第161話 三呼吸目の黒紫
三呼吸目が、終わろうとしていた。
王都で、命令補助印の反応面が露出している。
その事実は、目の前にあるわけではない。
ここはリベル村の地下工房だ。
王都の開封室とは、山も道も距離も隔てている。
それなのに、中枢室の黒紫は、まるで目の前で箱の蓋が開いたかのように濃くなった。
《残存命令核:上昇準備》
《王都方面反応:強化予兆》
《水腐れ封印層:維持》
《外縁杭:受圧開始》
《警告:遠隔共鳴、強化予兆》
俺は表示を読み上げた。
「残存命令核、上昇準備。王都方面反応、強化予兆。水腐れ封印層、維持。外縁杭、受圧開始。遠隔共鳴、強化予兆」
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
ダリオさんが隣で叫ぶ。
「中位か!」
「まだです。まだ低位上限」
「封印層は!」
「維持!」
手動閉鎖板の前にいる若者二人が、息を詰めてこちらを見ている。
ダリオさんが振り向かずに言った。
「こっちを見るな。板を見ろ」
「は、はい!」
「合図が出たら閉じる。俺が何を言っても閉じる」
「はい!」
広間の通信札から、ニコルの声が響いた。
『地下報告、受領。全地点、三呼吸目反応確認。中央井戸』
声は震えていた。
けれど、崩れていない。
中央井戸の副記録係が応じる。
『中央井戸、水面、一度大きく揺れました。濁りなし。匂いなし。水温変化なし。青反応、やや増』
ニコルが復唱する。
『中央井戸、水面大揺れ一回。濁りなし。匂いなし。青反応やや増。旧水路』
トマの声が入った。
『旧水路、上流に灰青微弱。緩衝線、受けています。水中拡大なし。青土封じ札一、反応増。水量板、未操作。変位なし』
その声は早い。
だが、訓練通りに区切れていた。
広間からニコルが返す。
『旧水路、灰青微弱。緩衝線受容。水中拡大なし。青土封じ札一反応増。水量板未操作。薬草予定地』
セリアの声。
『薬草予定地、傷洗い草本株、青反応増。二本目の新芽、強く青くなっています。倒伏なし。青根布、未使用。青根緩衝帯、受圧中』
ハンナの声が後ろで小さく入った。
『セリアさん、布はまだ』
『使いません。まだ受けています』
ニコルが復唱する。
『薬草予定地、二本目新芽、強青反応。倒伏なし。青根布未使用。森安全線』
リーゼさんの声は、いつも通り短い。
『森第二安全線、土の冷え増。退避路側青根布、箱内のまま端に灰色点。灰青の滲み、視認なし。第一安全線、異常小』
端に灰色点。
箱の中に入ったままの青根布が反応している。
王都の三呼吸が、森の退避路まで届いていた。
ニコルは声を乱さなかった。
『森第二安全線、土の冷え増。退避路側青根布、箱内端に灰色点。灰青視認なし。ハルマ村』
少し雑音が入った。
次に、井戸番の声。
『ハルマ古井戸、水面が大きく一度揺れた。濁りなし。匂いなし』
その後、若い母親の声が入った。
『……怖いです。でも、まだ濁っていません』
井戸番が隣で言う。
『そうだ。まだ濁ってない。見るぞ。逃げる時は逃げる』
ニコルは、そのまま書いたのだろう。
『ハルマ、水面大揺れ一回。濁りなし。若い母親、怖いが観察継続。井戸番、濁りなし確認。北沢集落』
今度はマルタの声だった。
『北沢石列、石の下が冷えた。若いのを二歩下げた。石は動かしてない。土は重いが、割れてない』
ニコルが復唱する。
『北沢、石下冷え。若者を後退。石移動なし。土割れなし。ミード村』
少し間があった。
遠くで老女の声が聞こえる。
『葉は耐えてる。まだ抜くな』
孫娘の声が続いた。
『ミード薬草畑、止血草葉端硬化。傷洗い草系小株、青反応増。東側帯、湿り小。祖母、葉は耐えていると言っています』
その報告を聞いた瞬間、地下工房の中枢室で青白い外縁線が細く震えた。
