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第168話 北方の旧封印施設

 北方旧封印施設。


 その名は、朝になっても広間の机の上に残っていた。


 紙一枚のはずなのに、妙に重い。


 カリム・ロッサが王都を離れた最後の記録。

 ダリオ・ヴェント除名処分から、およそ二月後。

 行き先申告は、リベル村方面ではない。

 北方旧封印施設調査補助。

 同行者一名、黒塗り。

 帰還記録、未確認。


 昨日、村長は「今日は追うな」と言った。


 紙は逃げない。

 人と石と草は疲れる。


 だから、追わなかった。


 だが、朝になれば紙はまだそこにある。


 追わなくても、見えるものは見えてしまう。


 朝の中央井戸で、副記録係が読み上げた。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。北方旧封印施設名確認後、継続異常なし」


 トマは井戸の縁から一歩離れて立っていた。


「井戸は反応しないんだな」


 ニコルが頷く。


「はい。名前を確認しただけでは、中央井戸に変化はありません」


「中枢室は?」


「今日、確認します」


「……反応すると思うか?」


 ニコルは少し考えた。


「分かりません」


「だよな」


 トマは腕を組んだ。


「黒石祠だけでも手いっぱいなのに、北方にも旧封印施設って言われると、ちょっと頭が追いつかない」


「僕もです」


 ニコルは記録板を抱えたまま、静かに言った。


「でも、今は北方へ行く話ではありません。カリム・ロッサが最後にどこへ向かったかを記録するだけです」


「記録するだけ、か」


「はい。広げすぎないために、書き方を気をつけます」


 トマは少し笑った。


「ニコル、本当に総合記録係になってから強くなったな」


「強くはありません。怖いままです」


「怖いまま書く」


「はい」


 その言葉は、もう何度も繰り返されてきた。


 怖いまま見る。

 怖いまま書く。

 怖いまま逃げる。

 怖いまま止まる。


 リベル村の記録は、そういうものになっていた。


 広間では、ダリオさんがすでに座っていた。


 昨日の紙を見ている。


 ただし、昨日ほど近づいてはいない。


 紙を机の中央に置き、自分は椅子の背にもたれている。


 見続けすぎない。


 自分でそう決めたからだ。


 トマがそれに気づいて、少しだけ口元を緩めた。


「ダリオさん、紙から距離取ってますね」


「取ってる」


「偉い」


「お前に言われると妙な気分だ」


「俺もです」


 セリアが薬草予定地の記録を持って入ってくる。


「傷洗い草本株、疲労小のまま悪化なし。二本目の新芽も倒れていません。今日は青根布作成なしを継続します」


 リーゼさんも壁際に立った。


「森第二安全線、灰色点拡大なし。冷え小。森は静か」


 村長は全員がそろったのを確認し、杖を鳴らした。


「北方旧封印施設について、今日は“広げぬ確認”をする」


 トマが首をかしげる。


「広げぬ確認?」


「そうじゃ。分かった名を記録する。だが、北方の調査計画は立てぬ。今の本筋は、黒石祠と外縁杭じゃ」


 ダリオさんが頷く。


「北方を追い始めると、今の足元が薄くなる。まだ旧水路も、北沢も、薬草予定地も完全には休めていない」


 セリアも言う。


「青根緩衝帯も過負荷後の状態確認中です。北方へ意識を持っていかれすぎるのは危険です」


 ニコルは新しい紙を出した。


『北方旧封印施設・現時点整理』


 一、カリム・ロッサ最終出入記録に記載。

 二、ダリオ・ヴェント除名処分から約二月後。

 三、目的:調査補助。

 四、同行者一名黒塗り。

 五、帰還記録未確認。

 六、黒石祠との直接関係は未確認。

 七、同系統封印技法の存在可能性。

 八、現時点で調査対象へ拡大しない。


 トマが最後の一文を見て頷いた。


「“調査対象へ拡大しない”って書くの、大事だな」


「はい」


 ニコルが答える。


「書かないと、気持ちが勝手に広がります」


 ダリオさんが低く笑った。


「記録で欲を縛るわけだ」


「はい」


「いい」


 村長が言った。


「中枢室へ名を登録する。ただし、照合だけじゃ。黒石祠関連として掘らぬ。問いすぎぬ」


 地下工房へ移動する時、いつもより足音が少なかった。


 誰も急がない。


 北方旧封印施設という名は、不穏だ。


 けれど、その不穏さに引っ張られてはいけない。


 中枢室は、低い青白い光を放っていた。


 王都再封印後の残留線はまだ完全に消えていないが、昨日よりは弱い。


 黒石祠残存命令核は低位安定。

 水腐れ封印層は維持。

 外縁杭は休止記録中。


 俺は登録文を読み上げた。


『カリム・ロッサ最終出入記録。王都離脱、ダリオ・ヴェント除名処分から約二月後。行き先申告、北方旧封印施設調査補助。同行者一名黒塗り。帰還記録未確認。黒石祠との直接関係未確認。現時点で調査対象へ拡大しない』


