第162話 青根布一枚、使う
青根布を一枚使った。
その事実は、旧水路班にとって思っていた以上に重かった。
王都で命令補助印の反応面が三呼吸だけ露出した時、旧水路上流に灰青の反応が出た。
最初は微弱だった。
旧水路緩衝線が受けていた。
水中へは広がっていなかった。
青土封じ札も、反応は増したが保っていた。
水量板は未操作のまま、動いていなかった。
けれど二呼吸目の終わりから三呼吸目にかけて、旧水路緩衝線の土が少しだけ色を変えた。
崩れたわけではない。
割れたわけでもない。
ただ、受けきれるかどうかの境目まで近づいた。
その瞬間、中枢室から通信が入った。
『旧水路緩衝線、受容限界接近。青根布追加、推奨』
トマは、その言葉を聞いた時の自分の息を、今でも覚えていた。
使うのか。
使わずに済ませたい布を。
使えば、使用済みになる。
再利用できない。
灰青反応を受けた布は乾燥隔離箱へ入れ、焼かず、埋めず、別に保管しなければならない。
それでも、使うべき時が来た。
トマは旧水路脇に立ったまま、声を出した。
「青根布一枚。水路脇土壌へ。水には入れるな」
青根布担当の若者が、震える手で箱を開けた。
「一枚、出します」
「水に落とすな」
「はい」
「落としそうなら、手を離すな。いや違う、落としそうなら俺を呼べ」
「はい!」
若者は、布を水路へ近づけすぎないよう、慎重に水路脇の浅い土へ置いた。
青根布は、小さかった。
布というより、札に近い。
薬草予定地の安定土と傷洗い草の青反応を薄く含ませ、乾かしておいたもの。
それが土に触れた瞬間、端が灰色になった。
トマの喉が詰まる。
「広がりは?」
緩衝線担当が答える。
「広がっていません。端だけです」
「水は?」
「水中への戻りなし」
「上流の灰青は?」
「弱まりました。まだ微弱にありますが、流れていません」
「水量板」
「未操作。変位なし」
「青土封じ札」
「一、反応増のまま安定。二、安定」
トマは目を閉じそうになって、やめた。
見る。
見続けすぎない。
でも、必要なものは見る。
「旧水路班、待機。布を増やさない。緩衝線が持ってる間は一枚で止める」
通信札から、セリアの声が届いた。
『旧水路班、青根布は一枚のみ。追加しないでください。過負荷なら撤退です』
「了解。粘らない」
トマは短く返した。
その返事をした時、胸の奥に奇妙な重さがあった。
粘らない。
それは、逃げ腰とは違う。
無責任とも違う。
粘りすぎることで、布も土も水路も、そして人も壊れる。
だから粘らない。
青根布は、水路脇の土で灰色の点を濃くしながら、それでも広がらずにいた。
王都の命令補助印は三呼吸で閉じられた。
中枢室からは、遠隔共鳴低下中、封印層維持という報告が来た。
しかし、旧水路班はまだ動けなかった。
青根布一枚が、灰青反応を受けたまま残っている。
回収しなければならない。
ただし、急いではいけない。
触り方を間違えれば、受け止めたものを水へ戻すかもしれない。
トマは唇を結び、セリアからの通信を待った。
『旧水路、青根布の状態を報告してください』
「端の灰色が濃い。中央までは広がってない。土の色は少し締まってる。水には触れてない」
『灰色の広がりは止まっていますか』
「止まってる」
『水中への戻りは』
「なし」
『では、回収はまだ待ってください。王都再封印層固定の初期反応が落ちるまで、そのまま受けさせます』
若者の一人が不安そうに言った。
「そのままで大丈夫なんですか」
トマは答えようとして、少し言葉に詰まった。
大丈夫かどうか。
それは分からない。
だから、分かったふりをしない。
「大丈夫かは分からない。でも、今動かす方が危ない。だから待つ」
副記録係がすぐ書く。
『大丈夫かは不明。今動かす方が危険。待機』
トマはその記録を横目で見て、うなずいた。
「それでいい」
王都開封室から、再封印層固定開始の報告が入った。
中枢室の反応は、低位上限から少しずつ下がり始めているらしい。
旧水路の水面も落ち着いてきた。
上流の灰青は、目で見えるほどではなくなった。
青根布の灰色は濃いままだが、広がらない。
緩衝線の土も持っている。
トマはようやく息を吐いた。
