第170話 人も外縁杭も休ませる日
休む、と決めた朝ほど、何をしていいか分からなくなる。
リベル村の広間には、いつもの地図も台帳もあった。
旧水路緩衝線の記録。
青根布の隔離箱確認表。
外縁杭休止記録。
人員疲労記録。
王都再封印後処理報告。
だが、村長はそのすべての上に、細長い木札を置いた。
『本日、追加調査なし』
トマがそれを見て、真っ先に顔をしかめた。
「追加調査なしって……本当に何もしないんですか?」
村長は杖を鳴らした。
「何もしないのではない。休ませる」
「でも、旧水路緩衝線は」
「朝昼夕の確認のみ」
「青根布隔離箱は」
「朝昼夕の確認のみ」
「水量板は」
「見るだけ。触るな。これはいつも通りじゃ」
「北沢の冷えは」
「報告を待つ。こちらから行かぬ」
「……なんか、落ち着かないですね」
トマが本音をこぼすと、ダリオさんが豆の入った椀を手にしたまま言った。
「休むのも技術だ」
トマは振り返った。
「技術?」
「ああ。無理に手を入れない技術。壊れていないものを直そうとしない技術。気になっても開けない技術。疲れた時に、疲れたと認める技術」
「豆を食べながら言うと、妙に説得力ありますね」
「豆も技術だ」
「それは違う気がします」
ダリオさんは豆を一粒口に入れた。
「違わん。噛むと落ち着く」
「じゃあ、俺ももらっていいですか」
「休むならな」
「休みます」
トマはあっさり言って、豆をもらった。
ニコルはその横で、記録板を持ったまま立っていた。
村長が見る。
「ニコル」
「はい」
「お前も、今日は総合記録を閉じよ」
「完全にですか」
「完全にではない。朝昼夕の最低記録のみ。あとは台帳整理と休息じゃ」
ニコルは一瞬だけ不安そうな顔をした。
「報告が来たら」
「緊急報告は受ける。だが、こちらから紙を増やしに行くな」
ダリオさんが付け加えた。
「今日は“書く日”じゃなく、“乾かす日”だ」
ニコルが首をかしげる。
「乾かす日?」
「記録板も、頭も、手首もな」
トマが豆を噛みながら言った。
「じゃあ、記録板の手入れでもするか」
ニコルは目を瞬かせた。
「手入れですか」
「水で洗うと駄目なんだろ?」
「はい。湿ると紙が波打ちます」
「じゃあ乾拭きだ。俺、旧水路班の板も持ってくる」
「休むのでは?」
「乾拭きは休み。たぶん」
ダリオさんが笑った。
「まあ、今日はそれくらいならいい」
こうして、午前の広間はいつもの作戦会議ではなく、記録板の手入れ場になった。
トマが旧水路班の記録板を数枚持ってくる。
水量板担当の若者も来た。副記録係も来た。
机の上に布を敷き、板を一枚ずつ置く。
ニコルは、乾いた布で端から丁寧に拭いた。
「強くこすらないでください。墨が薄い場所があります」
「了解」
トマが真面目に拭く。
水量板担当の若者が、恐る恐る聞いた。
「この板、僕の字、震えてますね」
ニコルが覗き込む。
「王都再封印の日の記録ですね」
「はい。水量板未操作って、何回も書いてる」
トマが横から言った。
「何回も書いたから偉いんだよ」
「偉いんですか」
「たぶん。動かさなかった記録は、何回あっても困らない」
ニコルが頷いた。
「はい。未操作の記録は証拠になりました」
若者は、少し照れくさそうに板を拭いた。
「じゃあ、震えてても残します」
「もちろんです」
トマは別の板を見て、苦笑した。
「俺の字、ここだけ妙に大きいな」
ニコルが見る。
『青根布一枚使用。水へ戻さず』
その文字だけ、他より濃く、大きい。
「大事なところだからいいと思います」
「書いた時、たぶん手に力入ってた」
「その力も記録です」
トマは少し黙った。
それから、乾いた布でその周りをそっと拭いた。
「……消えなくてよかったな」
「はい」
午前の薬草予定地では、セリアが本当に「構いすぎない」を実践していた。
といっても、本人は落ち着かない。
傷洗い草本株。
一つ目の新芽。
二本目の新芽。
どれも無事だ。
青反応は微弱。
本株の疲労小も、悪化していない。
だから、触らない。
水も足しすぎない。
土も寄せない。
葉も持ち上げない。
根元も見ない。
見るだけ。
しかし、見るだけというのは意外と難しい。
セリアは薬草の前でしゃがみ、両手を膝の上に置いていた。
ハンナが後ろから声をかける。
「セリアさん、手が前に出てます」
「出ていません」
「今、少し出ました」
「……出ました」
セリアは両手をぎゅっと握り直した。
ミラが横で記録する。
『セリア、傷洗い草へ手が出かける。ハンナが注意。接触なし』
「それ、記録しますか」
「後で役に立つかもしれません」
「恥ずかしいです」
