第57話 周辺村からの疑い
その朝、リベル村の入口に立っていたトマは、街道の向こうから来る三つの人影を見つけた。
馬車ではない。
護衛兵もいない。
貴族家の紋章も、商会の旗もない。
ただ、少し古びた外套を着た男が二人と、頭巾をかぶった年配の女が一人、慎重な足取りで村へ近づいてくる。
トマは弓に手をかけなかった。
けれど、いつでも動けるように姿勢を変えた。
「止まってくれ。リベル村に用か?」
先頭の男が足を止める。
日に焼けた顔。
農具を握り慣れた手。
腰には短い鉈。
兵士ではない。
農民だ。
「俺は東のハルマ村の代表、ベックだ」
男はそう名乗った。
後ろの細身の男が続く。
「北沢集落のリオです」
年配の女も頭巾を少し上げた。
「南のミード村から来た。マルタ婆と呼ばれている」
トマは眉をひそめた。
「三つの村の代表が、揃って何の用だ?」
ベックという男は、少し言いづらそうに口を開いた。
「話を聞きに来た」
「話?」
「王都で噂になっている。リベル村が古代設備を動かして、水を集め始めたってな」
トマの顔が険しくなる。
「集めてねえ。水路を直してるだけだ」
「それを聞きに来たんだ」
ベックはすぐに言った。
「喧嘩をしに来たわけじゃない。ただ、俺たちの村でも井戸が濁り始めている。雨が減った年でもないのに、水の出が悪い。そこへ、リベル村が水路を戻したと聞いた」
マルタ婆が低い声で続ける。
「王都の書状には、古代設備の影響が周辺水脈に及ぶ恐れがある、とあった」
トマは舌打ちしそうになって、こらえた。
王都の書状。
やはり来た。
「村長と先生を呼ぶ」
トマは短く言った。
「それまでは、そこから先へ入らないでくれ」
ベックたちは木札を見た。
『来訪者は村長宅へ。
井戸・水車・結界への無断接近を禁ず。
発言は記録される。』
リオが少し不安そうに言う。
「発言は記録されるのか」
「される」
トマは頷いた。
「でも、勝手に悪く書いたりはしねえ。言ったことを残すだけだ」
その言い方が、以前よりずいぶん自然だった。
少し前のトマなら、こういう相手にはもっと荒く出ていただろう。
村長宅に、代表三人を迎えた。
村側は村長、俺、ニコル。
少し離れてセリアとリーゼ。
入口近くにトマ。
ダリオは水路作業を中断して同席した。
ニコルは記録板を開いている。
ベックたちは、部屋に入っても落ち着かなかった。
責めに来たわけではない。
だが、疑いがないわけでもない。
その空気はすぐに分かった。
村長が穏やかに切り出した。
「遠いところをよう来られた。まず、何を聞きたいのか話してほしい」
ベックは手を膝に置き、少し前のめりになった。
「リベル村は、周辺の水を自分たちの方へ引いているのか?」
いきなり核心だった。
トマが口を開きかけたが、村長が片手で制した。
俺は静かに答えた。
「引いていません。復旧したのは、もともとリベル村の畑へ続いていた旧水路です。水量も低く抑えています」
リオが疑わしげに言う。
「でも、王都の書状には、古代設備が水脈を変える可能性があると」
ダリオが鼻を鳴らした。
「可能性って言葉は便利だ。明日、空から魚が降る可能性だってゼロじゃねえ」
「馬鹿にしているのか」
ベックが少し声を荒げる。
ダリオはすぐに手を上げた。
「悪い。言い方が悪かった。要するに、可能性だけで不安を煽る書き方だってことだ」
俺は設備台帳を机の上に置いた。
「こちらに旧水路の記録があります。どこを掘り、何を見つけ、どれだけ水を流したか。見てください」
ニコルが台帳を開く。
ベックたちは顔を寄せた。
井戸の記録。
水車の記録。
旧水路の呪印片発見記録。
浄化記録。
段階通水記録。
畑側への低水量通水。
マルタ婆が目を細める。
「……ずいぶん細かく書いてあるね」
ニコルが緊張しながら答える。
「はい。後から確認できるように」
「誰に言われて?」
「村を守るために、です」
その返事に、マルタ婆は少し黙った。
リオがページを指さす。
「この封鎖呪印片とは何ですか」
部屋の空気がわずかに変わった。
俺は答える。
「水路を自然に詰まったように見せかける術式片です。水の流れを止め、土砂を固定するものでした」
ベックの顔が険しくなる。
「誰かが、水路を止めたってことか?」
「少なくとも、自然劣化だけではありません」
「うちの井戸も、それかもしれないのか」
「断定はできません」
俺ははっきり言った。
「ただ、調べる価値はあります」
その時、セリアが静かに口を開いた。
「井戸の濁りがあるなら、水を少しだけ見せてもらえれば、浄化反応があるか確認できます」
リオがセリアを見る。
「あなたが、噂の聖女候補か」
トマの顔が少し険しくなる。
セリアは一瞬だけ息を止めた。
けれど、逃げなかった。
「私は、リベル村の治療補助者です」
声は少し震えていたが、はっきりしていた。
「神殿検査では、暴走兆候なしと記録されています。必要なら、その写しを見せられます」
マルタ婆がじっとセリアを見た。
「怖がらせるつもりはなかったんだよ。ただ、王都では危険な聖女候補と聞いた」
「私は危険ではない、と自分で言うだけでは足りないと思います。だから、記録があります」
セリアは村長を見た。
村長が頷く。
セリアは検査結果の写しを持ってきた。
マルタ婆はそれを丁寧に読んだ。
「暴走兆候なし……低位浄化安定……」
彼女は息を吐いた。
「王都の話と、ずいぶん違うね」
