第160話 王都再封印の日
王都再封印の日が来た。
その朝、リベル村は妙に静かだった。
誰も騒がない。
誰も走らない。
いつもなら水車小屋の前で若者たちの声が響き、中央井戸の周りでは水汲みの桶が鳴る。薬草予定地ではハンナとミラが何かしら言い合い、トマは旧水路班の誰かに「そこ踏むな」とか「水量板見るな、俺も見るけど」とか言っている。
けれど今日は、声が低い。
動きも少ない。
緊張しているからではない。
いや、緊張はしている。
けれど、それだけではなかった。
全員が、決められた場所へ向かう前に、無駄な動きを減らしていた。
中央井戸では、副記録係の少年が水温を測っていた。
ニコルは隣にいるが、手は出さない。今日は総合記録係として広間に座る。井戸を直接見る役目は、もう少年に渡してある。
「朝。中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。王都再封印当日、開始前異常なし」
少年は少し声を震わせながら読み上げた。
ニコルは頷いた。
「よいです」
「……本当に?」
「はい。水面揺れも入りました」
「よかった」
少年はほっと息を吐いた。
トマが井戸の縁から少し離れた場所で聞いていた。
「ニコル、先生みたいだな」
「先生ではありません」
「仮先生」
「それも違います」
副記録係の少年が少し笑った。
ニコルも、ほんの少しだけ笑った。
その笑いを最後に、ニコルは記録板を抱えて広間へ戻った。
旧水路では、トマが班員を並べていた。
「上流担当」
「配置につきます」
「旧水路緩衝線担当」
「土壌保持、開始前異常なし」
「青土封じ札担当」
「一、二とも安定」
「水量板担当」
「未操作。変位なし」
「下流黒粒子担当」
「微弱。浮上なし」
「副記録」
「準備済み」
トマは全員の顔を見た。
「いいか。今日は見る日だ。触る日じゃない」
若者たちが頷く。
「灰青が出ても追わない。水量板が動いても止めない。青根布で粘らない。俺が変なことをしそうなら、引っ張れ」
副記録係が書く。
トマはそれを横目で見て、もう文句を言わなかった。
「あと、逃げる時は記録板より足だ。副記録、お前もな」
「はい」
「よし」
その「よし」は、もう勢いだけのものではなかった。
薬草予定地では、セリアが傷洗い草の前に膝をついていた。
本株。
一つ目の新芽。
二本目の新芽。
二本目は、昨日よりほんの少しだけ葉を開いていた。
青根緩衝帯は、最低条件達成。
それでも過負荷不可。
セリアはその表示を何度も見返していた。
ハンナが横に立つ。
「青根布、旧水路用二枚、森退避路用二枚、薬草予定地用一枚。予備二枚は未使用箱。使用済み隔離箱、封印済み」
「はい」
ミラが記録する。
「傷洗い草本株、青反応微弱。一つ目の新芽、倒伏なし。二本目の新芽、葉開き小。薬草予定地、開始前異常なし」
セリアは頷いた。
「青根布は、使わずに済むならそれが一番です」
ハンナが言う。
「でも、使う時は迷わない」
「はい。ただし、回収しに戻りません」
ハンナは少し笑った。
「私が止めます」
「お願いします」
森入口では、リーゼさんが第一安全線の赤杭を確認していた。
第二安全線には護衛役が一人。
退避路には青根布の小片が二枚、乾いた箱に入ったまま置かれている。
足元には置かない。
異常が出た時だけ、セリアの通信判断で使う。
リーゼさんは森の奥を見た。
黒石災害封じ祠は、ここからは見えない。
だが、その気配はある。
湿った土の奥。
根の下。
古い水脈の向こう。
リーゼさんは短く通信した。
「森第一安全線、開始前異常なし。第二安全線、土の冷え小。昨日と同程度。灰青の滲みなし」