《外縁杭:受圧継続》
《ハルマ古井戸:水面揺れ受容》
《北沢石列:冷却圧受容》
《ミード旧薬草緩衝帯:根系受容》
《水腐れ封印層:維持》
「外縁杭、受圧継続。ハルマ古井戸、水面揺れ受容。北沢石列、冷却圧受容。ミード旧薬草緩衝帯、根系受容。水腐れ封印層、維持」
俺が読み上げると、ダリオさんが短く言った。
「耐えてるな」
「はい」
「だが、続けるな。三呼吸だ。王都、閉じろ」
その声が届くわけではない。
それでも、言わずにはいられなかったのだろう。
広間からニコルの声が飛ぶ。
『王都開封室、露出時間確認』
王都側の声は、いつもより荒かった。
『一呼吸経過。反応面確認。黒紫化なし。ただし反応強。二呼吸へ』
トマの通信が割って入りそうになったが、すぐに止まった。
訓練通りだ。
勝手に質問しない。
総合記録の順を崩さない。
ニコルが返す。
『リベル村側、強化予兆継続。ただし中止条件未達。三呼吸以内閉鎖を厳守してください』
王都開封室。
『了解』
その一言が、やけに遠く聞こえた。
地下工房の黒紫は、さらに濃くなろうとしている。
まだ中位ではない。
だが、境界に近い。
俺は思わず身を乗り出した。
次の瞬間、ダリオさんの手が俺の肩を掴んだ。
「レオン」
「……はい」
「見続けるな。表示だけ読め」
そうだった。
自分で書いた。
『見えているからといって、見続けない』
俺は一歩引き、呼吸を整える。
表示だけを見る。
奥を覗き込まない。
理由を探しすぎない。
今必要なのは、原因の解明ではない。
生きて三呼吸を越えることだ。
《残存命令核:低位上限》
《中位移行:未達》
《水腐れ封印層:維持》
《青根緩衝帯:受圧中》
「命令核、低位上限。中位移行、未達。封印層、維持。青根緩衝帯、受圧中」
通信越しに、セリアが息を呑むのが聞こえた。
『薬草予定地、二本目新芽、青反応さらに増。でも倒れていません』
ハンナの声。
『セリアさん、布は?』
『まだ。まだ使いません。根が受けています』
ミラの震えた声も入った。
『記録します。二本目、倒伏なし』
旧水路からトマの声が飛ぶ。
『旧水路、緩衝線が少し崩れ……いや、崩れてない。土の色が変わった。灰青、上流からもう一度来る』
ダリオさんが俺を見る。
俺は中枢室の側面表示を確認した。
《旧水路上流:水腐れ系微反応増》
《旧水路緩衝線:受容限界接近》
《青根布追加:推奨》
「旧水路緩衝線、受容限界接近。青根布追加、推奨」
広間のニコルが即座に伝える。
『旧水路、青根布一枚使用を承認。水中投入禁止。水路脇土壌へ』
トマの返事。
『了解。青根布一枚。水路脇土壌へ。水には入れない』
声が一瞬遠ざかる。
現場が動いたのだ。
トマの声が続く。
『青根布設置。端に灰色。広がり……なし。緩衝線、持ち直し。水中拡大なし』
セリアの通信が入る。
『旧水路班、青根布は一枚のみ。追加しないでください。過負荷なら撤退です』
『了解。粘らない』
トマは短く答えた。
それだけで十分だった。
王都開封室から声。
『二呼吸経過。反応面確認継続。追加封印層固定位置、確定。三呼吸目へ』
広間に沈黙が落ちた。
三呼吸目。
ここで閉じなければならない。
王都が欲を出せば、あと少し確認したいと思えば、こちらは中止合図を出す。
村長の声が、低く広間から響いた。
『王都開封室、三呼吸終了時点で閉鎖せよ。延長は認めぬ』
王都側の返答。
『了解。三呼吸終了で閉鎖』
中枢室の黒紫が、じわりと膨らむ。
外縁杭の青白い円弧が、それを外側から受けるように震えた。
ハルマの井戸が揺れた。
北沢の石が冷えた。
ミードの薬草が青くなった。
旧水路の緩衝線が灰青を受けた。
薬草予定地の二本目の新芽が、倒れずに光った。
すべてが、三呼吸目を受けている。
