第44話 旧水路に水を戻せ
旧水路の掘り返しは、朝から始まった。
派手な作業ではない。
土を掘る。根を切る。泥をどける。石を運ぶ。
ただ、それだけだ。
けれど村人たちは、妙に張り切っていた。
「ここが戻れば、畑に水が行くんだろ?」
「畑が戻れば、豆が増える」
「薬草も育てられるってセリア先生が言ってたぞ」
「先生ではありません」
少し離れた場所から、セリアが即座に訂正した。
トマが笑う。
「もう諦めろよ、セリア先生」
「諦めません」
「リーゼ先生は?」
「私は先生ではない」
二人そろって否定するので、村人たちが笑った。
その笑いの中で、ダリオは旧水路の前にしゃがみ込み、地面に棒で線を引いていた。
「いいか。ここを一気に掘るな。水路は詰まりを抜けば終わりじゃない。流れが戻った瞬間、弱いところが崩れる」
トマが腕を組む。
「じゃあ、どうする」
「三つに分ける。上流側、中央、畑側。今日は上流側だけ開ける」
「全部やらねえのか」
「焦って全部開ける奴は、水で村を壊す」
その言葉に、俺は頷いた。
「水車と同じですね」
「そうだ。水は味方にすれば飯になる。敵にすれば災害だ」
ダリオは得意そうに言う。
この男、口は悪いが、現場の説明は分かりやすい。
リーゼは周囲を見回していた。
剣は腰にあるが抜いていない。
防衛役として、作業に集中している村人たちの外側を見ている。
「魔物の気配は?」
「今のところありません」
俺は外周結界と周辺反応を確認する。
《周辺反応:安定》
《旧水路:封鎖呪印片除去済み》
《残存呪印反応:微弱》
《推奨:浄化補助下で掘削》
「ただ、残滓は少しあります。セリア、掘った土に黒い紋が見えたら触らないでください」
「はい。浄化水を用意しています」
セリアは小瓶を籠に入れ、治療所ではなく作業場にいた。
今日は治療補助者ではなく、浄化担当だ。
村長は杖をつき、少し離れた場所で全体を見ている。
「では始めよう」
その一言で、鍬が土に入った。
ざく、ざく、と音がする。
旧水路は思ったより深かった。
表面は草と土に埋もれていたが、少し掘ると古い石組みが出てくる。
「おい、石があるぞ!」
「壊すな!」
ダリオが即座に叫ぶ。
「それが水路の壁だ。壊したら俺が泣く」
「泣くのか」
「技師は良い石組みを見ると泣くんだ」
「変な生き物だな」
トマが笑った。
けれど、ダリオの指示で作業は丁寧になった。
石組みを傷つけず、泥だけを取り除く。
木の根は、リーゼが短剣で切った。
その手つきは正確だった。
「剣士に根切りをさせる村か」
リーゼが呟く。
「防衛役の仕事ですかね」
俺が言うと、彼女は少し笑った。
「まあ、村を守る根切りなら悪くない」
掘り進めて半刻ほどした頃、鍬を入れた若者が声を上げた。
「黒い石がある!」
全員の動きが止まる。
俺が近づき、鑑定する。
《水路封鎖呪印片・小》
《機能:土砂固定》
《状態:残滓》
《危険度:低》
「残滓です。直接触らないで。セリア、お願いします」
「はい」
セリアが浄化水を一滴落とす。
黒い紋様が薄れ、石はただの割れた小石になった。
村人たちが小さく息を吐く。
「こんなのが、まだ埋まってたのか」
「これで水路が止まってたんだな」
ダリオが苦い顔で言う。
「一枚一枚は小さい。でも要所に置けば、水の流れは死ぬ」
「人も同じだな」
リーゼが低く言った。
誰もすぐには返さなかった。
小さな呪印。
小さな言葉。
小さな制度。
小さな諦め。
それらが積み重なって、人も村も止まっていく。
だから、ひとつずつ取り除くしかない。
昼前、上流側の詰まりが抜けた。
ダリオが水量調整板を仮設する。
古い木材と黒牙猪の牙片を削った補強具を組み合わせた、即席の板だった。
「これで水を少しだけ通す」
トマが顔をしかめる。
「少しだけって、どれくらいだ」
「水路が思い出す程度だ」
「また変な言い方を」
