第188話 D.V.へ渡すな
D.V.へ渡すな。
その文字が見えた、という報告が届いてから、広間の空気は変わった。
カリム系補修注記の可能性。
命令戻し線。
これ以上戻すな。封印が泣く。
そのどれもが重かった。
だが、D.V.へ渡すな、は違った。
それはもう、技術の話だけではない。
誰かの名を狙っている。
誰かを遠ざけようとしている。
あるいは、誰かを守ろうとしている。
D.V.
ダリオ・ヴェント。
まだ断定ではない。
それでも、その二文字は、ダリオさんの胸へまっすぐ突き刺さっていた。
朝の中央井戸で、副記録係が読み上げる声も、今日は少し慎重だった。
「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。覚書末尾に“D.V.へ渡すな”の文字確認後、継続異常なし」
ニコルは頷いた。
「よいです」
トマは井戸の縁から少し離れた場所で、腕を組んでいた。
いつもなら何か言う。
井戸は落ち着いてるな、とか。
水面は正直だな、とか。
待つのが一番疲れる、とか。
だが、今日は何も言わない。
ニコルが記録板を閉じると、トマがようやく口を開いた。
「D.V.って、他の人の可能性もあるんだよな」
「あります」
ニコルは即答した。
「ダリオ・ヴェントさんと断定してはいけません。王都にも、Dで始まる名、Vで始まる家名の人物が他にいる可能性があります」
「そうだよな」
「はい」
「でも、みんなダリオさんだと思ってる」
ニコルは少し黙った。
それから、小さく頷いた。
「はい」
トマは井戸の水面を見た。
「こういう時、断定しないって大事だけど、断定しないから苦しいこともあるな」
「分かります」
「分かる?」
「はい。書けないものは、胸の中で形だけ大きくなります」
トマが、少し驚いたようにニコルを見た。
「ニコル、詩人みたいなこと言うな」
「そうでしょうか」
「今のは、かなりそう」
ニコルは少し恥ずかしそうにしながらも、記録板を開いた。
「でも、書きます」
「自分の言葉も書くのか」
「必要なので」
『断定できないものは、胸の中で形だけ大きくなる』
トマはそれを見て、ふっと笑った。
「今日は、それだな」
広間へ戻ると、ダリオさんはもう席にいた。
豆の椀もある。
昨日よりは少し減っている。
トマはそれを見て、何も言わなかった。
言わなかったが、顔には「よかった」と出ていた。
ダリオさんが言う。
「顔で豆を数えるな」
「数えてません」
「三粒減ったと思っただろう」
「四粒だと思いました」
「数えてるじゃないか」
広間に、ほんの少し笑いが起きた。
ダリオさんは、わざとらしく豆を一粒食べた。
「五粒だ」
トマが真面目な顔で頷く。
「安心しました」
「旧水路班長の仕事に戻れ」
「はい」
笑いはあった。
だが、すぐに薄れた。
机の中央には、昨日の記録が置かれている。
『D.V.へ渡すな』
その文字だけが、やけに大きく見えた。
村長が言った。
「今日は、末尾を読む日じゃ」
ニコルが頷く。
「はい。ただし、文書保存官の判断では、劣化が強い部分です。全文判読できるとは限りません」
「それでよい。読めぬものは読めぬと書け」
ダリオさんが低く言う。
「無理に読んで紙を壊すな。……俺の名前かもしれんからといって、急がせるな」
セリアが静かに頷いた。
「はい」
トマは少し迷ってから、言った。
「ダリオさん」
「なんだ」
「もし、D.V.がダリオさんだったとして……その、どういう意味の“渡すな”かは、まだ分からないですよね」
「分からん」
ダリオさんは即答した。
「危険だから渡すな。利用されるから渡すな。真相を知られると困るから渡すな。守るために渡すな。潰すために渡すな。いくらでもある」
「守るため、もあるんですか」
「ある。だが、守るために知らせないというやり方は、俺は好きじゃない」
その声は苦かった。
