第35話 王都、動き出す
噂は、井戸の水より速く流れる。
しかも、綺麗な水とは限らない。
リベル村が修復炉の低出力点火に成功した頃、王都では別のものが静かに広がり始めていた。
――辺境村リベルで、古代結界が無許可で動かされているらしい。
――元勇者パーティーの鑑定士が、村を私物化しているらしい。
――神殿から離れた危険な聖女候補が、無許可で治療を行っているらしい。
――騎士団を去った女剣士が、辺境で武装しているらしい。
どれも、完全な嘘ではない。
だからこそ、たちが悪かった。
事実を少しだけ曲げる。
足りない部分を悪意で埋める。
それだけで、噂は勝手に歩き出す。
冒険者ギルドの一階酒場でも、その話は出ていた。
「リベル村って知ってるか?」
「ああ、古代結界がどうとかって村だろ」
「元勇者パーティーの鑑定士がいるらしいぞ」
「鑑定士? 勇者から追い出された奴か?」
「そいつが聖女候補を匿ってるって話だ」
「怪しいな」
酒の入った声は軽い。
だが、軽い言葉ほど遠くまで転がる。
受付の奥でその話を聞いていたミリア・ロイは、眉間に皺を寄せた。
「早いわね」
彼女の机の上には、リベル村から届いた報告書がある。
魔物誘導術式。
呪印核片。
ローゼン家視察団の提案書写し。
簡易鑑定具の危険反応。
セリアとリーゼの本人意思記録。
記録は丁寧だった。
感情と事実を分け、推測には推測と書いてある。
それがかえって、書いた者たちの本気を感じさせた。
ミリアは部下を呼んだ。
「リベル村関連の噂を集めて。誰が最初に言い出したか、商会筋、神殿筋、貴族筋に分けて」
「噂の出所を調べるんですか?」
「ええ」
ミリアは報告書を軽く叩いた。
「この噂は自然発生じゃない。誰かが流してる」
部下は顔を強張らせ、頷いた。
防衛局でも、ラウル査察官が同じ結論に近づいていた。
「リベル村に関する悪評が、三日で広がりすぎている」
ラウルは地図の前に立っていた。
王都。
ギルド。
神殿。
商会通り。
貴族街。
噂の発生地点を線で結ぶと、不自然なほど綺麗に広がっている。
「誰かが意図的に撒いていますね」
部下が言う。
「ああ。しかも、嘘だけではない。事実を使っている」
ラウルは机の上の紙を見た。
レオン・アスターの名。
セリア・ルミナスの名。
リーゼ・ヴァルトの名。
「リベル村は今、狙われている」
「追加部隊を出しますか」
「出せば、噂を肯定したように見える。危険な村だから防衛局が動いた、と」
「では?」
「まず、正式な調査文書を出す。リベル村が提出した記録を防衛局が受理していること、魔物誘導術式について調査中であることを明記する」
「噂への対抗ですか」
「完全には消せない。だが、公式記録を先に置けば、後から歪めにくくなる」
ラウルは少しだけ苦笑した。
「リベル村の連中に教えられたな。記録は武器になる」
神殿では、空気がさらに重かった。
セリア・ルミナスに関する照会が、正式に議題へ上がっていた。
「元聖女候補セリア・ルミナスが、辺境村で治療行為を継続しているとの報告があります」
神殿会議室で、年配の神官がそう言った。
「神殿の監督なく治癒魔力を用いるのは危険です」
「しかし、現地査察では低位浄化と治療補助が安定しているとの所見もあります」
若い神官が反論する。
「問題はそこではありません」
別の神官が冷たく言った。
「神殿から離れた者が、聖女の力を勝手に使っていることです」
「彼女は神殿から保護されず、失敗作として扱われた可能性があります」
若い神官は声を強めた。
「処置記録も欠落しています。まず神殿側の記録不備を調べるべきです」
会議室が静まった。
記録不備。
その言葉は、神殿にとって都合が悪かった。
上席の神官が重々しく言う。
「セリア・ルミナス本人に再検査を求める」
「強制ですか」
「要請だ」
「本人が拒否した場合は?」
「その時は、その理由を問う」
若い神官は唇を噛んだ。
要請。
綺麗な言葉だ。
だが、神殿の要請は、受ける側には命令と変わらないことがある。
彼は手元の書類を見る。
そこには、セリアの本人記録の写しがあった。
『私はリベル村で治療補助を続けたいです。』
その文字は震えていたが、彼女自身の言葉だった。
それを無視していいのか。
若い神官は、初めて神殿の白い壁が冷たく見えた。
勇者パーティーの宿舎では、カイルが噂に苛立っていた。
「レオンが村を私物化している? 馬鹿なことを」
彼は机を叩いた。
エレナは腕を組んでいる。