 中枢室の光が、少しだけ揺れた。


 黒紫は動かない。


 水腐れ封印層も揺れない。


 だが、壁面の端に、薄い青白い線が一瞬だけ浮かんだ。


 黒石祠の外縁線とは違う。


 もっと遠い、輪郭だけの線。


 すぐに消えた。


 表示が出る。


《北方旧封印施設:直接照合なし》

《黒石祠封印層:反応なし》

《水腐れの核:反応なし》

《同系統封印技法:存在可能性》

《ロッサ系補助印工法:他施設使用可能性》

《注意:現地優先。照合拡大非推奨》


 俺は読み上げた。


「北方旧封印施設、直接照合なし。黒石祠封印層、反応なし。水腐れの核、反応なし。同系統封印技法、存在可能性。ロッサ系補助印工法、他施設使用可能性。注意、現地優先。照合拡大非推奨」


 トマが通信越しに息を吐いた。


『直接反応なし……なら、今は追わなくていい?』


 ダリオさんが答える。


「追わなくていい。名前は置く」


『でも、同系統封印技法って何だ?』


「黒石祠と似た考えの封印施設が他にもあるかもしれない、というだけだ」


『世界、広くなりすぎないか?』


「広いんだろう。だが、今歩いている道幅は変わらん」


 その言い方に、トマは少し黙った。


『道幅は変わらない……』


 ニコルが通信越しに言った。


『記録します』


 トマがすぐ言う。


『それ、ダリオさんのだから書いていい』


 ダリオさんは苦笑した。


「勝手に許可するな」


 セリアが中枢室の表示を見ながら言った。


「北方旧封印施設が水腐れの核と直接関係しないなら、別の災害封印の可能性もありますね」


「そうだな」


 ダリオさんは腕を組む。


「黒石祠だけが特別じゃないのかもしれん」


 その言葉で、中枢室の青白い線が一度だけ弱く明滅した。


 表示は変わらない。


 ただ、空気が少し冷えた気がした。


 俺は言った。


「各地に、似た封印技法があった。ロッサ家は、その一部を知っていた。そう考えることはできます」


 ニコルが記録する。


『仮説:同系統封印技法が各地に存在し、ロッサ家は複数施設に関与した可能性。ただし現段階では北方へ拡大調査しない』


 村長が頷いた。


「よい。そこで止めよ」


 ダリオさんは、北方旧封印施設の表示を見ていた。


 目が細い。


 だが、昨日のように紙へ飲まれてはいない。


「カリムは、リベル村には来なかった」


 ぽつりと言った。


「はい」


 俺は答える。


「少なくとも、最終出入記録上は北方です」


「俺を追い出して、二月後に北方へ行った。帰ってきた記録はない」


 セリアが静かに言う。


「北方で何かがあったのかもしれません」


「あるいは、記録を消しただけかもしれん」


 ダリオさんは苦い顔で言った。


「どちらもあり得る」


 トマの通信が入る。


『また不明ですね』


「ああ。また不明だ」


 ニコルが答えた。


『不明は分類して置きます』


 ダリオさんは少しだけ笑った。


「頼む」


 広間へ戻ると、北方旧封印施設についての整理が続いた。


 王都へ返す文面は慎重にする必要があった。


 北方の存在を無視することはできない。


 だが、現地の安全管理を犠牲にして広げることもできない。


 ニコルが草案を作る。


『カリム・ロッサ最終出入記録および北方旧封印施設について。

リベル村中枢室において照合した結果、黒石祠封印層および水腐れの核への直接反応は確認されず。

ただし、同系統封印技法の存在可能性、およびロッサ系補助印工法が他施設でも使用された可能性が示された。

現時点でリベル村は、北方旧封印施設を黒石祠命令核分離作戦の直接調査対象へ拡大しない。

理由:旧水路、青根緩衝帯、外縁杭休止記録、王都再封印残留線の観察を優先するため。

王都には、北方旧封印施設に関する既存資料の所在確認のみを求める。現地調査計画は求めない』


 トマがそれを読んで言った。


「“現地調査計画は求めない”って、強いな」


「勝手に計画を始められると困ります」


 ニコルは真面目に答えた。


