第18話 壊れた剣を抱えた女騎士
その日の夕方、リベル村には雨の匂いがしていた。
空はまだ落ちてきていない。けれど、森の向こうの雲が重い。水車の音も、いつもより低く響く。風が湿っていて、木柵の古い板がきしむたびに、村人たちは無意識に空を見上げていた。
「降るな」
トマが南の木柵を叩きながら言った。
「たぶん夜には」
俺は修理した弓の弦を確認しながら答えた。
「雨の日は魔物が出やすいんですか?」
「出る時は出る。出ねえ時は出ねえ」
「参考になりませんね」
「自然なんてそんなもんだ」
トマは肩をすくめる。
その通りかもしれない。
王都の書類なら、雨天時の魔物出現率だの、視界不良による危険度だの、もっともらしい項目が並ぶだろう。けれど村にいると分かる。自然は、項目通りには動いてくれない。
だからこそ、記録する。
だからこそ、見ておく。
俺は南木柵の補修記録に目を落とした。
『南木柵、ひび二つ。補修済み。雨天時、再確認。』
トマの字だ。
まだ少し大きいが、昨日よりずっと読みやすい。
「上手くなりましたね」
「おだてても字の練習は増やさねえぞ」
「増やすつもりでした」
「やめろ」
そんな話をしていると、治療所の方からセリアが小走りでやって来た。
手には布袋。中には薬草と浄化水の小瓶が入っている。
「レオンさん、トマさん。見回りですか?」
「木柵の確認です」
「私も、治療所の雨漏りを見てきました。北側の窓のところ、少し水が入るかもしれません」
「あとで見ます」
「今日は休む予定では?」
「見るだけです」
セリアがじっとこちらを見る。
「見るだけで終わりますか?」
「努力します」
「努力ではなく、約束です」
最近、セリアはこういうところで一歩も引かない。
トマが笑う。
「先生、完全に管理されてるな」
「村の安全管理の一部です」
セリアが真顔で言った。
「レオンさんが倒れると、村の復旧が遅れます」
「俺は設備扱いですか?」
「大事な設備です」
「それは喜んでいいんでしょうか」
「はい」
あまりに真剣なので、反論できなかった。
その時だった。
外周結界が、微かに震えた。
青白い光が、南側の木柵に沿って一瞬だけ強くなる。
俺とセリアは同時に顔を上げた。
「今の」
「結界反応です」
俺はすぐに鑑定を広げる。
《外周結界第一層》
《接触反応:南西外縁》
《魔物反応:なし》
《人間反応:一》
《状態:負傷》
「人です。南西側」
トマがすぐに弓を手に取る。
「怪我人か?」
「たぶん。魔物反応はありません」
「油断はしねえ」
「それでいいです」
俺たちは南西の木柵へ向かった。
雨前の風が草を揺らしている。森の縁は薄暗く、足元には湿った土の匂いがした。
木柵の外、結界の境目に、人影が倒れていた。
鎧を着ている。
銀灰色の軽鎧。
王都騎士団で使われる型に近い。ただし傷だらけで、肩の留め具は外れ、胸当てには深い爪痕が残っている。
長い金髪が泥にまみれていた。
女だ。
腰には剣がある。
鞘ごと抱えるようにして、彼女は地面に倒れていた。
「生きてますか」
セリアが息を呑む。
「生きています」
鑑定結果が浮かぶ。
《対象:リーゼ・ヴァルト》
《職業:剣士》
《状態:裂傷/魔力疲労/脱水/精神負荷》
《生命危険度:中》
《剣技回路:異常》
《外部呪具反応:微弱》
リーゼ・ヴァルト。
名前に、聞き覚えがあった。
王都騎士団の若き剣姫。
数年前、最年少で騎士団の実戦部隊に入った天才。
その後、突然名前を聞かなくなった。
「知り合いか?」
トマが尋ねる。
「直接は。でも名前は知っています。元王国騎士団の人です」
「騎士団の人間が、なんでこんな所で倒れてる」
