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第166話 ロッサ系印、王都で確定へ

 休ませる日を作ったはずなのに、紙は休んでくれなかった。


 朝の中央井戸は、変わらず澄んでいた。


 ハルマ村の古井戸は、水汲み量を減らしている。

 北沢の石列には、赤い紐が置かれている。

 ミード村の薬草帯には、誰も根を見ようと近づいていない。

 旧水路緩衝線も、今日は補修しない。

 薬草予定地では、青根布も作らない。


 働いたものを休ませる。


 そう決めた翌朝だった。


 けれど王都からの便は、また封筒を運んできた。


 行政庁、防衛局、外部監査部。

 さらに、技師組合再審査室の印。


 ニコルは封筒を見た瞬間、少しだけ肩を落とした。


 トマが横から覗き込む。


「また王都か」


「はい」


「紙は休まないな」


「紙も休ませたいです」


「それ、記録係の本音だな」


「はい」


 ニコルはすぐに記録板を開いた。


『王都より追加照合報告到着。外縁杭休止期間中』


 トマはその文字を見て苦笑した。


「休止期間中って、圧がある」


「必要です。休ませる日なのに、追加照合が来たという事実を残します」


「確かに」


 広間に全員が集まった。


 村長は封筒をしばらく見ていたが、やがて俺へ渡した。


「読め」


 俺は封を切った。


 中には、王都金属資料再封印時に確認された命令補助印反応面の写しと、旧水量板裏面施工者痕の比較図が入っていた。


 それを見た瞬間、トマが息を止めた。


「これ……水量板の裏のやつか」


「はい」


 ニコルが比較図を机に広げる。


 左側。


 リベル村旧水量板裏面に残っていた、欠けた施工者痕。


 右側。


 王都金属資料の命令補助印端部に残っていた、短時間露出時の写し。


 完全に同じではない。


 旧水量板の方は欠けている。

 王都資料の方も、再封印処理中に三呼吸以内で写された不完全なものだ。


 だが、棘のような小さな返し。

 曲線の角度。

 点の位置。

 補助印の端にある、独特の二重刻み。


 それらが重なっていた。


 トマは机に手をつき、言った。


「……本当に繋がったんだな」


 ダリオさんが比較図を見ながら頷く。


「王都が認めたなら、大きい」


 俺は添え状を読み上げた。


『王都行政庁・防衛局・外部監査部より。

王都金属資料再封印処理時、命令補助印反応面の一部を短時間照合した結果、リベル村旧水量板裏面の施工者痕と同系列のロッサ系補助印工法を確認。

完全一致ではないが、旧水量板補助印と王都金属資料命令補助印に、同一技術系統が用いられた可能性が極めて高い』


 トマが低く言った。


「極めて高い……」


 ニコルが復唱しながら記録する。


「同一技術系統が用いられた可能性が極めて高い」


 セリアは比較図を見つめていた。


「水量板は、ただの末端ではなかったんですね」


 ダリオさんが答える。


「末端だった。だが、末端だから軽いわけじゃない。末端に残った痕が、中心の資料と繋がった」


 トマは黙って水量板の写しを見ている。


 昨日まで何度も言われてきた。


 触らなかったから残った。

 動かさなかったから、粉も傷も残った。

 見えにくいまま見たから、施工者痕を拾えた。


 その記録が、王都金属資料と照合された。


 王都の机の上で、旧水量板の傷が証拠になった。


「俺が触らなかったから……」


 トマが呟く。


 ダリオさんが、今回は茶化さずに言った。


「そうだ」


 トマは顔を上げた。


「本当に?」


「ああ。本当にだ。お前が触らなかったから、残った。残ったから照合できた」


 トマは、何か言おうとしてやめた。


 代わりに、少しだけ息を吐いた。


「……よかった」


 ニコルが静かに筆を動かした。


『トマ発言:俺が触らなかったから残った。本当にそうだと確認。よかった』


 トマはそれを見たが、止めなかった。


 添え状には、さらに続きがあった。


『加えて、王都金属資料命令補助印端部に、主施工印とは異なる補修印を確認。