広間で、ニコルがその報告を書き取る。
広間には村長がいた。
机の中央に、王都の砂時計。
その横に最大同時記録表。
ニコルは総合記録席に座っている。
目の前には十一地点の欄。
一、王都開封室。
二、王都資料庫跡。
三、王都行政庁別室。
四、地下工房中枢室。
五、中央井戸。
六、旧水路。
七、薬草予定地。
八、森安全線。
九、ハルマ村。
十、北沢集落。
十一、ミード村。
報告遅れ、重複、不明欄。
撤退合図。
一短音、注意。
二短音、作業停止。
一長音、即撤退。
連続音、記録放棄、命優先。
一番下には、太く書かれている。
『異常時、記録より命を優先』
トマは旧水路。
セリアは薬草予定地。
リーゼさんは森。
俺とダリオさんは地下工房。
ニコルは広間で、全地点の声を受ける。
彼の手は震えていた。
村長が静かに言った。
「震えておるな」
「はい」
ニコルは隠さなかった。
「でも、書けます」
「ならよい」
村長はそれだけ言った。
地下工房では、中枢室が静かに光っていた。
黒紫は低位。
水腐れ封印層は維持。
外縁杭三地点も低位安定。
旧水路緩衝線、青根緩衝帯、広域同時記録網。
すべてが準備段階から、今日だけ本番の位置へ上がっている。
ダリオさんは表示を見ながら言った。
「レオン、今日は見るなと言われたら見るなよ」
「分かっています」
「見えているからといって、見続けない」
「自分で書きました」
「書いた言葉ほど、守れ」
ダリオさんは自分にも言っているようだった。
手動閉鎖板の前には、補助の若者二人がいる。
ダリオさんは彼らへ言った。
「合図が出たら閉じろ。俺が待てと言っても閉じろ」
若者の一人が喉を鳴らす。
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「いい。怖いまま、手順通りやれ」
広間から通信が入る。
『王都時刻砂、確認。全地点、開始前報告へ』
ニコルの声だった。
少し震えている。
だが、通る声だった。
『王都開封室』
王都側の声が返る。
『王都開封室。封印箱、外縁劣化微弱。命令補助印露出前。遮断幕未展開。開始前異常、封印箱劣化以外なし』
『王都資料庫跡』
『資料庫跡。火災跡残留反応、低位。黒紫なし。灰青なし』
『王都行政庁別室』
『行政庁別室。写し資料保管、安定。低危険度資料封印、異常なし』
『地下工房中枢室』
俺が答える。
「黒石祠残存命令核、低位。水腐れ封印層、維持。王都方面反応、現時点なし。外縁杭、低位安定」
『中央井戸』
『中央井戸、水温正常。水面揺れなし。濁りなし。匂いなし。青反応微弱安定』
『旧水路』
トマの声が入る。
『旧水路。上流灰青視認なし。旧水路緩衝線、安定。青土封じ札一、二安定。水量板未操作。下流黒粒子微弱』
『薬草予定地』
『薬草予定地。傷洗い草本株、青反応微弱。一つ目、二本目新芽、倒伏なし。青根布未使用。青根緩衝帯、開始前安定』
『森安全線』
『森第一安全線、異常なし。第二安全線、土の冷え小。灰青の滲みなし。青根布未使用』
『ハルマ村』
少し雑音が入ったあと、井戸番の声が届いた。
『ハルマ古井戸。水面静か。濁りなし。若い母親、待機』
その最後の一言に、ニコルの筆が少しだけ柔らかく動いた。
『北沢集落』
マルタの声。
『北沢石列。石は動かしてない。土の冷え、普段通り。若いのも手を出してない』
トマが旧水路で少し笑ったらしい。通信越しに小さな息が聞こえた。
『ミード村』
孫娘の声。
『ミード薬草畑。東側帯、普段通り。止血草、葉の丸まりなし。傷洗い草系小株、青反応微弱。祖母、葉を見ています』
老女の声が遠くから入った。
『紙より葉を見ろと伝えな』
ニコルはしっかり書いた。
