第29話 禁忌指定の術式
グランベル商会の馬車が去った翌日、リベル村には妙な静けさが残っていた。
魔物を退けた後の静けさとは違う。
もっと湿った、形のない不安だ。
井戸は変わらず澄んでいる。
水車も低い音を立てて回っている。
リーゼは朝の素振りを一回だけ行い、セリアに止められて大人しく治療所へ戻った。
だが、村人たちの間では、昨日の商会の話が残っていた。
「魔石、欲しかったな」
「薬草も布も、あれだけあれば治療所が助かったろうに」
「でも契約が危なかったんだろ?」
「先生がそう言うなら、そうなんだろう」
誰も村長の判断を責めてはいない。
けれど、欲しかったものは欲しかった。
それもまた現実だった。
俺は地下工房の前室で、昨日の契約記録をもう一度見直していた。
グランベル商会。
ローゼン侯爵家。
リーゼの腕輪。
魔物誘導術式。
まだ証拠は点のままだ。
だが、点が増えてきた。
「レオン」
リーゼが入ってきた。
腰には剣。右手首には腕輪の痕。
まだ完全な騎士の歩き方ではないが、初めて村へ倒れ込んできた時とはまるで違う。
「昨日の商人のことを調べるのか」
「はい。契約書の写しと、マルクの反応を整理しています」
「私の腕輪の話をした時、あいつは知っている顔をした」
「俺もそう見えました」
「記録には?」
「書いています。ただし、事実と推測を分けて」
リーゼは少しだけ笑った。
「この村にいると、その言葉を何度も聞くな」
「王都相手には大事なので」
その時、セリアも降りてきた。
「リーゼさん、休む約束では?」
「歩いているだけだ」
「地下工房まで歩くのは“だけ”ではありません」
「……見回りだ」
「それも休みではありません」
リーゼが俺を見る。
「助けろ」
「セリアが正しいです」
「裏切り者」
「治療補助者に逆らうと記録されます」
リーゼは不満そうに口を閉じた。
セリアは小さく笑い、それから机の上の記録へ目を落とした。
「ローゼン家の名前、やっぱり増えていますね」
「はい」
俺は腕輪の記録、呪印核の記録、北の祠の記録を並べた。
「構造が似ています。全部が同一人物の仕業とは限りませんが、同じ系統の術式です」
セリアが自分の胸元に手を当てる。
「私の封印も?」
「似ています。ただ、セリアの封印は神殿式の祈祷術式に偽装されています。リーゼさんの腕輪は武勲記章に偽装されていた。北の祠は結界腐食。呪印魔獣は魔物誘導」
リーゼが低く言う。
「使い道が違うだけで、根は同じか」
「たぶん」
「本人に自分が悪いと思わせる」
セリアの声だった。
静かな声だが、重い。
「私には失敗作だと思わせて、リーゼさんには臆病者だと思わせて、村には自分たちが衰えたと思わせた」
誰もすぐには答えなかった。
その通りだ。
リベル村の井戸が枯れたのも、結界が壊れたのも、村人たちは自分たちの管理不足や衰退だと思っていた。
セリアもリーゼも、自分自身を責めていた。
壊した側は、姿を見せない。
壊された側が、自分で自分を責める。
それがこの術式の一番悪質な部分だった。
「中枢室で、もう少し詳しく調べます」
俺は立ち上がった。
「腕輪と呪印核、北の祠の欠片を並べて比較すれば、工房が何か出すかもしれません」
「私も行く」
リーゼが言う。
セリアも頷いた。
「私も」
「二人とも無理は」
「私は腕輪の被害者だ」
リーゼがまっすぐ言った。
「見ておきたい」
「私も、自分の封印に関係するなら知りたいです」
セリアも引かなかった。
本人の意思を軽んじるな。
中枢室の心得が頭をよぎる。
「分かりました。ただし、途中で具合が悪くなったらすぐに止めます」
「分かった」
「はい」
二人の返事を確認して、俺たちは中枢室へ向かった。
中央の結晶柱の前に、三つの証拠を並べる。
