第23話 戻り始めた剣と、森のざわめき
翌朝、リーゼは治療所の前で剣を抜いた。
誰に見せるためでもない。
村人たちが集まる前の、まだ空気が冷たい時間だった。
井戸の水面には朝の光が細く差し、水車は止まっている。木柵の向こうでは、森が薄い霧をまとっていた。
リーゼは右手で柄を握る。
震えはある。
けれど昨日とは違った。
腕輪があった時の、骨の奥から凍るような震えではない。長く使っていなかった筋肉が、動き方を思い出せずに戸惑っているような震えだった。
「本当に、今日は軽くだけです」
セリアが少し離れたところで言った。
「分かっている」
「昨日もそう言って、もう一度振ろうとしました」
「今日はしない」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんは禁止です」
リーゼは渋い顔をした。
「君は私の上官か」
「治療補助者です」
「その肩書きは、思ったより強いな」
セリアは真面目に頷いた。
「怪我人には強いです」
リーゼは小さく笑った。
俺は彼女の姿勢を鑑定しながら、無理の出そうな箇所を確認する。
《リーゼ・ヴァルト》
《剣技回路:再通率七十四%》
《右手首:負荷注意》
《肩部緊張:軽度》
《精神反応:恐怖あり/意思安定》
「肩の力を少し抜いてください。右手首で振ろうとせず、腰から流す感じで」
「鑑定士が剣を語るのは妙だな」
「俺もそう思います」
「だが、合っているのが腹立たしい」
リーゼは言われた通りに肩を下げた。
剣先がわずかに安定する。
彼女は息を吸い、剣を振った。
ひゅん、と空気が鳴る。
昨日より、音が澄んでいた。
剣筋の先に、淡い光の粒が流れる。
星屑のように一瞬だけ散り、朝の空気に溶けた。
トマが木柵の方から歩いてきて、目を丸くした。
「おい、今の何だ」
「軽く振っただけだ」
リーゼが答える。
「軽く振って星が出るのかよ。王都の剣士は派手だな」
「派手にしたつもりはない」
「じゃあ地味に星が出たのか」
「……その言い方はやめろ」
セリアが口元を押さえて笑っている。
リーゼは少し不満そうだったが、剣を見つめる目には隠しきれない感情があった。
嬉しさ。
怖さ。
信じられなさ。
その全部が混ざっている。
「もう一度だけ」
リーゼが言った。
セリアの視線が鋭くなる。
「一度だけです」
「分かっている」
「レオンさん、見ていてください」
「はい」
なぜか俺にも監視役が回ってきた。
リーゼはもう一度構えた。
今度は、足の位置を自分で直す。
呼吸もさっきより深い。
剣が動いた。
さっきより速い。
刃が朝の光を拾い、細い軌跡を描く。
その軌跡が途中でほどけるように伸び、離れた場所にあった古い薪束の紐だけを切った。
薪は崩れず、紐だけがはらりと落ちる。
トマが口を開けた。
「……おい」
リーゼ自身も驚いていた。
「今のは、狙っていない」
「狙ってないのかよ」
「紐が見えた。いや、違う。剣が勝手に……」
彼女は言葉を探すように眉を寄せた。
俺の視界には表示が浮かんでいる。
《流星剣:微弱発現》
《技術記憶:部分復帰》
《精密斬撃:成功》
《過負荷危険:軽度上昇》
「流星剣の技術記憶が戻り始めています」
俺が言うと、リーゼは剣を握ったまま固まった。
「流星剣……」
その名を口にする声が、ひどく小さかった。
かつて彼女を剣姫と呼ばせた技。
そして三年間、彼女が失ったと思い込んでいたもの。
セリアがそっと言う。
「戻ってきているんですね」
「全部ではありません」
俺はすぐに補足した。
「まだ回路は不安定です。無理に使えば、手首と肩に負担がかかります」
「分かっている」
リーゼは短く答えた。
けれど、その目は剣から離れない。
「分かっているが……」
「嬉しいですか」
セリアが尋ねた。
