第20話 才能を封じる腕輪
地下工房へ降りる階段の前で、リーゼは一度足を止めた。
昨夜まで治療所の寝台にいた人間とは思えないほど、背筋は伸びている。だが顔色はまだ白い。傷も塞がったわけではなく、鎧の代わりに村で用意した厚手の外套を肩にかけていた。
右手には剣。
鞘に収めたまま、彼女はそれを抱えるように持っている。
「無理はしなくていいです」
セリアが言った。
「無理はしていない」
リーゼは即答した。
けれど、その指先は震えていた。
トマが少し離れた場所で工具袋を肩にかけている。何かあった時の補助役として来てもらった。村長は地上で待機している。
「リーゼさん」
俺は階段の入口で声をかけた。
「昨日確認した条件を、もう一度言います」
「腕輪を勝手に外さない。剣に触らない。私が止めろと言ったら止める」
「はい」
「子供扱いするな」
「確認は大事です」
リーゼは少しだけ不満そうにしたが、反論はしなかった。
セリアが小さく言う。
「私の時も、何度も確認してくれました」
「君の時も?」
「はい。登録するかどうか、封印を緩めるかどうか、私が決めていいと言ってくれました」
リーゼは俺を見る。
「変な鑑定士だな」
「その評価も定着してきましたね」
「褒めている」
「分かりづらいです」
ほんの少しだけ、リーゼの口元が緩んだ。
その表情が消えないうちに、俺たちは地下へ降りた。
工房の青白い灯りが、階段を一段ずつ照らしていく。
リーゼは周囲を見回し、息を呑んだ。
「こんな場所が、村の下に……」
「古い修復工房です」
「修復工房」
彼女はその言葉を、確かめるように繰り返した。
「壊れた道具を直す場所か」
「道具だけではないようです」
中枢室の扉が静かに開く。
円形の部屋。
中央の結晶柱。
床に刻まれた村の地図。
リーゼは剣を抱えたまま、警戒するように足を踏み入れた。
《新規対象感知》
《対象:リーゼ・ヴァルト》
《剣技回路:封鎖》
《外部呪具:腕輪型》
《才能封鎖術式反応:中》
中枢室の光が、彼女の右手首に集まる。
リーゼが反射的に腕を引いた。
「何だ、これは」
「工房が腕輪に反応しています」
「……気味が悪いな」
「怖ければ止めます」
「怖いとは言っていない」
すぐに返ってきた言葉だった。
けれど、次にリーゼは小さく付け加えた。
「気味が悪いだけだ」
「分かりました」
俺は作業台の上に、柔らかい布を敷いた。
「右手首をここに置けますか。腕輪には触りません」
リーゼはしばらく作業台を見ていた。
それから、ゆっくりと右腕を置く。
剣は左腕に抱えたまま。
指は柄に触れている。
その瞬間、右腕の震えが少し強くなった。
《剣接触反応》
《恐怖増幅:発生》
《腕輪術式:活性》
「今、腕輪が反応しました」
俺が言うと、リーゼの顔が強張る。
「何もしていない」
「剣に触れたことで反応しています」
「……やはり、私が怖がっているのではないか」
「恐怖反応はあります。でも、それを増幅しているのが腕輪です」
セリアが隣に立ち、静かに言う。
「怖いことと、壊れていることは違います」
リーゼは何も言わなかった。
俺は修復針を取り出し、中枢室の結晶柱へ軽く当てる。
直接腕輪に触れるのではなく、工房の光を通して構造を見る。
腕輪の内側に、黒い糸のような術式が絡んでいた。
それは単に魔力を封じるものではない。
リーゼの剣技回路が動くたび、恐怖の信号を流し込む。手首を冷やし、指の感覚を鈍らせ、呼吸を乱し、視界を狭める。
そして失敗するたびに、本人の記憶と結びついて強くなる。
最低の仕組みだった。
《腕輪型呪具》
《偽装名:武勲記章》
《機能:剣技回路封鎖/恐怖反応増幅/自己責任認識強化》
《外部解除危険》
《推奨:段階的分離》
「……武勲記章」
俺が呟くと、リーゼが目を見開いた。
「何と言った」
「この腕輪の偽装名です。武勲記章、と」
彼女の顔から血の気が引く。
「あの日、そう言われた」
声がかすれていた。
「王国の若き剣姫に、武勲記章を授けると。騎士団の皆の前で」
リーゼの指が剣の柄を強く握る。
「私は……誇らしいと思った。馬鹿みたいに」
「リーゼさん」
「皆が拍手した。隊長もいた。ユリウスも、悔しそうに笑っていた。次は自分がもらうと言っていた」
記憶がほどけている。
よくない。
感情が強く揺れると、腕輪の反応が高まる。
《恐怖反応:上昇》