当該補修印は、現段階ではオルド・ロッサ系外縁施工印とは一致せず、別系統のロッサ家技師印と推定。

カリム・ロッサ関係資料との照合を進行中』


 広間がまた静かになった。


 カリム。


 その名前が出るたびに、ダリオさんの表情が少しだけ硬くなる。


 トマが慎重に聞いた。


「カリム系補修印……やっぱり、補修してた可能性があるんですか」


 ダリオさんは比較図を見たまま答えた。


「可能性はある」


「じゃあ、カリムは直したんですか?」


「まだ分からん」


 声は硬かったが、荒くはなかった。


「補修という言葉に騙されるな。壊れた封印を守るための補修もある。命令網を維持するための補修もある。証拠を隠すための補修もある」


 セリアが静かに言う。


「補修そのものは、善悪ではない」


「ああ」


 ダリオさんは頷いた。


「何を守るために補修したかだ」


 ニコルはすぐ新しい欄を作った。


『補修印の解釈』


 一、封印保護のための補修。

 二、命令網維持のための補修。

 三、証拠隠しのための補修。

 四、その他。

 五、現段階では目的未確定。


 トマがそれを見て、顔をしかめた。


「分からないが増えた」


「はい」


 ニコルは頷いた。


「でも、分からない種類が分かりました」


「分からない種類?」


「はい。何が分からないかを分けられました」


 ダリオさんが少し笑う。


「いい言い方だ」


 トマはまだ納得しきれない顔だった。


「でもさ、俺だったら、補修したって聞いたら少しだけ“守ろうとしたのかも”って思っちゃう」


 ダリオさんは、その言葉にすぐ返さなかった。


 広間の空気が少し緊張する。


 しばらくして、ダリオさんは低く言った。


「俺も、そう思いそうになる」


 トマは驚いた顔をした。


「ダリオさんも?」


「ああ。だから腹が立つ」


 ダリオさんは、カリムの名が書かれた紙を見た。


「俺を追い出した男が、もし何かを守ろうとしていたのなら。なぜ俺を消した。なぜ資料棚を閉じた。なぜ手控えを没収した。そう思う」


 セリアが小さく言う。


「守るために、誰かを切り捨てた可能性も……」


「ある」


 ダリオさんは否定しなかった。


「だが、それを許す理由にはならん。守るために人を消していいわけじゃない」


 ニコルの筆が止まった。


 その言葉は、責任線の根っこに触れていた。


 守ったのか。

 歪めたのか。

 補修したのか。

 隠したのか。


 いずれにせよ、誰かの名前を紙から消すことは別の罪だった。


 村長が静かに言う。


「カリム・ロッサを、善人にも悪人にもせぬ。紙が出るまで置け」


 ニコルは頷いた。


「はい。不明のまま記録します」


 添え状の最後には、王都側の正式所見があった。


『現時点の暫定正式所見。

一、旧水量板補助印と王都金属資料命令補助印は、ロッサ系補助印工法による同系列施工痕を持つ。

二、王都金属資料命令補助印には、主施工印とは別に補修印が存在する可能性。

三、補修印はカリム・ロッサ関係資料との照合対象。

四、オルド・ロッサ系外縁施工記録との関係は継続調査。

五、リベル村旧水量板を未操作で保存したことにより、照合可能性が大きく上昇した』


 最後の一文で、トマは完全に黙った。


 王都が、旧水量板を未操作で保存したことを評価している。


 それは、リベル村の現場判断が王都の正式所見に入ったということだった。


 ニコルがその一文を丁寧に写す。


『リベル村旧水量板を未操作で保存したことにより、照合可能性が大きく上昇』


 トマは少し照れくさそうに、けれど真面目に言った。


「……水量板班にも見せたい」


「見せましょう」


 ニコルが答える。


「これは旧水路班全員の記録です」


「俺だけじゃないもんな」


「はい。水量板担当も、上流担当も、副記録係も、全員が触らなかった」


 トマは大きく頷いた。


「うん」


 ダリオさんが言った。


「それを忘れるな。一人の手柄にすると、次に誰かが無理をする。班の記録にしろ」


 ニコルが書き足す。


『旧水量板未操作保存は、旧水路班全体の成果』


 午後、旧水路班に王都報告が共有された。