リーゼが静かに言った。
「王都の話は、都合のいいところだけ声が大きくなる」
ベックがリーゼを見る。
「あなたは?」
「リベル村の防衛役、リーゼ・ヴァルト」
「剣士か」
「ああ」
「王都では、逃げた騎士だと」
空気が凍った。
トマが一歩動きかける。
だが、リーゼは剣の柄に触れなかった。
「その噂も聞いている」
彼女は静かに言った。
「私は王都を離れた。だが、今は本人意思でリベル村に滞在し、防衛役をしている」
「本人意思……」
ベックが繰り返す。
ニコルの筆が走る。
リーゼは続けた。
「この村では、それを記録する。私が誰かに匿われているのではなく、自分でここにいることを」
ベックは少し気まずそうに目を逸らした。
「悪かった。噂をそのまま口にした」
「聞きに来たならいい」
リーゼの返事は短かった。
「聞かずに決めるより、ずっといい」
その言葉で、場の空気が少し和らいだ。
村長は立ち上がった。
「百聞は一見にしかずじゃ。見ていくか」
ベックたちは顔を見合わせ、頷いた。
まず案内したのは、井戸ではなく旧水路だった。
井戸は生活の中心であり、無断接近を禁じている。
だからこそ、見せる順番にも意味がある。
旧水路には、細い水が流れていた。
水量調整板。
補強された石組み。
浄化済みの呪印片を保管した木箱の写し。
畑側に続く小さな流れ。
ダリオが説明する。
「水量はこの程度だ。周辺水脈を奪うほどじゃない。むしろ、元の流れの一部を戻しただけだ」
ベックはしゃがみ込み、水の流れを見た。
「確かに、思ったより細い」
「今はな」
ダリオは正直に言った。
「将来は増やすかもしれない。だが、その時は記録を取る。必要なら話し合う。勝手に周辺村の水を奪うやり方はしない」
リオが尋ねる。
「それを約束できるのか」
村長が答えた。
「約束しよう。ただし、こちらも不安がある。リベル村が水を戻しただけで、周辺から敵視されれば、この村も困る」
マルタ婆は水路を見つめた。
「水は、揉めるからね」
「だから記録します」
俺は言った。
「どれだけ流したか。どこへ流したか。誰と話したか。水の記録を残します」
ベックは少し黙った後、苦笑した。
「水の記録か。面倒だな」
「面倒ですが、揉めた時に助けになります」
「確かに」
次に、畑を案内した。
畝はまだ三本だけ。
薬草予定地には木札が立っている。
『傷洗い草・試験栽培
触らないこと』
マルタ婆がその木札を見て、少し笑った。
「かわいいじゃないか」
セリアが照れた。
「まだ芽は出ていません。でも、根が出始めています」
「根が?」
「はい」
セリアは少し嬉しそうに説明した。
「古い種だったので、少しずつ湿度を戻しました。今は土の下で根を伸ばしています」
マルタ婆は黙って薬草予定地を見た。
「うちの村にも、昔は薬草婆がいた。死んでから、誰も畑を継がなくてね」
セリアは顔を上げる。
「もし種や記録が残っているなら、見られるかもしれません」
「本当かい」
「絶対とは言えません。でも、リベル村の種も完全には死んでいませんでした」
マルタ婆の表情が少し変わる。
疑いから、相談の色へ。
最後に、防衛訓練を少しだけ見せた。
リーゼは木剣を持った若者たちを並ばせる。
「これは攻める訓練ではない。逃げる場所、守る場所、踏み込んではいけない線を覚える訓練だ」
ベックが腕を組む。
「武装集団ではない、と」
「村を守るための自衛だ」
リーゼは短く答えた。
「魔物は、王都の許可を待ってから来ない」
その言葉に、周辺村の三人は何も言えなかった。
それは彼らもよく知っている事実だった。
夕方、代表たちは帰る前に、もう一度村長宅へ戻った。
ベックが頭を下げる。
「疑って悪かった」
村長は首を横に振る。
「不安なら、聞きに来ればよい。噂だけで決められるよりずっといい」
リオが言った。
「うちの井戸水を、今度持ってきてもいいでしょうか」
「もちろんです。ただし、記録を取ります」
俺が答える。
「それでお願いします」
マルタ婆も静かに言った。
「うちの古い薬草箱も探してみるよ。もし見つかったら、見てもらえるかい」
セリアは少し驚いた顔をした後、嬉しそうに頷いた。
「はい。私でよければ」
「先生に見てもらえるなら安心だ」
「先生では……」
セリアは途中で止まり、少し笑った。
「できる範囲で、見ます」
代表たちが帰った後、トマが大きく息を吐いた。
「戦わずに済んだな」
「戦ってはいた」
リーゼが言った。
「剣ではないだけで」
ニコルが記録板を抱えながら頷く。
「今日も紙の盾でした」
ダリオが笑う。
「それと、水路の現物だな。紙だけじゃなく、水が流れてるのを見せたのが効いた」
村長は街道の方を見た。
「噂は、まだ来る。だが、見に来る者には見せればよい。見せる範囲を決めてな」
夜、俺は個人記録を書いた。
『周辺村代表三名、来訪。
王都からの書状により、リベル村が水を集めているとの不安を抱く。
設備台帳、旧水路、薬草予定地、防衛訓練を案内。
誤解は一部解消。
北沢集落より井戸水確認の相談あり。
ミード村より古い薬草種確認の相談あり。
周辺村との関係は、敵対ではなく対話へ進む可能性あり。』
最後に一文を加えた。
『噂は遠くから村を刺す。
だが、流れる水と残した記録は、近くで見た人の目を変える。』
炉の火は低く灯っている。
外では、旧水路の水音が聞こえた。
その音は、リベル村だけのものではなくなり始めていた。