一つ目は、リーゼの腕輪。
銀色だった表面は黒ずみ、割れた箇所から細い術式の残骸が見えている。
二つ目は、呪印魔獣の核片。
布越しでも嫌な魔力が残っている。
三つ目は、北の祠から回収した黒ずんだ結界石片。
村の結界を反転させていた外部呪印の欠片だ。
セリアについては、直接封印を暴くことはしない。
ただ、彼女の魔力を少しだけ中枢室へ流し、比較対象にする。
「始めます」
俺が修復針を結晶柱へ当てると、中枢室の光が三つの証拠を包んだ。
《証拠対象:三》
《術式照合開始》
《照合対象:腕輪型呪具/呪印核片/結界腐食片/聖女補佐封印痕》
セリアの肩が少し強張る。
「大丈夫ですか」
「はい。見ています」
光が黒い術式を浮かび上がらせる。
最初はそれぞれ違う形に見えた。
腕輪は円環。
呪印核は獣の額に刻まれた紋。
結界腐食片はひび割れた石の中へ染み込む線。
セリアの封印痕は、祈りの文様に似た鎖。
だが、奥の構造が重なった瞬間、同じ形が見えた。
中心に小さな黒い核。
そこから対象の才能や機能へ糸を伸ばし、正常な流れを歪める。
《術式基盤:一致率七十二%》
《分類検索中》
《該当:才能封鎖術式》
《指定:禁忌》
禁忌。
その文字が出た瞬間、中枢室の光が一段暗くなった。
リーゼが低く息を吐く。
「才能封鎖術式……」
セリアは胸元を押さえた。
「やっぱり、私のも」
「はい。ただし、完全一致ではありません。セリアの封印は神殿式に改造されています」
表示がさらに続く。
《才能封鎖術式》
《目的:対象の才能回路・役割機能・自己認識を歪める》
《効果:能力不全/恐怖増幅/自己否定誘導/外部依存形成》
《旧修復師連盟により禁忌指定》
《使用者は修復対象への重大侵害者と見なす》
外部依存形成。
嫌な言葉だった。
「能力を奪うだけじゃないんですね」
セリアが言う。
「相手に“自分は駄目だ”と思わせて、誰かに頼らないといけないようにする」
リーゼが腕輪を睨む。
「私なら騎士団や貴族の評価に、セリアなら神殿に、村なら王都や商会に依存させる」
「その可能性があります」
俺は認めた。
グランベル商会の契約書が、急に違う意味を持つ。
村を弱らせる。
結界を壊す。
魔物を呼ぶ。
井戸を枯らす。
そこへ支援と称して首輪を持ってくる。
もしこれが一連の流れだとしたら。
セリアが小さく震えた。
「そんなことを、誰かが意図して」
「まだ断定はできません」
俺は言った。
自分に言い聞かせるためでもあった。
「証拠は増えていますが、誰が、どこまで関わっているかは別です」
「だがローゼン家は関わっている」
リーゼの声は冷たい。
「腕輪に紋があった。マルクは反応した。商会は村の管理権を求めた」
「はい。可能性は高いです」
「可能性では足りない」
「だから、証拠を固めます」
リーゼは唇を噛んだ。
怒りが溢れそうなのを、必死に抑えている。
以前なら、その怒りで剣を抜いていたかもしれない。
今は踏みとどまっている。
セリアが静かに言った。
「リーゼさん、怒っていいと思います」
「……」
「でも、レオンさんの言う通り、証拠が必要です。私も、自分に何をされたのか知りたいです。でも、焦って動いたら、また向こうの言い分にされる気がします」
リーゼは目を閉じた。
「分かっている」
低い声。
「分かっているが、腹が立つ」
「はい」
「腹が立って、今すぐ王都へ行って、腕輪を投げつけてやりたい」
「私も、神殿に行って聞きたいです。どうして私に封印したのか。どうして失敗作だと言ったのか」
二人は向き合っていた。
壊された者同士。
怒りの形は違う。
けれど、同じ方向を向き始めている。
俺は中枢室の表示を確認する。
《推奨対応》
《一、証拠保全》