「……使ったから失敗じゃない」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
近くの若者が顔を上げる。
「え?」
トマは、もう一度言った。
「青根布を使ったから失敗じゃない。使って、逃げる時間を作った。水へ戻さなかった。それなら、これは仕事したってことだ」
副記録係の筆が止まる。
「書きます」
「……うん。書け」
トマは今度も止めなかった。
『トマ発言:青根布を使ったから失敗じゃない。使って、逃げる時間を作った。水へ戻さなかった。それなら、これは仕事したということ』
旧水路の若者たちは、少しだけ顔を見合わせた。
青根布を使った。
それは、怖いことだった。
でも、使ったから水路が守られた。
使わずに済ませるのが最良でも、使うべき時に使えたなら、それも失敗ではない。
通信札の向こうで、ニコルの声が聞こえた。
『旧水路、トマ発言を受領。総合記録へ残します』
「そこまで行くのか」
『必要です』
「……分かった」
トマは、照れたように水路を見た。
やがて、セリアから回収許可が出た。
『旧水路、青根布を回収します。ただし直接手で触らないでください。乾いた木挟みを使います。水路側へ傾けない。回収後、すぐ隔離箱へ』
「了解」
トマは青根布担当へ目で合図する。
若者は乾いた木挟みを持ち、布の端をそっとつまんだ。
その時、布の灰色が一瞬だけ濃く見えた。
全員が息を止める。
だが、灰色は広がらない。
水へ落ちない。
土から離れた布は、まるで湿った灰を含んだように重そうだった。
「ゆっくり」
トマが言う。
「水路側に傾けるな。箱へ」
隔離箱の蓋が開く。
中には乾いた砂と隔離布が敷かれている。
使用済み青根布は、そこへ静かに置かれた。
蓋を閉じる。
封印札を貼る。
セリアの声が通信から届いた。
『隔離箱の反応を確認してください』
旧水路の携帯札を箱へ近づける。
《使用済み青根布》
《灰青反応:濃》
《水腐れ系微反応:残留》
《隔離箱:保持中》
《外部漏出:なし》
《再利用不可》
《推奨:乾燥隔離継続》
トマは読み上げた。
「灰青反応、濃。水腐れ系微反応、残留。隔離箱、保持中。外部漏出なし。再利用不可。乾燥隔離継続」
セリアが一瞬黙った。
『濃、ですか』
「ああ。今までより濃い?」
『おそらく。後で薬草予定地側の記録と照合します。隔離箱を動かさないでください』
「動かさない。水車小屋前の隔離棚へ置く」
『お願いします』
トマは若者二人に指示した。
「隔離箱、二人で持て。落とすな。走るな。水に近づけるな。棚に置いたら、棚の前に札を立てろ。“触るな”じゃ足りない。“開けるな、動かすな、水に近づけるな”だ」
副記録係が聞く。
「それ、全部書きますか」
「書け。全部大事だ」
旧水路班は、ゆっくり水車小屋前へ移動した。
誰も急がない。
隔離箱を棚へ置く。
蓋を再確認。
封印札を再確認。
棚の前に札を立てる。
『開けるな。動かすな。水に近づけるな』
トマはその札を見て、ようやく小さく息を吐いた。
「……布一枚で、こんなに疲れるのか」
若者の一人が言った。
「でも、水は広がりませんでした」
「そうだな」
トマは水路の方を見た。
「水は広がらなかった」
一方、広間ではニコルが各地点の報告を受け続けていた。
王都開封室は再封印層固定に入っている。
地下工房では、遠隔共鳴が低下傾向。
薬草予定地では、二本目の新芽がまだ青く光っているが、倒れていない。
森第二安全線の青根布には、箱の中で灰色点が出たが、使用はしていない。
ハルマ村の井戸は濁っていない。
北沢の石列は冷えたまま。
ミードの薬草は耐えている。
ニコルは旧水路からの「青根布一枚使用済み」を、赤線で囲んだ。
村長がそれを見る。
「失敗ではない」
「はい」
ニコルは頷く。
「使用判断成功として記録します」
村長は深く頷いた。
「よい」
セリアは薬草予定地で、青根緩衝帯の土を見ていた。
通信で旧水路の使用済み青根布の反応を聞き、唇を結ぶ。
ハンナが言った。
「濃かったんですね」
「はい」
「怖いですか」
「怖いです」
セリアは正直に答えた。