ニコルが記録する。
『渡すな、の理由候補:危険回避、利用防止、真相隠蔽、保護、排除。意図未確定』
ダリオさんはそれを見て、小さく笑った。
「こうやって並べられると、腹が立つな」
「すみません」
「謝るな。必要だ」
トマが小さく言う。
「ダリオさんまで“必要”って言い出した」
「便利な言葉だからな」
ニコルが少し不満そうにした。
「便利で使っているわけではありません」
「分かっている」
王都覚書開封室から通信が入ったのは、午前の二つ目の鐘が鳴った後だった。
『王都覚書開封室より。末尾記述の保存処理を一部完了。可視範囲のみ判読します。劣化強く、欠字多数。文書本体は箱内保持。末尾は本文とは別紙片が綴じ込まれた可能性あり』
ニコルが復唱する。
『末尾は本文とは別紙片が綴じ込まれた可能性あり』
ダリオさんの目が鋭くなる。
「別紙片か」
王都側が続ける。
『紙質が本文とやや異なる。時期差は未確定。朱書きではなく、黒墨。ただし墨の濃さは本文末尾より新しい可能性』
セリアが言う。
「また後から挟まれたものかもしれませんね」
ダリオさんが頷く。
「その可能性がある」
王都側。
『判読します。“D.V.へ渡すな”。その前に短文あり。“外縁を読む者は……”以降欠損。“戻し線を……”以降不明瞭』
広間に重い沈黙が落ちた。
ニコルは、筆を止めずに書く。
『外縁を読む者は……戻し線を……D.V.へ渡すな』
トマが眉を寄せた。
「戻し線を……?」
王都側の声が続く。
『欠損部が多く、文意不明。続く行に、“才あり、ゆえに危うし”と読める部分あり』
ダリオさんの顔が、わずかに歪んだ。
才あり、ゆえに危うし。
トマが思わず言った。
「それ、ダリオさんのことみたいじゃ……」
言ってから、しまったという顔をする。
ダリオさんは怒らなかった。
ただ、短く言った。
「似ているな」
ニコルが慎重に書く。
『“才あり、ゆえに危うし”の記述。D.V.がダリオ・ヴェントを指す可能性上昇。ただし未確定』
村長が言う。
「中枢室で照合せよ」
地下工房へ降りる時、ダリオさんはいつもよりゆっくり歩いた。
足が重いのではない。
急がないために、わざとそうしているようだった。
中枢室へ登録する。
『末尾別紙片可能性。“D.V.へ渡すな”。前後欠損。“外縁を読む者は……”“戻し線を……”“才あり、ゆえに危うし”。』
青白い光が揺れた。
その奥に、細い黒紫が混じる。
《末尾別紙片:照合開始》
《D.V.識別候補:ダリオ・ヴェント》
《確度:中》
《戻し線関連警告:欠損》
《才あり、ゆえに危うし:人物評価記述》
《注意:渡すな理由未確定》
俺は読み上げる。
「末尾別紙片、照合開始。D.V.識別候補、ダリオ・ヴェント。確度、中。戻し線関連警告、欠損。才あり、ゆえに危うし、人物評価記述。注意、渡すな理由未確定」
ダリオさんは、青白い表示を見つめたまま呟いた。
「確度、中、か」
「はい」
「妙に腹が立つな。低でも高でもなく中というのが」
「中枢室らしいです」
「そうだな。嫌なほど冷静だ」
広間へ戻ると、ニコルが中枢室表示を記録していた。
トマがすぐに聞いた。
「確度、中って、かなり……」
ダリオさんが言う。
「かなり、だな。だが確定ではない」
「はい」
「その“はい”は、気を使っているな」
「かなり」
トマは正直に答えた。
ダリオさんは少しだけ笑った。
「正直でよろしい」
王都側から、追加判読が入る。
『別紙片の下部。短文あり。“渡せば、戻し線を断つ”。続き、“断てば、工房は……”以降欠損』
広間の空気が、また変わった。
今度は、少し違う。
トマが身を乗り出す。
「渡せば、戻し線を断つ?」
ニコルが復唱する。
『渡せば、戻し線を断つ。断てば、工房は……欠損』
セリアが考え込む。
「D.V.へ渡すな、の理由が……D.V.なら戻し線を断てるから?」
ダリオさんは、目を細めた。