「信じてないなら、それでいいじゃない」
「信じていない。だが、王都でこうも広まれば、無視できない」
ガレスが低く言う。
「レオンに確認する必要はある。ただし、命令ではなくな」
カイルは黙った。
命令ではなく。
それが難しい。
勇者として、彼はずっと命令する側にいた。
必要な人材を呼ぶ。
必要な場所へ向かう。
必要な戦いをする。
それが当たり前だった。
だが、リベル村で見たレオンは、もう自分の後ろにいる鑑定士ではなかった。
村人に囲まれ、セリアに心配され、トマに先生と呼ばれ、村長に信頼されていた。
あそこに、彼の居場所があった。
「……手紙を書く」
カイルは言った。
エレナが少し驚く。
「直接行かないの?」
「行けば、また圧になるかもしれない」
カイルは視線を逸らした。
「まず、聞く」
ガレスは小さく頷いた。
「それでいい」
カイルは羊皮紙を広げた。
何を書けばいいのか、すぐには分からなかった。
謝罪。
確認。
噂を信じていないこと。
聖剣の修理がまだ終わらないこと。
それらをどう並べても、言い訳に見える。
彼は筆を握ったまま、しばらく動けなかった。
リベル村では、まだ王都の噂の広がりを知らない。
ただ、村には王都から届く文書が増え始めていた。
最初に届いたのは、防衛局からの正式通知だった。
村長が読み上げる。
「リベル村より提出された魔物誘導術式に関する報告を受理。防衛局にて調査継続中。現地における証拠保全および防衛記録の継続を求める……」
トマが首を傾げる。
「悪くない文書か?」
「悪くないです」
俺は頷いた。
「少なくとも、防衛局が報告を受け取ったと公式に残してくれました」
「つまり、なかったことにされにくい」
「はい」
ニコルが嬉しそうに記録板を抱えた。
「僕たちの記録、役に立ったんですね」
「かなり」
「よかった……」
彼は本当にほっとした顔をした。
二通目は、冒険者ギルドのミリア監査員からだった。
内容は短い。
『呪印核片を受領。分析中。
リベル村関連の噂が王都で広がっている。
不確かな話に対しては反論より記録提出を優先すること。
必要であれば、ギルド経由で中立証明を発行する。』
「噂?」
セリアが不安そうに顔を上げる。
「王都で何か言われているんでしょう」
リーゼの表情が険しくなる。
「ローゼンが動いたか」
「可能性は高いです」
村長はゆっくり息を吐いた。
「見えぬ矢が飛んできたな」
「どうします?」
トマが尋ねる。
「いつも通りじゃ」
村長は言った。
「記録を続ける。噂に怒って走り回れば、相手の思う壺じゃ」
リーゼは拳を握った。
「分かっている。だが、腹は立つ」
「腹が立つなら、記録に書け」
村長は淡々と言った。
「怒りも残しておけ。後で冷静に見るためじゃ」
リーゼは少し黙り、それから頷いた。
三通目は、セリア宛てだった。
神殿から。
封蝋を見た瞬間、セリアの顔が白くなった。
俺はすぐに言った。
「一人で読まなくていいです」
セリアは小さく頷いた。
「一緒に、お願いします」
村長宅で、セリア、俺、リーゼ、村長が同席し、文書を開いた。
内容は丁寧だった。
セリア・ルミナスの現状確認。
治癒魔力の安定性を確認するための再検査要請。
神殿へ一時帰還するか、神殿派遣の検査官をリベル村へ受け入れるよう求める。
強制とは書かれていない。
だが、文面には圧があった。
セリアは文書を読み終え、しばらく黙っていた。
「……来ましたね」
「はい」
「怖いです」
彼女は正直に言った。
リーゼが隣で静かに言う。
「返事は今しなくていい」
「はい」
「本人意思記録だ」
リーゼがそう言うと、セリアは少しだけ笑った。
「リーゼさんに言われると、不思議ですね」
「私も慣れてきた」
俺は神殿文書を鑑定する。
《神殿公式照会》
《表面目的:再検査要請》
《術式反応:なし》
《文面圧力:高》
《危険:本人意思を曖昧にした場合、同意と解釈される可能性》
「術式はありません。ただ、返答を曖昧にすると同意したと扱われる可能性があります」
村長が頷く。
「返事は明確にせねばな」
セリアは深呼吸した。
「私は、今は神殿へ戻りません」
声は震えている。
でも、言えた。
「検査官を受け入れるかどうかは?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えた。
「防衛局かギルドの立ち会いがあるなら、考えます。でも、神殿だけの検査は嫌です」
「そのまま書きましょう」
セリアは頷いた。
「はい」