ハンナが笑った。
「昨日、青根布箱に手を伸ばしたのも記録しましたし」
「そうでした……」
セリアは諦めたように息を吐いた。
それから、薬草に向かって小声で言った。
「今日は、ゆっくりしてください。こちらも触りませんから」
ハンナが即座に反応する。
「話しかけていますね」
「声かけ程度は可、と記録されました」
「確かに」
ミラが真面目な顔で書く。
『薬草への声かけ程度は可。接触なし』
セリアは困ったように笑った。
「本当に何でも記録されますね」
「記録係補助ですので」
ミラは少し誇らしげだった。
その時、風が吹いて、二本目の新芽がほんのわずかに揺れた。
セリアは反射的に身を乗り出しかけた。
だが、すぐ止まる。
ハンナが見ていた。
「今、自分で止まりましたね」
「はい」
「それは記録しましょう」
ミラが書く。
『二本目新芽、風で揺れる。セリア接触せず、自制』
セリアは小さく肩を落としたが、少しだけ嬉しそうでもあった。
「休ませるのも、練習ですね」
ハンナは頷いた。
「はい。構いすぎない練習です」
旧水路では、トマが午前の確認だけを終え、水車小屋前に座っていた。
使用済み青根布の隔離箱は、立ち入り線の向こうにある。
『開けるな。動かすな。水に近づけるな』
札は昨日と同じ。
箱は静かだ。
トマはその箱を見ないように、わざと水車の方を向いていた。
副記録係が隣に座る。
「見ないんですか」
「見たいけど、見ない」
「見張らないって決めましたもんね」
「そう。朝昼夕だけ。今は見張り時間じゃない」
「でも、気になります」
「俺も気になる」
二人は水車を見た。
しばらく、水の音だけがした。
副記録係がぽつりと言う。
「何もしないの、疲れますね」
「分かる」
「作業してる方が楽です」
「でも、今触ったら怒られる」
「セリアさんに?」
「セリアさんにも、ダリオさんにも、ニコルにも、村長にも、たぶんマルタさんにも怒られる」
「マルタさん、ここにいないですよ」
「でも怒られる気がする」
副記録係は笑った。
「石はそこにいる理由がある。箱もそこにいる理由がある、ですね」
トマは目を丸くした。
「お前、いいこと言うな」
「書きますか?」
「自分で書け」
副記録係は照れながら書いた。
『隔離箱も、そこにいる理由がある。動かさない』
トマは満足そうに頷いた。
「いい記録だ」
昼前、森入口へ行くと、リーゼさんが赤杭の横に座っていた。
ただ座っているだけだった。
しかし、なぜか護衛しているように見える。
背筋は伸びている。
膝の上に手を置いている。
視線は森の奥と退避路の両方を自然に拾っている。
トマが水車小屋からの帰りに通りかかり、思わず言った。
「リーゼ、座ってるだけなのに守ってる感じがすごいな」
リーゼさんは顔を上げる。
「座っている」
「うん。座ってるだけなのに、誰も通れない感じがする」
「通す必要がないから」
「なるほど」
護衛役の若者が、少し離れたところで苦笑した。
「僕も休めと言われたのですが、リーゼさんが座っていると、逆に休んでいいのか迷います」
リーゼさんは短く答えた。
「休め」
「はい」
「私も座って休んでいる」
トマが小声で言った。
「休んでいる圧が強い」
リーゼさんが見る。
「何か言ったか」
「休んでるなあって」
「そうか」
それ以上追及されなかった。
森は静かだった。
第二安全線の冷えは昨日より弱い。
灰色点の出た青根布は、別管理箱の中で安定している。
灰青の滲みはない。
リーゼさんは、森の奥を見たまま言った。
「残りすぎない練習は、休む日にも必要だ」
トマが首をかしげる。
「どういうこと?」
「気になると、見に行きたくなる」
「ああ」
「今日は行かない。座っている」
トマは少し感心した顔をした。
「それ、俺も隔離箱でやってる」
「同じだ」
「同じか」
「同じ」
短い会話だったが、妙に納得があった。
昼食は広間ではなく、村長宅の外で取ることになった。
ただし、宴ではない。
おにぎり、豆、干し野菜の煮物、薄い汁。
簡単なものだ。
けれど、全員が同じ場所で食べるのは久しぶりだった。
ダリオさんは豆を食べながら言った。
「休むのも技術だと言ったが、もう一つある」
トマが警戒する。
「また豆の話ですか」
「違う。半分だけ豆の話だ」
「半分はあるんですね」
「食べながら話すと、早口にならない」
ニコルが少し考えた。
「たしかに、会議中より皆さんゆっくり話しています」
「だから、疲れている時は食え。食えない時は、疲れすぎている」
セリアが頷いた。
「薬草にも似ています。水を吸えない時は、かなり弱っています」
