第189話 ダリオ再審査、動く
王都再審査室が動いた。
その報せは、思っていたより静かに届いた。
鐘が鳴るような大きな知らせではない。
使者が息を切らして駆け込んできたわけでもない。
通信札に、いつもの王都書式で短く記されていただけだった。
『照会受領。オルド外縁覚書末尾記述に基づき、ダリオ・ヴェント除名処分関連資料の所在確認を開始する』
たったそれだけ。
けれど、その一文で、長く閉じられていた扉が少しだけ動いた。
ダリオ・ヴェント。
元技師。
除名された男。
危険資料を不正に扱ったとされた男。
黒薔薇工房の影と、カリム・ロッサの立会いの中で、記録から押し出された男。
その過去が、ようやく「もう一度見る」と言われた。
翌朝の中央井戸は、相変わらず静かだった。
「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。王都再審査室、ダリオ・ヴェント除名処分関連資料所在確認開始後、継続異常なし」
副記録係が読み上げると、ニコルはいつものように頷いた。
「よいです」
トマは、井戸の縁に片手を置きかけて、すぐ引っ込めた。
「触ってないぞ」
「誰も疑っていません」
「いや、今日はなんとなく先に言っておこうと思って」
ニコルが少しだけ首をかしげる。
「落ち着きませんか」
「落ち着かない」
トマは素直に言った。
「ダリオさんの再審査だろ。外縁とか青根布とか命令戻し線とか、そういう大きい話ももちろん大事だけどさ。今日は、人の人生の話って感じがする」
ニコルは、記録板を抱える手に少し力を入れた。
「はい」
「記録って、怖いな」
「どうしてですか」
「消されたら、人の人生が変わる。戻ったら、また変わる」
ニコルは少し黙り、それから筆を取った。
『記録は、人の人生を変える。消されても、戻っても』
トマはその文字を見て、ため息をついた。
「重いこと言っちゃったな」
「重要です」
「今日は、そういうの多そうだな」
「はい。たぶん、多いです」
広間へ戻ると、ダリオさんはもう席にいた。
豆の椀もある。
昨日より減っている。
トマが見た。
ダリオさんも見返した。
「また数えるか」
「今日は数えません」
「目が数えている」
「……六粒くらい?」
「七粒だ」
「増えてる」
「何が増えてるんだ」
「安心が」
ダリオさんは呆れたように豆を一粒つまみ、口に入れた。
「これで八粒だ。満足か」
「かなり」
村長が低く笑った。
「豆も記録対象になりそうじゃな」
ニコルが一瞬だけ筆を動かしかける。
トマが慌てる。
「そこは書かなくていい!」
「冗談です」
「ニコルの冗談は分かりにくい」
「少し練習中です」
その小さな会話で、広間の重さがほんの少しだけ薄れた。
だが、机の中央に置かれた王都再審査室からの通知を見れば、すぐに空気は戻る。
処分原本。
没収手控え。
立会人カリム・ロッサの署名。
外部監査印。
今日、王都はそれらの所在確認を始める。
ダリオさんは通知を見ながら、静かに言った。
「戻れるかどうかじゃない」
ニコルが顔を上げる。
「昨日も、そう言いました」
「ああ。今日も言う」
ダリオさんは椀を置いた。
「俺は、技師組合に戻りたいわけじゃない。あそこへ戻れば全部が元通りになる、なんて思っていない。そんな歳でもないし、そんな夢もない」
トマが何か言おうとして、やめた。
ダリオさんは続ける。
「だが、消された記録が戻るかどうかは別だ。俺が何を見て、何に反対し、何を危険だと書いたのか。それが“存在しなかったこと”にされているなら、戻さなければならん」
ニコルはゆっくり書いた。
『戻れるかどうかではない。消された記録が戻るかどうか』
