第19話 臆病者と呼ばれた剣姫
雨は、朝になっても止まなかった。
屋根を叩く音が、治療所の中に低く響いている。昨夜から降り続いた雨で、村の土道はぬかるみ、井戸の周りには小さな水たまりができていた。
それでも、リベル村の朝は動いていた。
水車は雨量に合わせて止めてある。
外周結界は薄い光を保ち、南側の木柵ではトマたちが排水用の溝を掘っている。
治療所では、セリアが朝の水を用意していた。
リーゼは、寝台の上で目を覚ましていた。
ただし、起き上がってはいない。
壁の方を向き、剣を抱えるようにして横になっている。金髪は昨夜よりいくらか整えられ、泥は落ちていたが、顔色はまだ悪い。傷の痛みだけではない。眠っても消えない疲労が、彼女の目元に残っていた。
「熱は下がっています」
セリアが静かに言った。
「傷も悪化していません。今日は無理に動かない方がいいです」
「……命令か」
リーゼの声は低かった。
「お願いです」
「似たようなものだ」
「違います」
セリアは即答した。
リーゼが少しだけ目を動かす。
「何が違う」
「命令なら、あなたの気持ちを聞かなくても従わせます。お願いなら、断ることもできます」
リーゼは黙った。
セリアは温めた布を桶に浸し、絞る。
「傷を拭いてもいいですか」
「……剣には触るな」
「触りません」
「腕輪にも」
「はい」
そのやり取りは、昨夜から何度も繰り返されていた。けれどセリアは、一度も面倒そうな顔をしない。
俺は治療所の入口近くで、リーゼの鎧を見ていた。
胸当ては応急的に外し、別の台の上に置いてある。傷だらけだ。爪痕、打撃痕、古い修理跡。そのどれもが、彼女が戦場で生きてきた証のようだった。
《軽騎士鎧》
《所有者:リーゼ・ヴァルト》
《使用歴:長期》
《修理跡:多数》
《直近破損:灰角魔狼による爪撃》
《過去破損:剣技停止後の防御失敗による打撃痕》
剣技停止後。
鑑定結果は、時々容赦がない。
リーゼは昨夜、自分を「逃げた女」と呼んだ。
でも、この鎧に刻まれている傷は、彼女が逃げるだけの人間ではなかったことを示している。
逃げた者は、ここまで傷を重ねない。
「見るな」
寝台から声がした。
リーゼがこちらを見ていた。
「すみません。鎧の状態を確認していました」
「鎧も泣くだろうな。こんな持ち主に着られて」
「鎧は泣きません」
「比喩だ」
「ただ、鎧はあなたを守っていました」
リーゼの眉が動く。
「何が言いたい」
「丁寧に使われている鎧です。何度も直されている。使い捨てにせず、戦うたびに手入れしてきた跡がある」
「……」
「あなたは、剣を握れなくなってからも戦場に出ていたんですね」
リーゼの表情が強張った。
セリアも手を止める。
雨音だけが、治療所の中に響いた。
「出た」
リーゼは短く答えた。
「出て、役に立たず、また誰かに守られた」
「誰かを守るために出たのでは?」
「守れなかったら同じだ」
声が低くなる。
「剣を握れない剣士に、何の価値がある」
その言葉は、自分に何度も突きつけてきた刃のようだった。
俺はすぐには答えなかった。
セリアが、静かに布を桶へ戻す。
「リーゼさん」
「慰めなら要らない」
「慰めではありません」
「では何だ」
「私も、治せない聖女に価値はないと思っていました」
リーゼがセリアを見る。
セリアは自分の手元を見つめたまま続けた。
「神殿では、聖女候補は人を癒やすためにいると言われました。でも私は、癒やそうとすると魔力が暴れて、物を壊しました。だから、自分には価値がないと思っていました」
「今は違うのか」
「まだ、時々思います」
セリアは正直に答えた。
「でも、この村で小さな傷を洗ったり、熱のある子に水を飲ませたりしていると、癒やすって、大きな奇跡だけじゃないんだと思えるようになりました」
リーゼは何も言わない。
「剣も、そうかもしれません」
「剣を知らない者が、簡単に言うな」
