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第171話 オルド外縁覚書、所在候補

 休む日が明けた。


 それだけで、広間の空気は昨日より少し硬くなっていた。


 昨日は、追加調査なしと決めた日だった。


 記録板を乾拭きし、薬草に触れず、旧水路の隔離箱を見張りすぎず、森の入口でリーゼさんが座り、ダリオさんが豆を食べた。


 そして夕方、王都から知らせが届いた。


『オルド・ロッサ外縁覚書について、所在候補を発見』


 昨日は、受け取るだけにした。


 紙は逃げない。


 だから、今日はその紙を見る日だった。


 朝の中央井戸では、副記録係が読み上げる声も少し落ち着いていた。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。オルド外縁覚書所在候補通知後、継続異常なし」


 ニコルが頷く。


「よいです」


 トマが井戸から離れた場所で腕を組んでいた。


「井戸は落ち着いてるな」


「はい」


「でも広間は落ち着かなそうだな」


「はい」


「オルド外縁覚書って、外縁杭のことが書いてあるかもしれない紙だよな」


「そうです」


 ニコルは記録板を抱え直した。


「ハルマ古井戸、北沢石列、ミード薬草帯。あれらが偶然ではなく、本来の外縁構造だったかどうかを知る手がかりになるかもしれません」


 トマは少しだけ眉を寄せた。


「欲しいな、それ」


「はい」


「でも、欲しいって思うと危ないんだよな」


「はい」


「最近それ、嫌ってほど分かってきた」


 ニコルは小さく頷いた。


「欲しいから急がない、です」


 トマは苦笑した。


「記録しとけよ、それ。今日使う気がする」


 ニコルは素直に書いた。


『欲しいから急がない』


 広間に入ると、村長はすでに昨日の封書を机に置いていた。


 ダリオさんは豆を食べていない。


 ただ、今日は椀すら置いていなかった。


 昨日の休む日があったからか、顔色は少しましだ。だが、目は険しい。


 セリアは薬草予定地の朝記録を持っている。


 リーゼさんは壁際。


 トマとニコルが入ると、村長が杖を鳴らした。


「始める」


 俺は昨日の通知を読み上げた。


『王都行政庁より。

オルド・ロッサ外縁覚書について、所在候補を発見。

現時点で現物は未確認。ローゼン侯爵家地方別邸の文書庫に収蔵されている可能性あり。

詳細は追って通知する』


 短い。


 短いが、十分すぎるほど重い。


 トマが言った。


「地方別邸って、王都じゃないんですか?」


 ダリオさんが頷く。


「ローゼン侯爵家の領地側にある別邸だろうな。王都の本邸や資料庫に置いておけないもの、表に出したくないもの、古い家文書なんかが入る場所だ」


「つまり、隠してた?」


「可能性はある。ただし、単に古いから移しただけの可能性もある」


「また分からない」


「そうだ。分からない」


 ニコルは記録する。


『ローゼン侯爵家地方別邸文書庫。隠匿の可能性、古文書保管の可能性。現物未確認』


 セリアが静かに言った。


「外縁覚書という名前が本当なら、オルド・ロッサは外縁杭の働きを記録していたことになりますよね」


「そうだな」


 ダリオさんは机の上の外縁杭地図を引き寄せた。


「ハルマ古井戸。北沢石列。ミード薬草帯。さらに旧水量板。これらをまとめて外縁として見ていた可能性がある」


 トマが身を乗り出す。


「じゃあ、その覚書があれば、命令核分離にも役立つ?」


「役立つかもしれん」


 ダリオさんはすぐに釘を刺した。


「だが、役立つから急ぐな。古い覚書は、読み方を間違えると危ない。特にロッサ家の技師が書いたものなら、本来構造と後世の補助印が混ざっている可能性がある」