《腕輪術式:活性化》
「セリア、浄化を弱く」
「はい」
セリアが両手を胸の前で組む。
白い光が、リーゼの周囲に薄く広がった。
「リーゼさん、今はここです。リベル村の地下工房です」
セリアの声は穏やかだった。
「騎士団の広間ではありません。誰も笑っていません」
リーゼの呼吸が乱れる。
「笑っていた……いや、笑ってはいなかった。だが、後で……」
「今は、ここです」
セリアが繰り返す。
「私と、レオンさんと、トマさんがいます」
トマがぎこちなく手を上げる。
「おう。俺もいるぞ」
そのあまりにも普通な声に、リーゼの呼吸がわずかに戻った。
「……なぜ、お前までいる」
「力仕事係だ」
「呑気だな」
「緊張してるぞ。これでも」
トマは真顔で言った。
「でも、怖がってる女の人の前で俺まで怖い顔しても仕方ねえだろ」
リーゼは一瞬だけ虚を突かれた顔をした。
それから、ほんの少し息を吐く。
「変な村だ」
「それも定着してきたな」
トマが言う。
中枢室の緊張が、少しだけ緩んだ。
俺は再び腕輪の構造を見る。
「リーゼさん。今から説明します。嫌なら途中で止めます」
「言え」
「この腕輪は、剣を握った時の魔力回路に干渉します。あなたの腕が震えるのは、あなたが弱いからではありません。剣技回路が動く瞬間に、恐怖反応を流し込まれているからです」
リーゼは黙って聞いている。
「さらに悪質なのは、失敗の記憶を利用していることです。一度剣を抜けなかった経験を、次の恐怖に繋げる。失敗すればするほど、自分が臆病者だと思い込むようになる」
「……自己責任認識強化」
セリアが小さく呟いた。
俺は頷いた。
「はい。自分のせいだと思わせる術式です」
リーゼの目が、腕輪へ落ちる。
「私が、ずっと自分を責めていたのも」
「腕輪の影響があった可能性は高いです」
「全部か?」
「全部ではありません」
俺は正直に言った。
「あなた自身の後悔や恐怖も、本物です。でも、その痛みを利用して増幅したのがこの腕輪です」
リーゼは目を閉じた。
「全部腕輪のせいだと言われた方が、楽だったかもしれない」
「そうですね」
「だが、楽な嘘は嫌いだ」
「俺もです」
リーゼは苦く笑った。
「本当に嫌な鑑定士だ」
「よく言われます」
「褒めている」
「少し分かってきました」
セリアが横で小さく笑った。
リーゼはしばらく黙った後、低く聞いた。
「外せるのか」
「外すことはできます。ただし、今すぐ力任せに外すのは危険です」
「何が起きる」
「剣技回路に絡んだ術式が、あなたの腕に残る可能性があります。最悪、腕の感覚が戻らなくなる」
リーゼの顔が硬くなる。
「なら、どうする」
「段階的に分離します。まず腕輪と剣技回路の繋がりを弱める。次に恐怖反応の増幅を止める。最後に腕輪を外す」
「時間がかかるのか」
「はい」
「どれくらい」
「分かりません。今日一日で終わるとは思わない方がいいです」
リーゼは息を吐いた。
「三年壊れていたものが、一日で直るわけがないか」
「はい」
「分かってはいる。分かってはいるが……腹が立つな」
「何にですか」
「腕輪に。ローゼンに。騎士団に。信じた自分に。全部だ」
その怒りは当然だった。
セリアが静かに言う。
「怒っていいと思います」
リーゼが彼女を見る。
「私は、最初は怒れませんでした」
セリアは少しだけ自分の胸元に手を置いた。
「自分が悪いと思っていたから。でも、壊されていたと分かった時、少しずつ怒れるようになりました。怒るのは、たぶん自分を取り戻す途中なんだと思います」
リーゼはしばらくセリアを見ていた。
「君は、本当に見た目より強い」
「最近、少しだけです」
「それも聞いた」
少しだけ空気が和らぐ。
俺は中枢室の表示を確認する。
《段階的分離:実行可能》
《必要補助:浄化魔力/対象者意思安定》
《警告:記憶反応発生の可能性》
「リーゼさん。今日は第一段階だけにしましょう」
「第一段階?」
「腕輪と剣技回路の繋がりを弱めます。腕輪は外しません。剣も抜きません」
「それで何が変わる」
「剣に触れた時の震えが、少し弱まる可能性があります」
「少し、か」
「はい。少しです」
リーゼは長く黙った。
やがて、剣を抱える腕に力を込める。
「少しでいい」
声は低い。
「三年、何も変わらなかった。少しでも変わるなら、それでいい」
俺は頷いた。
「では始めます」
セリアがリーゼの左側に立つ。