リーゼは一瞬、言葉を詰まらせた。
それから、少し悔しそうに答える。
「嬉しい」
素直な一言だった。
「腹が立つくらい、嬉しい」
トマが頷く。
「なら飯がうまくなるな」
「なぜそこで飯なんだ」
「嬉しい日も、悔しい日も、飯は大事だ」
「君は本当にそればかりだな」
「だいたい当たるって言ったろ」
リーゼは呆れたように息を吐いた。
でも、口元はわずかに緩んでいた。
その日の午前中、リーゼの剣の訓練はそこで終わりになった。
本人は明らかに不満だったが、セリアが「今日はもう記録上、十分すぎる進歩です」と言い切ったため、リーゼは渋々剣を鞘へ戻した。
「記録上、とは何だ」
「ちゃんと書きます。今日は二回振りました。二回目で紐を切りました。三回目は我慢しました」
「最後の情報は不要だ」
「大事です。我慢できたことも進歩です」
リーゼは反論できずに黙った。
治療所へ戻る途中、村の子供たちが遠くからリーゼを見ていた。
そのうち一人が、恐る恐る聞く。
「リーゼお姉ちゃん、剣、光った?」
リーゼは少し迷った。
王都なら、彼女はきっと否定しただろう。
大したことではない。見間違いだ。黙れ。
だが今は、少しだけ違った。
「少しだけだ」
「すごい!」
「すごくはない。まだ少しだ」
「少しでもすごいよ!」
子供は満面の笑みで言った。
リーゼは困ったように視線を逸らす。
「……そうか」
その耳が、少し赤かった。
昼過ぎ、俺は地下工房でリーゼの腕輪と剣技回路の記録を整理していた。
セリアは隣で治療所の記録をまとめている。
ニコルは王都向け報告書の下書き。
トマは南木柵の点検表を書いている。
いつの間にか、地下工房の前室は小さな事務室のようになり始めていた。
「なんか、村というより役所みたいになってきたな」
トマがぼやく。
「王都相手には必要です」
「分かってる。分かってるけど、字が多い」
「弓より効く武器です」
「その言い方、ずるいんだよな」
トマはぶつぶつ言いながらも、続きを書いた。
俺はリーゼの記録に、今日の状態を追加する。
『剣技回路再通率七十四%。
軽度素振り二回。二回目に流星剣系統の精密斬撃が微弱発現。
本人は三回目を希望したが、休息を選択。
恐怖反応は自然値内。
過負荷注意。』
セリアが横から覗き込む。
「“休息を選択”って、優しい書き方ですね」
「“止められて渋々休んだ”よりいいかと」
「本人記録にはそう書きます」
「厳しいですね」
「必要です」
セリアの口癖になりつつある。
その時、中枢室の方から低い音が響いた。
ごん、と石の奥で何かが鳴ったような音。
全員が顔を上げる。
「今のは?」
トマが立ち上がる。
俺はすぐに中枢室へ入った。
中央の結晶柱が、赤に近い光を帯びている。
今まで青白かった光が、不安定に揺れていた。
《外周結界:広域反応》
《森奥魔力反応:増加》
《魔物群:移動中》
《規模:中》
《予測到達:夜間》
背筋が冷える。
「魔物です」
俺が言うと、セリアの表情が引き締まった。
「昨日の群れですか?」
「いえ、違います。数が多い。種類も混じっている可能性があります」
トマが低く舌打ちした。
「結界が戻って、逆に寄ってきたか」
「もしくは、何かに追われたか、誘導されたか」
中枢室の表示がさらに変わる。
《反応種別:灰角魔狼/黒牙猪/小型飛行魔》
《混成群》
《統率反応:微弱》
《警戒推奨》
混成群。
自然の群れとしては、少し不自然だ。
「統率反応って何だ」
トマが聞く。
「複数種がまとまって動いています。普通なら別々に動く魔物が、同じ方向へ来ている」
「リベル村へ?」
「おそらく」
セリアの顔が少し青くなる。
「結界は持ちますか」
「第一層だけでは厳しいです」
結晶柱の表示を見る。
《防衛結界第二層:一時起動可能》