「長く止まってた水路に一気に流すと崩れる。まず、濡らす。石組みに水を馴染ませる」
俺は思わず笑った。
「本当に、人の回路みたいですね」
セリアが頷く。
「少しずつ流すんですね」
「そういうことだ」
ダリオは水量調整板をゆっくり開けた。
最初に、ちょろ、と細い水が流れた。
誰も喋らなかった。
水は泥の上を迷うように進み、古い石組みの間を通っていく。
何年も止まっていた水路を、少しずつ濡らしていく。
やがて、細い流れが一本になった。
トマが小さく呟く。
「流れた」
セリアが目を輝かせる。
「本当に、戻ってる」
リーゼは黙って見ていた。
その横顔には、どこか自分の剣を初めて抜いた時に似た表情があった。
ダリオは腕を組み、満足そうに頷く。
「よし。今日はここまで」
「え、ここまでか?」
若者の一人が不満そうに言う。
「畑まで通さないんですか?」
「通さない」
ダリオは即答した。
「今日ここで止める勇気がある奴だけが、明日も水路を直せる」
リーゼが小さく笑った。
「いい言葉だな」
「だろ。飯の前に言うと深く聞こえる」
「台無しだ」
昼食は水路のそばで取った。
黒パン、豆の煮込み、井戸水。
特別なものはない。
けれど、村人たちはいつもより嬉しそうだった。
「水が戻ると、畑も戻るかな」
「戻るさ」
「薬草も育てよう」
「豆も増やしたい」
「芋も欲しい」
話はどんどん飯へ向かう。
トマがダリオにパンを渡した。
「食え。今日は働いた」
「ありがたい。働いた後のパンは技師組合の宴会よりうまい」
「王都の宴会ってそんなに駄目なのか?」
「飯はうまい。空気がまずい」
「なるほどな」
午後は、流した水の状態を確認した。
崩れた場所はない。
水漏れも少ない。
ただ、一箇所だけ石組みが緩んでいる場所があった。
「ここは明日補強だな」
ダリオが言う。
「黒牙猪の牙片、まだあるか?」
「あります」
「砕いて混ぜる。衝撃に強い補強材になる」
「魔物素材を水路に使うのか」
リーゼが聞く。
「魔物を倒したなら、村の役に立てる。牙も本望だろ」
「牙に本望があるかは知らないが、悪くない」
夕方、旧水路の上流側に仮の木札が立てられた。
『旧水路・上流部
試験通水中
無断接触禁止
管理者:ダリオ/レオン/トマ
浄化確認:セリア
防衛確認:リーゼ』
ニコルが文字を書いた。
自分の字を見て、少し満足そうにしている。
「管理者が増えましたね」
「村が広がると、管理も増える」
村長が言った。
「大変ですね」
「大変じゃ。だが、嬉しい大変さもある」
ニコルは少し考えてから、頷いた。
夜、村長宅で設備台帳に新しい項目が追加された。
『旧水路上流部、試験通水成功。
水量は最小。石組み崩落なし。
残存呪印片二つ確認、浄化済み。
中央部および畑側は未開通。
一気に通水せず、段階的に復旧すること。』
ダリオがそれを見て、満足そうに頷く。
「いい台帳だ。王都の役人に見せても恥ずかしくない」
ニコルの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。まだ字は若いが、内容はいい」
「字が若い……」
「褒めてる」
リーゼが横から言う。
「分かりにくい褒め方だ」
「俺はだいたい分かりにくい」
「自覚があるなら直せ」
「検討する」
セリアが小さく笑った。
その日の個人記録に、俺はこう書いた。
『旧水路上流部、試験通水成功。
水は細いが、確かに流れた。
残存呪印片を二つ浄化。
村人たちは畑の話を始めている。
水路が戻ることは、単なる設備修復ではない。
村が先の季節を考え始めたということだ。』
最後に一文を加える。
『止められていた流れが戻る時、人も村も少し未来を見る。』
筆を置く。
外では水車が回っている。
そして、その近くで新しく戻った細い水音が聞こえていた。
まだ小さい。
でも、確かに水は流れている。




