせたはずだ」


 トマは目を丸くした。


「東って、ハルマ村の方か?」


「正確には、その手前の湿地跡だな。そこを整えれば、将来的にはハルマ村方面の水路とも繋げられるかもしれん」


 セリアが薬草予定地から顔を上げた。


「周辺村にも水を分けられる、ということですか?」


「可能性はある」


 ダリオはすぐに釘を刺すように言った。


「ただし、可能性だけだ。今すぐやる話じゃない」


 リーゼが水路を見つめる。


「水を持つ村は、力を持つ」


 低い声だった。


 ダリオが頷く。


「その通りだ。水は飯になる。薬になる。防衛にもなる。だが、揉め事にもなる」


 トマが顔をしかめる。


「揉めるって、分けてやるのにか?」


「分ける量で揉める。時期で揉める。誰が板を動かすかで揉める。水が少ない年には、もっと揉める」


 ダリオは水路の細い流れを見た。


「水ってのは、流れてる時は綺麗に見えるが、扱いを間違えると人間の腹の中を濁らせる」


 その言い方は少し乱暴だったが、意味は分かった。


 リベル村は、ようやく自分たちの畑へ水を戻したばかりだ。


 それなのに、周辺村へ水を分けられるかもしれないという話が出た瞬間、もう新しい責任が生まれている。


 村長宅で、すぐに小さな会議が開かれた。


 机の上には、ダリオが描いた水路図が広げられている。


 旧水路。

 畑側への流れ。

 そして東へ伸びる古い分岐跡。


 ニコルが真剣な顔で書き取っていた。


「分水板……将来設置可能性……」


「可能性と書け。予定ではない」


 ダリオが言う。


「予定って書くと、王都の連中も周辺村も勝手に期待する」


「可能性、ですね」


 ニコルは慌てて直した。


 村長は図面をじっと見ていた。


「ダリオ殿。技術的には可能か」


「時間をかければな。ただ、今の水量では無理だ。まずリベル村の畑を安定させる。水路全体の崩れがないか一季節は見る。それから分水板の試作」


「一季節……」


 トマが思わず言った。


「長いな」


「水利は長く見ろ」


 ダリオは即答した。


「今日作って明日揉めるより、一季節待って十年使う方がいい」


 リーゼが静かに頷いた。


「戦でも同じだ。勝てるからといって、すぐ攻めるとは限らない」


 セリアも言った。


「治療も同じです。痛みが引いたからといって、すぐ走ってはいけません」


 トマは三人を見回して、肩を落とした。


「この村、待つことに強くなりすぎだろ」


 村長が笑う。


「よいことじゃ」


 だが、話は楽観だけでは済まなかった。


 俺は水路図の端を指さした。


「分水の可能性があるなら、設備台帳に記録する必要があります。ただし、表現を慎重にした方がいい」


「王都に見られるからか」


 リーゼが聞く。


「はい。リベル村が周辺の水を支配しようとしている、と言われかねません」


 セリアの表情が曇った。


「昨日の代表の人たちも、不安そうでした」


「だからこそ、先に書く」


 村長が言った。


「リベル村は、現時点で分水を実施しない。将来必要となる場合は、関係村代表、リベル村、第三者立ち会いのもと協議する。勝手には動かさぬ、と」


 ニコルの筆が走る。


「分水未実施。将来協議事項……」


 ダリオが満足そうに頷いた。


「いい。これなら、リベル村が水を独占するって噂に対抗できる」


 トマが腕を組む。


「でも、分けてやれるなら早く分けた方が、周りも安心するんじゃないか?」


 村長はトマを見た。


「気持ちは分かる」


 その声は優しかった。


「だが、水を分けるということは、相手の命にも関わるということじゃ。軽く約束して、後で守れなければ恨まれる。ならば、軽く約束してはならん」


 トマは黙った。


 村長は続けた。


「力を持った時ほど、急いで使うな」


 その言葉は、部屋の中に静かに落ちた。


 リーゼが小さく息を吐く。


「重いな」


「年寄りの言葉は重い方がよい」


 村長は少し笑った。


 その日の午後、旧水路の分岐跡を確認した。


 まだ完全に埋まっている。

 草と土の下に、かすかに石組みらしき感触があるだけだ。


 俺が鑑定する。


《旧水路・東部分岐跡》

《状態:埋没》

《構造:残存》

《通水:不可》

《残存呪印反応:不明・深部》

《推奨:現時点では掘削不可/記録のみ》


「今は掘らない方がいいです」


 俺は言った。


 ダリオも頷く。


「同感だ。ここまで手を出すと、今の畑側の安定も崩しかねない」


 トマは少し残念そうだったが、今度は反論しなかった。


「じゃあ、木札だけ立てるか」


「はい。未復旧、調査保留と」


 ニコルが木札へ書いた。


『旧水路・東部分岐跡

未復旧

分水未実施

将来協議事項』


 子供たちがそれを見て首を傾げる。


「しょうらいきょうぎじこうって何?」


 トマも首を傾げた。


「俺にも難しい」


 ダリオが笑った。


「今は触るな、あとで大人が話し合う、って意味だ」


「最初からそう書けばいいのに」


 子供が言った。


 全員が少し黙った。


 確かに。


 セリアがくすりと笑う。


「下に小さく書きましょうか」


 ニコルは木札の下に書き足した。


『今は触らない。あとでみんなで話す。』


 トマが満足そうに頷く。


「こっちの方が分かりやすい」


 リーゼが言う。


「王都向けと村向け、両方必要だな」


「そうですね」


 俺は頷いた。


 言葉も、水と同じだ。


 流す相手に合わせて、通り道を整えなければならない。


 夕方、村長宅で設備台帳に新項目が追加された。


『旧水路東部分岐跡

構造残存を確認。

現時点で掘削および通水は実施しない。

理由:畑側水路の安定確認期間中であり、水量・水路強度・周辺村への影響が未確認のため。

将来、分水を検討する場合は、関係村代表、リベル村、第三者立ち会いのもと協議する。

リベル村単独判断による分水開始は行わない。』


 ニコルが読み上げ終えると、トマが腕を組んだ。


「難しいけど、強いな」


「ええ」


 俺は頷いた。


「“水を独占しない”だけでなく、“勝手に分けることもしない”と書いています」


 セリアが少し驚いた。


「分けることも、勝手にはしないんですね」


「はい。良いことのように見えても、相手の生活に関わることですから」


 リーゼが静かに言った。


「善意で踏み込むこともある」


 その言葉に、セリアは少しだけ目を伏せた。


 神殿の保護。

 王都の支援。

 ローゼン家の管理。


 善意の形をした踏み込みを、彼女はよく知っている。


 夜、俺は個人記録に書いた。


『旧水路東部分岐跡を確認。

将来的に周辺村方面へ分水可能性あり。

ただし、現時点では掘削せず。

分水は生活・政治・防衛に関わるため、リベル村単独判断では行わない方針。

設備台帳に“分水未実施。将来協議事項”と明記。』


 最後に、村長の言葉を残した。


『力を持った時ほど、急いで使うな。』


 炉の火が低く揺れている。


 外では、旧水路の水音がする。


 その水は今、リベル村の畑へだけ流れている。


 けれど、その先に別の村があることを、もうリベル村は知っている。


 水は、いつか外へ向かうかもしれない。


 その時、ただ流せばいいわけではない。


 話し合い、記録し、境界を決め、互いに納得してから流す。


 それができる村にならなければ、水を持つ資格はないのだと思った。

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