「苦しくなったら、すぐ言ってください」
「分かっている」
「本当に」
「……分かっている」
トマは入口近くに立ち、黙って周囲を見ている。彼なりに、緊張を邪魔しないようにしているのだろう。
俺は修復針を結晶柱に当て、工房の光を腕輪へ流した。
黒い糸のような術式が浮かび上がる。
剣技回路へ伸びる糸。
恐怖反応へ繋がる糸。
記憶の痛みを引き出す糸。
このうち、まずは剣技回路へ食い込む部分を緩める。
切るのではなく、ほどく。
「セリア、弱く浄化を」
「はい」
白い光が、黒い糸の表面を薄く洗う。
リーゼの肩が揺れた。
「っ……!」
「痛みますか」
「冷たい。手首の奥が、凍るみたいだ」
「止めますか」
「まだだ」
額に汗が滲んでいる。
俺は作業を続けた。
黒い糸が一本、少しだけ緩む。
その瞬間、リーゼの視界に記憶が流れ込んだのだろう。彼女の呼吸が乱れた。
「広間……」
「今は地下工房です」
セリアがすぐに声をかける。
「拍手が……違う。違う、これは……」
「リーゼさん、今はリベル村です」
「ユリウスが笑っている。次は俺だと……なのに、私は」
「今はここです」
セリアが手を伸ばしかける。
だが触れない。
リーゼが望んでいないからだ。
その代わり、声だけで支える。
「私たちはここにいます」
リーゼの呼吸が荒くなる。
腕輪が黒く光った。
《恐怖反応:急上昇》
《術式抵抗:発生》
まずい。
腕輪がこちらの干渉に抵抗している。
「セリア、少しだけ強めてください。でも押し込まない」
「はい」
白い光が強まる。
黒い糸の一本が、音もなく裂けるように解けた。
リーゼが短く叫んだ。
「違う!」
中枢室に声が響く。
「私は、逃げたかったんじゃない!」
それは、三年前の戦場へ向けた叫びだったのか。
騎士団へ向けたものか。
自分自身へ向けたものか。
俺には分からない。
ただ、その言葉と同時に、腕輪の反応が一段弱まった。
《剣技回路封鎖:第一層緩和》
《恐怖増幅:低下》
《対象者意思反応:安定》
いける。
「リーゼさん、剣に触れている指を少しだけ開けますか」
「……今か」
「無理ならやめます」
「やる」
リーゼは左腕に抱えた剣の柄へ視線を落とす。
右手ではない。
今は左手の指が柄にかかっている。
「右手で触る必要はありません。左手で、少しだけ力を抜いてください」
彼女の指が震える。
これだけのことが、今のリーゼには戦いなのだ。
指が一本、柄から離れた。
呼吸が乱れる。
だが、前のように全身が固まることはなかった。
もう一本。
ゆっくり、離れる。
剣はまだ膝の上にある。
手放したわけではない。
でも、握り潰すように抱えていた状態から、少しだけ力が抜けた。
リーゼは呆然としていた。
「……できた」
かすれた声。
「はい」
セリアが微笑む。
「できました」
リーゼは自分の手を見ている。
「たった、これだけか」
「これだけではありません」
俺は言った。
「三年できなかったことです」
リーゼの目が揺れた。
その瞬間、彼女は顔を背けた。
「見るな」
「はい」
セリアも少し視線を下げる。
トマだけが入口で天井を見ていた。
「俺は何も見てねえぞ」
「嘘が下手だ」
リーゼの声が少し震えている。
「だが、今は許す」
彼女は泣いていた。
声は出していない。
でも、涙が頬を伝っていた。
剣を抜いたわけではない。
敵を斬ったわけでもない。
ただ、柄から指を離しただけ。
それでも、それはリーゼにとって大きな一歩だった。
俺は中枢室の表示を確認する。
《腕輪分離:第一段階完了》
《剣技回路:微弱再通》
《次段階推奨:休息後》
「今日はここまでです」
リーゼは顔を上げた。
「まだやれる」
「やれません」
「私が決めると言っただろう」
「はい。だから、続けたい気持ちは尊重します。でも、体と回路が限界です。今続けると傷めます」
リーゼは悔しそうに唇を噛む。
セリアが柔らかく言った。
「少しずつ、です」
「水車と同じ、か」
リーゼは苦い顔で言った。
「昨日聞いた」
「はい」
「私は水車扱いか」
「大事な設備です」
セリアが真顔で言った。
一瞬、沈黙。
それからトマが吹き出した。
リーゼも、涙の残った顔で呆れたように笑った。
「この村の女は、時々ひどいな」
「褒めています」
「どこがだ」
「大事、のところです」
リーゼはしばらくセリアを見て、ふっと息を吐いた。
