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第55話 薬草予定地、芽吹く

 薬草予定地に種を植える日は、妙に静かな朝だった。


 村人たちは浮かれていた。

 子供たちは明らかに走りたがっていた。

 トマも「今日は芽が出る日か?」と三回聞いた。


 けれど、セリアが治療所の前で両手を合わせるようにして言った。


「今日は、芽が出る日ではありません。種を土に預ける日です」


 その一言で、村人たちは少しだけ背筋を伸ばした。


 薬草予定地は、畑の端にある小さな区画だった。


 旧水路から少し離れ、午前だけ日が当たり、午後は木陰になる。土はまだ完全には柔らかくない。それでも、昨日よりは湿り気がある。


 ダリオが地面を指で押した。


「悪くねえ。まだ硬いが、最初なら十分だ」


 トマが鍬を持って待っている。


「どれくらい掘る?」


「掘るな。今日は穴を開ける程度だ」


「また少しだけか」


「少しだけだ。種は穴に落とすんじゃねえ。寝床に置くんだ」


 セリアが真剣に頷く。


「寝床……分かりやすいです」


「だろ」


 ダリオは少し得意げだった。


 リーゼは周囲を見回している。

 魔物の気配はない。

 それでも、村人たちが集まっている時ほど、彼女は警戒を緩めない。


 俺は小さな木箱を開けた。


 中には、昨日処置した傷洗い草の古種が入っている。


 全部ではない。

 今日は三粒だけ。


《傷洗い草の古種》

《湿度回復:安定》

《生命反応:微弱》

《発芽率:低》

《推奨:試験植え付け可》


「三粒だけ植えます」


 俺が言うと、子供の一人が目を丸くした。


「三粒だけ?」


「はい」


「少なっ」


 セリアがしゃがんで、子供と目線を合わせた。


「少ないから、大事に見られるんです」


「いっぱい植えた方がいっぱい出るんじゃないの?」


「弱っている種を一度にたくさん植えて、全部駄目になったら悲しいでしょう?」


 子供は少し考えた。


「じゃあ、三粒をちゃんと見る」


「はい。ちゃんと見ます」


 セリアは微笑んだ。


 その顔は、神殿で自分を失敗作だと思い込んでいた頃とは違っていた。


 誰かを導く顔だった。


 本人にそう言ったら、きっと慌てて否定するだろうけれど。


 小さな穴を三つ作った。


 セリアが一粒ずつ種を置く。


 土を薄くかける。


 水は、井戸水をそのままかけない。

 浄化水をさらに薄め、布に含ませ、土の表面に湿り気を移すだけ。


 トマが見ていて、ぼそっと言った。


「赤ん坊みたいだな」


 セリアが頷く。


「はい。たぶん、今はそれくらい慎重でいいです」


 リーゼが静かに言う。


「触りすぎても駄目。放っておきすぎても駄目か」


「はい」


「難しいな」


「治療も、たぶん同じです」


 セリアの声は穏やかだった。


 植え終えると、ニコルが木札を立てた。


『傷洗い草・試験栽培

一日目

触らないこと』


 子供たちが読み上げる。


「触らないこと!」


「絶対触るなよ」


 トマが言う。


「トマ兄ちゃんが一番触りそう」


「触らねえよ!」


 笑いが起きた。


 その日の作業は、それで終わりだった。


 あまりにもあっさりしている。


 村人の一人が物足りなさそうに言った。


「もう終わりか」


「終わりです」


 セリアが答える。


「今日の仕事は、植えることと、触らないことです」


 ダリオが腕を組む。


「触らない仕事ってのは意外と難しいぞ」


 リーゼが苦笑する。


「私にはよく分かる」


 そこに少しだけ重みがあった。


 午後、ニコルは設備台帳に新しい項目を作っていた。


『薬草試験栽培記録』


 彼は書きながら、首を傾げる。


「畑まで設備台帳に入れるんですか?」


 村長は頷いた。


「入れる」


「でも、まだ芽も出ていません」


「だからこそじゃ」


 村長は薬草予定地を見た。


「芽が出た後に記録するのでは遅い。何を選び、どう植え、どれだけ待ったか。それが未来の証拠になる」


「未来の証拠……」


 ニコルはその言葉を、小さく繰り返した。


「いい言葉ですね」


「書くか?」


「書きます」


 台帳にはこう記された。


『薬草試験栽培記録

傷洗い草の古種三粒を試験植え付け。

植え付け前、修復炉低出力支援および浄化水による湿度回復処置を実施。

水量は最小。直接散水せず、布を介した湿度移行。

管理者:セリア・ルミナス。

確認補助:レオン・アスター。

触れないこと。』


 最後の一文だけ、ニコルの字が少し強かった。


 夕方、子供たちはまた薬草予定地を見に行った。


「まだ出てない」


「当たり前だろ」