「でも、使ってくれてよかったです。あそこで無理に緩衝線だけに受けさせていたら、土が疲れきったかもしれません」
ミラが記録しながら言う。
「青根布を使ったから、土を休ませられるんですね」
「はい」
セリアは二本目の新芽を見た。
「根で受けるもの、布で受けるもの、土で逃がすもの。分けないといけません」
ハンナが頷く。
「全部に一つだけで耐えさせない」
「そうです」
その時、二本目の新芽の青反応がほんの少し弱まった。
セリアは息を止める。
「ミラ、記録」
「はい。二本目新芽、青反応やや低下。倒伏なし」
セリアはようやく小さく微笑んだ。
「耐えました」
地下工房では、中枢室の黒紫がゆっくり薄くなっていた。
《遠隔共鳴:低下中》
《残存命令核:低位上限より低下》
《水腐れ封印層:維持》
《旧水路:青根布使用記録登録》
《青根布使用:適正》
《旧水路緩衝線:疲労小》
「青根布使用、適正。旧水路緩衝線、疲労小」
俺が読み上げると、ダリオさんが頷いた。
「適正と出たか」
「はい」
「トマに伝えろ。使ったのは正しかった」
広間経由で、旧水路へ伝えられた。
『旧水路班へ。中枢室表示、青根布使用適正。旧水路緩衝線疲労小』
しばらくして、トマの声が返った。
『了解。……よかった』
たった一言だった。
けれど、旧水路班全員の肩の力が抜けたのが分かる声だった。
王都開封室では、再封印層固定が続いている。
こちらが青根布一枚で持ちこたえた間、王都側は追加封印層を金属資料の封印箱へ重ねていた。
王都の声が入る。
『再封印層、一次固定完了。封印箱外縁、劣化拡大なし。命令補助印反応面、閉鎖維持』
広間でニコルが復唱する。
『王都再封印層、一次固定完了。劣化拡大なし。反応面閉鎖維持』
村長が静かに言う。
『全地点、警戒継続。二巡目報告』
井戸。
水路。
薬草。
森。
三村。
地下。
二巡目では、ほとんどの地点で反応が弱まっていた。
ただし、旧水路の隔離箱は微弱反応を持っている。
北沢石列の冷えは残っている。
薬草予定地の二本目の新芽は青いまま。
完全に終わったわけではない。
でも、三呼吸の危険は越えた。
夕方近く、王都再封印層の固定作業はさらに進み、最終固定手前まで来ていた。
リベル村側では、各班に疲れが見え始めていた。
トマの声も少し枯れている。
ニコルの筆の速度も少し落ちた。
セリアは何度も二本目の新芽を見ている。
リーゼさんは森で「残りすぎない」と自分に言い聞かせるように、退避路の位置を確認していた。
それでも、誰も勝手に動かない。
誰も追わない。
誰も回収しに戻らない。
記録より命を優先する。
その一文が、まだ全員の足元に残っていた。
夜、俺は再封印処理の途中記録を書いた。
『王都命令補助印反応面露出時、旧水路緩衝線が受容限界に接近。中枢室表示により青根布追加推奨。セリア通信判断を経て、旧水路班が青根布一枚を水路脇土壌へ設置。水中投入なし。灰青反応は青根布端に留まり、水中拡大なし。
使用済み青根布は木挟みで回収し、乾燥隔離箱へ。反応:灰青濃、水腐れ系微反応残留。外部漏出なし。再利用不可。
中枢室表示:青根布使用適正。旧水路緩衝線疲労小。
トマ発言:“青根布を使ったから失敗じゃない。使って、逃げる時間を作った。水へ戻さなかった。それなら、これは仕事したということ”。総合記録へ登録』
最後に書く。
『青根布を一枚使った。
それは失敗ではなかった。
使わずに済むなら、それが一番いい。
だが、使うべき時に使えなければ、守れない。
今日、旧水路班は一枚使い、水へ戻さず、土の浅い場所で止めた。
その布はもう使えない。
灰色は濃く、隔離箱の中でまだ微弱に反応している。
それでも、水は広がらなかった。
旧水路緩衝線は疲労小で済んだ。
使った布を惜しむより、使って守れたことを記録する。
守りの道具は、使われた時にも役目を果たす。』
地上では、水車が回っている。
旧水路の脇には、青根布を置いた跡が残っている。
隔離棚には、灰色を帯びた布が一枚眠っている。
王都再封印はまだ終わっていない。
けれど、リベル村は一つ学んだ。
使ったから失敗ではない。
守れたなら、それは仕事をしたということだ。




