第2話 俺がいなくなっても、勇者様なら大丈夫でしょう
王都へ戻る道を選ばなかったのは、意地だったのかもしれない。
夜明け前の街道は、薄い霧に沈んでいた。踏み固められた土の道を、俺はひとりで歩いている。背負っている荷物は少ない。着替えが二組、保存食が少し、古びた鑑定用の小道具。それだけだ。
勇者パーティーにいた頃は、荷物が多かった。
予備の魔石。簡易修理具。魔物の素材帳。薬草の分類表。地図。野営道具。全員分の装備点検表。エレナの杖に使う調整石。ガレスの鎧の補修用金具。マリウスが読み散らかした古文書の写し。
そして、カイルの聖剣の整備記録。
今思えば、よくあれだけのものを持ち歩いていたものだ。
「……身軽だな」
口にしてみると、思ったより寂しい言葉だった。
しばらく歩くと、街道沿いに小さな乗合馬車の停留所が見えてきた。屋根だけの簡素な待合所で、眠そうな御者が馬に水を飲ませている。
「すみません。乗れますか」
俺が声をかけると、御者は目をこすりながらこちらを見た。
「どこまでだい?」
「行けるところまで。できれば、王都から離れる方向で」
御者は少しだけ眉を上げた。
「訳ありか」
「まあ、少し」
「金は?」
「あります」
硬貨を見せると、御者は肩をすくめた。
「なら客だ。乗りな」
馬車にはすでに何人か乗っていた。商人らしい中年の男、眠っている母子、槍を抱えた若い護衛。俺は一番端の席に腰を下ろす。
馬車がゆっくりと動き出した。
車輪が小石を踏む音が、朝霧の中に転がっていく。
王都の外壁が遠ざかる。
あそこに戻る理由は、もうない。
「兄ちゃん、冒険者か?」
向かいの商人が、こちらを見て言った。
「いえ。冒険者というほどでは」
「じゃあ、旅人?」
「そんなところです」
曖昧に答えると、商人は俺の腰に下げた古い鑑定具に気づいたらしい。
「鑑定士か」
「一応」
「へえ。若いのに珍しいな。鑑定士ってのは、王都じゃけっこう食える職なんだろ?」
「どうでしょう。場所によります」
少なくとも、勇者パーティーでは食えなかった。
金銭的にはともかく、立場としては。
「どこかの商会にいたのか?」
「少し前まで、冒険者の一団に」
「一団?」
商人は興味深そうに身を乗り出した。
「まさか、勇者様のところじゃないだろうな」
俺は返事に詰まった。
それだけで、商人は目を丸くする。
「おいおい、本当かよ」
「もう抜けました」
「抜けた? 勇者パーティーを?」
「向こうから言われまして」
商人はしばらく黙った後、気まずそうに咳払いした。
「そりゃ……まあ、なんだ。人生いろいろだな」
「はい」
「でも、鑑定士がいると助かるんだがなあ。商売やってると分かるよ。物の状態を見られる奴は大事だ。派手じゃないけどな」
派手じゃない。
その言葉は、不思議と嫌な響きではなかった。
「派手じゃない仕事は、評価されにくいですから」
「そうか? 派手な奴ほど高くつく割に、肝心なところで役に立たんこともあるぞ」
商人は笑った。
俺も少しだけ笑った。
勇者パーティーを出てから初めて、誰かと普通に会話した気がした。
その頃――。
カイルたちは、まだ前線近くの森にいた。
「遅い!」
勇者カイルの声が、木々の間に響いた。
朝日が差し込み始めた森の中。
勇者パーティーは、夜営地をたたみ、予定通り魔物の巣を叩くはずだった。
だが出発は遅れている。
「ガレス、鎧の調整にどれだけ時間をかけてる」
カイルが苛立たしげに言う。
大柄な聖騎士ガレスは、苦い顔で肩当てを押さえていた。
「悪い。留め具がうまく噛まん」
「昨日まで普通に使っていただろう」
「昨日まではな」
ガレスは金具を何度か動かしたが、鈍い音がして外れた。
「くそ。レオンがいつも見ていた箇所だ」
ぽつりと漏らしたその言葉に、カイルが反応する。