セリアが静かに言った。
「薬草でも、抜いた跡が残ります。根を抜いてしまえば元には戻りません。でも、抜いたという記録が残れば、次に同じことを防げます」
ダリオさんは頷いた。
「そうだ。俺の処分が撤回されるかどうかより、なぜ処分されたのかが戻る方が大事だ」
トマが低い声で言う。
「でも、撤回もしてほしいです」
ダリオさんは少し驚いた顔をした。
「お前が言うのか」
「言いますよ」
トマは真っ直ぐだった。
「だって、間違ってたなら、間違ってたって王都が言うべきじゃないですか」
「王都は、そう簡単に謝らん」
「だから、なおさら言わせたい」
広間が少し静かになった。
トマは続ける。
「俺、旧水路で水量板を動かさなかっただけで、後から“それが証拠になった”って言われました。もし、動かしてたら消えてた。ダリオさんの手控えも、どこかに残ってるなら、絶対見つけた方がいいです。消えたと思ってた紙が残ってたら、それは水量板と同じです」
ダリオさんは、しばらくトマを見ていた。
それから、小さく笑った。
「水量板と俺の手控えを並べるか」
「駄目ですか」
「いや。悪くない」
ニコルが記録する。
『消えたと思っていた紙が残っていれば、それは水量板と同じ。未操作保存が真実を残す』
ダリオさんは、その文字を見て少しだけ目を細めた。
「悪くないな、本当に」
午前、王都再審査室から最初の通信が届いた。
『王都再審査室より。ダリオ・ヴェント除名処分関連資料の所在確認状況を報告する。処分原本は技師組合旧懲戒棚に登録あり。ただし閲覧制限付き。開示には外部監査部立会いを要する』
ニコルが復唱する。
『処分原本、技師組合旧懲戒棚に登録あり。閲覧制限付き。外部監査部立会い必要』
トマが言う。
「原本、あるんだ」
ダリオさんは静かに答えた。
「処分原本は、まあ残る。残らない方が問題だ」
王都側は続けた。
『没収手控えについて。通常保管棚には該当なし。焼失資料庫目録にも該当名あり。ただし、“補助封印事故関連私物一括”の項目に含まれた可能性。詳細確認中』
トマが眉を寄せた。
「焼失資料庫……」
ダリオさんの声が少し低くなる。
「そうだ。俺の手控えは、燃えたと言われた」
セリアが問いかける。
「本当に燃えたのでしょうか」
「そう言われた。だが、俺は現物を見ていない」
ニコルが記録する。
『没収手控え、通常保管棚該当なし。焼失資料庫目録に関連項目可能性。本人は現物焼失確認なし』
王都側の報告は続く。
『立会人記録について。ダリオ・ヴェント除名処分の外部立会人として、カリム・ロッサの署名あり。署名横に外部監査印。印周辺の符号は、現在、覚書余白注記の補助印符号と照合中』
広間の空気が重くなる。
カリム。
今度ははっきり、署名として出た。
ダリオさんは目を閉じた。
トマが、拳を握る。
「やっぱり立ち会ってたんですね」
「それは前から分かっていた」
ダリオさんは目を開けた。
「だが、署名横の符号を改めて照合するのは初めてだ」
ニコルが紙に書く。
『カリム・ロッサ署名あり。外部監査印周辺符号を覚書余白注記と照合中』
王都再審査室の報告は一度そこで区切られた。
昼までに、処分原本の閲覧許可を調整するという。
広間では、待つ時間が始まった。
トマが椅子の背にもたれた。
「また待つやつだ」
ニコルが答える。
「はい。待機疲労、記録します」
「もう正式用語だな」
「かなり」
ダリオさんが言う。
「待つくらいなら、作業をしろ。感情を眺めすぎるな」
村長が頷いた。
「今日は、再審査項目を整理する」
ニコルはすぐ新しい紙を出した。
『ダリオ・ヴェント除名処分再審査項目』
一、処分原本の記載内容。
二、処分理由。
