第169話 再封印後の後始末
大きな出来事のあとほど、村は静かになる。
それを、俺は王都再封印の翌々朝に知った。
戦いのあとなら、勝った、負けた、誰が倒れた、誰が戻らなかった、と騒ぎになるのかもしれない。
だが、リベル村で起きたのは違った。
水は流れている。
井戸は濁っていない。
薬草は倒れていない。
黒石祠の封印層も維持されている。
王都の金属資料は再封印された。
成功した。
そう言っていいはずなのに、誰も浮かれなかった。
成功したからこそ、後始末が残った。
中央井戸では、副記録係が、もう自分の声で読み上げていた。
「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。王都再封印後、三日目、継続異常なし」
ニコルが隣で頷く。
「よいです」
少年は少しだけ胸を張った。
「ありがとうございます」
トマが井戸から一歩離れた場所で、それを見ていた。
「もう完全に井戸記録係だな」
少年は慌てて首を振る。
「いえ、まだ仮です」
ニコルが少しだけ笑った。
「仮を使う人が増えましたね」
「ニコルさんが言うので」
「僕はまだ仮の記録係です」
トマが呆れたように言った。
「総合記録係までやった人がまだ仮って、逆に仮の範囲が広すぎないか?」
「広い方が安心します」
「そういうものか」
「そういうものです」
笑いは小さかった。
けれど、その小ささがちょうどよかった。
広間では、朝から後始末の台帳が開かれていた。
『王都再封印後処理記録』
見出しは簡単だ。
だが、中身は多い。
一、使用済み青根布の隔離状態確認。
二、旧水路緩衝線の休止確認。
三、薬草予定地の疲労確認。
四、外縁杭三地点の休止継続。
五、森安全線の灰色点確認。
六、各班の人員疲労確認。
七、撤退合図訓練の反省。
八、王都への再封印後報告。
トマはその表を見て、椅子に座る前からため息をついた。
「後始末、多いな」
ダリオさんが豆の椀を手にしたまま答える。
「後始末が少ない大仕事は、大体どこかで後始末を誰かに押しつけてる」
「嫌な言い方だけど、納得しました」
「納得したなら座れ」
トマは座った。
セリアは薬草予定地の記録を机に置く。
「まず、薬草予定地から報告します」
村長が頷いた。
「聞こう」
「傷洗い草本株、疲労小は残っています。ただし悪化なし。一つ目の新芽、倒伏なし。二本目の新芽、青反応は昨日より低下。葉はまだ小さいですが、開き始めています」
ハンナが続ける。
「今日は水やりを控えめにしました。安定土の採取はなし。青根布作成もなし」
ミラが記録を読み上げる。
「薬草予定地、休止継続。構いすぎない。草を急がせない」
トマが小声で言った。
「“構いすぎない”が正式記録になってるの、やっぱりいいな」
セリアは少し頬を赤くした。
「大事です。心配だからといって触りすぎると、かえって弱ります」
ダリオさんが頷く。
「人も同じだな」
その一言で、トマが嫌な予感を覚えたように顔を上げた。
「……人員疲労確認、来ます?」
「来る」
ニコルがすでに紙を出していた。
『人員疲労記録』
トマは天井を見上げた。
「来た」
村長は容赦なく言った。
「後でやる。逃げるな」
「はい」
次は、旧水路。
トマが報告する番だった。
「旧水路緩衝線、疲労小。見た目の崩れなし。補修なし。上流灰青、視認なし。青土封じ札一、反応微弱。二、安定。水量板、未操作。変位なし」
ニコルが書き取る。
「使用済み青根布は?」
トマは少し顔を引き締めた。
「水車小屋前の隔離棚に保管。箱は開けてない。動かしてない。水に近づけてない。外部漏出なし。ただし、箱の中の反応はまだ微弱にある」
セリアが確認する。
「灰色は?」
「昨日より少し薄い。でも、消えてない」
「分かりました。乾燥隔離継続です」
トマは頷いた。
「旧水路班は、隔離箱の前に見張りを置かないことにした」
ニコルが顔を上げる。
「なぜですか?」
「見張りを置くと、逆に気になって近づく。だから、棚の前に札を置いて、立ち入り線を広めにした。確認は朝昼夕だけ。それ以外は近づかない」
ダリオさんが豆を食べながら言った。
「いい判断だ」
トマは少し驚いた。