トマが豆を見た。
「じゃあ、豆を食べられるうちは大丈夫?」
「大丈夫とは限らんが、ましだ」
ダリオさんは豆を一粒渡した。
「食え」
「はい」
ニコルも豆を受け取った。
少しだけ笑う。
「記録係もですか」
「記録係こそだ」
ニコルは豆を噛んだ。
「……落ち着きますね」
「だろう」
ダリオさんは満足そうだった。
午後は、最低限の報告だけが来た。
ハルマ村。
『古井戸、水面静か。今日は子供たちを井戸から少し離して遊ばせた。若い母親が“井戸も昼寝中”と言った』
トマが聞いて笑った。
「井戸も昼寝中。いいな」
ニコルが書く。
『井戸も昼寝中:住民への休止説明として有効』
北沢集落。
『石列、冷えさらに弱い。赤紐そのまま。犬は来ない。若いのは回り道した』
リーゼさんが短く言った。
「良い」
ミード村。
『東側帯、葉が戻る。祖母、今日は薬草に話しかけて終わりと言っています』
セリアが少し顔を赤くした。
ハンナがにやりと笑う。
「ミード村でも声かけ程度は可ですね」
「……そうですね」
旧水路。
『緩衝線、変化なし。隔離箱、外部漏出なし。水量板、未操作』
森安全線。
『第二安全線、冷え小。灰色点拡大なし。休止継続』
報告は短い。
それでいい日だった。
夕方、村長は広間に戻ると、全員へ言った。
「今日は、よく休んだ」
トマが少し驚いた。
「これで休んだ扱いなんですか」
「昨日までよりは休んだ」
「まあ……そうですね」
ニコルも頷いた。
「総合記録は最低限で済みました」
セリアが言う。
「薬草にも触りませんでした」
リーゼさんが言う。
「森奥へ行かなかった」
ダリオさんが豆の椀を空にして言った。
「豆を食べた」
トマが笑う。
「それはいつもです」
「いつもできることができるのは、大事だ」
その時、王都からの使者が来た。
広間の空気が少しだけ緊張する。
休む日が、破られるのではないか。
誰もが一瞬そう思った。
だが、封筒には赤札はなかった。
行政庁の印と、外部監査部の印。
村長が受け取り、俺に渡す。
「読め」
俺は封を切った。
『王都行政庁より。
オルド・ロッサ外縁覚書について、所在候補を発見。
現時点で現物は未確認。ローゼン侯爵家地方別邸の文書庫に収蔵されている可能性あり。
詳細は追って通知する』
広間が静まり返った。
オルド外縁覚書。
外縁杭の本来構造を知るかもしれない紙。
ハルマ、北沢、ミード。
井戸縁反応印、石列冷却逸らし、旧薬草緩衝帯。
それらを繋ぐ可能性がある、失われた覚書。
トマがぽつりと言った。
「来た……けど、今日は追わない日ですよね」
村長は頷いた。
「今日は追わぬ」
ニコルは、封筒を見ながら言った。
「所在候補発見として、受領だけ記録します。詳細整理は明日」
ダリオさんがゆっくり息を吐いた。
「そうだな。紙は逃げない」
セリアも頷く。
「薬草も、今日は休ませる日です」
リーゼさんが短く言った。
「人も」
ニコルは最低限だけ記録した。
『王都より、オルド・ロッサ外縁覚書の所在候補発見通知。ローゼン侯爵家地方別邸文書庫の可能性。詳細は追って。今日は追わず、受領のみ』
トマがそれを見て言った。
「受領のみ、いいな」
「はい。今日の記録はここまでです」
ニコルは筆を置いた。
最後の一行を書こうとしない。
書きたくなる情報が来ても、今日は閉じる。
それが休む日の締め方だった。
夜、俺は個人記録を書いた。
『人も外縁杭も休ませる日。
追加調査なし。朝昼夕の最低確認のみ。
記録板の乾拭き、旧水路班の板整理。未操作記録を保存。薬草予定地では接触なし、声かけ程度。旧水路隔離箱は見張りすぎず、朝昼夕確認に限定。森安全線はリーゼが座って休止監視。
ハルマ古井戸“井戸も昼寝中”、北沢石列“若いのは回り道”、ミード薬草帯“薬草に話しかけて終わり”。各地点で休止が生活の言葉になり始める。
夕方、王都よりオルド・ロッサ外縁覚書の所在候補発見通知。ローゼン侯爵家地方別邸文書庫の可能性。今日は追わず、受領のみ』
最後に書く。
『休む日にも、知らせは来る。
オルド外縁覚書の所在候補。
それは、外縁杭の本来構造へ近づく大きな知らせだ。
だが、今日は追わなかった。
記録板を乾かし、薬草に触れず、隔離箱を見張りすぎず、森の入口に座り、豆を食べた。
井戸も昼寝中。石列も休み中。薬草も声を聞くだけ。
人も外縁杭も休ませる。
それを破らずに、知らせだけを受け取った。
明日、また紙を見る。
今日は、ここで閉じる。』
地上では、水車が回っている。
今日はその音も、少し柔らかく聞こえた。
リベル村は、ようやく一日、息を吐いた。




