第22話 流星剣、再び
リーゼが剣を抱かずに眠った、という話は、朝のうちに村の一部へ広まっていた。
広めたのはセリアではない。本人は記録板にだけ丁寧に書いていた。
だが治療所の手伝いに来た子供が、枕元に置かれた剣を見て、「リーゼお姉ちゃん、今日は剣を抱っこしてない」と言ったのである。
リーゼはその瞬間、ものすごく不機嫌な顔になった。
「……別に、大したことではない」
「大したことです」
セリアが即答した。
「大したことではないと言っている」
「三年できなかったことなら、大したことです」
「君は本当に遠慮がないな」
「必要です」
そのやり取りを入口で聞いていたトマが、こらえきれずに吹き出した。
「リーゼ、諦めろ。セリアがそう言う時は、だいたい勝てねえ」
「この村は、怪我人への扱いが強引すぎる」
「飯も出るし水もうまい。悪くないだろ」
リーゼは言い返そうとして、木椀の豆の煮込みを見た。
「……悪くはない」
小さな声だったが、確かにそう言った。
それだけで、治療所の空気が少し柔らかくなった。
朝食を終えたあと、俺はリーゼの腕輪を再確認した。
昨日の処置で、恐怖を増幅する機能は止まっている。だが腕輪本体はまだ右手首に残っていた。銀色の表面は一見ただの装飾品だが、内側には黒い術式の残骸が絡みついている。
完全に外すには、地下工房の中枢室を使う必要がある。
「今日、やるのか」
リーゼが聞いた。
「体調次第です」
「私はやれる」
「それは希望です。体調とは別です」
「……君もセリアに似てきたな」
「影響を受けています」
「悪影響だ」
そう言いながらも、リーゼは逃げなかった。
セリアが傷を確認する。
脇腹の傷はまだ痛むが、昨日より熱は引いている。魔力疲労も軽い。
「短時間なら大丈夫だと思います」
セリアが言った。
「ただし、処置が終わったら休んでください」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「レオンさんもです」
「俺も?」
当然のように飛び火した。
トマが横で笑う。
「全員、処置の後は飯食って寝る。村の決定ってことでいいだろ」
「何でも村の決定にしないでください」
「便利なんだよ」
リーゼは呆れた顔をしていたが、少しだけ肩の力が抜けていた。
地下工房へ降りる時、彼女は剣を自分の腰に下げた。
抱えない。
膝に置かない。
腰に吊る。
それは騎士としては当たり前の姿だ。
でも、今のリーゼにとっては当たり前ではない。
歩くたび、剣がわずかに揺れる。
そのたびに、彼女の右手が反射的に柄へ伸びかける。
けれど、触れない。
握りしめるのではなく、隣にあることを確かめるように歩いていた。
中枢室へ入ると、結晶柱が静かに光った。
《対象:リーゼ・ヴァルト》
《腕輪分離:第二段階完了》
《恐怖増幅:停止》
《剣技回路:再通率四十二%》
《第三段階:物理解除および回路補正可能》
リーゼは作業台の前に立った。
「今日で、外せるのか」
「可能性は高いです」
「外したら、剣は握れるか」
「すぐ完全に戻るとは言えません」
「だろうな」
彼女は右手首の腕輪を見る。
「だが、外したい」
声に迷いはなかった。
セリアが確認する。
「リーゼさん自身の意思ですね」
「ああ」
「怖くありませんか」
「怖い」
リーゼは即答した。
「だが、怖いからやめる段階は過ぎた」
セリアは小さく頷いた。
「分かりました」
俺は修復針を手に取る。
「では始めます。腕輪本体を外す時、残った術式が抵抗する可能性があります。剣技回路に痛みやしびれが出たら、すぐ言ってください」
「分かった」
「途中で止めたくなったら」
「止めろと言う」
「はい」
リーゼは少しだけ苦笑した。
「何度確認するんだ」
「何度でも」
「そうか。なら、何度でも答える」
彼女は作業台に右腕を置いた。
昨日までより、動きが自然だった。
俺は中枢室の結晶柱へ修復針を当てる。
青い光が腕輪を包み、内側の術式を浮かび上がらせた。
恐怖増幅の核は止まっている。
音声呪印も分離済み。
残っているのは、腕輪本体と剣技回路を結ぶ固定術式。
まるで錆びた釘のように、手首の魔力線へ食い込んでいた。