《条件:聖女補佐同期/修復炉低出力点火》
《持続予測:短時間》
第二層。
前章の魔狼戦で一瞬反応した、内部支援結界。
まだ本格起動はしていないが、一時的には使えるらしい。
「第二層を使う必要があるかもしれません」
俺が言うと、セリアはすぐに頷いた。
「私が補助します」
「無理はしないでください」
「はい。でも、必要ならやります」
その声に迷いはなかった。
トマはすでに動き出している。
「村長に知らせる。弓隊も集める。リーゼには?」
俺は一瞬迷った。
リーゼは剣を抜けるようになったばかりだ。
まだ戦わせる段階ではない。
だが、彼女を戦力として計算しないのも違う。
本人の意思を確認すべきだ。
「本人に伝えます。ただし、無理に前線へ出すつもりはありません」
「たぶん出るって言うぞ」
「でしょうね」
俺はため息をついた。
治療所へ行くと、リーゼは剣の手入れをしていた。
手入れ、と言っても本格的なものではない。布で刀身を軽く拭いているだけだ。
けれど、その手つきは以前よりずっと自然だった。
俺を見るなり、彼女は眉を寄せる。
「何かあった顔だ」
「魔物の群れがこちらへ向かっています。到達は夜になる可能性が高い」
リーゼは立ち上がろうとした。
セリアがすぐに言う。
「まだ座っていてください」
「魔物が来るなら座っている場合ではない」
「話を聞いてからです」
「……分かった」
セリアの声に押され、リーゼは渋々座り直した。
俺は中枢室で見た情報を説明した。
灰角魔狼。
黒牙猪。
小型飛行魔。
混成群。
統率反応。
リーゼの顔つきが、剣士のものに変わっていく。
「混成群なら、自然発生ではない可能性が高い」
「やはりそう思いますか」
「ああ。黒牙猪と魔狼が同じ方向へ進むことはある。だが飛行魔まで混じるなら、何かに追われているか、誘導されている」
「誘導……」
セリアが呟く。
リーゼの腕輪。
セリアの封印。
北の祠。
リベル村の結界反転。
すべてに同じ嫌な影がある。
「私も出る」
リーゼが言った。
予想通りだった。
「まだ完全ではありません」
「分かっている」
「流星剣も、今朝は片鱗が戻っただけです」
「それも分かっている」
「無理をすれば、剣技回路を傷めます」
「くどい」
リーゼは俺を見た。
「だが、言うべきことを言っているのは分かる。だから、私から条件を出す」
「条件?」
「前線に立つ。ただし、突撃はしない。レオン、お前の指示に従う。セリア、無理だと判断したら止めろ」
セリアが驚いた顔をした。
「私が?」
「治療補助者だろう」
リーゼは少しだけ口元を上げる。
「怪我人には強いのだろう?」
セリアは一瞬だけ目を丸くしたあと、真剣に頷いた。
「はい。止めます」
「ならいい」
リーゼは剣を腰に戻した。
「私は、もう剣を握れない自分に戻りたくない。だからこそ、無茶はしない」
その言葉に、俺は少し安心した。
戦いたいのは、焦りだけではない。
彼女なりに、守りたいものを見つけ始めているのだ。
村長の家で、防衛会議が開かれた。
村長、トマ、ニコル、セリア、リーゼ、俺。
外には村人たちが集まり、ざわめいている。
俺は簡単な地図を広げた。
「魔物は森の北西側から動いています。到達予測は夜。結界第一層で最初は止められますが、黒牙猪がいるため、何度も突進されると負荷が高くなります」
「黒牙猪か」
リーゼが地図を見る。
「正面から受けるな。脚を止めるか、進路を曲げるのがいい」
「弓は効くか?」
トマが尋ねる。
「目や脚なら効く。ただし皮膚が厚い。村の弓では深く刺さらない可能性が高い」
「じゃあ罠か」
「はい。柵の外側に浅い溝を掘り、枝で隠す。深くなくていい。突進の足を乱せれば十分です」
村長が頷く。
「人を集めよう」
「飛行魔は?」
セリアが聞いた。