 ニコルが書く。


『オルド外縁覚書:本来構造と後世補助印の混在に注意』


 リーゼさんが短く言った。


「現物は誰が持っている」


 俺は通知を見返す。


「ローゼン侯爵家地方別邸の文書庫に収蔵されている可能性、です。まだ行政庁は押さえていないようです」


 トマが嫌そうな顔をした。


「ローゼン侯爵家側が素直に出しますかね」


 その時、王都からの追加通信が届いた。


 まるで、その疑問に答えるようなタイミングだった。


 使者が持ってきた封書には、行政庁と外部監査部の印。


 赤札ではない。


 だが、文面は十分に面倒なものだった。


 俺は読み上げた。


『王都行政庁より追加。

ローゼン侯爵家側は、地方別邸文書庫内の未確認文書について、“家門私的文書”である可能性を主張。

提出命令に対し、文書名・内容が確定するまでは提出範囲外とする意見書を準備中。

行政庁は、黒石祠および外縁杭に関係する可能性を根拠として、提出対象に含める方針』


 トマが椅子から半分立ち上がった。


「は? 私的文書?」


 ニコルの筆が止まった。


 止まっただけではない。


 彼の目が、はっきり怒っていた。


「封印に関わるなら、私的ではありません」


 広間が一瞬、静かになった。


 トマがニコルを見る。


「ニコルが怒った」


 ニコルは自分でも驚いたように、少しだけ目を瞬かせた。


 だが、すぐに筆を握り直した。


「すみません。でも、これは……」


「謝らなくていい」


 ダリオさんが低く言った。


「今の怒りは正しい」


 セリアも頷く。


「王都の家の私的な都合で、村の水と土に関わる記録を隠されては困ります」


 リーゼさんが短く言う。


「井戸も石も薬草も私物ではない」


 トマは机に手を置いた。


「そうだよ。ハルマの井戸も、北沢の石も、ミードの薬草も、全部働いたんだぞ。それを書いた紙を“家門私的文書”って……」


 言葉を探して、結局言い切った。


「腹立つな」


 ニコルは新しい紙を出した。


『反論整理』


 一、外縁杭に関わる文書は、家門私的文書に留まらない。

 二、黒石祠封印層、水腐れの核、王都金属資料再封印に関係する可能性がある。

 三、リベル村および周辺三村の水・土・井戸・薬草・石列の安全に関わる。

 四、外縁杭は王都再封印時に受圧し、疲労小を示した。

 五、現地住民の生活安全に関わるため、提出対象とすべき。


 書きながら、ニコルの声は少し震えていた。


 怒りで震えている。


 怖さとは違う震えだった。


 村長がそれを見て、静かに言った。


「よい。怒っても、線を引けておる」


 ニコルは深く息を吸った。


「はい」


 ダリオさんは外縁杭地図を指差す。


「王都行政庁は、根拠が欲しいはずだ。ローゼン侯爵家側が“私的文書”と主張するなら、それが公共の安全に関わる可能性を示す必要がある」


 セリアが言う。


「それなら、ハルマ、北沢、ミードの記録が使えます」


「そうだ」


 ダリオさんが頷いた。


「現地の外縁杭記録だ。王都再封印時に、実際に反応した。中枢室表示とも一致している。生活の言葉だけではない。反応記録、同時記録、王都再封印との時刻対応がある」


 ニコルは紙を切り替える。


『提出根拠資料候補』


 - ハルマ古井戸:水面揺れ、濁りなし、守りの井戸として休止。

 - 北沢石列:王都再封印時受圧、冷却圧残留、外縁杭疲労小。

 - ミード旧薬草緩衝帯:青根系旧技法、東側帯、薬草反応。

 - 旧水路水量板:ロッサ系補助印工法、王都金属資料との照合。

 - 青根緩衝帯:旧技法照合、王都再封印時補助。

 - 中枢室表示:外縁杭受圧、旧水脈補助網残留線。

 - 王都再封印同時記録:各地点反応の時刻対応。


 トマがそれを見て言った。