 水路脇に簡易机を置き、ニコルが写しを読み上げる。


 若者たちは、最初は落ち着かない様子だった。


 王都の正式所見など、自分たちには遠いものだと思っていたのだろう。


 だが、読み上げが進むにつれて表情が変わっていく。


 水量板担当の若者が、ぽつりと言った。


「僕、触らなくてよかったんですね」


 トマが言う。


「ああ。よかった」


「何度か、押さえたくなりました」


「俺もだ」


「でも、触らなかった」


「うん」


 若者は水量板を見た。


 少し傾いたままの古い板。


 見た目には何も偉くない。


 けれど、その裏の欠けた傷が王都の金属資料と繋がった。


 副記録係が言った。


「書いておいてよかったですね。未操作って」


 ニコルが頷く。


「はい。未操作の記録が、証拠になりました」


 トマは班員を見回した。


「いいか。これで調子に乗るなよ」


 若者たちが一瞬きょとんとする。


「触らなかったから褒められた。だから次も触らない。見つけたからって動かさない。王都に認められたからって、急に偉くなったわけじゃない」


 副記録係が書こうとする。


 トマはそれに気づき、言った。


「書け。これは大事だ」


 副記録係は少し嬉しそうに頷いた。


『王都に認められても、次も触らない。見つけたから動かさない』


 ダリオさんは少し離れてその様子を見ていた。


 旧水路班の若者たちは、今日、少し背筋を伸ばしていた。


 それは良い変化でもあり、危うい変化でもある。


 誇りは必要だ。


 だが、誇りが手を伸ばさせることもある。


 トマがそこを先に言えた。


 それが大きかった。


 夕方、王都への返書を作る。


『ロッサ系補助印工法の暫定正式所見を受領。

旧水量板補助印と王都金属資料命令補助印が同系列施工痕を持つことを確認。

リベル村旧水量板未操作保存が照合可能性上昇に寄与した点を確認。

当該未操作保存は、旧水路班全体の成果として記録。

カリム系補修印可能性については、目的未確定として扱う。封印保護、命令網維持、証拠隠し、その他の可能性を区分し、断定を避ける。

オルド系外縁施工記録およびカリム関係資料の追加照合を求める』


 ニコルは最後に、ダリオさんの言葉も入れた。


『補修そのものは善悪ではない。何を守るために補修したかを照合する必要がある』


 ダリオさんはそれを見て、少しだけ眉を上げた。


「俺の言葉か」


「はい。必要だと思いました」


「なら入れろ」


 その夜、俺は個人記録を書いた。


『王都よりロッサ系補助印工法の暫定正式所見到着。

旧水量板補助印と王都金属資料命令補助印に、同系列のロッサ系補助印工法を確認。完全一致ではないが、同一技術系統が用いられた可能性が極めて高い。

王都金属資料命令補助印端部に、主施工印とは別の補修印の可能性。現段階ではオルド系外縁施工印とは一致せず、カリム・ロッサ関係資料と照合中。

リベル村旧水量板を未操作で保存したことにより、照合可能性が大きく上昇したとの王都所見。

旧水量板未操作保存は、旧水路班全体の成果として記録。

カリム系補修印の目的は未確定。封印保護、命令網維持、証拠隠し、その他の可能性を区分』


 最後に書く。


『旧水量板の傷が、王都の金属資料と繋がった。

触らなかったことが、正式所見になった。

未操作の記録が証拠になった。

トマだけではない。旧水路班全体が、触りたい手を止めた。その結果、ロッサ系補助印工法という線が見えた。

だが、同時にカリム系補修印という新しい不明も出た。

補修は、直すことだ。

けれど、何を守るために直したのかが分からなければ、善悪は決められない。

守るためか。維持するためか。隠すためか。

怒りで決めず、不明のまま置く。

それもまた、記録の仕事だ。』


 地上では、水車が回っている。


 旧水量板は、今日も動いていない。


 少し傾いたまま、古い水路の脇に立っている。


 その裏の欠けた傷は、ようやく王都の紙に届いた。


 触らなかったものが、語り始めていた。

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