第56話 管理委員会、予算を盾にする
王都行政庁の会議室には、いつも紙の匂いがしていた。
磨かれた長机。
高い天井。
壁際に並ぶ書棚。
窓から差し込む光は明るいのに、部屋の空気はどこか重い。
辺境安全管理委員会の正式協議は、朝から荒れる気配を見せていた。
議題は、リベル村への支援予算。
表向きは、危険古代設備を抱える辺境村の安全対策と復興支援である。
だが、その予算を誰が握り、何と引き換えに出すのか。
問題はそこだった。
「リベル村の旧水路復旧、畑再生、治療所支援は、周辺地域の安定にも関わる案件です」
行政庁のオルブライトが、淡々と資料を読み上げた。
「設備台帳、旧水路復旧記録、薬草試験栽培記録は確認済み。村側の自主管理能力は、少なくとも初期段階として評価できます」
机の上には、リベル村から提出された分厚い写しが積まれている。
井戸の管理記録。
水車の点検記録。
旧水路の呪印片発見と浄化記録。
畑側通水の記録。
薬草予定地の試験栽培記録。
辺境村の提出物としては、異例だった。
だからこそ、ローゼン家寄りの商会代表は面白くなさそうに口を開いた。
「確かに、記録は整っています。しかし、記録があることと、安全が保証されることは別問題です」
ラウル査察官が視線を上げる。
「安全の保証など、王都にもできない。だから記録と管理体制を見る」
「ですが、古代設備の内部は非公開のままです」
「外縁部確認では重大異常なし。測定具の問題を起こしたのは村側ではなく、貴族家推薦技師です」
ラウルの言葉に、部屋の端に座るクラウス技師の顔がわずかに強張った。
クラウスは前回の外縁部確認以降、発言を控えている。
控えざるを得ない、と言った方が正しい。
提出外機能のある測定具。
境界線を越えようとした行動。
そして、「王都が一度止めたもの」という失言。
どれも単独では決定打ではない。
だが、並べれば十分に不穏だった。
商会代表は話題をずらすように咳払いした。
「だからこそ、支援予算を出すなら、設備調査権限を拡大すべきです。魔石、農具、薬草種、布、金具。これらを安全に投入するには、設備の全容確認が不可欠です」
オルブライトが眉を動かした。
「支援予算と調査権限を結びつけるのですか」
「当然でしょう。危険な場所に資材を送るのですから」
別の委員、ローゼン家に近い貴族筋の代理人が続ける。
「リベル村は復興支援を必要としている。ならば、一定の監督を受け入れるのが筋です。井戸、水車、治療所も、古代設備の影響を受けている可能性がある以上、調査対象に含めるべきでは?」
その瞬間、ラウルの目が冷えた。
「またそこへ戻すのか」
「安全のためです」
「生活設備と医療区画を調査対象にする理由にはならない」
「しかし、治療所支援機能という記述があります」
貴族代理は資料を叩いた。
「支援機能があるなら、治療所も古代設備の一部では?」
「患者情報と治療補助者の安全に関わる」
ギルド側代理が口を挟んだ。
「治療所内部への立ち入りは、ギルドとしても慎重であるべきと判断します。セリア・ルミナス本人の神殿検査結果でも、現時点で危険性は認められていません」
商会代表は薄く笑った。
「危険性がないなら、見せられるはずでしょう」
ラウルが短く返す。
「危険性がないことは、無制限に覗いていい理由にならない」
会議室が静まった。
オルブライトはその沈黙を利用して、書類を一枚めくった。
「リベル村側は、支援を拒否していません。ただし、条件を明確にしています。村代表、防衛局、ギルドの立ち会い。器具使用前の鑑定。作業範囲の記録。これを不合理とは言えません」
「不合理ではないが、非効率です」
商会代表が言う。
「王都の支援は速度も重要です。村側の手続きに合わせていては、予算執行が遅れる」
「遅れさせているのは誰か」
ラウルが静かに言った。
「リベル村向けの種や資材取引が、管理委員会判断待ちという名目で渋られている。正式な禁止は出していないはずだ」
商会代表の表情が一瞬固まった。
「商人たちが自主的に慎重になっているだけでしょう」
「その自主性は、ずいぶん足並みが揃っているな」
ギルド側代理も資料を出した。
「複数の商人から、リベル村向け取引が控えられているという報告があります。理由は、ほぼ同じ。“管理委員会の判断待ち”。誰がその言い方を広めたのか、ギルドとして確認中です」