「これ、かなり強くないか?」


 ダリオさんが頷いた。


「強い。だが、王都の紙にするには整える必要がある」


「じゃあ、整えましょう」


 トマは即答した。


 ニコルが顔を上げる。


「トマさん、旧水路班の記録を出してもらえますか。水量板未操作、ロッサ系印照合、青根布一枚使用の記録が必要です」


「出す。副記録係にも写しを持ってこさせる」


「ありがとうございます」


「これは出した方がいい」


 トマは真顔だった。


「王都の机で、“村の記録だから弱い”とか言われたくない」


 セリアが静かに言った。


「私も薬草予定地とミード村関係の記録をまとめます。青根緩衝帯が王都再封印時に補助条件として働いたことも入れます」


 リーゼさんが言う。


「森安全線も出す」


「森も?」


 トマが聞く。


「退避路側青根布に灰色点が出た。外縁の圧が森側にも来た証拠だ」


 ダリオさんが頷く。


「それも必要だな」


 村長は全員を見回した。


「では、今日の作業を決める。追加調査はしない。だが、既存記録の整理は行う」


 トマがうなずく。


「紙は増やすけど、現場は触らない」


「そうじゃ」


 村長は言った。


「井戸を掘らず、石を動かさず、薬草を抜かず、王都を動かす」


 その言葉に、広間の空気が変わった。


 トマが思わず言う。


「それ、めちゃくちゃ強いですね」


 ニコルの筆がもう動いていた。


『井戸を掘らず、石を動かさず、薬草を抜かず、王都を動かす』


 ダリオさんが苦笑した。


「王都の机に置いたら嫌な顔をするぞ」


「置きましょう」


 ニコルはきっぱり言った。


 また、少し怒っている。


 トマが小声で言う。


「今日のニコル、強いな」


 セリアが微笑む。


「大事なものを軽く扱われた時の怒りです」


 午前中は、各記録の抜き出しに使われた。


 旧水路班の記録板が運ばれてくる。


 水量板未操作。

 施工者痕非接触確認。

 ロッサ系補助印工法照合。

 青根布一枚使用。

 隔離箱保管。


 トマは副記録係と一緒に、必要な箇所へ赤い印をつけた。


「ここ。王都金属資料との照合につながったやつ」


「はい」


「ここ。青根布一枚使ったけど、水へ戻さなかったやつ」


「はい」


「ここ。水量板が動いても触るなってやつ」


「それも出すんですか?」


「出す。未操作が証拠になったんだから、触らない手順も出す」


 副記録係は頷いた。


「分かりました」


 薬草予定地では、セリアがハンナとミラと一緒に記録をまとめた。


 木札写し。


《腐り水を土へ入れるな。根で受け、根で逃がせ》


 青根緩衝帯の旧技法照合。

 傷洗い草二本目新芽。

 青根布運用条件。

 使用済み布の焼却・埋設禁止。

 薬草予定地疲労記録。


 ミラが言う。


「ミード村の老女の言葉も入れますか」


「入れます」


 セリアは迷わなかった。


「“葉を見る人を軽んじるなら、土は守れません”も」


 ハンナがにやりとする。


「それ、セリアさんの言葉ですね」


「……必要です」


「はい。必要です」


 森安全線では、リーゼさんが護衛役とともに簡潔な報告を作った。


 退避路側青根布の箱内灰色点。

 第二安全線の冷え。

 残りすぎない撤退判断。

 森側にも外縁圧が届いたこと。


 報告文は短い。


『森安全線にも王都再封印時の圧が届いた。直接被害はなし。ただし退避路側青根布に箱内灰色点。外縁は森側にも広がる。軽視不可』


 トマが見て言った。


「短いけど強い」


 リーゼさんは頷いた。


「長く書けない」


「でも伝わる」


「ならいい」


 昼過ぎ、ハルマ、北沢、ミードにも確認通信を送った。


 王都提出用に、外縁杭記録の一部を根拠資料として使ってよいかを確認するためだ。