三、危険資料不正所持の根拠。
四、没収手控えの所在。
五、没収時の立会人。
六、カリム・ロッサ署名。
七、外部監査印周辺符号。
八、黒薔薇工房との関係。
九、命令戻し線に対するダリオの見解の有無。
十、オルド外縁覚書末尾“D.V.へ渡すな”との関連。
トマが九番を見て言った。
「ダリオさんが、当時から命令戻し線を危ないって言ってたかどうか、ですよね」
ダリオさんは頷く。
「俺の記憶では言った。何度もな」
セリアが静かに聞く。
「記録には残っていないのですか」
「俺の手控えには残した。提出書面には、たぶん削られた」
「削られた?」
「不適切表現として修正を求められた。命令戻し線は封印補助の一案に過ぎず、危険と断ずるのは技師として未熟だとな」
トマが顔をしかめた。
「未熟って……」
「便利な言葉だ」
ダリオさんは苦く笑った。
「若い技師の異論を潰すにはな」
ニコルは丁寧に書いた。
『ダリオ証言:命令戻し線危険性を当時から指摘。提出書面では不適切表現として修正要求。手控えには記載した記憶あり』
昼過ぎ、王都から処分原本の要約が届いた。
『王都再審査室より。外部監査部立会いのもと、ダリオ・ヴェント除名処分原本を確認。要約を報告する。
処分理由:封印補助研究資料の不適切持ち出し。上位技師承認前の外部記録作成。技師組合内守秘規定違反。補助封印事故に関する危険見解の流布。
備考:本人は異議申し立てを行うも、添付手控えは没収。立会人カリム・ロッサ。』
トマが低い声で言った。
「危険見解の流布?」
ダリオさんが答える。
「命令戻し線は危険だと言ったことだろうな」
「それを危険見解って呼んだんですか」
「向こうにとって危険な見解だったんだろう」
セリアが静かに怒った声で言う。
「封印にとって危険なのではなく、工房にとって危険だったのかもしれません」
ニコルが記録する。
『危険見解の流布:命令戻し線危険性の指摘を指す可能性。封印にとって危険な見解か、工房にとって不都合な見解か未確定』
村長が言った。
「没収手控えの扱いは」
王都側の続報。
『没収手控えの保管先について、処分原本には“危険資料添付物として回収。焼失資料庫へ移管予定”と記載。ただし、移管完了印が不鮮明。再確認中』
ダリオさんの指が、机の上で止まった。
「移管予定……?」
ニコルが顔を上げる。
「完了ではありません」
トマが勢いよく言った。
「じゃあ、燃えてないかもしれない?」
ダリオさんはすぐには答えなかった。
その目が、久しぶりに強く揺れていた。
「移管予定で止まっているなら、焼失資料庫へ入る前に別の場所へ回された可能性がある」
ダリオさんの声は低い。
だが、そこには明らかに何かが混じっていた。
希望、というには苦すぎる。
だが、絶望ではない。
ニコルが書く。
『没収手控え:焼失資料庫へ移管予定。移管完了印不鮮明。焼失前に別保管へ移された可能性』
トマが机を軽く叩いた。
「これ、大きいですよね」
ダリオさんが頷く。
「大きい。だが、まだ紙は出ていない」
「でも、完全に燃えたとは言えなくなった」
「ああ」
その短い返事で、広間の全員が息を吐いた。
夕方近く、王都からさらに一報が入った。
『外部監査印周辺符号の暫定照合。ダリオ除名処分原本にあるカリム・ロッサ署名横の符号は、オルド外縁覚書余白の補助印案と、符号構造の一部が類似。ただし、同一筆者かは未確定。符号の目的は、外部監査印の封緘補助、または添付資料の秘匿分類を示す可能性』
ニコルが復唱する。
「封緘補助、または添付資料の秘匿分類」
セリアが眉を寄せる。
「秘匿分類……」
トマが言う。
「隠したってことですか」
ダリオさんは目を細める。
