第33話 剣姫、ローゼン家と対峙する
ローゼン侯爵家の馬車が見えなくなっても、リーゼはしばらく街道を見ていた。
右手は震えていた。
だが、剣の柄には触れていない。
それは小さなことに見えて、たぶん大きなことだった。
「リーゼさん」
セリアが声をかける。
「治療所で休みましょう」
「私は怪我人ではない」
「緊張で消耗しています」
「……それは否定しない」
リーゼは素直に頷いた。
以前なら、きっと強がっていた。
だが今は、自分の状態を少しずつ認められるようになっている。
トマが大きく息を吐いた。
「いや、疲れた。魔物の群れより嫌な汗をかいたぞ」
「同感です」
俺も正直に言った。
「先生でもそうなのか」
「俺は交渉の専門家ではありません」
「でも契約書を斬ってたぞ。剣より怖かった」
「斬ったわけでは」
「いや、斬ってた。紙を」
リーゼが横から言った。
「今日、一番鋭かったのはレオンの鑑定だ」
「それは褒めていますか」
「褒めている」
最近、彼女の褒め方も少し分かってきた。
村長は村の入口に立てた木札を見上げていた。
「発言は記録される。効いたな」
ニコルが記録板を抱えたまま、疲れ切った顔で頷く。
「何度も手が震えました。でも、書いていると少し落ち着きました」
「それでよい」
村長はニコルの肩を軽く叩いた。
「今日の戦いは、お前の筆も武器だった」
ニコルは一瞬、何か言おうとして、やめた。
それから小さく頷いた。
「はい」
村長宅に戻ると、すぐに記録の整理が始まった。
今日の出来事は、曖昧な記憶のままにしてはいけない。
相手が礼儀正しかったからこそ、どこで何を求めたかを正確に残す必要がある。
ニコルが読み上げる。
「来訪者。アルヴィン・ローゼン。ローゼン侯爵家名代。同行者、文官一名、治癒師一名、護衛兵二名、御者、従者複数」
「護衛兵の数も書くのか?」
トマが聞く。
「書きます」
俺は頷いた。
「護衛兵の一人が結界柱へ接近しようとしたことも」
「止めたのはリーゼ」
「記録済みです」
ニコルが少し得意げに言った。
リーゼは椅子に座り、腕を組んでいる。
「私の発言も、そのまま書いたのか」
「はい。“私は消えていない。剣も折れていない”と」
「……少し恥ずかしいな」
「消しますか?」
ニコルが尋ねる。
リーゼは少し考えてから首を横に振った。
「いや、残せ」
その言葉には覚悟があった。
セリアも自分の記録板を膝に置いている。
「私も書きます。鑑定具に触れたくないと、自分で言えたこと」
「大事な記録です」
俺が言うと、セリアは小さく頷いた。
「怖かったです。でも、言った後、少し楽でした」
「自分の意思を言葉にできたからでしょう」
「はい」
リーゼが静かに言う。
「言葉にすると、戻ってくるものがあるな」
誰も茶化さなかった。
それは、この村で皆が少しずつ知り始めていることだった。
書く。
言う。
残す。
それは、奪われた意思を取り戻す作業でもあった。
俺は提案書の写しを確認した。
危険だったのは、印章部だけではない。
共同調査。
能力確認。
治療所記録閲覧。
特殊鑑定具使用。
技師派遣という名の設備調査。
すべてが丁寧な言葉に包まれていた。
「この提案書は、どうしますか」
ニコルが尋ねる。
「原本は村で保管。写しを作り、ラウル査察官とミリア監査員へ送る準備をします」
「すぐ送るのか?」
村長が聞く。
「一晩置いて、内容を確認してからです。感情的な文面にはしません」
トマが苦い顔をする。
「感情的には書きたいけどな」
「それは個人記録に」
「俺も個人記録いるか?」
「欲しいなら」
「いや、やっぱりいい。腹立つ、で終わる」
リーゼが少し笑った。
「それも立派な記録だ」
「そうか?」
「感情も残した方がいい時がある」
トマは少し照れたように頭をかいた。
