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第167話 カリムは補修したのか

 カリム系補修印。


 その言葉が出てから、広間の空気は少し変わった。


 ロッサ系補助印工法。

 王都金属資料と旧水量板に共通する施工痕。

 オルド系外縁施工印とは異なる、補修印らしきもの。


 そこに、カリム・ロッサの名が近づいた。


 ダリオさんを技師組合から追い出す時、外部監査役として立ち会った男。


 黒薔薇工房外部技術顧問補佐。

 旧水脈補助印照合。

 外部技師組合連絡。


 今まで、カリムは隠した側、閉じた側、消した側として見えていた。


 だが、王都の照合によって、彼は「補修した可能性のある人物」にもなった。


 補修。


 壊れたものを直す行為。


 その響きだけなら、悪い言葉ではない。


 けれど、何を直したのかで意味は変わる。


 封印を守るために直したのか。

 命令網を維持するために直したのか。

 証拠を隠すために直したのか。


 まだ分からない。


 その「分からない」が、広間に重く沈んでいた。


 朝の中央井戸では、副記録係がいつものように水面を見ていた。


「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。カリム系補修印可能性確認後、継続異常なし」


 ニコルが隣で頷く。


「よいです」


 トマは井戸の縁から一歩離れて立っていた。


「井戸は落ち着いてるな」


「はい」


「でも、人間の方が落ち着いてない」


 ニコルは記録板を抱え直した。


「それも、記録しますか」


「……した方がいいかもな。カリムの話が出てから、みんな変な感じだし」


「はい」


 ニコルは欄外に書いた。


『カリム系補修印可能性確認後、人員心理に緊張あり。井戸・水路等は安定』


 トマはそれを見て、苦笑する。


「人員心理って書かれると、急に王都っぽいな」


「現場の気持ちも、状態の一部です」


「最近、ニコルの言うことがだんだん怖いくらい正しい」


「怖いですか」


「少し」


「では、半分くらいにしておきます」


「それ、ダリオさんのやつが移ってる」


 少し笑ったあと、二人とも広間へ向かった。


 広間では、すでにダリオさんが座っていた。


 机には、王都から届いた比較図が広げられている。


 旧水量板裏面の欠けた施工者痕。

 王都金属資料の命令補助印端部。

 ロッサ系補助印工法。

 そして、カリム系補修印の可能性。


 ダリオさんは、その紙をじっと見ていた。


 豆の入った椀が横にある。


 だが、手をつけていない。


 トマがそれに気づき、少し迷った末に言った。


「豆、食べないんですか」


 ダリオさんは紙から目を離さずに答えた。


「今は重い」


「豆が?」


「紙が」


「ですよね」


 トマは椅子に座った。


 セリアも薬草予定地の朝記録を持って入ってくる。


「傷洗い草本株、疲労小は残っていますが、悪化なしです。二本目の新芽も倒れていません」


 リーゼさんも壁際へ立った。


「森第二安全線、灰色点拡大なし。冷え小」


 村長が全員を見回す。


「今日は、カリム・ロッサの補修印について整理する」


 ニコルが筆を構える。


 だが、ダリオさんが低く言った。


「整理できるほど、材料はない」


 広間が静まる。


 村長は頷いた。


「では、整理できぬことを整理する」


 ダリオさんは、少しだけ苦笑した。


「それならできる」


 ニコルが見出しを書く。


『カリム系補修印・未確定事項整理』


 トマが小さく言った。


「未確定事項整理……」


「分からないことを分けます」


 ニコルが答える。


「分からないまま置くために」


 ダリオさんは比較図を指差した。


「まず一つ。王都金属資料の命令補助印端部に、補修印らしきものがある。これは確定ではないが、可能性は高い」


 ニコルが書く。


 一、王都金属資料命令補助印端部に補修印可能性。


「二つ。補修印は、オルド系外縁施工印とは一致しない。つまり、最初に外縁構造を施工した印とは別の手が入っている可能性がある」


 二、オルド系外縁施工印とは不一致。後年の別手補修可能性。


「三つ。カリム・ロッサ関係資料と照合中。まだ一致はしていない」


 三、カリム・ロッサ関係資料と照合中。現時点で未確定。


「四つ。補修の目的は分からない」


 ダリオさんの声が、少し硬くなる。


「封印保護、命令網維持、証拠隠し、あるいはその全部かもしれない」


 ニコルが書く手を止めずに頷いた。


 四、補修目的不明。封印保護、命令網維持、証拠隠し、複合目的の可能性。


 トマが眉を寄せた。


「複合目的って、一番嫌ですね」


「そうだ」


 ダリオさんはすぐに答えた。


「人間の仕事は、綺麗に一つの理由でできてないことが多い」


 セリアが静かに言う。


「封印を守るために命令網も維持した、という可能性もありますか」


「ある」


 ダリオさんは認めた。


「命令網を止めれば封印が不安定になると思ったのかもしれない。だから、歪んだ命令網だと分かっていて補修した可能性もある」


 トマが顔をしかめる。


「それ、守ってるのか悪化させてるのか、分からないですね」


「だから腹が立つ」


 ダリオさんの声が、少しだけ荒くなった。


 彼は比較図を見つめたまま言った。


「俺を追い出した男が、何を守っていたのか分からないのが一番腹立つ」


 広間が静まり返った。


 その言葉は、責任線の奥にある感情だった。


 カリム・ロッサが何かを守ろうとしていた可能性。


 それは、ダリオさんにとって救いではない。


 むしろ、怒りを複雑にするものだった。


「悪人だと決まっていれば、まだ楽だ」


 ダリオさんは続けた。


「黒薔薇工房の命令網を維持するために俺を消した。そうなら分かりやすい。怒ればいい。責めればいい。だが、もし……もしあいつが、封印を守るために、俺の手控えを取り上げ、資料棚を閉じ、俺を追い出したのだとしたら」


 彼はそこで言葉を切った。


 トマは何か言おうとして、言えなかった。


 セリアも目を伏せている。


 ニコルの筆は止まっていた。


 ダリオさんは、低く言った。


「それでも許せん。守るために人を消していい理由にはならない」


 村長が静かに頷いた。


「その通りじゃ」


 ダリオさんは深く息を吐いた。


「だが、分からない。分からないから怒りが置き場を失う」


 トマが、ぽつりと言った。


「分からないって、こんなに腹立つんですね」


 その言葉に、ダリオさんが少しだけ顔を上げた。


 トマは自分の手を見ていた。


「俺、前は分からないことって、ただ怖いだけだと思ってました。でも、今は腹立つ。誰が悪いのか決められないのが腹立つし、悪いと思ってた人が何か守ってたかもしれないのも腹立つし、でもそれで許すのも違うし……」


