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第25話 誘導された魔獣

 森の奥から現れた魔獣は、静かだった。


 灰角魔狼のように唸らない。

 黒牙猪のように突進しない。

 小型飛行魔のように甲高く鳴きもしない。


 痩せた鹿のような体をしているのに、脚の先には獣の爪があり、首は不自然に長い。額には黒い呪印が刻まれていた。雨に濡れた墨のような紋様が、脈打つたびに周囲の魔物たちがざわつく。


 あれが群れを動かしている。


 見た瞬間に、そう分かった。


《呪印魔獣》

《機能:魔物群誘導/結界負荷増幅》

《弱点:額呪印核》

《外部術式:才能封鎖術式と同系統》

《危険度:高》


 才能封鎖術式と同系統。


 その表示を見た瞬間、右手に力が入った。


 リーゼの腕輪。

 セリアの封印。

 北の祠を壊した呪印。


 同じ匂いがする。


 人や村が自分で崩れていくように仕向ける、あの嫌な術式だ。


「レオン」


 リーゼが低く呼んだ。


「怒るな」


 意外な言葉だった。


 俺が振り向くと、彼女は森の魔獣を見たまま言った。


「今のお前は、顔に出ている」


「……すみません」


「謝るな。怒る理由はある。だが、怒りで見誤るな」


 その言葉は、彼女自身にも向けているようだった。


 俺は息を吸い直す。


 今は怒る時ではない。

 見る時だ。


「額の呪印が核です。あれを断てば、魔物群の誘導は止まるはずです」


「斬ればいいのか」


「はい。ただし、近づくと周囲の魔物が守りに入ります。結界への負荷も上がっています」


 呪印魔獣が一歩進む。


 その瞬間、外周結界がぎし、と音を立てた。


 見えない壁が押し込まれるように歪む。


《外周結界第一層:負荷上昇》

《結界負荷増幅:発生》

《南門付近:危険》


「南門、補強! 黒牙猪がまた来ます!」


 俺が叫ぶと、トマが即座に声を張った。


「南門だ! 猪を門に寄せるな!」


 負傷した黒牙猪が、呪印魔獣に操られるように再び立ち上がる。脚に矢が刺さったままなのに、痛みを無視して進んでくる。


「嫌な動きだな」


 リーゼが剣を構える。


「痛みを消されているんです。止めるには脚か目を潰すしかない」


「なら脚を止める」


「無理に斬り込まないでください。リーゼさんはまだ――」


「分かっている」


 彼女は俺の言葉を最後まで聞かずに言った。

 だが、怒っているわけではない。


「私はもう、自分の状態を無視して突っ込まない」


 それを聞いて、少しだけ安心した。


 リーゼは門の内側で構えたまま、黒牙猪の突進を待つ。

 前へ出すぎない。

 剣を大きく振りかぶらない。


 必要なところにだけ刃を置く。


 黒牙猪が門へ迫る。


「今!」


 トマの矢が猪の鼻先へ飛ぶ。

 猪がわずかに頭を振る。


 リーゼの剣が、低く走った。


 脚の腱を深く斬るのではなく、前脚の踏み込みを崩す一撃。猪の巨体がぐらりと傾き、門から逸れて横へ滑る。


 だが、その瞬間、リーゼの手首が震えた。


《右手首負荷:中》

《剣技回路:過負荷接近》


「リーゼさん、次は下がって!」


「っ……分かっている!」


 彼女は追撃を諦め、門の内側へ戻る。


 それでいい。


 今の彼女に必要なのは、勝ち急がないことだ。


 上空では飛行魔が再び井戸を狙っている。

 小さな黒い影が、煙の薄いところを探しながら旋回する。


「煙を切らすな!」


 トマが叫ぶ。


「井戸班、布をかぶせて!」


 村の女性たちが井戸の周囲へ走り、濡れた布を井戸の上へかける。完全に塞ぐのではなく、毒爪や異物を防ぐためだ。


 セリアは治療所の前で息を整えていた。


 第二層を一度使った疲れが残っている。

 顔色は少し悪い。


 だが、目は逸らしていない。


「セリア、まだ第二層は使わないでください。次は呪印核を狙う時です」


「はい」


「大丈夫ですか」


「怖いです。でも、大丈夫です」


 その返事は、以前の「大丈夫です」とは違った。


 無理を隠す言葉ではない。

 怖さを認めた上で立つ言葉だ。


 呪印魔獣が、ゆっくり首を上げた。


 額の呪印が黒く光る。


 周囲の魔狼たちが一斉に低く唸った。


《呪印核:活性》

《魔物群:再突撃準備》

《結界負荷増幅:上昇》


「来ます! 全方向、構えて!」


