第21話 剣姫、恐怖の声を斬る
翌朝、リーゼは誰よりも早く起きていた。
治療所の窓際に立ち、まだ薄暗い村を見ている。雨は上がり、空気には湿った土の匂いが残っていた。井戸の水面には朝の光が淡く映り、水車はまだ止まっている。
リーゼの手には、剣がある。
昨日より、握り方が少し変わっていた。
抱え込むのではなく、確かめるように持っている。怖さが消えたわけではない。指先はまだ震えている。それでも、剣にしがみついているだけの姿ではなかった。
「眠れましたか」
俺が声をかけると、リーゼは振り返らずに答えた。
「少し」
「少し、ですか」
「悪夢は見た。だが、途中で目が覚めた」
「それはよかったんですか?」
「よかった」
彼女は短く言う。
「今までは、目が覚めてもまだ悪夢の中にいるようだった。今朝は違った。ここがリベル村だと分かった」
それだけのことが、彼女にとっては大きいのだろう。
セリアが治療所の奥から顔を出した。
「おはようございます。リーゼさん、傷の確認をします」
「地下工房が先だ」
「傷の確認が先です」
「歩ける」
「歩けることと、処置に耐えられることは違います」
リーゼは少し眉を寄せた。
だが、セリアは引かない。
「昨日、約束しました。焦らないと」
「……した」
「では、傷を見ます」
リーゼは不満そうにしながらも、寝台へ戻った。
トマが入口から覗き込んで、にやりと笑う。
「剣姫様もセリアには勝てねえな」
「その呼び方をするな」
「悪い悪い。じゃあリーゼ」
「それでいい」
リーゼは少しだけ息を吐いた。
以前なら「剣姫」という言葉に怒りだけを向けていた。今も嫌なのは変わらない。けれど、少なくとも呼び直しを求める余裕はある。
セリアが傷を確認し、浄化水で軽く洗う。
「悪化はしていません。ただ、昨日の処置で疲労が残っています。今日は第一段階より短くします」
「短く?」
「はい。長くやれば早く直るわけではありません」
「水車と同じ、だろう」
リーゼが先に言った。
セリアは少し嬉しそうに頷く。
「はい。水車と同じです」
「私はもう水車でいい」
「大事な水車です」
「だから、その言い方は何なんだ」
リーゼが呆れたように言い、トマが笑った。
朝食の後、俺たちは地下工房へ降りた。
今日は村長も入口近くまで来ていた。中枢室へは入らず、工房の外で待つという。
「何かあれば呼べ」
「はい」
「それから、焦るな」
村長の言葉に、リーゼが少しだけ頭を下げた。
「……分かった」
不思議な光景だった。
元王国騎士団の剣姫が、辺境村の老村長の言葉を素直に受け取っている。
リベル村は、本当に変な村だ。
中枢室に入ると、結晶柱がリーゼの腕輪に反応した。
《対象:リーゼ・ヴァルト》
《腕輪分離:第一段階完了》
《剣技回路:微弱再通》
《恐怖増幅:残存》
《第二段階:実行可能》
リーゼは作業台に右腕を置く。
昨日と同じ姿勢だ。
ただ、今日は剣を膝の上に置いていた。抱きしめるのではなく、鞘ごと横たえている。右手は腕輪のある手首を差し出し、左手は剣の近くに添えるだけ。
大きな変化だった。
「今日は何をする」
リーゼが尋ねる。
「恐怖反応の増幅を弱めます。腕輪が剣を握る動作と恐怖を結びつけているので、その結び目をほどきます」
「ほどく、か」
「はい。壊すのではなく」
「分かっている。無理に壊せば、私の腕まで壊れる」
彼女は自分の腕輪を見た。
「こいつは、私にどれだけ絡みついているんだ」
「深く。でも、完全ではありません」
「なぜそう言える」
「昨日、指を離せたからです」
リーゼは黙った。
セリアが隣に立つ。
「今日も、嫌になったら止めましょう」
「ああ」
「怖くなったら、怖いと言ってください」
「……努力する」
「努力ではなく、約束です」
リーゼは一瞬、俺の方を見た。
「君たちは似てきたな」
「よく言われます」
セリアが少し笑う。
リーゼも、ほんのわずかに笑った。
「では始めます」
俺は修復針を結晶柱へ当てた。