《固定術式》
《機能:腕輪の強制装着維持》
《解除時警告:回路損傷危険》
《推奨:浄化補助下で段階剥離》
「セリア、浄化を弱く。昨日より細くお願いします」
「はい」
セリアの白い光が、腕輪の周囲に細く流れる。
トマは入口近くで黙って立っていた。今日は冗談を言わない。必要ない場面だと分かっているのだろう。
俺は固定術式の端を探る。
剥がす場所を間違えると、リーゼの手首に負担がかかる。
壊すのではなく、抜く。
古い釘を木材から抜く時に似ている。
強引に引けば木が割れる。
揺らし、緩め、少しずつ外す。
一本目の固定線が緩む。
リーゼの眉が動いた。
「痛いですか」
「しびれる」
「止めますか」
「続けろ」
声は硬いが、呼吸は乱れていない。
二本目。
セリアの光が、黒ずんだ術式の表面を洗う。
固定線が薄くなり、腕輪の内側に隙間が生まれた。
リーゼの右手が震える。
「昔の感覚が戻る」
「剣を握る感覚ですか」
「違う。腕輪をつけられた日の感覚だ」
彼女は目を閉じた。
「冷たかった。皆の前だった。拍手があった。私は、嬉しかった」
声が震える。
「その嬉しさまで、汚された気がする」
セリアが静かに言った。
「嬉しかった気持ちは、リーゼさんのものです」
リーゼの目が開く。
「腕輪が呪具でも、その時に頑張ってきた自分を誇った気持ちまで、奪われなくていいと思います」
リーゼは一瞬、何かを言おうとした。
だが言葉にならず、ただ小さく頷いた。
俺は三本目の固定線に触れる。
ここが一番深い。
手首の剣技回路と、腕輪の内側が癒着している。
剣技回路そのものはまだ弱い。無理に外せば、せっかく再通した流れが乱れる。
「リーゼさん。少し剣に触れてください」
彼女の目が鋭くなる。
「今か」
「はい。剣技回路を自然な向きに流しながら外します。剣を握る意思が必要です」
リーゼの左手が腰の剣へ伸びる。
だが、右腕は作業台に置いたままだ。
「右手でか」
「はい。ただし、抜かなくていい。柄に触れるだけです」
中枢室に沈黙が落ちた。
右手。
腕輪をつけられた手。
剣を握るたび震えた手。
リーゼはゆっくり右腕を持ち上げた。
腕輪の処置中なので、俺は魔力線を維持する。
セリアの浄化も途切れない。
リーゼの指先が、腰の剣の柄に触れた。
震える。
でも、以前のような凍りついた震えではない。
怖い。
それでも自分で触れている。
「握れますか」
俺が聞くと、リーゼは息を吸った。
「握る」
指が柄にかかる。
一本ずつ。
ゆっくりと。
剣を握った瞬間、腕輪の固定術式が黒く光った。
《残存命令:発動》
《剣保持行動を阻害》
《固定術式:抵抗》
まだ残っていたか。
腕輪の奥から、昨日より弱い声が漏れる。
『握るな』
リーゼの手が止まる。
『また失敗する』
セリアが即座に言う。
「その声はあなたのものじゃありません」
リーゼは歯を食いしばる。
『剣を握れば、誰かが傷つく』
トマが低く言った。
「握っても握らなくても、傷つく時は傷つく。だから一人で背負うな」
リーゼの目が揺れる。
俺は固定術式の根元に修復針の魔力を通す。
「リーゼさん。剣を握るかどうかは、あなたが決めてください」
昨日と同じ言葉。
でも、今日はもっと深いところへ届いた気がした。
リーゼは震えながら、柄を握りしめた。
「私は」
声が掠れる。
「私は、剣を握る」
固定術式に亀裂が入る。
「誰かに許されるためじゃない」
黒い光が薄れる。
「男を超えるためでも、誰かを見返すためでもない」
腕輪が細かく震える。
「私は、私が守りたいもののために剣を握る」
最後の固定線が外れた。
ぱきん、と小さな音がした。
腕輪の表面に亀裂が走る。
銀色の輪が黒ずみ、手首から浮いた。
《腕輪本体:解除》
《剣技回路:補正開始》
《才能封鎖術式:解除成功》
腕輪が、作業台の上に落ちた。
軽い音だった。
あれほどリーゼを縛っていたものが、落ちる時はこんなに軽い音なのかと思った。
リーゼは自分の右手首を見つめている。
そこには薄い痕が残っていた。
消えない傷のように、白い線が手首を一周している。
でも、腕輪はもうない。
「外れた……」
セリアが息を呑む。
トマが大きく息を吐いた。
