第26話 勝利の朝と、王都への証拠
翌朝、リベル村は静かだった。
勝利の歓声はない。
酒盛りもない。
ただ、村人たちはいつもより少し早く起き、壊れた木柵を直し、井戸の水を確かめ、治療所に顔を出していた。
魔物の群れを退けた。
その事実は大きい。
けれど、村に残ったのは派手な達成感よりも、もっと地に足のついた実感だった。
今日も井戸が使える。
今日も水車を直せる。
今日も怪我人の手当てができる。
それが、何より大事だった。
「南門の補強木、二本交換だな」
トマが壊れた木柵を叩きながら言った。
「黒牙猪が直撃していたら、もっとひどかったでしょう」
「リーゼが逸らしたからな」
トマは治療所の方を見る。
「あいつ、寝てるか?」
「寝ているはずです」
「はず、ねえ」
「セリアが見張っていますから」
「じゃあ大丈夫だ」
信用の方向が独特だった。
俺は南門の破損箇所を鑑定する。
《南門補強部》
《状態:一部破損》
《修復可能》
《推奨:横支柱交換/結界線再同期》
「支柱を交換したあと、結界線を少し調整します」
「今日やるのか?」
「午前は記録と報告書を優先します。木柵は応急補強だけ」
「珍しいな。先生が修理を後回しにするとは」
「王都へ送る報告が遅れる方が危険です」
トマは顔をしかめた。
「魔物より書類が怖いってのも、嫌な話だな」
「時々、そうです」
「王都ってやつは面倒だ」
トマは吐き捨てるように言い、それでも木材を取りに行った。
村長の家では、朝から報告書作りが始まっていた。
机の上には、ニコルの戦闘記録、俺の鑑定記録、トマの弓隊記録、セリアの治療記録が並べられている。さらに、厳重に布で包んだ呪印核の欠片を入れた木箱も置かれていた。
ニコルは筆を持ったまま、緊張で固まっている。
「題名はどうしますか」
「簡潔にしましょう」
俺は羊皮紙の上部を指さした。
「リベル村周辺における魔物群襲撃および人為的誘導術式の可能性について」
「長いですね」
「王都向けなので」
「王都って長い題名が好きなんですか?」
「たぶん、曖昧だと突かれるからです」
村長がうむ、と頷いた。
「寄合の議事録も似たようなものじゃ。後から揉めぬよう、先に書いておく」
ニコルは深刻な顔で題名を書き始めた。
セリアは治療所から記録板を持ってきた。
昨夜の怪我人の状態が丁寧にまとめられている。
「命に関わる怪我人はなし。切り傷三名、打撲五名、魔力疲労二名。浄化水使用量は瓶三本です」
「魔力疲労二名?」
俺が聞くと、セリアは少し視線を逸らした。
「私とリーゼさんです」
「自分もちゃんと記録したんですね」
「はい。必要なので」
成長したな、と言いかけて、少し違うと思った。
彼女は子供ではない。
ただ、自分の状態を記録する術を得ただけだ。
「とても大事な記録です」
そう言うと、セリアは少しだけ嬉しそうに頷いた。
村長が木箱を見た。
「呪印核の欠片は、王都へ送るのか」
「写しと一部だけです」
俺は答えた。
「全部送るのは危険です。途中で紛失したり、握り潰されたりする可能性があります。小片を一つだけ封印して、残りは村で保管しましょう」
「腕輪と同じ棚か」
「はい。地下工房の証拠保管棚へ」
セリアが少し不安そうに言う。
「ローゼン家の名前は、本当に書かないんですね」
「今は書きません」
「でも、リーゼさんの腕輪には」
「分かっています」
俺は息を整えた。
「ただ、今の段階で侯爵家の名前を出せば、こちらが先に潰される可能性があります。まずは“人為的な術式がある”という事実を防衛局とギルドに認めさせる。相手の名を出すのは、その後です」
村長が深く頷いた。
「急がば回れ、じゃな」
「はい」
ニコルが筆を止める。