「王都が“リベル村も関心を示した”として話を広げる可能性があります」


 ダリオさんが頷く。


「ある。王都はよくやる」


「なので、先に線を引きます」


 村長が満足そうに言った。


「よい。紙の上でも、掘るな、動かすな、じゃ」


 セリアが少し笑った。


「調査も掘削と同じですね。広げすぎると、足元が崩れます」


 リーゼさんが短く言った。


「今の足元を守る」


 その言葉に、全員が頷いた。


 午後は、北方の紙を封じ、外縁杭休止記録へ戻った。


 ハルマ村からは、古井戸の水汲み量を減らした報告が届く。


『水面静か。若い母親が、今日は井戸にお礼を言ってから水を汲んだ』


 トマが聞いて、少し笑った。


「ハルマも石列みたいになってきたな」


 ニコルが記録する。


「守ったものへ礼を言う行動として記録します」


 北沢からは、マルタの報告。


『赤紐、動かしてない。犬を一匹止めた。石の下の冷え、少し弱まった』


 トマが大きく頷いた。


「犬も止めたか。さすがマルタさん」


 ミード村からは、老女の報告。


『東側帯、誰も触ってない。葉は戻り始めた。草を急がせるな』


 セリアはそれを聞いて、静かに頷いた。


「草を急がせない。大事ですね」


 リベル村の薬草予定地も、青根布作成なし。


 旧水路も補修なし。


 使用済み青根布の隔離箱は、外部漏出なし。


 休ませる日は、紙に引っ張られながらも、どうにか守られた。


 夕方、トマが広間でぽつりと言った。


「北方の話、気になるけど……今日は追わなくてよかったな」


 ニコルが頷く。


「はい。追っていたら、外縁杭休止記録が薄くなっていたと思います」


「薄くなる?」


「気持ちが別の場所へ行くと、目の前の変化を見落とします」


 トマは少し考えた。


「それ、怖いな」


「はい」


「じゃあ、北方の紙は箱に入れよう」


 ダリオさんが笑った。


「封じるか」


「うん。開ける時を決めて開ける。今は机の上に置きっぱなしにしない」


 村長が頷いた。


「よい」


 北方旧封印施設の記録は、専用の封筒に入れられた。


 表には、ニコルが書いた。


『北方旧封印施設。現時点では直接調査対象へ拡大しない。王都資料待ち』


 その封筒は、黒石祠関連の主台帳ではなく、未確定補助台帳へ移された。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『北方旧封印施設名を中枢室へ登録。

結果:黒石祠封印層および水腐れの核への直接反応なし。同系統封印技法の存在可能性。ロッサ系補助印工法が他施設でも使用された可能性。現地優先、照合拡大非推奨。

仮説:黒石祠と同系統の封印施設が他地域にも存在し、ロッサ家が複数施設に関与した可能性。ただし現段階では調査対象へ拡大しない。

王都への返書では、北方旧封印施設の既存資料所在確認のみ求め、現地調査計画は求めないと明記。

外縁杭休止記録は継続。ハルマ古井戸、水汲み量減。北沢石列、赤紐維持、犬一匹制止、冷えやや低下。ミード薬草帯、葉回復傾向。旧水路隔離箱、外部漏出なし』


 最後に書く。


『北方旧封印施設。

その名は、不穏だ。

黒石祠だけが特別ではないのかもしれない。

ロッサ家の技術は、他の封印施設にも触れていたのかもしれない。

だが、今、私たちの足元にあるのはリベル村の水と土だ。

旧水路の隔離箱。北沢の赤紐。ハルマの古井戸。ミードの薬草帯。二本目の新芽。

遠い名に目を奪われて、近い疲労を見落としてはいけない。

だから、北方の紙は封じた。

開ける時を決めて開ける。

今は、休ませるものを休ませる。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は変わらない。


 北方旧封印施設という名は、封筒の中へ入った。


 消えたわけではない。


 ただ、今は閉じておく。


 リベル村は、遠い不穏よりも、目の前の水音を選んだ。

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