「正式な分類なら、隠したとは言わん。だが、どの棚へ入れるかを変えることはできる」
「つまり、手控えを普通の没収物じゃなく、別扱いにした?」
「可能性だ」
ニコルが書く。
『カリム署名横符号:添付資料の秘匿分類を示す可能性。没収手控えの保管先変更に関与した可能性あり』
トマは、もう隠さず怒っていた。
「これ、完全に再審査必要じゃないですか」
村長が頷く。
「そのために動いておる」
セリアが言った。
「ダリオさんが危険資料を持ち出したのではなく、命令戻し線の危険を記録しようとしていた可能性が強くなっています」
ダリオさんは、静かに言った。
「まだ強くなっただけだ」
「はい」
「だが、昨日よりは近い」
ニコルはその言葉を記録した。
『昨日よりは近い』
夜、王都再審査室から正式な中間通知が届いた。
『中間通知。
オルド外縁覚書末尾記述および余白補修注記との関連により、ダリオ・ヴェント除名処分の根拠資料に再検討の必要ありと判断。
処分原本、没収手控え、立会人カリム・ロッサ署名、外部監査印周辺符号の精査を継続する。
没収手控えについては、焼失資料庫への移管完了が確認できず、別保管の可能性を調査する』
広間に、長い沈黙が落ちた。
トマが最初に言った。
「再検討の必要あり」
ニコルが頷く。
「はい」
「王都が認めた」
「はい」
ダリオさんは、しばらく通知を見ていた。
そして、静かに言った。
「まだ何も戻っていない」
トマが言う。
「でも、探し始めました」
「そうだな」
「それは、何もないのとは違います」
ダリオさんはトマを見て、ほんの少し笑った。
「今日はお前がよく言うな」
「言いますよ。旧水路班長なので」
「関係あるか?」
「たぶん、少しあります。水量板を動かさなかった班長なので」
ダリオさんは、今度はちゃんと笑った。
「そうか。なら聞いておこう」
夜、俺は個人記録を書いた。
『王都再審査室が、ダリオ・ヴェント除名処分関連資料の所在確認を開始。
処分原本は技師組合旧懲戒棚に登録あり。閲覧制限付き。外部監査部立会いのもと要約確認。
処分理由:封印補助研究資料の不適切持ち出し、上位技師承認前の外部記録作成、守秘規定違反、補助封印事故に関する危険見解の流布。
本人異議申し立てあり。添付手控え没収。立会人カリム・ロッサ。
没収手控えは通常保管棚に該当なし。焼失資料庫へ移管予定とあるが、移管完了印不鮮明。別保管の可能性。
カリム署名横の外部監査印周辺符号は、覚書余白補助印案と一部類似。封緘補助または添付資料秘匿分類の可能性。
王都再審査室は、除名処分の根拠資料に再検討の必要ありと判断。精査継続』
最後に書く。
『ダリオ再審査が動いた。
処分原本は残っていた。
没収手控えは、燃えたとされていた。
だが、焼失資料庫への移管完了印が不鮮明だった。
予定と完了は違う。
この違いが、今日の広間を揺らした。
ダリオさんは、戻れるかどうかではない、消された記録が戻るかどうかだと言った。
トマは、消えたと思っていた紙が残っているなら、それは水量板と同じだと言った。
ニコルは、処分理由と、処分を下した者と、没収手控えの所在を分けて書いた。
セリアは、危険見解の流布という言葉の裏に、工房にとって不都合な見解があった可能性を見た。
まだ何も戻っていない。
だが、王都は“再検討の必要あり”と書いた。
それは小さな扉の隙間だ。
明日、その隙間の向こうで、消えなかった手控えを探す。』
地上では、水車が回っている。
流れは戻らない。
けれど、流されたと思っていたものが、どこかの岸に引っかかっていることはある。
ダリオさんの手控えも、まだどこかに引っかかっているかもしれない。