 言いながら、トマはだんだん眉間に皺を寄せる。


「なんだこれ。めちゃくちゃ腹立つ」


 セリアが少しだけ笑いそうになり、けれど笑わずに頷いた。


「分かります」


 ニコルが筆を動かした。


『トマ発言:分からないって、こんなに腹立つんですね』


 トマはそれを見て、止めなかった。


 ニコルは続けて、別の一文を書いた。


『不明は怒りを生む。だが不明のまま記録する』


 その文字を見て、広間がまた静かになった。


 ダリオさんが、ゆっくりと頷いた。


「それだ」


 ニコルは少し驚いた顔をする。


「これでよいですか」


「よい。今の俺たちに必要な言葉だ」


 村長も頷いた。


「王都への返書にも入れよ」


「はい」


 セリアが言った。


「不明のまま記録する、ということは、怒ってはいけないという意味ではないですよね」


 ニコルは少し考えた。


「怒ってもよいと思います。ただ、怒りで空白を埋めない、という意味です」


 ダリオさんが豆の椀を手に取った。


 ようやく一粒食べる。


「記録係らしい答えだ」


 トマが少し笑った。


「豆、戻った」


「少しな」


 笑いは小さかった。


 けれど、その小ささが今の広間にはちょうどよかった。


 午後、王都へ返書を作った。


『カリム系補修印可能性について。

補修印は、オルド系外縁施工印とは不一致であり、後年の別手補修の可能性あり。

カリム・ロッサ関係資料との照合中であるため、現段階で断定せず。

補修目的は、封印保護、命令網維持、証拠隠し、複合目的等の可能性がある。

リベル村は、補修行為そのものを善悪として判断しない。何を守るため、何を維持するため、何を隠すための補修であったかを照合対象とする。

不明は怒りを生む。だが不明のまま記録する』


 ニコルは最後の一文を書く時、少しだけ手を止めた。


 トマが横から言った。


「入れよう。王都にも読ませたい」


「はい」


 ダリオさんも言った。


「読ませろ。王都の机にも、怒りで断定するなと置いてやれ」


 返書を仕上げようとした、その時だった。


 王都から、追加の短い通信が入った。


 行政庁の緊急符号ではない。


 だが、技師組合再審査室の印がついている。


 ニコルが封を受け取り、村長へ渡す。


 村長が俺を見る。


「読め」


 俺は封を切った。


 中の紙は一枚だけだった。


『カリム・ロッサの最終出入記録について。

王都技師組合外部監査登録簿および旧門衛記録を照合した結果、カリム・ロッサが王都を離れた最後の記録を確認。

時期は、ダリオ・ヴェント除名処分から約二月後。

行き先申告は、リベル村方面ではない。

北方旧封印施設調査補助。

同行者欄、一名黒塗り。

帰還記録、現時点で未確認』


 広間の誰も、すぐには言葉を出せなかった。


 北方旧封印施設。


 それは、初めて出る地名だった。


 黒石災害封じ祠とは別の封印施設。


 カリムは、リベル村方面へ向かったのではなかった。


 北方へ向かった。


 しかも、帰還記録がない。


 トマが低く言う。


「北方……旧封印施設?」


 セリアが不安そうに眉を寄せる。


「黒石祠以外にも、封印施設があるんですか」


 ダリオさんは紙を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。


「あるのかもしれん」


 ニコルは新しい欄を作った。


『カリム・ロッサ最終出入記録』


 そして、書き始める。