「分かりません。まず助けます」
セリアがすでに浄化水を取り出していた。
「結界の内側に運びましょう。外だと危ないです」
「俺が抱える」
トマが木柵の門を開け、慎重に外へ出る。
俺も一緒に出た。
リーゼのそばへ近づいた瞬間、彼女の手が剣の柄を強く握った。
「……触るな」
かすれた声。
意識がある。
「安心してください。助けに来ました」
「剣に、触るな」
彼女の目が薄く開いた。
灰色に近い青い瞳。
熱と疲労で焦点は合っていない。それでも、その視線は鋭かった。
「分かりました。剣には触りません」
俺が言うと、彼女の指から少し力が抜けた。
トマが小声で聞く。
「本人は?」
「触れて大丈夫だと思います。ただ、剣には触らないでください」
「難しい注文だな」
それでもトマは器用に彼女の体を抱え上げた。剣を抱えた腕には触れないようにしている。
リーゼは痛みに顔を歪めたが、剣から手を離さなかった。
結界の内側へ入ると、セリアがすぐに動いた。
「治療所へ。傷は深いです。でも、今すぐ命に関わる出血ではありません」
「分かるのか」
トマが驚く。
「少しずつですが」
セリアは真剣な顔だった。
「レオンさん、肩と脇腹を見てください。鎧を外す必要があります。でも、剣を持った腕は無理に動かさない方がいいです」
「分かりました」
治療所へ運び込むと、村の女性たちが布と湯を用意した。
セリアの指示は、前よりずっと落ち着いていた。
「水を少し。熱すぎないように。布は清潔なものを。トマさん、入口を見ていてください。念のため」
「おう」
リーゼは寝台に横たえられても、剣を抱いたままだった。
セリアがそっと声をかける。
「傷を洗います。痛いと思いますが、少し我慢してください」
「……剣には触るな」
「触りません」
「絶対に」
「はい。約束します」
セリアの声は柔らかかった。
彼女自身、触れられたくない恐怖を知っているからだろう。
俺はリーゼの鎧を鑑定する。
《軽騎士鎧》
《状態:破損多数》
《肩部留め具:解除可能》
《胸当て:無理に外すと傷口拡大》
「肩から外します。胸当ては傷に食い込んでいるので、先に固定具を切ります」
「任せます」
セリアが頷く。
修復針を工具代わりに使い、鎧の固定具を外す。
傷口に触れないように、金具を一つずつ緩める。
リーゼの呼吸が浅い。
だが、剣を抱く手だけは震えている。
いや、震えているのは手だけではない。
腕の魔力回路そのものが乱れている。
《右腕魔力回路:過緊張》
《剣技回路:封鎖》
《恐怖反応:剣接触時増幅》
《外部呪具反応:腕輪》
腕輪。
リーゼの右手首には、細い銀色の腕輪があった。
騎士の勲章か、装飾品のように見える。だが、表面に刻まれた文様が不自然だった。
これが原因か。
セリアが傷を洗い、低位治癒をかける。
白い光がリーゼの肩に触れる。
傷の出血が落ち着いた。
リーゼの眉間が少しだけ緩む。
「……聖女か」
かすれた声で、彼女が呟いた。
「いいえ。リベル村の治療補助者です」
セリアはそう答えた。
その言い方は、もう自然だった。
リーゼは薄く目を開ける。
「治療補助者……?」
「はい。今はそう名乗っています」
「変な村だな」
「よく言われるようになりました」
セリアが少し笑う。
その笑いに、リーゼは一瞬だけ目を細めた。
警戒が完全に解けたわけではない。だが、少なくとも敵意はないと判断したようだった。
「あなたの名前を聞いてもいいですか」
俺が尋ねると、リーゼはわずかに黙った。
「……リーゼ」
「リーゼ・ヴァルトさんですね」
彼女の目が鋭くなる。
「知っているのか」