 灰角魔狼が左右から走る。

 黒牙猪が南門へ再突進する。

 飛行魔が煙の切れ目を突く。


 同時攻撃。


 ただの魔物では、こんなタイミングで来ない。


 村人たちの顔に緊張が走る。

 だが誰も逃げ出さない。


 トマが弓を掲げた。


「先生の声を聞け! 勝手に撃つな!」


 俺は戦場を見る。


 南門の黒牙猪。

 西側の魔狼。

 井戸上空の飛行魔。

 そして奥の呪印魔獣。


 全部を同時に倒す必要はない。

 核を断てば崩れる。


 ただ、そのためには道を作る必要がある。


「トマさん、西側の魔狼を一体だけ止めてください! 全部相手にしない!」


「一体だけだな!」


「はい! セリア、第二層の準備。リーゼさん、俺の合図まで待ってください」


「待つ」


 リーゼが短く答える。


 小さな変化だ。

 けれど、今の彼女が「待つ」と言えることが何より大きい。


 黒牙猪が門にぶつかる。


 第一層が揺れる。


 南門の補強木が悲鳴を上げる。


「まだです!」


 魔狼が西側の結界に噛みつく。


 飛行魔が井戸へ落ちるように降下する。


「まだ!」


 呪印魔獣が首を伸ばし、額の紋様をさらに光らせた。


 その瞬間、魔物たちの動きが一拍揃う。


 術式の流れが見えた。


 呪印魔獣から、黒い糸が周囲の魔物へ伸びている。


 今だ。


「セリア、第二層!」


「はい!」


 白い光が村の内側に広がる。


 井戸、治療所、水車、外周結界。

 それらを繋ぐ線が一瞬だけ強くなる。


《防衛結界第二層:一時起動》

《味方支援:発動》

《敵性呪印干渉:低下》


 魔物の動きが鈍った。


 黒い糸が揺らぐ。


「トマさん、井戸上空!」


「撃て!」


 弓隊の矢が飛ぶ。


 第二層の支援で軌道が安定し、飛行魔の翼を射抜く。二体が落ち、残りは煙の中へ逃げた。


「リーゼさん、今です! 西側の魔狼の間を抜けて、呪印魔獣へ!」


「分かった!」


 リーゼが走った。


 まだ全力ではない。

 右手首への負荷を抑えた、短い踏み込み。


 それでも速い。


 西側でトマが魔狼の一体を矢で牽制する。

 村人たちが残りの魔狼を足止めする。


 リーゼの進む道が、わずかに開いた。


 呪印魔獣がそれに気づき、首を振る。


 魔狼が一体、リーゼへ飛びかかる。


「右から!」


 俺が叫ぶ。


 リーゼは剣を大きく振らない。

 半歩下がり、魔狼の爪を避け、首筋ではなく前脚を軽く切る。


 魔狼が体勢を崩す。


 追撃しない。


 前へ。


 呪印魔獣まで、あと十歩。


《リーゼ・ヴァルト》

《右手首負荷:中》

《精神反応:安定》

《流星剣発動可能:低出力》


「低出力でいい! 額の呪印だけ狙ってください!」


 リーゼが一瞬こちらを見る。


「細かい注文だな!」


「大技は禁止です!」


「分かっている!」


 言い返す声に、少しだけ笑いが混じっていた。


 呪印魔獣が口を開いた。


 声にならない黒い波が、リーゼへ向かう。


《精神干渉波》

《効果:恐怖記憶誘発》


 まずい。


「セリア!」


「包みます!」


 セリアの白い光が、第二層を通じてリーゼの周囲へ薄く届く。


 黒い波が彼女に触れる直前、白い光がそれを弱めた。


 それでも完全には消えない。


 リーゼの足が一瞬止まる。


「……広間」


 彼女が呟く。


「拍手。腕輪。ユリウス」


「今はここです!」


 セリアの声が飛ぶ。


「リベル村です!」


 リーゼの目が揺れる。


 呪印魔獣の額が黒く輝く。


『臆病者』


 声がした。


 腕輪の奥から聞こえたものと同じ系統の声だ。

 今度は空気そのものに染み出すように響いた。


『剣を握れば、また誰かが傷つく』


 リーゼの右手が震える。


 俺は叫んだ。


「その声は術式です!」


 リーゼの目がこちらへ向く。


「あなたの声じゃない!」


 セリアも叫ぶ。


「リーゼさん、あなたはもう選べます!」


 トマが弓を構えながら怒鳴った。


「剣を握るかどうかは、お前が決めるんだろ!」


 リーゼの呼吸が変わった。


 震えはある。

 恐怖もある。


 それでも、彼女は剣を構え直した。


「そうだ」


 低い声。


「私は、もうお前の声では止まらない」


 呪印魔獣が飛びかかる。