「レオンの名前を出すな」
「いや、事実としてだな」
「金具くらい自分で直せ」
ガレスは黙った。
直せるものなら、と顔に書いてある。
少し離れた場所では、女魔導士エレナが杖の先端を見つめていた。赤い宝玉が、かすかに濁っている。
「……変ね」
彼女は小さく呟く。
昨日の戦闘では、魔力の通りがわずかに重かった。
疲労のせいだと思っていたが、今朝になっても変わらない。
「エレナ、何をしている」
賢者マリウスが声をかける。
「杖の調子が悪いの」
「魔力を流せばいい。君ほどの魔導士なら問題ないだろう」
「そういうことじゃないわ。魔力がどこかで引っかかる感じがするのよ」
「ならば精神的なものだ」
マリウスはあっさりと言った。
「昨夜の追放劇で気分が乱れているのだろう。君は意外と繊細だからな」
「……そうかしら」
「そうだ。杖のせいにするのはよくない」
エレナは何も言わず、宝玉を指でなぞった。
いつもなら、戦闘前にレオンが確認していた。
杖の魔石、魔力伝導の歪み、内部の細かい傷。
彼は地味な顔で、毎回同じことを言っていた。
『エレナさん、今日は火力を少し抑えた方がいいです。杖の芯が熱を持ってます』
そのたびに、エレナは面倒そうに返していた。
『分かってるわよ。いちいち細かいのよ、あなた』
今になって、その細かさが頭に浮かぶ。
少しだけ胸がざわついた。
「出るぞ」
カイルが聖剣を抜いた。
朝の光を受けて、銀色の刀身が輝く。
だがその根元に、細い線があった。
カイルは気づいていない。
マリウスも、エレナも、ガレスも。
「今日中に巣を潰す。鑑定士がいなくても、俺たちは勇者パーティーだ」
カイルの声には自信があった。
誰も反論しなかった。
森の奥へ進む。
最初の異変は、罠だった。
「止まれ!」
ガレスが叫んだ時には遅かった。
足元の落ち葉が沈み、地面に刻まれた魔法陣が赤く光る。
「火炎罠だ!」
エレナが咄嗟に防御魔法を展開する。
次の瞬間、地面から炎が噴き上がった。
「くっ……!」
熱風が吹き荒れ、全員が後ろへ飛び退く。
致命傷ではない。
だが、カイルの外套の端が焦げ、ガレスの鎧が黒く焼けた。
「なぜ罠がある!」
カイルが怒鳴る。
マリウスが険しい顔で周囲を見回した。
「魔物が仕掛けたのだろう」
「そんなことは分かっている! なぜ気づかなかった!」
「私は賢者であって斥候ではない」
「レオンなら見抜いていたわ」
エレナが、思わずそう言った。
空気が止まった。
カイルがゆっくり振り返る。
「今、なんて言った?」
「……何でもない」
「言え」
「罠の痕跡を見るのは、あの人の仕事だったって言っただけよ」
カイルの表情が険しくなる。
「お前まで、あいつが必要だったと言うのか」
「そこまでは言ってないわ」
「なら黙ってろ」
エレナは唇を噛んだ。
ガレスが間に入る。
「今は言い争ってる場合じゃない。魔物が来る」
その言葉通り、森の奥から低い唸り声が聞こえた。
灰色の毛並み。鋭い爪。額に黒い角。
魔狼の群れだ。
ただの魔狼ではない。
レオンがいれば、すぐに分かっただろう。
この群れの先頭にいる個体は、炎耐性を持つ変異種だと。
「エレナ、焼き払え!」
「分かった!」
エレナが杖を掲げる。
炎の槍がいくつも生まれ、魔狼の群れへ飛ぶ。
直撃。
だが、魔狼たちは炎の中から飛び出してきた。
「効いてない!?」
「なぜだ!」
カイルが聖剣を構える。
魔狼の一体が跳びかかる。
カイルは聖剣を振り抜いた。
白い光が走る。
魔狼は斬られた。
だが同時に、聖剣から嫌な音がした。
ぴしり。
小さな音。
戦場の喧騒の中では、誰にも聞こえないほどの。
しかしカイルの手には、その震えが伝わった。
「……?」
彼は一瞬だけ刀身を見る。
根元のひびが、少し広がっていた。
「カイル!」