青い光が腕輪へ流れる。
腕輪の内側に絡む黒い術式が浮かび上がった。
昨日より見え方がはっきりしている。
第一段階で剣技回路への食い込みが緩んだ分、奥に隠れていた構造が見えるようになったのだ。
黒い糸は、剣技回路から記憶領域へ伸びている。
さらに奥には、短い呪文のようなものが刻まれていた。
《命令核》
《剣技発動時、恐怖反応を強制増幅》
《自己否定認識へ接続》
《音声呪印:残存》
「音声呪印……」
嫌な予感がした。
セリアがこちらを見る。
「声が、出るんですか」
「おそらく」
リーゼが眉を寄せる。
「声?」
「呪具の奥に、言葉の形をした術式があります。昨日聞こえたような記憶とは違うかもしれません」
「何を言う」
「分かりません」
「そうか」
リーゼは目を閉じた。
「聞いてやる」
「無理に聞く必要は」
「いや」
彼女は目を開ける。
「三年、私は自分の中の声だと思っていた。なら、本当に私の声なのか確かめたい」
強い言葉だった。
だが、その指は震えている。
「分かりました。でも、危険なら止めます」
「ああ」
「セリア、浄化を薄く。トマさん、リーゼさんが倒れそうになったら支えてください。ただし腕輪と剣には触らないで」
「おう」
「はい」
第二段階を開始する。
修復針から流した魔力が、腕輪の内側へ入る。
黒い糸が抵抗するように震えた。
セリアの白い光が、その表面を包む。
最初は静かだった。
だが、恐怖反応へ繋がる結び目に触れた瞬間、中枢室の空気が冷たくなった。
リーゼの肩が跳ねる。
「来る」
彼女が呟いた。
次の瞬間、声が響いた。
低く、濁った男の声だった。
『女が剣で男を超えるなど、許されない』
中枢室の光が一瞬揺らいだ。
トマが顔をしかめる。
「何だ、その声」
リーゼは唇を噛んでいた。
目は開いている。
だが、視線はここではないどこかを見ている。
『身の程を知れ』
『剣姫など笑わせる』
『お前の功績は、男たちの顔を潰す』
声は続く。
リーゼの呼吸が荒くなる。
「違う……」
彼女は小さく呟いた。
『だから、恐れよ』
『震えよ』
『剣を握るたび、お前は思い知る』
『お前は臆病者だ』
黒い術式が強まった。
《恐怖反応:急上昇》
《自己否定接続:活性》
《第二段階処置:阻害》
セリアの顔色が変わる。
「リーゼさん、その声は」
「分かっている!」
リーゼが叫んだ。
「分かっている……はずなのに」
彼女の右手が震える。
腕輪が黒く光る。剣技回路へ恐怖が流れ込もうとしている。
「セリア、浄化を維持! 押し返さないで、包むように!」
「はい!」
俺は修復針の角度を変える。
声そのものを消そうとすると、術式が暴れる。ならば、声とリーゼの認識を繋いでいる糸を切り離す。
黒い声は続く。
『お前が前へ出るから、仲間が傷つく』
『お前が剣を持つから、誰かが倒れる』
『女が戦場で誇るなど、思い上がりだ』
リーゼの顔が苦痛に歪む。
「ユリウス……」
「今はここです!」
セリアの声が響く。
「リーゼさん、今はリベル村です!」
「分かっている。でも、見える……あいつが、私の前に」
「その記憶は本物かもしれません。でも、その声はあなたのものじゃありません!」
セリアの言葉に、リーゼの目が揺れた。
かつてレオンがセリアに言った言葉。
今度はセリアがリーゼに言っている。
「私の、ものじゃない」
「はい!」
リーゼの左手が剣の柄へ伸びる。
触れるか、触れないか。
その寸前で震える。
声がさらに強くなる。
『握るな』
『また失敗する』
『お前の剣は、誰かを守れない』
リーゼの唇が震えた。
「私は……」
その時、トマが低く言った。
「リーゼ」
彼女の視線がわずかに動く。
「俺は剣のことなんざ分からねえ」
「……何だ、突然」
「でも、村の柵なら分かる。壊れた柵ってのは、壊れた場所ばっか見てると全部駄目に見える」
トマは腕を組んで続けた。
「でも、残ってる木もある。使える釘もある。支え直せば、また立つ」
「私は柵か」