「名前だけです。王都騎士団の剣姫と呼ばれていた方でしょう」
リーゼの顔が、はっきりと歪んだ。
「その名で呼ぶな」
低い声。
「すみません」
「私はもう騎士ではない。剣姫でもない」
彼女は剣の柄を握りしめる。
「ただの、逃げた女だ」
セリアが何か言いかける。
俺は小さく首を横に振った。
今、慰めは届かない。
「分かりました。リーゼさん」
俺はそう呼び直した。
彼女の表情が少しだけ和らいだ。
「ここはリベル村です。あなたは村の外で倒れていました」
「リベル……」
「何に追われていましたか」
「魔物だ。森で、灰角魔狼に」
「一人で?」
「……一人で」
その返事には、何か隠れている。
だが、今は問い詰めない。
リーゼの視線が俺の腰の修復針へ向いた。
「お前は何者だ」
「鑑定士です」
「鑑定士?」
彼女は疑わしげに俺を見る。
「鑑定士が、鎧を外せるのか」
「壊れているところを見るのは得意なので」
「……妙な鑑定士だ」
「最近よく言われます」
セリアが横で小さく笑った。
リーゼはその笑いを見て、少しだけ不思議そうな顔をした。
治療が一段落したところで、俺は腕輪を見た。
「リーゼさん。一つ確認してもいいですか」
「何だ」
「その腕輪は、いつから着けていますか」
彼女の表情が固まった。
「触るな」
「触りません。見るだけです」
「見るだけで何が分かる」
「少しは」
リーゼはしばらく俺を睨んでいた。
やがて、目を逸らす。
「騎士団にいた時に授かった。功績の証だ」
「誰から?」
「ローゼン侯爵家の騎士団顧問から」
ローゼン。
その名を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。
セリアも気づいたように俺を見る。
ローゼン侯爵家。
王都の大商会と繋がりがあると商人が言っていた家。
まだ直接関わったわけではないが、妙に名前が出てくる。
「その腕輪を着けてから、剣に異常が出ましたか」
リーゼの顔色が変わった。
「……なぜ分かる」
「鑑定結果です」
「何を見た」
「剣技回路が封鎖されています。腕輪から外部呪具反応がある」
治療所の空気が静まり返った。
リーゼは、最初何を言われたのか分からないような顔をした。
やがて、低く笑った。
「馬鹿な」
「リーゼさん」
「馬鹿なことを言うな」
彼女の声が震えている。
「私は……私が、剣を握れなくなったのは、私が恐れたからだ。戦場で仲間を守れなかったから。剣を抜こうとして、腕が震えて、足が止まって……」
言葉が崩れていく。
「皆が見ていた。臆病者だと言われた。剣姫など偽物だったと」
彼女は剣を抱きしめる。
「今さら、腕輪のせいだと?」
「すべてが腕輪のせいだと断定はしません」
俺は慎重に言った。
「でも、少なくともあなたの剣技回路には外部干渉があります。あなたの才能そのものが壊れたわけではありません」
「やめろ」
「慰めではありません」
「やめろと言っている!」
リーゼが叫んだ。
治療所の瓶が小さく震えた。
村の女性たちが驚く。セリアがすぐに手を広げ、皆を落ち着かせる。
「大丈夫です。離れていてください」
リーゼは肩で息をしていた。
目には怒りと恐怖が混じっている。
信じたい。
でも信じたら、これまで自分を責めてきた時間が崩れる。
たぶん、そういう顔だった。
セリアが静かに言った。
「リーゼさん」
「……何だ」
「私も、自分の力が壊れていると思っていました」
リーゼの視線がセリアへ向く。
「神殿で、失敗作だと言われました。私は人を治せず、周りを壊すだけだと。でも、レオンさんに言われました。私が壊れているんじゃなくて、流れが壊されているだけだと」