「小型なら、火や煙を嫌う可能性があります。湿った草ではなく、乾いた薪と煙草を用意しましょう。エレナさんはいませんから、大きな火魔法は使えません」
トマが腕を組む。
「魔法頼みじゃない防衛戦か」
「はい。村の防衛です」
ニコルが記録板に必死に書き込んでいる。
「黒牙猪、溝。飛行魔、煙。魔狼、弓と結界……」
「ニコル、落ち着いて。字が走ってる」
「すみません」
「でも、よく書けています」
ニコルは少しだけ背筋を伸ばした。
リーゼが地図を指した。
「私はどこに立つ」
「門の内側です」
「内側?」
「はい。黒牙猪が門へ突進した時、進路を横へずらす役です。外へ出る必要はありません」
「私は盾ではない」
「剣で受け止めるのではなく、斬って逸らす。リーゼさんの剣速なら可能です。ただし、大技は使わない」
リーゼは少し考えた。
「合理的だ」
「不満ですか」
「少しな。だが、今の私には合っている」
彼女はそう答えた。
それだけでも、大きな進歩だった。
以前なら、無理にでも前へ出ようとしたかもしれない。
セリアは治療所と第二層結界の補助を担当する。
ただし、同時に全力を出すと倒れる可能性があるため、タイミングを絞る。
「第二層はいつ起動しますか」
セリアが聞く。
「黒牙猪の突進が結界に集中した時か、飛行魔が村内へ入りそうになった時です。長くは持たないので、合図するまで温存してください」
「分かりました」
村長が皆を見た。
「やることは多いが、以前とは違う。儂らには井戸があり、水車があり、結界がある。治療所があり、記録があり、仲間がいる」
村長の声は静かだったが、よく通った。
「怖がるなとは言わん。怖いまま動け。昨日よりましな村になったことを、今日証明しよう」
トマが笑った。
「村長、いいこと言うな」
「年寄りは、たまには言う」
その場に少しだけ笑いが起きる。
緊張は消えない。
けれど、飲まれてはいない。
午後、村は防衛準備に入った。
男たちは木柵の外側に浅い溝を掘り、枝と泥で隠す。
女たちは治療所に布と浄化水を運び込む。
子供たちは倉庫へ避難する準備をしながら、小さな荷物をまとめている。
リーゼは門の近くで、軽く剣を抜いて構えを確認した。
トマがそれを見て、ぽつりと言う。
「格好いいな」
リーゼが眉を寄せる。
「からかっているのか」
「いや、本気だ」
「……そうか」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
セリアは治療所の前で、井戸水を瓶に分けている。
「セリア先生、これどこに置くの?」
子供が聞く。
「先生ではありません。これは入口の右側です。倒さないように」
「はーい」
もう、村の誰も彼女を災厄とは呼ばない。
その光景を見て、リーゼが小さく呟いた。
「セリアは、この村で戻ったんだな」
「まだ途中です」
俺は答えた。
「でも、戻り始めています」
「私もか」
「はい」
リーゼは門の外、森の方を見る。
「なら、今日倒れるわけにはいかないな」
「倒れない戦い方をしましょう」
「ああ」
夕暮れ。
外周結界が赤い空の下で薄く光っている。
森の奥から、低い唸り声が聞こえ始めた。
まだ遠い。
けれど、確かに近づいている。
中枢室の警告が、俺の視界にも浮かんだ。
《魔物群接近》
《到達予測:一刻以内》
《防衛結界第二層:待機》
《推奨:全村防衛態勢》
俺は深く息を吸った。
リベル村は、また試される。
だが、前とは違う。
村人たちは配置につき、トマは弓隊をまとめ、セリアは治療所の前で白い光を手に宿し、リーゼは門の内側で剣を構えている。
壊れた剣姫は、もう剣を抜いている。
俺は村の中央に立ち、全体を見渡した。
「来ます」
その一言で、村全体が静かになった。
森の影が、動いた。