オルブライトは何も言わず、その発言を記録した。
沈黙が、商会代表にとって不利な重みを持ち始める。
そこへ、ローゼン家側の貴族代理が低く言った。
「いずれにせよ、予算には責任が伴う。支援を受けたいなら、調査範囲を広げる。それが道理では?」
オルブライトは淡々と答えた。
「支援予算を条件に、村の生活設備と医療区画への権限拡大を求める。そう記録してよろしいですか」
貴族代理の顔がわずかに歪んだ。
「言い方が悪い」
「内容は同じです」
ラウルが言った。
会議室の空気が、また重くなる。
王都の政治は、声を荒げるよりも、記録の言い回しで勝負が決まることがある。
ローゼン側はそれを知っている。
だから、オルブライトの一文を嫌がった。
結局、その日の協議は結論を出さなかった。
支援予算は継続審議。
ただし、ギルドが中立取引の確保を検討。
防衛局はリベル村の自主管理能力を暫定評価。
行政庁は支援予算と調査権限拡大の関連づけについて、追加審査。
曖昧な決着だった。
だが、ローゼン側にとっては、思ったほど押し切れない結果だった。
会議後、廊下で商会代表が貴族代理に小声で言った。
「リベル村の記録が邪魔です」
「分かっている」
「設備台帳、薬草記録、旧水路記録。あれがある限り、管理不能とは言いにくい」
「なら、別の不安を広げる」
貴族代理は短く答えた。
「周辺村だ」
その言葉に、商会代表は目を細めた。
「水ですか」
「そうだ。リベル村が水路を戻した。なら、次は水を握る村になる。周辺村にとって、それは不安材料になる」
「リベル村が水を独占する、と?」
「独占すると言わなくていい。“将来的に不公平が生まれるかもしれない”で十分だ」
廊下の角の向こうで、その会話を聞いていた者がいた。
オルブライトではない。
ミリア監査員の部下だった。
彼女は足音を殺して、その場を離れた。
報告すべき内容がまた増えた。
同じ頃、ローゼン侯爵家の執務室では、侯爵が静かに報告を聞いていた。
アルヴィンが頭を下げる。
「本日の協議では、予算を盾にした調査権限拡大は保留となりました」
「押し切れなかったか」
「リベル村の記録が想定以上に整っています。オルブライト、ラウル、ギルド側が、それを盾にしました」
「辺境村の紙切れが、王都の会議を止めるか」
侯爵は冷たく笑った。
「面白くないな」
「商流圧力は効き始めています。種や農具は手に入りにくくなっているはずです」
「それだけでは足りん」
侯爵は机の上に置かれた地図を見た。
リベル村。
その周囲に点在する小さな集落。
古い水路跡。森。祠。畑。
「周辺村へ書状を送れ」
「内容は?」
「水路復旧に関する懸念。古代設備の影響が周辺水脈へ及ぶ可能性。リベル村が今後、水の配分に関与する可能性」
「不安を煽る形になります」
「そのために書く」
侯爵は淡々と言った。
「人は、飢えより少し早く、水の不安で動く」
アルヴィンは一瞬だけ沈黙した。
「……承知しました」
彼は頭を下げたが、その表情にはわずかな迷いがあった。
リベル村を締めるために、周辺村の不安を使う。
それは政治としては有効かもしれない。
だが、辺境の小村同士を疑わせるやり方は、あまりに後味が悪い。
侯爵はその迷いに気づいたのか、冷たく言った。
「アルヴィン。情けを出すな」
「はい」
「リベル村は、ただの村ではなくなりつつある。放置すれば、こちらの過去まで掘り返す」
侯爵の指が地図の上を叩く。
「芽は小さいうちに摘むものだ」
その言葉は、薬草予定地に出かけた小さな根のことなど知らないまま、冷たく部屋に落ちた。
行政庁の別室では、オルブライトがその日の議事録をまとめていた。
彼は筆を止め、窓の外を見た。
「支援予算を盾に、調査権限を広げる……」
声に感情は少ない。
だが、眉間には深い皺がある。
彼は新しい紙を取り出し、短い覚書を書いた。
『リベル村への商流圧力の可能性あり。
ギルドとの情報共有を要す。
周辺村への不安拡散にも警戒。』
それから、もう一文。
『リベル村側の記録体制は、現時点で一定の信頼性あり。』
彼はその一文をしばらく見つめ、静かに砂を振って乾かした。
王都の会議は終わった。
だが、決着はついていない。
リベル村の紙の盾は、一度は予算という刃を受け止めた。
しかし、ローゼン家は次の刃を用意している。
今度は、村の外から。
周辺村の不安という、目に見えにくい刃を。