「そういうことにしておく」
地下工房を出る頃には、昼を過ぎていた。
地上では村長が待っていた。
リーゼの顔を見て、何かを察したのか、深くは聞かなかった。
「腹は減ったか」
最初の言葉がそれだった。
リーゼは少し戸惑った。
「……何?」
「腹は減ったかと聞いた」
「いや、今は」
「なら、少しでも食え。直すには飯がいる」
村長は当然のように言った。
トマが頷く。
「村長の名言だ。壊れた柵も、腹減った人間も、材料がなきゃ直らねえ」
「人間を柵と一緒にするな」
リーゼが眉をひそめる。
「この村ではよくある」
俺が言うと、リーゼは呆れたようにこちらを見た。
「本当に変な村だ」
「はい」
「否定しないのか」
「しなくなりました」
セリアが隣で笑っている。
昼食は黒パンと豆の煮込み、それから雨上がりの井戸水だった。
リーゼは最初、食べるつもりがなさそうだったが、村長に木椀を渡されると、諦めたように口をつけた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「温かいな」
「煮込みですからね」
トマが言う。
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味だ」
「……分からん」
リーゼは少し困ったような顔をした。
セリアが柔らかく笑う。
「分からないままでいいと思います」
「君は、時々とても曖昧なことを言う」
「レオンさんの影響かもしれません」
「俺ですか」
「はい」
なぜか俺のせいになった。
食事の後、リーゼは治療所へ戻った。
剣はまだ手元にある。
けれど、抱え込む力は少しだけ弱くなっていた。
その日の午後、俺は腕輪の写しを記録した。
術式の形。
黒い糸の経路。
剣技回路との接続点。
恐怖増幅の仕組み。
ローゼン家の紋章らしき刻印。
村長、トマ、セリア、ニコルにも、必要な範囲で共有する。
「これは証拠になるな」
村長が言った。
「はい。ただし、腕輪そのものを外すまでは完全な証拠として出しにくいです」
「外す時は、リーゼの意思が必要」
セリアが確認する。
「はい」
ニコルが記録板を抱えながら、緊張した声で言った。
「これ、王都に報告するんですか」
「今すぐではありません。下手に出すと、ローゼン家に握り潰される可能性があります」
トマが顔をしかめる。
「貴族って面倒だな」
「力を持っている相手ですから」
「なら、こっちは記録で武装するってわけか」
「はい」
トマは自分の記録板を見た。
「字の練習、増やすか」
「いい判断です」
「嬉しくねえなあ」
それでも、彼は本気の顔をしていた。
夕方、リーゼが治療所の外へ出てきた。
まだふらつきはあるが、壁に手をつきながら自分の足で立っている。
セリアが慌てて近づく。
「まだ歩かない方が」
「少しだけだ」
「少しだけ、が多い人ばかりですね」
「レオンと一緒にするな」
「でも似ています」
「どこが」
「自分が無理をしていることを認めないところです」
リーゼは言い返そうとして、やめた。
「……この村の治療補助者は手厳しい」
「必要です」
セリアは真面目に答えた。
リーゼは外周結界の光を見ていた。
「不思議な村だ」
「何度目でしょう」
「何度でも言う。壊れた村なのに、妙に生きている」
彼女は剣を軽く持ち直した。
その指が、昨日より少しだけ自然だった。
「リーゼさん」
俺が声をかけると、彼女はこちらを見た。
「次は、いつやりますか」
少し沈黙があった。
「明日」
「早いです」
「では明後日」
「それくらいなら」
「本当は今すぐやりたい」
「止めます」
「分かっている」
リーゼは悔しそうに、でもどこか晴れた顔で言った。
「三年待った。もう一日くらい、待つ」
その言葉には、昨日までなかったものがあった。
希望。
まだ細くて、頼りなくて、指先で触れたら折れそうなもの。
でも確かに、そこにあった。
夜、俺は個人記録にこう書いた。
『リーゼの腕輪分離、第一段階完了。
剣技回路に微弱な再通あり。
本人は涙を流したが、処置継続の意思あり。
焦らないこと。
彼女の剣を取り戻すのは、俺ではない。
リーゼ自身だ。
俺は、その道を修復するだけ。』
書き終えて、筆を置く。
外では水車がゆっくり回っている。
ぎし、ぎし、と。
壊れていたものが、少しずつ動き方を思い出していく音だった。