「今は大事な水車で、ついでに柵だ」
リーゼは苦しげな顔のまま、少しだけ呆れた。
「雑すぎる」
「雑でも本当だ」
トマは真剣だった。
「お前がまた剣を握りたいなら、俺たちは支える。握りたくないなら、それでも飯は出す。だから、その声に決めさせるな」
中枢室が静まり返った。
リーゼの呼吸が、少しだけ変わる。
「その声に、決めさせるな……」
彼女は繰り返した。
俺は黒い糸の揺らぎを見た。
今だ。
「リーゼさん。剣を握るかどうかは、あなたが決めてください」
リーゼの目が剣へ向く。
「怖い」
初めて、彼女ははっきり言った。
「怖い。握った瞬間、また動けなくなるのが怖い。誰かに笑われるのが怖い。ユリウスの顔を思い出すのが怖い」
声が震える。
でも、逃げていない。
「でも」
リーゼの左手が、剣の柄に触れた。
「それでも、私は」
黒い声が叫ぶ。
『握るな、臆病者』
リーゼは歯を食いしばった。
「私は、もう一度剣を握りたい!」
その瞬間、セリアの浄化光が一気に澄んだ。
中枢室の床に刻まれた紋様が白く輝く。
俺は修復針を通して、恐怖反応と剣技回路を結ぶ黒い糸へ干渉した。
切るのではない。
結び目をほどき、リーゼ自身の意思の流れを通す。
黒い声が歪む。
『女が――』
「黙れ」
リーゼが低く言った。
剣の柄を握る手は震えている。
でも、離さない。
「私は、お前のために剣を握るんじゃない」
黒い糸が一本、弾けた。
《恐怖増幅:大幅低下》
《剣技回路:再通率上昇》
《音声呪印:分離進行》
リーゼの手首から、黒い靄が噴き出す。
セリアがそれを包み込むように浄化する。
「レオンさん!」
「このまま!」
俺は修復針を動かし、残った命令核を腕輪の外側へ押し出す。
腕輪が細かく震えた。
表面に、今まで見えなかった紋章が浮かび上がる。
薔薇を囲む盾の紋。
ローゼン侯爵家。
トマが低く唸る。
「出たな」
リーゼもそれを見た。
目に怒りが宿る。
「やはり……」
「今は感情を流しすぎないでください」
「分かっている」
「分かっている顔では」
「分かっている!」
まだ危ないが、彼女は踏みとどまっている。
最後の黒い糸が、腕輪から剣技回路へ食い込んでいた。
ここを無理に外すと、回路を傷つける。
俺は息を整えた。
「リーゼさん。剣を少しだけ持ち上げられますか」
「抜くのか」
「抜きません。鞘のまま、膝から少し浮かせるだけです」
「……分かった」
リーゼは剣を握る。
震えはある。
だが昨日とは違う。
腕が凍りついたように固まることはない。
ゆっくりと、剣が膝から離れた。
ほんの少し。
それでも中枢室の光が変わった。
《対象者意思:剣保持を選択》
《命令核:分離可能》
「今です!」
セリアの光が強まる。
俺は修復針を通じて、最後の黒い糸の結び目をほどいた。
ぷつり、と音がした気がした。
実際には音などなかったのかもしれない。
けれど、中枢室にいた全員が、その瞬間を感じた。
腕輪の黒い光が消える。
リーゼが大きく息を吸った。
《腕輪分離:第二段階完了》
《恐怖増幅:停止》
《剣技回路:再通率四十二%》
《腕輪本体:未解除》
《次段階:物理解除および回路補正》
成功だ。
まだ腕輪は外れていない。
剣技も完全には戻っていない。
でも、恐怖を強制的に増幅する機能は止まった。
リーゼは剣を鞘ごと持ったまま、呆然としていた。
「……軽い」
かすかな声。
「剣が、軽い」
セリアが目元を押さえた。
「よかった……」
リーゼはゆっくり剣を作業台の上に置いた。
自分で。
抱え込むのではなく、置いた。
そして、手を離した。
彼女はその手を見つめている。
「離せた」
「はい」
「剣を置いても、消えなかった」
「はい」
「私は……」
リーゼの顔が歪む。
「私は、ずっと何を怖がっていたんだ」
「怖がる理由はありました」
俺は言った。
「腕輪が恐怖を増幅していた。過去の記憶もありました。怖くなかったことにする必要はありません」
リーゼは目を閉じた。