「そう読める可能性が出た」
トマが言う。
「じゃあ、危険だから渡すなじゃなくて、止められるから渡すな?」
「可能性だ」
ダリオさんは、強く言った。
「可能性に過ぎない。だが、重要だ」
王都側はさらに読む。
『“断てば、工房は……”の後、欠損。次行に“黒薔薇”の文字あり。ただし前後不明』
ニコルが書く。
『渡せば戻し線を断つ。断てば工房は……黒薔薇……欠損』
村長が低く言った。
「これは、重いな」
ダリオさんは黙っている。
その顔には、怒りと困惑が同時にあった。
トマが、ゆっくり言った。
「もしこれが本当にダリオさんのことなら……黒薔薇工房は、ダリオさんに覚書を渡したくなかった?」
セリアが続ける。
「戻し線を断たれるから」
ニコルが記録する。
『仮説:D.V.がダリオ・ヴェントなら、覚書を渡すことで命令戻し線を断たれる恐れがあり、黒薔薇工房側が渡すなとした可能性』
ダリオさんが低い声で言った。
「仮説としては成立する」
トマが少しほっとしたような、怒ったような顔をする。
「じゃあ、ダリオさんが危ないから隠したんじゃなくて、ダリオさんが邪魔だから隠した可能性もある」
「ああ」
「それって……」
トマは言葉を探した。
「除名の理由にも繋がりませんか」
広間が静まった。
ダリオさんは、トマを見た。
トマは一瞬怯んだが、目を逸らさなかった。
「すみません。でも、言った方がいいと思って」
「いい。言え」
「ダリオさんが戻し線を断てる人だったなら、工房にとって邪魔だった。だから覚書を渡さない。だから手控えを奪う。だから除名する。……そういう筋も、あるんじゃないですか」
ニコルの筆が走る。
ダリオさんは、深く息を吐いた。
「ある」
その一言で、広間の空気がさらに重くなった。
王都側からの判読は、そこで止まった。
『別紙片の劣化が強く、本日はこれ以上の判読不可。文書保存官判断により中止。次回、欠損部の補助光照合を検討』
村長が答える。
『中止せよ。無理に読むな』
通信が切れたあと、ニコルは整理紙を作った。
『D.V.へ渡すな・暫定整理』
一、末尾は本文と紙質が異なる別紙片の可能性。
二、“D.V.へ渡すな”を確認。
三、“才あり、ゆえに危うし”の記述。
四、中枢室表示:D.V.識別候補、ダリオ・ヴェント。確度、中。
五、“渡せば、戻し線を断つ”の記述。
六、“断てば、工房は……”欠損。
七、“黒薔薇”の文字あり。
八、理由未確定。
九、D.V.を守るためか、遠ざけるためか、利用防止か、排除か、現段階では不明。
十、ダリオ除名処分との関係調査が必要。
最後の一文を見て、ダリオさんは眉を動かした。
「除名処分との関係調査、か」
ニコルが頷く。
「必要です」
「そうだな」
トマが言う。
「王都に求めましょう。除名の原本とか、没収手控えとか、カリムの署名とか」
ダリオさんは苦く笑った。
「簡単に出ると思うか?」
「出なくても求めます」
トマの声は、思ったより強かった。
「今までは、ダリオさんが昔何かやらかしたって話にされてたんですよね。でも、もし覚書を渡したら戻し線を断てるから邪魔だったなら、話が違います」
セリアも頷いた。
「再審査を求める根拠になります」
ニコルが言う。
「王都再審査室へ、正式照会を送ります」
ダリオさんは、しばらく黙っていた。
それから言った。
「お前たち、俺のことで怒りすぎだ」
トマが即答する。
「怒りますよ」
セリアも静かに言う。
「怒ります」
ニコルは筆を持ったまま言った。
「記録上も、怒る理由があります」
ダリオさんは目を瞬いた。
「記録上も?」
「はい。処分理由の根拠が揺らぐ可能性があります。なら、怒りは感情だけではありません。再確認を求める動機として妥当です」
トマが小さく笑った。
「ニコルらしい怒り方だな」
「怒っているわけでは」
「怒ってるだろ」
「……少し」
村長が静かに言った。