 痩せた鹿の体からは想像できない速度だった。爪がリーゼの肩を狙う。


「左へ!」


 俺の声より早く、リーゼは動いた。


 左へ半歩。


 爪が外套を裂く。


 リーゼの剣が、低く弧を描く。


 星の光が、ほんの細く刀身に宿った。


《流星剣:低出力発現》


 完全な流星剣ではない。

 だが、それでいい。


 今必要なのは、魔獣を両断する大技ではない。


 額の呪印核だけを断つ、精密な一撃。


「そこです!」


 俺が叫ぶ。


 リーゼの剣先が、呪印魔獣の額をかすめる。


 黒い紋様の中心に、細い光が走った。


 ぱき、と音がした。


 呪印核に亀裂が入る。


 魔獣が絶叫した。


 同時に、周囲の魔物たちの動きが乱れる。


《呪印核:破損》

《魔物群誘導:低下》

《結界負荷増幅:停止》


「もう一撃!」


 トマが叫ぶ。


 リーゼは踏み込もうとした。

 だが右手首に強い負荷が走る。


《右手首負荷:高》

《継続危険》


「リーゼさん、下がって!」


「だが!」


「壊れます!」


 その言葉で、彼女は止まった。


 悔しげに歯を食いしばる。


 その代わり、セリアが動いた。


「私が!」


 白い光が第二層を通じて、亀裂の入った呪印核へ届く。


 黒い紋様がじゅっと音を立てるように薄れる。


 呪印魔獣が暴れる。


「セリア、押し込みすぎない!」


「はい!」


「トマさん、矢を! 亀裂の中央!」


「任せろ!」


 トマが矢をつがえる。


 第二層の光が弓隊を支える。

 風が一瞬止まったように見えた。


 トマの矢が飛ぶ。


 真っ直ぐ。


 呪印核の亀裂へ突き刺さった。


 黒い光が弾ける。


 呪印魔獣の額の紋様が砕けた。


 魔獣は糸が切れたように膝を折り、地面へ倒れ込む。


 同時に、周囲の魔物たちが混乱した。


 魔狼は互いに距離を取り、黒牙猪は鼻を鳴らして後退する。飛行魔は煙を避けて森へ逃げていく。


 操る力が消えたのだ。


「追うな!」


 俺は叫んだ。


「森へ入らないでください! 結界内を守って!」


 トマがすぐに繰り返す。


「追うな! 村から出るな!」


 村人たちは踏みとどまった。


 以前なら、勝てそうだと思った者が飛び出していたかもしれない。

 だが今は違う。


 守るための戦いだと、皆が理解している。


 セリアが膝をついた。


「セリア!」


 俺が駆け寄ると、彼女は片手を上げた。


「大丈夫です。今度は、本当に……少し疲れただけです」


「その言葉は信用しないことにしています」


「今日は信用してください」


 顔色は悪いが、魔力の乱れは少ない。


《セリア・ルミナス》

《魔力疲労:中》

《暴走兆候:なし》

《聖女補佐同期:安定》


 本当に、以前より安定している。


 それでも休ませる必要はある。


 リーゼも戻ってきた。


 右手首を押さえている。


「リーゼさん」


「分かっている。休む」


 先に言われた。


 彼女は悔しそうだったが、無理に剣を構え続けようとはしない。


「最後、斬りきれなかった」


「でも核に亀裂を入れました」


「トマに持っていかれたな」


 トマが弓を肩にかけて笑う。


「たまには俺にも見せ場をくれ」


「見事だった」


 リーゼが素直に言った。


 トマは一瞬固まった。


「……お、おう」


「照れているのか」


「照れてねえよ」


「顔が赤いぞ」


「戦闘後だからだ」


 そのやり取りで、緊張が少し緩んだ。


 だが、完全に終わったわけではない。


 呪印魔獣の死骸が、結界の外に残っている。

 額の呪印核は砕けたが、欠片は回収する必要がある。


 証拠だ。


 そして、危険物でもある。


「呪印核の欠片を回収します。直接触らないでください」


 俺が言うと、村長がすぐに指示を出す。


「布、木箱、長い火ばさみを用意せよ」


 ニコルは震える手で記録板に書いていた。


「呪印魔獣、額の核、リーゼさんが亀裂、セリアさんが浄化、トマさんが矢……」


「ニコル、日付も」


「はい!」


 ニコルの声は震えていたが、逃げていない。


 記録係として、彼も戦っている。


 俺は村の外へ出る前に、リーゼとセリアを見た。


「二人は治療所へ」


「私はまだ」


「休むと言いました」


 リーゼは言葉に詰まる。