涙が一筋、頬を流れる。
「そうか」
それだけだった。
でも、その一言に三年分の重さがあった。
セリアがそっと布を差し出す。
リーゼは少し迷ったあと、それを受け取った。
「ありがとう」
「はい」
「君が“その声はあなたのものじゃない”と言った時、少し楽になった」
「私も、そう言ってもらって救われたので」
リーゼは布で目元を押さえる。
「なら、借りを返さねばな」
「借りではありません」
「いや、借りだ。私はそういう方が落ち着く」
セリアは少し困ったように笑った。
「では、いつか誰かに返してください」
「君ではなく?」
「私でもいいです。でも、誰かでもいいと思います」
リーゼは黙ってセリアを見た。
「君は本当に、強くなったばかりの人間の言葉を話す」
「そうでしょうか」
「ああ。痛みの場所を覚えている言葉だ」
セリアは少し照れたように目を伏せた。
トマが大きく息を吐く。
「いや、緊張した。俺、何もしてねえけど」
「していました」
俺が言うと、トマは眉を上げる。
「何を」
「リーゼさんを支えていました。言葉で」
「俺が?」
「はい」
トマは心底意外そうな顔をした。
「俺、そんな立派なこと言ったか?」
「柵と水車の話を」
「あれでいいのか」
「この村らしくてよかったです」
リーゼが疲れた声で言う。
「私は一生、水車扱いされるのか」
「大事な水車です」
セリアがまた真顔で言った。
リーゼは呆れたように笑った。
その笑いは、昨日までより少しだけ自然だった。
処置後、リーゼは治療所へ戻って休むことになった。
本人はまだ動けると言い張ったが、セリアと俺とトマの三人で止めた。最終的には村長の「飯を食って寝ろ」で決着した。
治療所の寝台に戻ると、リーゼは剣を枕元に置いた。
抱きしめてはいない。
ただ、手の届く場所に置いた。
「離して眠れそうですか」
セリアが聞く。
「分からない」
リーゼは正直に答えた。
「だが、試す」
「怖くなったら、呼んでください」
「ああ」
「無理に強がらなくていいです」
「君も本当に手厳しいな」
「必要です」
リーゼは小さく笑った。
その日の午後、俺は中枢室で腕輪の記録をまとめた。
《腕輪型呪具》
《表層偽装:武勲記章》
《刻印:ローゼン侯爵家隠し紋》
《機能一:剣技回路封鎖》
《機能二:恐怖反応増幅》
《機能三:自己否定認識強化》
《音声呪印:分離済み》
《腕輪本体:未解除》
証拠としては十分に重い。
だが、まだ外部へ出すには危険だ。
ローゼン侯爵家の名前が出た以上、こちらが未熟な証拠を出せば握り潰される。
それどころか、リーゼ自身が再び傷つけられるかもしれない。
村長は記録を読み、低く言った。
「これは、ただの嫌がらせではないな」
「はい」
「才能を封じる技術。しかも、本人に自分が悪いと思わせる」
村長の目が険しくなる。
「人を壊す技術だ」
その通りだった。
セリアの封印。
リーゼの腕輪。
北の祠の呪印。
リベル村の結界反転。
それらが同じ思想で作られているなら、相手はただ力を奪うだけではない。
人や村が、自分で自分を諦めるように仕向けている。
「次の段階で腕輪を外せれば、物証になります」
俺は言った。
「ただ、リーゼさんへの負担が大きい」
「焦るな」
村長は短く言った。
「証拠より人が先じゃ」
「はい」
その言葉に、胸の奥が少し落ち着いた。
夜。
リーゼは剣を抱かずに眠った。
何度か目を覚ましたらしい。けれど、剣を抱きしめることはなかった。
セリアが朝にそれを教えてくれた時、嬉しそうに笑っていた。
「少しずつですね」
「はい」
「リーゼさん、起きたらきっと“別に大したことではない”って言います」
「言いそうですね」
「でも、記録には書きます」
「大事なことですから」
俺は頷いた。
リーゼが剣を抱かずに眠った。
それは、王都の報告書には載らないかもしれない。
けれど、この村にとっては大きな前進だ。
壊れたものが、また一つ、わずかに動き方を思い出した。