「本当に?」
「本当に。危険物を見張りすぎると、見張る者が疲れる。疲れると触りたくなる。距離を置け」
ニコルが記録する。
『使用済み青根布隔離箱:常時見張りなし。朝昼夕確認。立ち入り線拡大。見張り疲労による接近防止』
トマはその文字を見て、少し照れた。
「旧水路班も、ちょっと考えるようになったな」
「少しな」
ダリオさんが言う。
「七割くらい」
「昨日より増えた?」
「増えた」
「よし」
小さな笑いが起きた。
次は森安全線。
リーゼさんが短く報告した。
「第二安全線、冷え小。昨日より弱い。退避路側青根布、箱内灰色点あり。拡大なし。未使用扱いではなく、反応接触ありとして別管理」
セリアがすぐ頷く。
「箱内で反応した以上、完全な未使用とは扱わない方がいいです」
ハンナが言う。
「でも、灰青を受けたわけではないですよね」
「はい。直接使用ではありません。ただ、反応に触れた可能性があります。予備布としては使わない方が安全です」
トマが顔をしかめる。
「使ってないのに、使えない?」
「はい」
セリアは静かに答えた。
「守りの道具は、使わなかったかどうかだけではなく、何に触れたかも見ます」
ニコルが記録する。
『森退避路側青根布:箱内灰色点。直接使用なし。ただし反応接触あり。予備布から除外、観察保管』
リーゼさんが頷く。
「使わずに済んだ。でも、次に使う布ではない」
「はい」
セリアの声は少し重かった。
青根布は貴重だ。
作るにも薬草予定地の力を使う。
だが、貴重だからこそ、無理に使ってはいけない。
次は、外縁杭三地点。
ハルマ村からの報告は、井戸番の手紙だった。
『古井戸、水汲み量減。水面静か。濁りなし。若い母親が、今日は子に“この井戸は昨日働いたから休む”と教えた』
トマがそれを聞いて笑った。
「いいな、それ」
セリアも柔らかく微笑んだ。
「子供にも分かりやすいです」
ニコルが書く。
『守りの井戸を休ませる説明として有効』
北沢からは、マルタ。
『石列、冷えさらに弱まる。赤紐維持。犬は今日は来てない。若いのが近道しようとしたので叱った。石を急がせるな』
ダリオさんが声を漏らした。
「相変わらず強いな」
リーゼさんが短く言う。
「良い」
トマが笑う。
「リーゼの評価、安定してる」
ミードからは、老女の伝言。
『東側帯、近接作業なし。葉は戻りつつある。今日は薬草に話しかけるだけにしろ。触るな』
セリアは少し赤くなった。
ハンナがすぐ反応する。
「セリアさん、もう話しかけてましたよね」
「……小声です」
「聞こえてました」
ミラが真面目に言う。
「記録しますか?」
「しないでください」
トマが笑った。
「今のは書かないのか」
ニコルは少し考えたあと、こう書いた。
『薬草予定地:過度な接触を避け、観察中心。声かけ程度は可』
セリアが恥ずかしそうに顔を覆った。
「声かけ程度は可……」
ダリオさんが豆を食べながら言う。
「いいじゃないか。薬草係らしい」
「そうでしょうか」
「そうだ」
そのあと、人員疲労確認が始まった。
全員、少し嫌そうだった。
だが、誰も逃げなかった。
ニコルが表を読み上げる。
「旧水路班」
トマが答える。
「全員、疲労あり。睡眠は取ったけど、まだ足が重い。水量板担当は夢に水量板が出たらしい」
若者が後ろで赤くなる。
「トマさん、それ言うんですか」
「大事だろ。夢に出るくらい気にしてるってことだ」
ニコルが書く。
『旧水路班:疲労あり。水量板担当、夢に水量板。心理負荷あり』
若者は顔を覆ったが、誰も笑わなかった。
トマが言った。
「笑うなよ。俺も出た」
ダリオさんが顔を上げる。
「水量板が?」
「いや、青根布の箱。開けるなって書いてあるのに、勝手に開く夢」
セリアが真剣に頷く。
「それは疲労です」
「ですよね」
ニコルが書く。
『トマ:青根布隔離箱が勝手に開く夢。心理負荷あり』
トマは今度も止めなかった。
「記録してくれ。多分、こういうのも後で役に立つ」
セリアの番。
「薬草予定地班」
セリアは少し考えた。
「疲労あり。特に、二本目の新芽を見続けたことで、目と気持ちが疲れています。ハンナは青根布箱を見張りすぎました。ミラは記録量が多く、手首が疲れています」