《二、被害者本人記録》
《三、術式比較記録》
《四、信頼可能な外部機関への段階的提出》
《五、拠点防衛強化》
まるで、こちらの方針を整理してくれているようだった。
「まず証拠を保全します」
俺は言った。
「腕輪、呪印核、結界腐食片。それぞれを個別に封印し、写しを取る。術式比較記録を作る」
「本人記録も、ですね」
セリアが言う。
「はい。リーゼさんも、自分の腕輪について書ける範囲で記録してください。無理に全部は書かなくていいです」
リーゼは頷いた。
「書く。王都へ戻る時、自分の言葉が必要になる」
「セリアも」
「はい。私も書きます」
その時、中枢室が新しい表示を出した。
《旧修復師連盟記録断片:開示可能》
《閲覧しますか》
旧修復師連盟。
俺はリーゼとセリアを見た。
「見ますか」
セリアは少し緊張しながら頷いた。
「見たいです」
リーゼも答える。
「見る」
「分かりました」
俺は結晶柱に手を当てた。
中枢室の光が変わる。
空間に、古い文字が浮かび上がった。
読み取れないはずの古代文字が、鑑定を通して意味に変わっていく。
《記録断片》
《才能封鎖術式は、対象の才を奪う術ではない》
《対象が己の才を恐れ、否定し、他者へ服従するよう歪める術である》
《ゆえに最も危険なのは、術そのものではなく、術後に与えられる言葉である》
《“お前のせいだ”》
《“お前には価値がない”》
《“我々に従えば救われる”》
《これらの言葉が術式を完成させる》
セリアの顔が青ざめた。
リーゼは剣の柄を強く握る。
俺も、喉が乾いた。
術式後に与えられる言葉が、術式を完成させる。
それは、ただの魔法ではない。
人間の悪意や制度や上下関係まで利用する仕組みだ。
神殿でセリアに投げられた言葉。
騎士団でリーゼに投げられた言葉。
リベル村が何年も浴びてきた諦めの空気。
それらも術式の一部だったのかもしれない。
記録は続く。
《修復手順》
《一、対象者に外部干渉の存在を認識させる》
《二、対象者本人の意思を確認する》
《三、恐怖・自己否定と才能回路の接続を分離する》
《四、本人の選択による再使用を促す》
《五、再破損を防ぐため、周囲の言葉と環境を整える》
今までやってきたことと一致している。
偶然ではない。
修復鑑定士の力は、このためにあるのかもしれない。
壊れた才能を、本人の意思と環境ごと直す。
「レオン」
リーゼが言った。
「お前は、この手順通りに私を直していたのか」
「知らずに、です」
「知らずに?」
「見えたものを、危険が少ないように辿っていただけです」
リーゼは少しだけ呆れたような顔をした。
「本当に妙な男だ」
セリアは静かに微笑む。
「でも、そのおかげで私たちは助かりました」
「まだ途中です」
俺が言うと、セリアは頷いた。
「はい。途中です」
途中。
それは大事な言葉だった。
直った、で終わらせない。
まだ恐怖もある。傷もある。怒りもある。
でも、途中なら進める。
記録の最後に、短い警告が表示された。
《注意》
《才能封鎖術式の使用者は、修復者を最優先で排除または囲い込もうとする》
《修復者は孤立してはならない》
俺は無意識に息を止めた。
孤立してはならない。
ラウル査察官の警告と重なる。
自分を安く扱うな。
自分の価値を守れ。
孤立するな。
セリアが俺を見る。
「レオンさん」
「はい」
「一人で抱えないでくださいね」
先に言われた。
リーゼも続ける。
「お前が修復者なら、真っ先に狙われるのはお前だ。なら、守られる側でもある」
「俺が?」
「当然だ」
リーゼはきっぱり言った。
「私は防衛役だ。村を守る。セリアは治療補助者だ。傷を癒やす。お前だけが守る側だと思うな」
その言葉は、少し痛かった。
でも、嫌な痛みではなかった。