その声には刺があった。
セリアは少し傷ついた顔をしたが、逃げなかった。
「はい。私は剣を知りません」
彼女は言った。
「でも、自分の力が怖い気持ちは、少しだけ知っています」
リーゼの指が、剣の鞘を強く握る。
白くなるほどに。
「……私は怖がったわけじゃない」
かすれた声。
「怖がったわけでは、ないはずだった」
その言葉は、言い訳のようにも、祈りのようにも聞こえた。
俺は鎧から視線を上げる。
「何があったんですか」
リーゼは目を閉じた。
雨音が少し強くなる。
しばらくして、彼女は話し始めた。
「三年前、私は王国騎士団の討伐隊にいた。北部街道に出た黒牙猪の群れを討つ任務だった」
黒牙猪。
猪型の魔獣で、突進力が強い。群れると厄介だが、正面から受けず、脚を止めれば倒せる相手だ。
「私は、若かった。いや、今も若いと言われるかもしれないが……あの頃は、もっと愚かだった。自分の剣は何でも斬れると思っていた」
リーゼは苦く笑う。
「騎士団の連中は、私を剣姫と呼んだ。最初は嫌だったが、いつの間にか慣れていた。褒め言葉だと思っていた。自分は特別だと、どこかで思っていた」
セリアは黙って聞いている。
「討伐は簡単なはずだった。だが、群れの中に変異個体がいた。黒牙猪の皮膚に、妙な黒い紋があった」
俺の手が止まった。
黒い紋。
リーゼは続ける。
「そいつは動きが違った。痛みを感じていないようで、矢を受けても止まらない。私は前に出た。隊長が止めたが、聞かなかった」
彼女の呼吸が少し乱れる。
「斬れると思った。私なら斬れると」
剣を抱く手が震えている。
「だが、剣を振ろうとした瞬間、腕が動かなかった」
セリアが小さく息を呑む。
「正確には、震えた。柄を握っているはずなのに、指が冷たくなって、腕に力が入らない。目の前に敵がいるのに、剣が抜けない」
リーゼの目が開く。
その瞳は、治療所の壁ではなく、三年前の戦場を見ているようだった。
「後ろにいた若い騎士が、私を庇った。名はユリウス。私より年下で、いつも剣の稽古を申し込んできた。うるさい奴だった」
声が震えた。
「そいつが、私の前に出た。黒牙猪に弾き飛ばされて、肋骨を折った。死ななかった。でも、騎士を続けられなくなった」
雨音が、やけに冷たく聞こえた。
「私は、その後も剣を抜こうとした。だが、抜けなかった。腕が震える。呼吸が止まる。敵が近づくほど、体が固まる」
「その時、腕輪は?」
俺が尋ねると、リーゼの視線が腕輪へ落ちた。
「任務の前日、授かった」
やはり。
「ローゼン家の騎士団顧問から?」
「ああ。若き剣姫の功績を讃える、と。騎士団内で授与式まで開かれた。断れる空気ではなかった」
「着けた後、違和感は?」
「少し、手首が冷たかった。でも、名誉勲章だと思っていた。まさか……」
言葉が途切れる。
信じたいわけではない。
でも、繋がってしまう。
前日。
腕輪。
黒い紋を持つ魔獣。
突然の剣技停止。
偶然とは思えなかった。
「その後、騎士団では?」
リーゼは鼻で笑った。
「剣姫が剣を抜けない。笑い話だろう」
「笑ったんですか」
「表では誰も笑わない。だが、聞こえるように言う者はいた。臆病者。名ばかりの剣姫。女が持ち上げられすぎた結果だと」
セリアの表情が曇る。
「隊長は?」
「隊長は庇ってくれた。休めと言った。だが、私は休めなかった。休めば終わると思った。だから、剣を握ろうとして、また震えて、また失敗した」
それは、壊れた水車を無理やり回そうとするようなものだ。
歪んだまま動かせば、傷は深くなる。
「最後は、自分から辞めた」
リーゼは言った。
「そういう形になっている。実際には、辞めるしかなかった。剣を握れない騎士は、騎士ではない」
セリアがそっと言う。
「それでも、剣を手放さなかったんですね」
リーゼは剣を見た。
「手放せなかった」
「大事だから?」
「呪いみたいなものだ」