「“人為的な魔物誘導術式を確認”って、断定していいんですか?」
「確認でいいです」
俺は呪印核の欠片を見る。
「鑑定結果、結界への影響、魔物群の不自然な行動。証拠は揃っています。ただし、“誰が”はまだ書かない」
「なるほど」
ニコルは慎重に書き込んだ。
『リベル村周辺において、人為的な魔物誘導術式と思われる呪印核を確認。
当該呪印核は魔物群の統率および外周結界への負荷増幅に関与した可能性が高い。』
少し硬いが、王都向けにはこれくらいでいい。
その時、治療所の方から声がした。
「起きたぞ」
トマの声だった。
リーゼが起きたらしい。
セリアはすぐに立ち上がった。
「見てきます」
「俺も行きます」
治療所へ行くと、リーゼは寝台の上で上体を起こしていた。
顔色は悪くない。
ただ、右手首を見つめている。
腕輪の痕が、白い線となって残っていた。
「痛みますか」
セリアが尋ねる。
「少し」
「剣技回路の方は?」
俺が聞くと、リーゼは剣の柄に軽く触れた。
震えはある。
だが昨夜の戦闘後の過負荷は、少し落ち着いている。
《リーゼ・ヴァルト》
《魔力疲労:軽度》
《右手首負荷:回復傾向》
《剣技回路:安定中》
《精神反応:思考過多》
思考過多。
まあ、そうだろう。
「考え事ですか」
俺が言うと、リーゼは少しだけ眉を上げた。
「そこまで見えるのか」
「表示されました」
「嫌な鑑定だ」
「時々そう思います」
リーゼは窓の外を見た。
村人たちが南門の修理をしている。トマが木材を運び、ニコルが記録板を抱えて走り、子供たちは少し離れた場所で邪魔にならないよう見ている。
「この村は、動くのが早いな」
「止まっている余裕がないだけかもしれません」
「それでも動けるのは強い」
リーゼの声は静かだった。
セリアが水を差し出す。
「飲んでください」
「ありがとう」
リーゼは素直に受け取った。
これも、数日前なら考えられない変化だ。
「報告書に、昨日のことを書くのか」
「はい」
「私の名前も?」
「必要な範囲で。出したくなければ、役割だけにできます」
リーゼは少し黙った。
「いや、書け」
「いいんですか」
「ああ」
彼女は右手首の痕を見た。
「私は、もう隠れているだけでは嫌だ。だが、ローゼン家の名はまだ出すな」
「分かっています」
「私の腕輪のことも?」
「腕輪はまだ村で保管します。報告書には、今回の呪印魔獣と魔物誘導術式のことを中心に書きます」
「そうか」
リーゼは少し安心したようだった。
それから、窓の外へ視線を戻す。
「レオン」
「はい」
「私は王都へ戻るべきだと思うか」
セリアが驚いた顔をする。
俺もすぐには答えられなかった。
リーゼは続ける。
「騎士団に戻りたいのか、と聞かれれば、まだ分からない。名誉を取り戻したい気持ちもある。ユリウスに謝りたい気持ちもある。隊長に、私は剣を抜けたと伝えたい気持ちもある」
彼女の声は淡々としていた。
けれど、その奥に揺れがある。
「だが、王都に戻ればローゼン家がいる。騎士団も、私を臆病者として覚えている。私はまた、あの広間に立てるのか分からない」
セリアが静かに言った。
「戻らない選択も、逃げではないと思います」
リーゼが彼女を見る。
「君は、神殿に戻らないと決めたんだったな」
「はい。今は」
「怖くないのか」
「怖いです」
セリアは正直に答えた。
「でも、ここで自分の力を学び直したいです。神殿に戻るかどうかは、その後で自分で決めたい」
「自分で決める、か」
リーゼは小さく笑った。
「この村では、そればかり言われるな」
「大事なので」
セリアが言う。
リーゼは少しだけ目を伏せた。
「私は、今まで自分で決めていたつもりだった。剣を握ることも、騎士になることも、辞めることも。でも、腕輪のせいで恐怖を増やされ、周りの声に追い詰められ、気づけば自分の選択なのか分からなくなっていた」