ニコルの声が広間から響いた。
『全地点、三呼吸目終端。王都開封室、閉鎖確認を』
王都開封室の声。
『命令補助印反応面、閉鎖します』
その直後だった。
中枢室の黒紫が、一瞬だけ鋭く跳ねた。
《遠隔共鳴:瞬間上昇》
《残存命令核:低位上限維持》
《中位移行:未達》
《水腐れ封印層:維持》
《外縁杭:受圧最大》
「遠隔共鳴、瞬間上昇! 命令核、低位上限維持! 中位移行、未達! 封印層、維持! 外縁杭、受圧最大!」
ダリオさんが叫ぶ。
「中止条件は!」
「未達!」
「閉鎖を待て!」
手動閉鎖板の若者が叫ぶ。
「閉鎖板、まだですか!」
「まだだ! 中位へ行ったら閉じろ!」
俺は表示から目を離さない。
だが、奥は見ない。
表示だけ。
表示だけを読む。
王都開封室から通信。
『反応面、閉鎖完了!』
その瞬間、中枢室の黒紫が一段薄くなった。
広間で、誰かが大きく息を吐く音がした。
しかし、終わりではなかった。
王都開封室の声が続く。
『封印箱外縁、一度軋み。劣化拡大なし。追加封印層、固定準備へ』
トマが旧水路から叫ぶ。
『旧水路、青根布一枚使用済み。灰色濃い。でも水中拡大なし。緩衝線、持ってる』
セリアの声。
『薬草予定地、二本目新芽、青反応強。倒伏なし。ただし本株に疲労兆候。青根布未使用』
リーゼさん。
『森第二安全線、退避路側青根布、箱内灰色点あり。灰青の滲みなし。退避路確保』
ハルマ。
『古井戸、揺れ収まった。濁りなし』
若い母親の声が小さく入る。
『……濁ってない。大丈夫、まだ見られます』
北沢。
『石の下、冷えたまま。若いのは下がらせた。石は動かしてない』
ミード。
『葉は耐えた。抜くな。まだ抜くな』
老女の声だった。
孫娘が続ける。
『薬草、青反応強め。倒伏なし』
ニコルはすべてを拾っている。
声は震えている。
だが、途切れない。
『全地点、露出閉鎖後報告受領。中止条件未達。ただし各地点に反応あり。王都開封室、次工程前に状態確認を』
王都開封室。
『命令補助印反応面、閉鎖済み。追加封印層、固定位置確定。封印箱外縁、劣化拡大なし。再封印層、固定に入ります』
その言葉で、地下工房の空気が変わった。
露出は終わった。
だが、本当の再封印はこれから固定に入る。
閉じたものを、もう一度閉じ直す作業。
ここで失敗すれば、さっきの三呼吸が無駄になる。
村長の声が広間から響く。
『全地点、警戒継続。記録より命を優先。王都開封室、固定工程へ』
俺は中枢室の表示を見た。
《命令補助印露出:終了》
《遠隔共鳴:低下中》
《残存命令核:低位上限から低下傾向》
《水腐れ封印層:維持》
《外縁杭:受圧残留》
《旧水脈補助網:残響あり》
まだ、終わっていない。
だが、三呼吸は越えた。
俺は息を吸い、読み上げた。
「命令補助印露出、終了。遠隔共鳴、低下中。残存命令核、低位上限から低下傾向。水腐れ封印層、維持。外縁杭、受圧残留。旧水脈補助網、残響あり」
ダリオさんが低く言う。
「越えたな」
「はい」
「でも、終わってない」
「はい」
通信札の向こうで、ニコルの声がした。
『全地点、次工程へ。井戸、水路、薬草、森、三村、状態を保ってください。王都再封印層、固定工程を記録します』
トマが旧水路から返す。
『旧水路、青根布一枚使用。水路班、撤退準備を維持』
セリア。
『薬草予定地、青根布未使用。二本目新芽、観察継続』
リーゼさん。
『森、退避路確保。残りすぎない』
ニコルは、それも書いたはずだ。
残りすぎない。
見続けない。
戻らない。
最後の一行を書こうとしない。
それぞれが、自分で書いた危険癖を抱えたまま、それでも配置に残っている。
王都から、再び通信が入った。
『再封印層、固定に入ります』
中枢室の青白い外縁線が、もう一度、細く震えた。