村長は話をまとめた。
「今日のところは、来訪者記録、提案書鑑定記録、セリアとリーゼの本人記録、レオン殿の鑑定記録。これを別々に残す。混ぜるな」
「事実と感情と推測を分ける、ですね」
ニコルが言う。
「そうじゃ。お前も覚えてきたな」
ニコルは少しだけ胸を張った。
夕方、セリアは治療所で記録を書いた。
『今日、ローゼン家の治癒師から鑑定具に触れるよう求められました。
私は触れたくないと言いました。
怖かったです。
でも、私の魔力回路は私のものなので、勝手に写し取られたくありません。
私はリベル村で治療補助を続けたいです。』
リーゼは広場の隅で、自分の記録を書いていた。
筆を持つ姿は、剣を持つ時とは違って少しぎこちない。
『ローゼン家の名代アルヴィン・ローゼンと対面した。
剣姫と呼ばれ、怒りが湧いた。
だが剣は抜かなかった。
私は、私を壊したかもしれない家の者に、消えていないと伝えた。
手は震えた。
それでも言えた。』
書き終えた後、リーゼはしばらく板を見つめていた。
「変な気分だ」
「どう変なんですか」
セリアが尋ねる。
「悔しいことを書いているのに、少し楽になる」
「私もそうです」
「神殿では、記録は誰かに管理されるものだった。騎士団でもそうだった。だが、ここでは自分のために書く」
リーゼは少しだけ笑った。
「変な村だ」
「はい」
セリアも笑った。
「でも、悪くないです」
王都へ戻る馬車の中で、アルヴィン・ローゼンは無言だった。
文官が向かいに座り、今日の記録をまとめている。
治癒師は不機嫌そうに窓の外を見ていた。
「まさか、あの鑑定具まで見抜かれるとは」
治癒師が言った。
「だから申し上げたでしょう。レオン・アスターは警戒すべきだと」
文官が淡々と返す。
「警戒していても、実際に対面すると厄介ね。あれでは、セリア・ルミナスに触れることもできない」
アルヴィンはようやく口を開いた。
「触れなくても、分かったことはある」
「分かったこと?」
「あの村は、レオン一人で動いていない」
文官の筆が止まる。
「村長は老獪。記録係は未熟だが素直に記録する。トマという男は粗野に見えて周囲をよく見ている。セリアは怯えているが意思を言える。リーゼは……折れていない」
最後の言葉だけ、少し低かった。
治癒師が眉を寄せる。
「リーゼ・ヴァルトは危険ですか」
「今はまだ完全ではない。だが、放置すれば面倒になる」
「剣が戻ったと?」
「少なくとも、剣を腰に下げていた」
アルヴィンは窓の外を見る。
「腕輪のことをどこまで知っているかも問題だ」
文官が声を落とす。
「処分しますか」
馬車の中に、冷たい沈黙が落ちた。
アルヴィンはすぐには答えなかった。
「今は駄目だ」
「理由は?」
「リベル村は防衛局とギルドに報告を送っている。強硬手段を取れば、こちらに視線が集まる」
「では?」
「孤立させる」
アルヴィンは静かに言った。
「あの村は今、互いに支え合っている。なら、外から信頼を削る。村が危険人物を匿っている。鑑定士が古代設備を私物化している。聖女候補が無許可で治療している。剣士が騎士団から逃げたまま武装している」
治癒師が少し笑う。
「噂ですか」
「噂は剣より安く、時に深く刺さる」
アルヴィンは文官を見る。
「王都へ戻ったら、報告を三つに分ける。一つは侯爵家へ。もう一つはグランベル商会へ。最後は、神殿の保守派へ」
「神殿も動かしますか」
「セリア・ルミナスは、彼らにとって都合が悪い存在になりつつある。彼女が安定して治療をしていると認めれば、神殿の過去の判断が揺らぐ」
アルヴィンは微笑んだ。
「揺らぎを嫌う者は、こちらの味方になる」
文官は頷き、筆を走らせた。
馬車は王都へ向かう。
友好的な視察団は、友好的な顔のまま、次の圧力を運んでいった。