リーゼは自嘲する。
「剣を握れないくせに、剣を捨てられない。だから余計に惨めだった」
「違うと思います」
セリアが言った。
リーゼが彼女を見る。
「大事だから、手放せなかったんだと思います」
「綺麗なことを言う」
「綺麗ごとです。でも、私はそう思います」
セリアの声は穏やかだったが、引かなかった。
「私も聖印を捨てられませんでした。神殿で怖い思いをしたのに、割れた聖印をずっと持っていました。自分でも、どうしてか分かりませんでした」
彼女は胸元の聖印に触れる。
「でも今は、少し分かります。神殿が怖かったことと、誰かを助けたいと思った気持ちは、同じではなかったからです」
リーゼの目がわずかに揺れた。
「私は……」
彼女は剣を見下ろす。
「私は、まだ剣を振りたいのか」
誰に聞いたのでもない声だった。
セリアは答えない。
俺も答えない。
それはリーゼ自身が見つけるべき答えだからだ。
少しして、リーゼは疲れたように目を閉じた。
「すまない。話しすぎた」
「体に響きます。少し休みましょう」
セリアが布を直す。
「子供扱いするな」
「怪我人扱いです」
「……それも腹が立つな」
「腹が立つ元気があるなら、少し安心です」
セリアは淡々と言った。
リーゼは一瞬呆れたような顔をして、それから小さく笑った。
「君は、見た目より強いな」
「最近、少しだけ」
「誰のおかげだ」
セリアは俺の方をちらりと見た。
「皆のおかげです」
そう答えた。
少し前なら「レオンさんのおかげです」と言っていたかもしれない。
今の彼女は、自分を支えているものが一つではないと分かっている。
それが嬉しかった。
リーゼは眠りに落ちる前に、小さく言った。
「腕輪のこと……もう少し聞かせろ。だが、今日は触るな」
「触りません」
「剣にも」
「触りません」
「約束だ」
「約束します」
リーゼはそれを聞くと、ようやく目を閉じた。
雨は昼過ぎまで続いた。
リーゼが眠っている間、俺は村長の家で、彼女の話を記録した。
トマと村長、セリアも同席している。
「黒い紋の魔獣か」
村長が低く言った。
「リベル村を襲った呪印付き魔狼と似ています」
「三年前の騎士団任務。腕輪授与の翌日。ローゼン家の騎士団顧問。黒い紋の魔獣」
トマが指折り数える。
「偶然にしちゃ、できすぎだな」
「はい」
俺は腕輪の鑑定結果を書き込む。
『腕輪型呪具。剣技回路封鎖。恐怖反応増幅。ローゼン家関与の可能性。』
セリアが真剣な顔で言う。
「私の封印とも似ているんですよね」
「はい。ただ、構造は少し違います。セリアの封印は魔力回路と祈祷回路に干渉していました。リーゼの腕輪は剣技回路と恐怖反応を結びつけている」
「どちらも、本人に自分が悪いと思わせる」
セリアの言葉に、部屋が静かになった。
まさにそこだった。
ただ力を奪うだけではない。
本人が自分を責めるように壊す。
嫌な術式だ。
「怒るなとは言わん」
村長が言った。
「だが、怒りに飲まれるな」
「分かっています」
「レオン殿は、そういうところで静かに怒る。静かな怒りは、熱い怒りより長く燃えるからな」
見抜かれていた。
「証拠を集めます」
俺は言った。
「リーゼの腕輪、彼女の証言、騎士団記録、黒い紋の魔獣の情報。セリアの封印や北の祠とも比較します」
「王都に出すか」
「今すぐは危険です。ローゼン家の名前がある以上、どこへ出すか慎重に考える必要があります」
トマが苦い顔をする。
「王都ってのは面倒だな」
「人が多いぶん、味方も敵もいます」
「味方は?」
「ラウル査察官と、ミリア監査員は比較的信頼できると思います。ただ、全部を預けるにはまだ早い」
村長が頷く。
「なら、まず村で記録を固める」
「はい」
セリアが静かに言った。
「リーゼさんの意思も記録した方がいいですか」
「必要です。ただし、本人が望むなら」
「私、話してみます」
「無理はしないでください」