 ハルマ村の井戸番は、すぐに答えた。


『使いな。井戸が働いた記録だ。隠すものじゃない』


 若い母親の声も入った。


『子供に説明した言葉も、使ってください。この井戸は働いたから休む、という話です』


 北沢のマルタは、少し怒った声だった。


『今さら聞くのかい。石が受けた記録を使わないなら、何のために見たんだい』


 トマが通信を聞いて、思わず笑った。


「マルタさん、やっぱり強い」


 ミード村の老女は、孫娘を通じて答えた。


『草が耐えた記録なら使いな。だけど、薬草を証拠にするなら、薬草を休ませることも一緒に書きな』


 セリアは深く頷いた。


「必ず書きます」


 ニコルは確認欄に書いた。


『三村、記録使用了承。条件:守ったものを休ませる記録も併記』


 夕方、王都行政庁へ送る資料束が完成した。


 題名は、ニコルが決めた。


『オルド・ロッサ外縁覚書提出命令補強資料

リベル村および周辺三村外縁杭記録』


 その下に、村長の言葉が添えられる。


『井戸を掘らず、石を動かさず、薬草を抜かず、王都を動かす』


 トマはそれを見て、腕を組んだ。


「これ、王都で読まれるんだよな」


「はい」


 ニコルが答える。


「王都行政庁が、ローゼン侯爵家へ提出命令を出す根拠資料に使う可能性があります」


「俺たちの記録が」


「はい」


 トマは少しだけ黙った。


「すごいな」


 ダリオさんが言う。


「現場の記録は、机を動かせる」


「前なら信じなかったかも」


「今は?」


「信じます。水量板で分かった」


 ニコルは資料束を紐で綴じた。


 その手はまだ少し震えていた。


 だが、怒りで雑になることはなかった。


 むしろ、いつもより丁寧だった。


 王都への使者が出る前、村長は資料束に手を置いた。


「これは、村の迷信ではない。生活の記録じゃ。水と土を見てきた者の目じゃ」


 トマが頷く。


「はい」


 セリアも。


「はい」


 ニコルは、最後の送付記録にこう書いた。


『外縁杭記録、王都行政庁へ提出。オルド外縁覚書提出命令の根拠資料として使用予定』


 夜、俺は個人記録を書いた。


『オルド・ロッサ外縁覚書の所在候補について、ローゼン侯爵家地方別邸文書庫に収蔵可能性。

ローゼン侯爵家側は“家門私的文書”である可能性を主張し、提出範囲外とする意見書準備中。

リベル村側は、封印・外縁杭・水と土の安全に関わる文書は私的文書に留まらないと整理。

ニコル発言:“封印に関わるなら、私的ではありません”。

提出根拠資料として、ハルマ古井戸、北沢石列、ミード旧薬草緩衝帯、旧水量板、青根緩衝帯、森安全線、王都再封印同時記録、中枢室表示を整理。

三村より記録使用了承。条件:守ったものを休ませる記録も併記。

王都行政庁へ『オルド・ロッサ外縁覚書提出命令補強資料』を送付』


 最後に書く。


『オルド外縁覚書は、まだ見つかっていない。

所在候補が出ただけだ。

それでも、ローゼン侯爵家は“私的文書”と言い始めた。

だが、井戸が揺れ、石列が冷え、薬草が青くなり、水路の布が灰色を帯びた以上、それはもう家の奥の紙では済まない。

封印に関わるなら、私的ではない。

今日、ニコルは怒った。

その怒りは、紙を乱さなかった。

むしろ、記録を強くした。

井戸を掘らず、石を動かさず、薬草を抜かず、王都を動かす。

現場の記録が、王都の机へ向かった。』


 地上では、水車が回っている。


 旧水量板は動いていない。

 北沢の石列には赤紐がある。

 ミードの薬草は休んでいる。

 ハルマの井戸も水を減らしている。


 動かさないことで残した記録が、今度は王都を動かそうとしていた。

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