 セリアも何か言いかけたが、俺が先に言った。


「セリアもです。魔力疲労があります」


「……はい」


「二人とも、今日の勝因です。だからこそ休んでください」


 リーゼは少し目を見開いた。


「勝因、か」


「はい」


 セリアも小さく頷く。


「では、休みます」


「いい返事です」


「レオンさんも、回収が終わったら休んでください」


「はい」


 即答したら、セリアにじっと見られた。


「本当に?」


「本当に」


「記録しますよ」


「最近それが一番怖いです」


 セリアは少し笑った。


 呪印魔獣の死骸のそばへ行くと、嫌な魔力の残り香がした。


 額の呪印は砕けている。

 だが、欠片にはまだ黒い光が残っていた。


《呪印核欠片》

《機能停止》

《術式残滓:あり》

《系統:才能封鎖術式類似》

《証拠価値:高》


 証拠価値、高。


 やはりだ。


 俺は慎重に欠片を布で包み、木箱へ入れた。


 リーゼの腕輪。

 北の祠の呪印片。

 そして、この呪印核。


 少しずつ、証拠が集まっている。


 村へ戻る頃には、魔物の群れは森の奥へ散っていた。


 完全勝利とは言えない。

 でも、村は守られた。


 井戸は無事。

 水車も無事。

 木柵の一部は壊れたが、修理できる範囲だ。

 怪我人は数人いるが、命に関わる者はいない。


 治療所では、セリアが休むと言ったはずなのに、座ったまま怪我人の指示をしていた。


「セリア」


 俺が呼ぶと、彼女は少し気まずそうな顔をした。


「座っています」


「働いています」


「座って働いています」


「それは休みではありません」


 周囲の村人たちが笑う。


 リーゼが寝台の上から言った。


「レオン、お前が言うと説得力がない」


「今日は俺も休みます」


「記録しておけ、セリア」


「はい」


「本当に記録しないでください」


 治療所に笑いが広がった。


 戦闘後なのに、笑える。

 それだけで、この村は強くなったのだと思った。


 夜。


 村長の家で戦闘記録を整理した。


 ニコルの記録はところどころ字が跳ねていたが、十分読める。

 トマの弓隊記録、セリアの治療記録、俺の鑑定記録。

 そして呪印核の欠片。


 村長はそれらを見て、低く言った。


「これは王都へ出すべき証拠だな」


「はい。ただし、相手を選ぶ必要があります」


「ラウル査察官か」


「彼が一番可能性があります。ミリア監査員にも写しを送るべきかもしれません」


 リーゼは寝台から起き上がりかけ、セリアに止められたので、治療所から声だけ参加している。


「ローゼン家の名は、まだ出すな」


「なぜですか」


「証拠があっても、向こうは貴族だ。こちらが先に名指しすれば、揉み消すか、逆にこちらを訴える」


「リーゼさんの言う通りです」


 俺は頷いた。


「まずは“人為的な魔物誘導術式を確認”という形で報告します。術式の系統、呪印核、村の被害。それを出す」


「腕輪は?」


 村長が問う。


「まだ村で保管します。リーゼさんの意思確認も必要です」


 治療所の方から、リーゼの声がした。


「出す時は、私が決める」


「はい」


 その返事に、彼女は少しだけ黙った。


「……助かる」


 小さな声だった。


 だが、ちゃんと聞こえた。


 村長は頷いた。


「では、報告書を作ろう。ニコル、書けるか」


「書きます」


 ニコルは震えながらも、しっかり頷いた。


「今日のことは、ちゃんと残します」


 俺は個人記録にも書いた。


『呪印魔獣を撃破。

リーゼの低出力流星剣で呪印核に亀裂。

セリアの第二層結界補助と浄化で核を弱体化。

トマの矢で核を破壊。

村人たち、追撃せず防衛を維持。

井戸無事。水車無事。木柵一部破損。

呪印核欠片を証拠として保管。

リベル村は守られた。』


 最後に、もう一文。


『今日は、俺一人では絶対に守れなかった。』


 それは敗北感ではなかった。


 むしろ、安心に近い。


 背負うものを分けられる。

 頼れる人がいる。

 守る村が、自分で立ち始めている。


 水車の音は、今夜は止まっている。

 戦闘後の点検のためだ。


 代わりに、井戸の水音が静かに聞こえた。


 リベル村は、今夜も生きている。

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