ガレスの声で我に返る。
魔狼の群れはまだいる。
「くそっ!」
カイルは再び剣を振るった。
そのたびに、聖剣は光る。
勇者の剣として、確かに強い。
だが。
傷は、確実に深くなっていた。
一方その頃、俺を乗せた馬車は街道を南へ進んでいた。
昼前になると霧は晴れ、空は気持ちよく青かった。
王都周辺の整った石畳とは違い、道はだんだん荒れていく。車輪が跳ねるたび、馬車の中で荷物が小さく揺れた。
「この先は辺境だよ」
御者が振り返らずに言った。
「リベル村まで行くが、そこでいいか?」
「リベル村?」
「知らんのか。まあ、知らん方が普通だな。水が少なくて、魔物も出る。若い奴はだいたい王都へ出ちまう。残ってるのは年寄りと、行き場のない連中だ」
「行き場のない連中……」
「悪い意味じゃねえよ。王都でうまくいかなかった奴も、ああいう村なら仕事が見つかることがある」
御者はそこで少し笑った。
「まあ、仕事っていっても、壊れた柵を直すとか、畑を耕すとか、井戸を掘るとかだがな」
「壊れたものを直す、ですか」
「何だ、嫌か?」
「いえ」
むしろ、少し落ち着いた。
壊れたものを見るのは、昔から得意だった。
直すのは、専門ではない。
そう思っていた。
けれど勇者パーティーでも、俺はいつも何かを直していた気がする。
装備の歪み。
魔道具の不調。
進行計画の穴。
仲間の疲労。
ただ、それが仕事だと思っていただけで。
「鑑定士さん」
ふいに、隣から声がした。
眠っていた母子のうち、母親の方がこちらを見ていた。
腕の中の子供はまだ眠っている。
「はい」
「この子、熱があるんです。薬は飲ませたんですが……少し見てもらえませんか。もちろん、お医者様じゃないのは分かってます。ただ、何か悪いものでも食べたのかと思って」
俺は一瞬迷った。
人間の身体を鑑定するのは、あまり得意ではない。
医師ではないし、下手なことは言えない。
「分かる範囲でよければ」
そう答えると、母親は頭を下げた。
子供の額に触れる。
熱い。
俺は意識を集中した。
鑑定。
視界に文字が浮かぶ。
《軽度発熱》
《原因:疲労・水分不足》
《危険度:低》
《必要処置:休息、水分、体温管理》
そこまでは普通だった。
だが、その下にもう一行、見慣れない表示が出た。
《魔力循環:微細な滞り》
《修復可能》
「……修復?」
「え?」
母親が不安そうに聞き返す。
「あ、いえ。熱は重い病ではなさそうです。疲れと水分不足だと思います。涼しいところで休ませて、水を少しずつ飲ませてください」
「本当ですか?」
「はい。無理に食べさせなくて大丈夫です」
母親はほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
俺は手を引っ込め、窓の外を見る。
修復可能。
今、そう見えた。
人の身体に対して。
「……疲れてるのかな」
小さく呟いた。
追放されたばかりだ。
変なものが見えても不思議ではない。
そう思うことにした。
馬車はさらに進む。
王都の塔は、もう見えない。
代わりに、遠くの山並みと、寂れた村へ続く細い道が見え始めていた。
その頃、森の戦闘は終わりかけていた。
勇者パーティーは魔狼の群れを倒した。
勝った。
勝ったはずだった。
しかし、誰も勝利に酔っていない。
ガレスの鎧は焦げ、エレナの杖は煙を上げ、マリウスは肩で息をしている。
カイルの聖剣には、誰の目にも分かるほどの亀裂が走っていた。
「……カイル」
エレナが声をかける。
「その剣」
「黙れ」
「でも」
「黙れと言っている!」
カイルの声が森に響いた。
エレナは口を閉じる。
ガレスが、低い声で言った。
「一度戻るべきだ。装備を整え直さんと危ない」
「この程度で戻れるか」
「この程度じゃない。聖剣にひびが入っている」