「よし」
リーゼはまだ動かない。
右手で剣の柄を握ったまま、じっと立っている。
「リーゼさん」
俺が声をかけると、彼女は小さく答えた。
「軽い」
昨日も言った言葉だった。
けれど、今日は意味が違う。
「手首が、軽い」
その声に、涙が混じっていた。
俺は中枢室の表示を確認する。
《剣技回路:再通率六十八%》
《恐怖反応:自然値》
《術式残滓:微弱》
《推奨:軽度剣動作による回路安定》
「リーゼさん。無理に剣を抜く必要はありません」
言った瞬間、リーゼはこちらを見た。
「抜く」
「今は回路が」
「抜く」
彼女の声は静かだった。
無謀な響きではない。
ただ、自分で決めた響きだった。
俺は少し迷った。
セリアも心配そうに俺を見る。
リーゼは続ける。
「全部は振れない。分かっている。だが、抜くところまで行きたい」
「……分かりました。ただし、少しでも異常があれば止めます」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
彼女は剣を構えた。
中枢室では狭い。
俺たちは地下工房の広い作業場へ移動した。
村長も呼ばれ、入口で見守る。
地上へはまだ上がらない。外で人が集まりすぎると、リーゼの負担になるからだ。
工房の中央に、リーゼが立つ。
鎧は着ていない。
傷も完全には治っていない。
右手首には腕輪の痕がある。
それでも、彼女は剣士の立ち姿をしていた。
右手が柄にかかる。
呼吸が少し乱れる。
セリアが言う。
「今はここです」
リーゼは頷く。
「分かっている」
剣が、鞘から少し抜けた。
金属の擦れる音が、工房に響く。
ほんの数寸。
それだけでリーゼの額に汗が滲む。
だが、止まらない。
さらに抜く。
刀身が青白い工房の光を受ける。
半分。
リーゼの腕が震える。
「止めますか」
俺が聞く。
「まだ」
短い返事。
そして。
剣が、完全に抜かれた。
工房の空気が、ぴんと張った。
細身の剣だった。
装飾は少ない。実戦用の剣だ。だが刀身には、星屑のような細い魔力の筋が走っている。
《剣名:星銀剣アストラ》
《状態:長期未使用による魔力沈黙》
《所有者適合:リーゼ・ヴァルト》
《剣技回路接続:再開》
リーゼは剣を見つめていた。
「……抜けた」
誰もすぐには声を出さなかった。
その一言があまりにも静かで、重かったからだ。
セリアの目に涙が浮かぶ。
トマが頭をかく。
「よかったな」
彼なりに言葉を選んだのだろう。
リーゼは剣を握ったまま、少しだけ笑った。
「ああ」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
「軽く振れますか」
俺が聞く。
「やる」
「本当に軽くです。大技は駄目です」
「分かっている」
リーゼは剣を構える。
最初の構えは不安定だった。右手首に力が入りすぎ、肩も少し上がっている。体が忘れていたというより、怖さを避けるために余計な力が入っている。
「肩を下げて」
俺が言うと、リーゼは一瞬だけこちらを見る。
「剣の指導までできるのか」
「体に負荷がかかる場所が見えるだけです」
「本当に妙な鑑定士だ」
彼女は肩の力を抜く。
「右手で押さえすぎです。左足を半歩」
「こうか」
「はい」
構えが少し整う。
リーゼは息を吸った。
剣がゆっくり振られる。
ただの素振り。
けれど、空気が細く鳴った。
ひゅん、と。
工房の灯りが、その刃の軌跡に沿って一瞬だけ揺れる。
《剣技回路:安定化》
《技術記憶:反応》
《流星剣系統:微弱発現》
流星剣。
まだ技と呼べるほどではない。
だが、確かに何かが戻っている。
リーゼ自身も感じたのだろう。目を見開いた。
「今……」
「剣技回路が反応しました」
俺が言うと、彼女はもう一度構えた。
「もう一度」
「無理は」
「軽く振るだけだ」
リーゼは二度目を振る。
今度はさっきより自然だった。
刀身に、淡い光が走る。
星が流れるような、細い光。
工房の隅に置いてあった古い木片が、音もなく斜めに切れた。
トマが目を丸くする。
「……おい、今の軽くか?」
リーゼ自身も驚いていた。
「いや、軽く振った」
「軽く振ってあれかよ」
村長が静かに笑う。