その言葉は重かった。
きっと、誰にでも起こり得ることだ。
自分で選んでいると思いながら、誰かの声に選ばされている。
誰かの都合で壊され、自分のせいだと思い込まされる。
「リーゼさん」
俺は言った。
「今すぐ決めなくてもいいと思います」
「またそれか」
「はい。直すのと同じです。急に答えを出すと、後で歪みます」
「私は本当に水車扱いだな」
「大事な水車です」
セリアが真顔で続けた。
リーゼは少し吹き出した。
「それを言われると、もう怒る気も失せる」
「便利な言葉ですね」
「便利すぎる」
少しだけ空気が軽くなった。
リーゼはしばらく黙り、やがて言った。
「なら、今日一日は考える」
「はい」
「報告書には、私が自分の意思でリベル村に滞在中と書いてくれ」
「分かりました」
「騎士団へは、まだ連絡しない」
「それも記録します」
リーゼは頷いた。
「私も、記録を書く」
セリアの顔が明るくなる。
「はい。本人記録ですね」
「何を書けばいい」
「自分で選んだことと、今の気持ちです」
「難しいな」
「最初は難しいです」
セリアは少し笑った。
「でも、書くと少しだけ自分の声が見えます」
リーゼはその言葉を聞いて、しばらく考えていた。
午後、リーゼは短い本人記録を書いた。
『私はリーゼ・ヴァルト。
今日、王都へすぐ戻らないことを自分で選んだ。
剣は抜けた。だが、王都へ戻る勇気はまだない。
リベル村で、剣を握る感覚を取り戻したい。
腕輪のことは、私の意思なく外へ出さないでほしい。』
文字は意外と整っていた。
騎士団で報告書を書いていたからだろう。
セリアはその記録を見て、丁寧に頷いた。
「いい記録です」
リーゼは少し眉を寄せる。
「君はレオンと同じことを言う」
「いい記録だったので」
「……そうか」
照れているのが分かったので、誰もそれ以上言わなかった。
村長の家では、王都へ送る報告書が完成しつつあった。
宛先はラウル査察官と冒険者ギルドのミリア監査員。
正式報告として防衛局へも届くが、まず信頼できる二人へ写しを送る形にする。
報告書の最後に、俺は一文を加えた。
『リベル村周辺において、人為的な魔物誘導術式を確認。今後、同様の呪印を持つ魔物が出現する可能性あり。辺境防衛上、早急な調査が必要と判断する。』
村長がそれを読んで、静かに頷いた。
「よい」
「強すぎませんか」
「弱すぎれば握り潰される。強すぎれば敵を作る。これは、その中間じゃ」
トマが横から覗く。
「俺には全部難しい」
「トマさんの記録も添付します」
「俺の字が王都に行くのか」
「はい」
「……もうちょい綺麗に書き直す」
そう言って慌てて記録板を取りに行く姿に、皆が少し笑った。
夕方、商人に報告書の写しを託す準備をした。
正式な伝令は村から出せない。そこで、王都へ戻る商人にギルド経由で届けてもらう。もちろん、重要な証拠の小片は別の封印箱に入れ、村長印と俺の印、さらにニコルの記録印を重ねて封じた。
商人は木箱を受け取り、真顔になった。
「これは、ただの商売荷じゃなさそうだな」
「危険なものです。ギルドのミリア監査員に直接渡してください」
「分かった。寄り道せずに行く」
「報酬は」
「後でいい」
「そういうわけには」
「この村が潰れたら、俺の商売場所が減る。投資だと言ったろ」
商人はにやりと笑った。
「ただし、次に来た時は水車粉のパンを食わせてくれ」
村長が頷いた。
「約束しよう」
商人の荷馬車が村を出ていく。
その背中を見送りながら、リーゼがぽつりと言った。
「証拠が王都へ行く」
「はい」
「怖いな」
「はい」
「だが、何も出さないよりはいい」
「そう思います」