「だから何だ。私も同じだとでも?」
「同じかどうかは分かりません」
セリアは首を横に振った。
「でも、今すぐ信じなくてもいいと思います」
リーゼが言葉を失う。
「私も、すぐには信じられませんでした。だから、少しずつでいいんです」
その言葉は、優しかった。
優しさを押しつけない優しさだった。
リーゼは、しばらくセリアを見ていた。
やがて、かすれた声で言う。
「私は……もう剣を握れない」
「今は、そうかもしれません」
俺は言った。
「でも、直せる可能性があります」
「直す?」
「はい。ただし、無理にはしません。治すかどうか、いつ試すかは、リーゼさんが決めてください」
彼女の手が、また剣の柄を握る。
その手は震えている。
「私が、決める……?」
「はい」
リーゼは目を伏せた。
長い沈黙。
治療所の外で、風が強くなった。
雨が近い。
やがて、リーゼは小さく言った。
「考えさせろ」
「もちろんです」
「剣には触るな」
「触りません」
「腕輪にも」
「今は触りません」
その答えに、彼女は少しだけこちらを睨んだ。
「今は、か」
「必要になれば、相談します」
「変な鑑定士だ」
「よく言われます」
今度は、リーゼもほんの少しだけ笑った。
疲れ切った、ほとんど笑みにもならない表情だったが、それでも笑った。
夜になり、雨が降り始めた。
リーゼは治療所の奥で眠っている。
眠りは浅い。時折うなされ、剣を抱きしめるように体を丸める。
セリアはそのそばに座っていた。
「休んだ方がいいですよ」
俺が声をかけると、彼女は小さく首を振った。
「もう少しだけ」
「セリアも疲れています」
「はい。でも、今夜だけは近くにいたいんです」
彼女は眠るリーゼを見た。
「私、あの人の顔を見て、少し前の自分を思い出しました」
「……そうですね」
「信じたいのに、信じるのが怖い顔でした」
セリアの声は静かだった。
「自分のせいじゃなかったかもしれないって、嬉しいはずなのに、怖いんです。じゃあ今までの苦しみは何だったのかって、思ってしまうから」
俺は何も言えなかった。
セリアはそれを、きっと自分の経験として知っている。
「リーゼさん、直せますか」
「可能性は高いです。ただ、腕輪を無理に外すと危険です。地下工房で慎重に見る必要があります」
「ローゼン侯爵家……」
セリアがその名を呟く。
「最近、その名前が何度も出ますね」
「偶然ならいいんですが」
「偶然じゃなかったら?」
「証拠を集めます」
村長に言われた言葉を思い出す。
怒りだけでは守れない。
証拠を集めろ。
その通りだ。
リーゼの腕輪。
セリアの封印。
北の祠の呪印。
リベル村の結界反転。
点が、少しずつ線になり始めている。
治療所の窓に、雨粒が当たる。
セリアは眠るリーゼの布を直した。
「ここは、壊れた人が来る村なんでしょうか」
「そうかもしれません」
「だったら、直せる村にしたいですね」
「はい」
その言葉に、俺は頷いた。
夜更け。
空き家に戻った俺は、リーゼの鑑定結果を記録した。
『リーゼ・ヴァルト。元王国騎士団。
右手首の腕輪に外部呪具反応。
剣技回路封鎖。恐怖反応増幅。
本人は剣恐怖を自責している。
腕輪はローゼン侯爵家より授与された可能性。
無理な解除は危険。地下工房で精査が必要。』
最後に、一文を加える。
『才能は、誰かに奪われていいものではない。』
筆を置く。
雨の音が強くなっていた。
リベル村は、また一人、壊された者を迎えた。
そして俺は、改めて思う。
この村で直しているものは、井戸や水車だけではない。
人が、自分を取り戻す場所。
リベル村は、少しずつそんな場所になり始めている。