 一、ダリオ・ヴェント除名処分から約二月後。

 二、王都を離れる。

 三、行き先申告:北方旧封印施設調査補助。

 四、リベル村方面ではない。

 五、同行者一名黒塗り。

 六、帰還記録未確認。


 トマが呟く。


「帰ってきてないかもしれないってことか」


 リーゼさんが短く言う。


「死んだか、隠れたか、消されたか」


 以前も似た言葉を聞いた。


 だが、今回は場所が違う。


 北方旧封印施設。


 黒石祠とは別の、何か。


 ダリオさんが低く言った。


「俺を追い出して二月後に、北方の旧封印施設へ行った。補修印の可能性が出た男が、別の封印施設へ」


 セリアが言う。


「カリムは、封印施設を渡り歩いていたのでしょうか」


「分からん」


 ダリオさんは即答した。


 だが、その声には先ほどよりも疲れがあった。


「また、不明だ」


 トマが苦い顔で言う。


「腹立つ不明ですね」


「ああ」


 ニコルは、さっきの一文の下に書き足した。


『不明は増える。だから分類して置く』


 村長は静かに言った。


「今日はそこまでじゃ。北方の名を追うな」


 トマが驚く。


「でも」


「追うな」


 村長の声は強かった。


「外縁杭休止中じゃ。紙は逃げぬ。人と石と草は疲れる。北方の紙は、明日見る」


 トマは口を閉じた。


 セリアも頷く。


「今日は、休ませる日です」


 ダリオさんはカリムの最終出入記録を見つめていた。


 しばらくして、紙をニコルへ渡す。


「写して、封じろ」


「はい」


「俺が見続けそうなら、閉じろ」


 ニコルは少しだけ驚いたあと、真剣に頷いた。


「はい」


 トマが小声で言った。


「見えているからといって、見続けない、ですね」


 ダリオさんは苦笑した。


「そうだ。今の俺にも必要だ」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『カリム系補修印可能性について整理。

補修印はオルド系外縁施工印とは不一致。後年の別手補修可能性。カリム・ロッサ関係資料と照合中。目的未確定。

可能性:封印保護、命令網維持、証拠隠し、複合目的、その他。

ダリオ発言:“俺を追い出した男が、何を守っていたのか分からないのが一番腹立つ”。

トマ発言:“分からないって、こんなに腹立つんですね”。

ニコル記録:“不明は怒りを生む。だが不明のまま記録する”。

王都より追加通信。カリム・ロッサ最終出入記録を確認。ダリオ除名処分から約二月後、王都を離れる。行き先申告はリベル村方面ではなく、北方旧封印施設調査補助。同行者一名黒塗り。帰還記録未確認』


 最後に書く。


『カリムは補修したのか。

したのかもしれない。

だが、何を守るための補修だったのかは分からない。

封印か。命令網か。証拠か。自分自身か。

不明は怒りを生む。

怒りは、空白を埋めたがる。

だが、空白は空白のまま置く。

その空白の先に、北方旧封印施設という新しい名が現れた。

黒石祠だけではないのかもしれない。

けれど今日は追わない。

外縁杭も、人も、まだ休んでいる途中だから。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は変わらない。


 けれど、机の上には新しい地名が残った。


 北方旧封印施設。


 カリム・ロッサが最後に向かった場所。


 帰還記録は、まだ見つかっていない。

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