リーゼは右手首の痕に触れた。
「私は、いつか自分で腕輪のことを話す」
「はい」
「だが、今はまだここで剣を振る」
「それでいいと思います」
セリアが隣で頷いた。
「私も、ここで治療を続けます」
リーゼはセリアを見て、少し笑った。
「では、私はここで剣を振る。君はここで治療をする。レオンはここで壊れたものを見る」
「トマさんは字を書きます」
セリアが付け加えた。
ちょうど近くを通りかかったトマが顔をしかめる。
「俺だけ地味じゃねえか」
「弓も撃ちます」
「ならよし」
そのやり取りに、リーゼが小さく笑った。
王都で傷つき、剣を奪われた彼女が、リベル村で笑っている。
それは、まだ小さな変化だ。
けれど、確かな変化だった。
夜、村長の家で小さな食事が用意された。
勝利祝いというほどではない。
豆の煮込みに、少しだけ干し肉が多く入っているくらいだ。
それでも村人たちは喜んだ。
「昨日は怖かったな」
「黒牙猪が門に来た時、もう駄目かと思った」
「リーゼさんの剣、光ってたぞ」
「セリア先生の結界もすごかった」
「先生の声、ずっと聞こえてた」
それぞれが口々に話す。
セリアは「先生ではありません」と何度も言い、リーゼは剣の話をされるたびに少し居心地悪そうにし、トマは自分の矢が呪印核に当たったことを何度も聞かれて照れていた。
俺はその光景を見ながら、木椀の水を飲んだ。
井戸の水は澄んでいる。
この水を守れた。
それだけで、昨日の戦いには意味があった。
食事の後、リーゼが俺のところへ来た。
「レオン」
「はい」
「私は、しばらくこの村に残る」
その声は落ち着いていた。
朝の迷いは、完全に消えたわけではない。
でも、今日の結論としては十分だった。
「分かりました」
「迷惑か」
「まさか」
「私は戦える。だが、まだ完全ではない。役に立つか分からない」
「役に立つかどうかで、ここにいていいかを決める必要はありません」
リーゼは一瞬黙った。
「そう言われると、かえって困る」
「俺も最近、同じようなことで困っています」
「なら、お互い様か」
「はい」
リーゼは右手首の痕を見た。
「私は、この村で剣を振る。まずは、この村を守れる程度に戻す」
「十分です」
「それと、いつか王都へ戻る。その時は、逃げた騎士としてではなく、壊されても戻った剣士として戻る」
言葉に、少しだけ力があった。
「その時は、記録を持って行きましょう」
「記録か」
「証拠にもなりますし、自分が進んできた道にもなります」
リーゼは苦笑した。
「この村では何でも記録だな」
「王都より記録が似合う村になりそうです」
「変な村だ」
「はい」
今度は二人とも笑った。
その夜、地下工房の中枢室に新しい表示が浮かんだ。
《防衛剣士候補:リーゼ・ヴァルト》
《登録条件:本人意思確認/村長承認/基礎同期》
俺はその表示を見て、少し驚いた。
聖女補佐に続いて、防衛剣士。
工房は、リーゼを村の防衛機能の一部として認識し始めている。
ただ、すぐに登録はしない。
本人の意思が必要だ。
明日にでも、リーゼに聞くことになるだろう。
俺は個人記録に書いた。
『リーゼ、自分の意思でリベル村滞在を選択。
王都への即時帰還は希望せず。
剣技回復を続ける。
呪印魔獣の報告書を王都へ送付。
人為的な魔物誘導術式を確認、と記載。
リベル村は、ただ守られる村ではなくなりつつある。』
最後に、少し迷ってから加えた。
『捨てられた者、壊された者が集まり始めている。
ここが、その人たちの戻る場所になるなら――俺はそれを守りたい。』
筆を置く。
外では水車が再び回り始めていた。
ぎし、ぎし、と。
雨上がりより、昨日より、少しだけ力強く。
リベル村は今日も、昨日よりましになっている。