「でも、見たいじゃん」


 セリアは少し離れて見守っている。


 俺も隣に立った。


「心配ですか」


「はい」


 セリアは素直に頷いた。


「三粒だけなので。もし、全部駄目だったら」


「その時は、記録して次を考えます」


「そうですね」


 彼女は土の小さな区画を見つめた。


「神殿にいた時、結果が出ないと失敗だと思っていました。すぐに光らない。すぐに治せない。すぐに安定しない。だから駄目なんだって」


「今は?」


「今は、待つことも治療なんだと思います」


 そう言ってから、セリアは少し照れたように笑った。


「偉そうですね」


「いい言葉だと思います」


「では、記録します」


 近くにいたニコルが即座に反応した。


「待つことも治療……」


「今のは恥ずかしいので記録しないでください」


「もう書きました」


「ニコルくん」


 ニコルは慌てて記録板を抱えて逃げた。


 その夜は、何も起きなかった。


 芽は出ない。

 土は静かなまま。


 それでも、村人たちは薬草予定地の前を通るたびに、少しだけ足を止めた。


 翌朝も、まだ芽は出なかった。


 子供たちはがっかりした。


 トマも少しがっかりしていた。


「そんな顔をするな」


 ダリオが言う。


「芽ってのは、見えないところで先に仕事してる」


「土の中でか」


「そうだ。上に出る前に、下へ伸びる」


 リーゼがそれを聞いて、少し目を細めた。


「人もそうかもしれないな」


「何が?」


 トマが聞く。


「外から見えないところで、先に戻るものがある」


 セリアは薬草予定地を見つめたまま、静かに頷いた。


 三日目の朝。


 セリアはいつものように、布を湿らせるため薬草予定地へ向かった。


 俺は少し離れて水路の確認をしていた。


 その時、セリアの足が止まった。


「……レオンさん」


 声が震えていた。


 俺はすぐに近づいた。


 土の表面。


 三つの印のうち、一つだけ。


 ほんの少し、土が盛り上がっていた。


 まだ芽ではない。


 緑も見えない。


 けれど、土が内側から押されている。


 俺は鑑定した。


《傷洗い草・試験栽培一》

《発芽準備:進行》

《根形成:開始》

《地上芽:未露出》

《状態:良好》


「根が出始めています」


 セリアの目が潤んだ。


「根……」


「はい。まだ地上には出ていません。でも、下へ伸び始めています」


 トマが駆け寄ってきた。


「出たのか?」


「まだ出ていません」


 セリアが言った。


「でも、下で頑張っています」


 子供たちも集まってきた。


「見えないじゃん」


「見えないところで伸びてるんです」


「すごいの?」


 セリアは少し笑った。


「すごいです」


 その一言で、子供たちは小声で歓声を上げた。


 リーゼも来た。


 土の小さな盛り上がりを見て、しばらく黙っていた。


「小さいな」


「はい」


 セリアは答えた。


「でも、強いです」


 リーゼは静かに頷いた。


「そうだな」


 その日の設備台帳に、新しい一文が加わった。


『薬草試験栽培三日目。

傷洗い草一粒に根形成を確認。

地上芽は未露出。

触れずに継続観察。』


 ニコルが書き終え、少し不満そうに言った。


「“芽吹く”って書きたいです」


「まだ芽は出ていません」


 俺が言う。


「でも、気持ちとしては芽吹いてます」


 セリアが少し考えてから言った。


「では、個人記録に書きます」


 彼女は自分の記録板に、丁寧な字で書いた。


『まだ芽は見えません。

でも、根が出ました。

見えないところで、生きようとしていました。

私も、そうだったらいいと思います。』


 リーゼはそれを横から見て、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ優しい顔をしていた。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『薬草予定地に傷洗い草三粒を試験植え付け。

三日目、一粒に根形成を確認。

地上芽はまだ。

村人たちは、見えない成長を喜んだ。

セリアは“待つことも治療”と言った。』


 最後に、一文を加える。


『芽はまだ出ていない。

けれど、土の下ではもう未来が動いている。』


 炉の火が、低く穏やかに揺れていた。


 外では旧水路の水が畑へ流れている。


 水は土へ。

 土は種へ。

 種は、まだ見えない根へ。


 リベル村の未来は、派手な光ではなく、そういう小さな場所から始まっていた。

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