その夜、セリアは返答文の下書きを自分で書いた。
『私は現在、リベル村で治療補助を行っています。
現時点で神殿への一時帰還は希望しません。
検査が必要な場合は、私本人の意思確認、リベル村村長の立ち会い、防衛局または冒険者ギルドの第三者立ち会いを条件とします。
私は自分の力を学び直している途中です。』
書いた後、セリアは長く息を吐いた。
「これで、失礼ではありませんか」
「失礼ではありません」
俺が答える。
リーゼも頷く。
「むしろ丁寧すぎる」
「そうですか?」
「私なら、もっと短く書く」
「リーゼさんの場合、少し強すぎるかもしれません」
「否定はしない」
少しだけ笑いが生まれた。
そして四通目。
それは、勇者カイルから俺宛てだった。
封書を見た時、俺は少し息を止めた。
セリアが気づく。
「レオンさん?」
「勇者パーティーからです」
トマが顔をしかめる。
「また戻れって話か?」
「分かりません」
封を切る。
手紙は短かった。
『レオンへ。
王都でリベル村に関する噂が流れている。
俺は、それをそのまま信じるつもりはない。
ただ、状況を知りたい。
聖剣の修理はまだ終わっていない。
お前がいなくなってから、俺たちがどれほどお前に頼っていたか、少しずつ分かってきた。
もし迷惑でなければ、返事をくれ。
今度は、命令ではなく聞きたい。
カイル』
俺はしばらく手紙を見ていた。
以前なら、この一文だけで心が揺れたかもしれない。
必要とされている。
戻るべきなのか。
勇者パーティーに戻れば、王都での立場も得られるのか。
だが今の俺は、違う場所に立っている。
「何と書いてありますか」
セリアがそっと聞く。
「命令ではなく、聞きたいと」
リーゼが少し眉を上げる。
「変わったのか」
「分かりません。でも、少なくともそう書いてあります」
村長が静かに言った。
「返事を書くとよい。急がずにな」
「はい」
その夜、俺は個人記録の後に、カイルへの返事の下書きを書いた。
『カイルへ。
手紙を受け取った。
リベル村に関する噂の多くは、事実の一部を歪めたものだ。
俺は古代設備を私物化しているわけではない。村人たちと復旧作業をしている。
セリアは自分の意思でリベル村に残り、治療補助をしている。
リーゼも本人意思で村に滞在している。
俺は今、リベル村の復旧を優先したい。
勇者パーティーへ戻るつもりは、現時点ではない。
ただ、話を聞く意思はある。
もし来るなら、命令ではなく、客人として来てほしい。』
書いてから、しばらく見つめた。
戻るつもりは、現時点ではない。
書けた。
自分でも驚くほど、手は震えなかった。
翌朝、三つの返答が準備された。
神殿への返答。
ミリア監査員への追加記録。
カイルへの手紙。
それぞれ内容は違う。
けれど、共通しているものがあった。
こちらの意思を曖昧にしないこと。
村長は封書を見て言った。
「よし。これで、また一つ村は立った」
トマが首を傾げる。
「手紙出すだけでか?」
「手紙も戦いじゃ」
「また字が武器の話だ」
「そうじゃ」
ニコルが少し誇らしそうに笑った。
セリアは自分の封書を両手で持ち、静かに言った。
「私、怖いままでも返事を書けました」
リーゼが頷く。
「私も、噂に怒っている。だが、剣ではなく記録に残す」
俺もカイルへの封書を手に取る。
「俺も、戻らないと書けました」
それを言葉にした瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
勇者パーティーを否定したいわけではない。
過去の全部を捨てたいわけでもない。
でも、今いる場所を自分で選ぶ。
それが大事だった。
封書を預かった商人が、村の入口で馬車を出す準備をしている。
「王都行きなら任せてくれ」
「お願いします」
「それにしても、この村は手紙が増えたな」
商人は笑った。
「そのうち文書だけで魔物を追い返しそうだ」
トマが答える。
「できるなら楽でいいな」
「いや、魔物は読めんだろ」
「じゃあ駄目か」
そんなやり取りに、村人たちが笑う。
噂は王都で広がっている。
神殿は動き始めた。
勇者パーティーも揺れている。
ローゼン家は、きっと次の手を打つ。
それでも、リベル村は今日も記録を書き、水を汲み、木柵を直す。
俺は水車の音を聞いた。
以前より滑らかになったその音は、村がまだ回っていることを教えてくれる。
壊れたものは、すぐには直らない。
でも、止まらずに回し続ければ、少しずつ馴染んでいく。
リベル村も、俺たちも。