リベル村では、夜になってから地下工房で簡単な会議が開かれた。
村長、俺、セリア、リーゼ、トマ、ニコル。
机の上には今日の記録が並んでいる。
「向こうはまた来る」
リーゼが言った。
「今日の様子を見る限り、諦めていません」
俺も頷く。
「次は直接ではなく、噂や制度を使ってくる可能性があります」
セリアが不安そうに聞く。
「制度?」
「神殿から正式な照会が来るかもしれません。セリアの治療行為について。もしくは、未登録治癒能力者として王都で検査を受けろ、と」
「……来そうですね」
セリアは胸元に手を当てた。
リーゼが続ける。
「私には騎士団から照会が来るかもしれない。逃亡騎士だの、武装許可だの、何か理由をつけて」
トマが顔をしかめる。
「面倒くせえな。村にいるだけで何が悪いんだ」
「王都では、理由は後から作れる」
リーゼの声は苦かった。
村長は静かに言った。
「だから記録じゃ」
何度目かの言葉。
でも、今日はさらに重い。
「セリアが自分の意思で残っている記録。治療が安定している記録。リーゼが自分の意思で滞在し、防衛役をしている記録。レオン殿が村の管理記録を出していること。これらが盾になる」
俺は頷いた。
「さらに、ローゼン家が持ち込んだ提案書と鑑定具の記録も。もし向こうが村を危険視するなら、こちらは逆に、危険な術式を含む道具を持ち込まれたと示せます」
ニコルが震えた声で言う。
「今日、ちゃんと書いておいてよかったです」
「本当にな」
トマが真面目に頷いた。
「ニコル、偉いぞ」
「やめてください。照れます」
少しだけ笑いが起きる。
重い話の途中でも笑える。
この村の強さは、そういうところにもあるのかもしれない。
会議の最後に、俺は中枢室の結晶柱へ今日の記録を登録した。
《来訪者記録:保存》
《危険術式反応:保存》
《本人意思記録:保存》
《証拠保全:強化》
《拠点機能:進行》
そして、新しい表示が浮かぶ。
《リベル修復工房:第二段階移行条件》
《登録者三名の役割安定》
《修復炉低出力点火》
《外部圧力への初期対応完了》
《進行率:二項目達成》
「第二段階……」
セリアが呟く。
「あと、修復炉の低出力点火が必要ですね」
俺は表示を見る。
修復炉が動けば、結界も治療所も防衛機能も強化される。
だが同時に、外から見れば村の価値がさらに上がる。
強くなるほど、狙われる。
それでも、弱いまま首輪をつけられるよりはいい。
「修復炉の準備を進めます」
俺が言うと、村長は頷いた。
「焦らずにな」
「はい」
リーゼがこちらを見る。
「再点火の時は、私が護衛につく」
「お願いします」
セリアも言う。
「浄化補助は私が」
「無理は」
「しません」
先に言われた。
トマが腕を組む。
「俺は?」
「地上の警戒と、もしもの時の連絡を」
「よし。字じゃなくて少し安心した」
ニコルがすかさず言う。
「でも記録もお願いします」
「結局それか」
また小さく笑いが起きた。
夜更け、俺は個人記録を書いた。
『ローゼン家視察団、村を去る。
表向きは友好的。実際は情報収集と圧力。
セリアは鑑定具への接触を拒否できた。
リーゼはローゼン家に対し、自分が消えていないことを伝えた。
村長は支援という名の共同管理を受け入れず。
ニコルの記録が盾になりつつある。
今後、噂・制度・照会による圧力が予想される。
修復炉低出力点火の準備を進める。』
最後に、少し考えてから書いた。
『敵は剣だけで来ない。
なら、こちらも剣だけで戦わない。』
筆を置く。
外では水車が止まっている。
夜の間は休ませているからだ。
それでも、耳の奥にはあの音が残っている。
ぎし、ぎし、と回る音。
壊れたものが、不器用に動き出す音。
リベル村は、今日も壊れなかった。
そのことを、ちゃんと記録しておこうと思った。