ハンナが苦笑する。
「見張りすぎた自覚はあります」
ミラが手首をさすった。
「少し痛いです」
ニコルが記録する。
『薬草予定地班:目・心理疲労。青根布箱見張りすぎ。記録係手首疲労』
リーゼさんの番。
「森班」
リーゼさんは短く言った。
「疲労あり。後ろを見ないで退く練習が一番疲れた」
トマが思わず言った。
「そこなんだ」
「そこだ」
リーゼさんは真顔だった。
「敵がいるより、退く方が難しい」
ニコルが記録する。
『森班:退避判断疲労。後方確認をしない訓練による心理負荷』
ダリオさん。
「地下工房班」
ダリオさんは少し沈黙した。
そして言った。
「目が疲れている。中枢室の表示を見続けたせいだ。あと、カリムの紙を見すぎた」
誰も茶化さなかった。
ニコルが書く。
『ダリオ:視覚疲労。中枢室表示およびカリム関連紙による心理負荷』
俺も続ける。
「境界鑑定の疲労あり。見えているから見続けそうになる感覚が残っています」
ニコルが書く。
『レオン:境界鑑定疲労。見続けそうになる感覚残留』
最後に、ニコル自身。
トマが言った。
「ニコルも書けよ」
「はい」
ニコルは少しだけ迷い、言った。
「総合記録後の疲労あり。報告順を間違える夢を見ました」
トマが顔をしかめる。
「うわ、それ嫌だな」
「はい。あと、最後の一行を書き忘れる夢も見ました」
セリアが優しく言う。
「でも、書き忘れたなら生きています」
ニコルは少しだけ目を見開いた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
自分で記録する。
『ニコル:総合記録疲労。報告順誤りの夢。最後の一行を書き忘れる夢。解釈:書き忘れたなら生存している』
トマが笑う。
「その解釈、いいな」
「セリアさんの言葉です」
「じゃあ書こう」
ニコルは赤くなりながら、欄外に書いた。
『書き忘れたなら、生きている』
人員疲労記録は、思った以上に長くなった。
だが、終わった時、広間の空気は少し軽くなっていた。
疲れている。
それを言えたからだ。
村長は全員を見回し、静かに言った。
「人も外縁杭も休ませよ」
誰も返事を急がなかった。
その言葉が、広間に染み込むのを待つように。
やがて、トマが小さく言った。
「はい」
セリアも頷いた。
「はい」
ニコルがその言葉を大きく書いた。
『人も外縁杭も休ませる』
夕方、王都へ後処理報告を送った。
『王都再封印後処理。
使用済み青根布一枚は乾燥隔離箱で保持。灰青反応は薄まりつつあるが残留。外部漏出なし。再利用不可。
森退避路側青根布は直接使用なしだが箱内灰色点あり。予備布から除外し観察保管。
旧水路緩衝線、疲労小。補修せず休止。薬草予定地、傷洗い草本株疲労小、青根布作成なし。
外縁杭三地点休止継続。ハルマ古井戸水汲み量減、北沢石列接近制限、ミード薬草帯近接作業なし。
人員疲労記録を開始。旧水路班、薬草予定地班、森班、地下工房班、総合記録係に心理・身体疲労あり。
村長指示:人も外縁杭も休ませよ』
その夜、俺は個人記録を書いた。
『再封印後の後始末。
青根布隔離、旧水路緩衝線休止、薬草予定地疲労確認、外縁杭三地点休止、人員疲労記録、撤退訓練反省を実施。
使用済み青根布は外部漏出なし。灰青反応は残留。森退避路側青根布は箱内灰色点あり、予備布から除外。
薬草予定地では二本目新芽倒伏なし。本株疲労小。旧水路緩衝線疲労小。北沢石列冷え低下傾向。ハルマ古井戸安定。ミード薬草帯回復傾向。
人員疲労記録を初めて正式実施。夢、手首疲労、見続けそうになる感覚、退避判断疲労などを記録』
最後に書く。
『再封印は成功した。
だが、成功のあとに残るものがある。
灰色を帯びた布。疲れた土。冷えた石。青くなった新芽。書きすぎた手首。水量板の夢。開く隔離箱の夢。
それらを、なかったことにしない。
後始末とは、汚れを片づけるだけではない。
働いたものが何を受け、どれだけ疲れたかを見ることだ。
人も外縁杭も休ませる。
次に守るために、今日は休む。』
地上では、水車が回っている。
その音はいつもと同じだ。
けれど今日は、その音さえ少し休ませたくなるほど、村全体が静かだった。