「はい。命令ではなく、お願いとして」
セリアはそう言って、小さく微笑んだ。
夕方、雨が上がった。
雲の切れ間から、薄い光が差し込む。
水たまりに空が映り、村の土道はまだぬかるんでいたが、雨上がりの匂いは悪くなかった。
治療所の窓を開けると、冷たい風が入る。
リーゼは再び目を覚ましていた。
彼女は上体を起こし、窓の外を見ていた。剣はまだ膝の上に置いている。触れているだけで腕が震えるのか、指先がかすかに動いていた。
「無理に持たなくてもいいんですよ」
セリアが言う。
「置いたら、二度と持てなくなる気がする」
リーゼは外を見たまま答えた。
「そう思って、三年持ち続けた」
「重くありませんか」
「重い」
「手放したいですか」
リーゼは黙った。
長い沈黙。
「分からない」
やがて、彼女はそう答えた。
「握りたいのか、捨てたいのか、分からない。ただ、誰かに奪われるのは嫌だ」
それは、今の彼女にとって精一杯の本音なのだろう。
俺は頷いた。
「それで十分です」
「何が十分なんだ」
「奪われたくないと思えるなら、まだ大事なんだと思います」
リーゼは俺を見る。
「お前は、ずいぶん簡単に言う」
「簡単ではないです」
「……そうか」
彼女は剣の柄に視線を落とした。
「もし、腕輪が本当に原因なら」
声が震えた。
「私は、また剣を握れるのか」
「可能性はあります」
「断言しないんだな」
「断言した方が安心しますか」
「いや」
リーゼは苦く笑った。
「断言されたら、嘘だと思った」
「なら、正直に言います。直せる可能性は高いです。ただし、痛みや記憶がすぐ消えるわけではありません。腕輪を外しても、心に残ったものとは向き合う必要があります」
「嫌なことを言う」
「すみません」
「だが、嘘よりいい」
リーゼは小さく息を吐いた。
「地下工房だったか」
「はい」
「そこでなら、腕輪を調べられるんだな」
「はい。ただ、リーゼさんが望むならです」
彼女は窓の外を見る。
雨上がりのリベル村。
井戸のそばでは子供たちが水たまりを避けながら走り、トマが「転ぶぞ」と怒鳴っている。水車はまだ止まっているが、夕方にはまた動かす予定だ。木柵の向こうでは、結界の光が薄く揺れている。
リーゼはその光景を、じっと見ていた。
「変な村だな」
「よく言われます」
「壊れた井戸が直り、捨てられた聖女が治療所にいて、追放された鑑定士が先生と呼ばれている」
「整理されると、確かに変ですね」
セリアがくすりと笑う。
リーゼも、わずかに口元を緩めた。
「なら、壊れた剣士が一人増えても、今さらか」
その言葉に、俺とセリアは顔を見合わせた。
「リーゼさん」
「試す」
彼女は言った。
「腕輪を調べろ。ただし、勝手に外すな。剣にも触るな。私が止めろと言ったら止めろ」
「もちろんです」
「それと」
リーゼは少しだけ言いにくそうにした。
「……怖くなったら、待て」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
セリアが優しく頷く。
「待ちます」
リーゼは目を逸らす。
「返事が早い」
「大事なことなので」
「君は本当に、見た目より強い」
「最近、少しだけです」
リーゼは今度こそ、小さく笑った。
その夜、俺は記録にこう書いた。
『リーゼ・ヴァルト、腕輪調査を本人意思により了承。
条件:腕輪を勝手に外さない。剣に触れない。本人が停止を求めた場合、即時中断。
恐怖反応あり。だが、本人は“奪われたくない”と発言。
才能回路修復には、本人の意思確認が不可欠。』
最後に、もう一文。
『明日、地下工房で腕輪の精査を行う。』
筆を置くと、外から水車の音が聞こえ始めた。
雨上がりの夜に、ぎし、ぎし、と。
リベル村は今日も動いている。
完全ではない。
不格好で、傷だらけで、ところどころ軋んでいる。
それでも、止まってはいない。
リーゼも、きっと同じだ。