「剣姫と呼ばれたのも、伊達ではなかったのだな」
リーゼはその呼び名に反応しかけた。
だが、今度は怒らなかった。
少しだけ目を伏せる。
「その名は、まだ重い」
「なら、急いで背負わんでいい」
村長が言った。
「今はリーゼでよい」
リーゼはしばらく村長を見て、それから頷いた。
「……ああ」
俺は剣技回路の状態を見る。
《剣技回路:再通率七十二%》
《過負荷危険:中》
《推奨:本日終了》
「今日はここまでです」
「まだ振れる」
「振れます。でも明日動けなくなります」
「……」
「明日も振りたいなら、今日は止めるべきです」
リーゼは悔しそうに顔を歪めた。
だが、剣を下ろした。
「明日も振りたい」
「なら、止めましょう」
セリアがすぐに椅子を持ってくる。
「座ってください」
「座るほどでは」
「座ってください」
「……分かった」
リーゼは椅子に腰を下ろした。
そして、剣を見つめる。
抜いた剣を、今度はゆっくり鞘へ戻した。
鞘に収まる音がする。
それは終わりの音ではなかった。
次にまた抜くための音だった。
地上へ戻ると、村の空気がいつもと少し違った。
地下工房から出てきたリーゼの腰に、剣がある。
そして、その表情が昨日までと違う。
村人たちは何かがあったと察したらしい。
子供が遠慮なく聞く。
「リーゼお姉ちゃん、剣抜けた?」
セリアが慌てかける。
だがリーゼは、その子供を見た。
少し迷ってから、短く答える。
「ああ」
子供の目が輝いた。
「すごい!」
ただ、それだけ。
過去も知らない。
剣姫の名も知らない。
臆病者と呼ばれたことも知らない。
ただ、剣が抜けたことを「すごい」と言う。
リーゼは何とも言えない顔をした。
「……そうか」
「うん、すごい!」
子供は満足げに走っていった。
リーゼはその背中を見送る。
「王都では、誰もそんなふうには言わなかった」
「ここはリベル村ですから」
俺が言うと、彼女は少し笑った。
「便利な言葉だな」
「最近そう思います」
昼食の席で、リーゼはいつもより少し多く食べた。
トマがそれを見て、満足そうに頷く。
「食えるなら大丈夫だ」
「君は何でも飯で判断するのか」
「だいたい当たる」
「雑だ」
「でも、少し元気が出ただろ」
リーゼは言い返せなかった。
「……否定はしない」
セリアが小さく笑う。
「リーゼさん、午後は休みです」
「分かっている」
「剣の練習もなしです」
「……分かっている」
「今、少し間がありました」
「気のせいだ」
「記録します」
「何をだ」
「無理をしようとした、と」
「やめろ」
周囲の村人たちが笑った。
リーゼは不満そうにしていたが、以前のような鋭い拒絶はなかった。
その日の夕方、俺は腕輪を厳重に保管した。
布で包み、木箱に入れ、さらに地下工房の保管棚へ置く。
《腕輪型呪具:封印保管》
《証拠価値:高》
《危険:残滓あり》
これで、証拠が一つ増えた。
ローゼン侯爵家の紋章。
才能封鎖術式。
リーゼ本人の証言。
まだ王都へ出すには早い。
だが、確かに一歩進んだ。
夜、リーゼは治療所の外で、一人で剣を抜いた。
もちろん、素振りは禁止している。
ただ抜いて、刀身を見て、また鞘へ戻すだけ。
セリアが窓からそれを見ていた。
「止めますか?」
俺が聞くと、彼女は少し考えた。
「今日は、少しだけ見守ります」
「珍しいですね」
「無理をしている顔ではないので」
リーゼは剣を見つめていた。
その顔に、涙はない。
笑みもない。
ただ、取り戻したものを確かめる静かな表情だった。
俺は個人記録に書いた。
『腕輪の解除に成功。
リーゼ、剣を抜く。
軽い素振りで流星剣系統の微弱反応。
本人は明日も振りたいと発言。過負荷注意。
腕輪は証拠として地下工房に保管。
才能は完全には戻っていない。
だが、奪われたままではなくなった。』
最後の一文を書いて、筆を止める。
奪われたままではなくなった。
それはリーゼだけのことではない。
セリアも。
リベル村も。
そして俺も。
少しずつ、自分のものを取り戻している。
外では、水車がぎし、ぎし、と回っていた。
もう聞き慣れた音だ。
壊れたものが動き出す音。
その音が、今夜は少しだけ力強く聞こえた。