「少しではないな」
ニコルは珍しく返せなかった。
広間に、また少しだけ笑いが戻る。
だが、それはすぐに、書面作りの熱へ変わった。
王都再審査室への照会文。
ニコルが草案を書く。
『リベル村より王都再審査室へ。
オルド外縁覚書末尾別紙片に、“D.V.へ渡すな”“渡せば、戻し線を断つ”“黒薔薇”の文字を確認。
中枢室表示では、D.V.識別候補としてダリオ・ヴェント、確度中。
これにより、ダリオ・ヴェントが命令戻し線を断つ能力または知識を有し、黒薔薇工房にとって不都合な人物であった可能性が生じた。
過去のダリオ・ヴェント除名処分について、処分原本、没収手控え記録、立会人カリム・ロッサの署名、関連外部監査印の再確認を求める。
本照会は、処分の即時撤回を求めるものではなく、根拠資料の再審査を求めるものである』
トマが最後の文を見て言った。
「即時撤回を求めないんですか」
ニコルは頷く。
「今それを書くと、王都は防御姿勢になります。まず資料を出させる必要があります」
ダリオさんが少し感心したように言った。
「上手くなったな」
「ありがとうございます」
「本当に仮を外せ」
「まだです」
「頑固だな」
「必要なので」
ダリオさんは小さく笑った。
その笑いは、朝よりも少しだけ自然だった。
夕方、王都再審査室から受領確認が届いた。
『照会受領。オルド外縁覚書末尾記述に基づき、ダリオ・ヴェント除名処分関連資料の所在確認を開始する。原本、没収手控え、立会人記録、外部監査印照合を対象とする』
広間に、静かな衝撃が走った。
トマが言う。
「動いた」
ニコルが頷く。
「はい。再審査室が動きました」
ダリオさんは目を閉じた。
喜びではない。
安堵でもない。
もっと複雑な、長く閉じていた扉が、ほんの少し音を立てた時のような顔だった。
「戻れるかどうかじゃない」
ダリオさんは、低く言った。
「消された記録が戻るかどうかだ」
ニコルは、その言葉を記録した。
夜、俺は個人記録を書いた。
『オルド外縁覚書末尾別紙片を確認。
紙質は本文と異なり、後綴じまたは別時期挿入の可能性。
判読文:“D.V.へ渡すな”“外縁を読む者は……”欠損、“戻し線を……”欠損、“才あり、ゆえに危うし”“渡せば、戻し線を断つ”“断てば、工房は……”欠損、“黒薔薇”の文字。
中枢室表示:D.V.識別候補、ダリオ・ヴェント。確度中。戻し線関連警告欠損。人物評価記述。渡すな理由未確定。
仮説:D.V.がダリオ・ヴェントなら、覚書を渡すことで命令戻し線を断たれる恐れがあり、黒薔薇工房側が渡すなとした可能性。
王都再審査室へ、ダリオ・ヴェント除名処分関連資料の再確認を正式照会。処分原本、没収手控え、立会人カリム・ロッサ署名、外部監査印を対象。
再審査室より、所在確認開始の受領通知あり』
最後に書く。
『D.V.へ渡すな。
その理由は、まだ分からない。
守るためだったのか。
遠ざけるためだったのか。
利用されるのを防ぐためだったのか。
それとも、邪魔だったからか。
だが、“渡せば、戻し線を断つ”という欠けた一文が出た。
もしD.V.がダリオ・ヴェントなら、ダリオさんは命令戻し線を断てる人物だったのかもしれない。
だから消されたのかもしれない。
だから手控えを奪われたのかもしれない。
だから除名されたのかもしれない。
まだ断定しない。
けれど、再審査室は動いた。
ダリオさんは、戻れるかどうかではない、消された記録が戻るかどうかだと言った。
その言葉は、静かだった。
静かな分だけ、重かった。
明日から、ダリオさんの過去が王都の棚で探される。
古い紙は、外縁だけでなく、人の消された記録まで掘り起こし始めた。』
地上では、水車が回っている。
水は流れ、戻らない。
それでも、失われたと思われた紙が、どこかの棚でまだ眠っているかもしれない。
眠っているなら、起こす。
今度は、急がせずに。