「……分かりました」
「本当に?」
セリアが聞く。
「本当に」
「記録します」
「それ、最近強すぎませんか」
「必要です」
リーゼが小さく笑った。
中枢室を出ると、前室でトマが待っていた。
「長かったな。顔が全員怖いぞ」
「大事な記録が出ました」
俺が説明しようとすると、トマは手を上げた。
「詳しい話は飯を食いながらでいい。先生もセリアもリーゼも、難しい話をした後は食え」
「また飯か」
リーゼが言う。
「飯だ。村長も言ってる」
トマの後ろから、村長が顔を出した。
「言っておる」
「本当に言っていた」
リーゼが少し笑う。
緊張が解けたわけではない。
でも、こういう雑な温かさに救われる時がある。
昼食の後、村長の家で正式に方針をまとめた。
一つ、才能封鎖術式に関する記録を村内の最重要保管物とする。
二つ、腕輪、呪印核、結界腐食片を個別封印する。
三つ、セリアとリーゼの本人記録を継続する。
四つ、ラウル査察官とミリア監査員へ追加報告するかは、術式比較記録がまとまってから判断する。
五つ、グランベル商会との契約は当面保留。通常取引も慎重に行う。
ニコルが必死に書いている。
「これ、王都の書類より難しいです」
「村を守る書類だからな」
村長が言う。
「下手な剣より重いぞ」
トマが嫌そうな顔をする。
「また字が武器になる話か」
「そうじゃ」
「俺、弓だけじゃ駄目か?」
「駄目じゃ」
「村長まで厳しい」
セリアが笑った。
リーゼも少しだけ笑っている。
笑いながらも、皆が理解していた。
戦いは、魔物相手だけではない。
契約書。
記録。
証拠。
本人の意思。
それらも、これからのリベル村に必要な武器になる。
夕方、セリアは治療所で自分の記録を書いた。
『今日、私の封印が才能封鎖術式と似ていると分かりました。
怖かったです。
でも、私が悪かっただけではないかもしれないと、少し思えました。
神殿を恨む気持ちもあります。
それでも今は、ここで治療を続けたいです。
私の力は、私のものです。』
リーゼも記録を書いた。
『腕輪は才能封鎖術式の一種だった。
私の恐怖は、私だけの弱さではなかった。
だが、私の後悔まで消えたわけではない。
私は剣を取り戻す。
誰かに許されるためではなく、私が守りたいものを守るために。』
俺も個人記録を書く。
『才能封鎖術式、禁忌指定。
対象者の能力だけでなく、自己認識を歪める術式。
術後の言葉が術式を完成させる。
修復者は孤立してはならない、と記録にあり。
俺は一人で抱えない。
抱えないと記録した。』
最後の一文が少し不格好で、自分で苦笑した。
でも、消さなかった。
不格好でも、残すことに意味がある。
夜。
水車の音を聞きながら、俺は広場に出た。
セリアが井戸のそばにいる。
リーゼは少し離れた場所で、剣を抜かずに星を見ている。
トマは弓の弦を調整し、ニコルは今日の記録を乾かしている。
村長が隣に立った。
「重いものが見つかったようじゃな」
「はい」
「だが、見つからぬよりよい」
「そうですね」
「壊れた原因が見えれば、直し方も見える」
村長は井戸を見た。
「この村もそうだった」
俺は頷いた。
才能封鎖術式。
それは人を壊す術式だ。
けれど、壊されたものは直せる。
完全に元通りでなくても、違う形で立ち上がれる。
リベル村がそうであるように。
セリアがそうであるように。
リーゼがそうであるように。
そして、俺自身も。
遠く王都では、きっと次の手が動いている。
グランベル商会も、ローゼン侯爵家も、こちらを放っておかないだろう。
だが今は、知った。
敵の術式の名を。
その悪意の形を。
そして、修復者が孤立してはいけないことを。
それだけで、昨日よりは強くなっている。