カイルはぎり、と奥歯を噛んだ。
昨夜のレオンの言葉が、耳に残っている。
『その剣、もうすぐ折れますよ』
負け惜しみ。
そう思った。
思いたかった。
「……次で終わらせる」
カイルは剣を鞘に収めた。
「魔物の巣を潰してから戻る」
「正気か?」
ガレスが眉をひそめる。
「勇者の剣が折れるわけない」
カイルはそう言い切った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、その声はさっきより少しだけ硬かった。
馬車がリベル村へ着いたのは、夕方近くだった。
村は、想像以上に小さかった。
古びた木柵。
傾いた家。
水気の少ない畑。
遠くからでも分かる、沈んだ空気。
けれど、完全に死んだ村ではなかった。
煙突からは細い煙が上がり、子供が二人、壊れた桶を転がして遊んでいる。年老いた男が井戸の前で空の桶を持ち、深いため息をついていた。
「ここがリベル村だ」
御者が言う。
「兄ちゃん、泊まるところなら村長に聞きな。宿はないが、空き家くらいはある」
「ありがとうございます」
馬車を降りる。
足元の土が乾いている。
水が足りない村の匂いがした。
商人が荷物を下ろしながら言う。
「鑑定士さん、世話になったな」
「こちらこそ」
「王都で何があったか知らんが、まあ、うまくやれよ」
そう言って、商人は村の方へ歩いていった。
俺はしばらくその場に立っていた。
勇者パーティーを追放されて、たどり着いたのがこの村。
華やかさはない。
名誉もない。
強大な魔物討伐もない。
でも、不思議と息はしやすかった。
「さて……まずは村長さんを探すか」
そう呟いて歩き出した、その時だった。
村の外れから、騒ぎ声が聞こえた。
「誰か来てくれ!」
「またあの子だ!」
「離れろ! 巻き込まれるぞ!」
悲鳴に近い声。
俺は反射的に走り出していた。
村外れの小さな納屋。
その前に、白い修道服の少女がうずくまっていた。
長い銀色の髪は泥に汚れ、細い肩が震えている。
手には、ひび割れた聖印。
周囲の村人たちは、遠巻きに彼女を見ていた。
「近づくな! また魔力が暴れる!」
「でも、このままじゃ……」
少女が苦しそうに息をする。
彼女の周囲で、淡い白い光が不規則に弾けていた。
癒やしの光に見える。
だが流れが歪んでいる。
危ない。
そう思うより先に、俺の視界に文字が浮かんだ。
《対象:セリア・ルミナス》
《職業:聖女候補》
《状態:魔力回路破損》
《封印痕あり》
《暴走危険度:高》
そして、その下。
《修復可能》
俺は息を呑んだ。
まただ。
修復可能。
なぜ、そんな表示が見える。
「おい、旅の人! 近づくな!」
村人が叫ぶ。
けれど俺は、足を止められなかった。
少女が顔を上げる。
青い瞳が、怯えたように揺れていた。
「来ないで……」
かすれた声。
「私に近づいたら、あなたまで……」
白い光が、また弾ける。
納屋の壁板が一枚、内側から押されたように割れた。
村人たちが悲鳴を上げる。
俺は少女の前で膝をついた。
「大丈夫」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「君は、壊れてるわけじゃない」
少女が目を見開く。
俺の視界には、彼女の中を走る魔力の線が見えていた。
絡まり、詰まり、無理やり曲げられた流れ。
壊れている。
でも、完全に失われてはいない。
「直せるかもしれない」
そう言った瞬間、少女の瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。
遠くで、夕暮れの鐘が鳴っている。
俺はまだ知らなかった。
この出会いが、追放された俺の人生を変えることを。
そして、この辺境の村から、王国そのものを修復する物語が始まることを。