全地点、開始前確認完了。
広間で砂時計がひっくり返される。
灰色の砂が、細い首を通って落ち始めた。
王都第二鐘後。
再封印処理、開始。
最初の砂の三分の一までは、外層の確認だった。
王都開封室から報告が入る。
『封印箱外層、確認開始。劣化、微弱。拡大なし』
地下工房の中枢室に大きな変化はない。
王都方面反応、微弱未満。
黒石祠残存命令核、低位。
ニコルは報告順を崩さない。
『井戸、水路、薬草、森、地下、三村、順に』
途中で一度、王都資料庫跡の報告が遅れた。
ニコルは慌てなかった。
『王都資料庫跡、報告遅れ欄へ。次、王都行政庁別室』
報告遅れ欄が、さっそく役に立った。
トマが旧水路で通信を聞いて、低く言う。
『ニコル、落ち着いてるな』
ニコルは返事をしなかった。
総合記録中に雑談へ返事をしない。
それも訓練通りだった。
砂が半分を過ぎた。
王都開封室から報告。
『外層補強、開始。遮断幕、一層展開』
中枢室の黒紫が、少しだけ揺れた。
《王都方面反応:微弱》
《残存命令核:低位揺れ》
《水腐れ封印層:維持》
「王都方面反応微弱。命令核低位揺れ。封印層維持」
俺が読み上げる。
ニコルが広間で受ける。
『地下、王都方面反応微弱。命令核低位揺れ。封印層維持』
すぐに各地点の確認が続く。
中央井戸、水面揺れなし。
旧水路、緩衝線安定。
薬草予定地、青根布未使用。
森第二安全線、冷え小のまま。
ハルマ、変化なし。
北沢、土の冷え普段通り。
ミード、葉の変化なし。
まだ大丈夫。
誰もそう口にしなかった。
口にした瞬間、何かを呼びそうだったからだ。
砂が三分の二へ近づく。
王都開封室から、予定より少し早く声が入った。
『追加封印層、固定準備。命令補助印反応面、露出工程へ移行予定』
広間の空気が固まる。
ニコルは、決められた通りに返した。
『リベル村側、最大警戒へ移行。露出前、最終確認』
村長が杖を握る。
地下工房で、俺は中枢室を見た。
黒紫はまだ低位。
だが、奥に何かが集まっているような感じがある。
水腐れ封印層は維持。
青白い外縁線は細く光っている。
ダリオさんが低く言う。
「来るぞ」
「はい」
「見続けるなよ」
「分かっています」
旧水路。
トマが班員へ言う。
『全員、足場確認。青根布担当、箱の蓋だけ開けろ。布は出すな。水量板担当、手を後ろに組め』
水量板担当が少し慌てて返す。
『手を後ろ、組みました』
トマは続ける。
『俺も組んだ』
ニコルは記録した。
薬草予定地。
セリアが青根布の箱を見る。
「ハンナ、箱の位置確認。ミラ、二本目の新芽から目を離さないで」
「はい」
「私は本株と青根緩衝帯を見ます。布は、合図まで触りません」
ハンナが言う。
「戻りません」
「はい。戻りません」
森第二安全線。
リーゼさんが退避路を確認する。
「青根布、箱のまま。灰青なし。護衛役、私が残りすぎたら引け」
「はい」
「本当に引け」
「はい」
リーゼさんは少しだけ頷いた。
広間。
ニコルの声が通る。
『露出前、全地点最終確認。王都開封室から順に』
王都開封室。
『遮断幕、展開。封鎖陣、展開。外部監査部、記録開始。命令補助印反応面、未露出』
王都資料庫跡。
『残留反応、低位。変化なし』
王都行政庁別室。
『写し資料、安定』
地下工房。
「残存命令核、低位上昇準備の兆候あり。水腐れ封印層、維持。外縁杭、低位安定」
ニコルが一瞬だけ筆を止めた。
低位上昇準備。
初めての表現だった。
だが、声は崩さなかった。
『地下、残存命令核、低位上昇準備兆候。封印層維持。外縁杭安定』
中央井戸。
『水面静か。濁りなし』
旧水路。
『上流、水面影やや鈍化。灰青視認なし。緩衝線、微弱反応。水量板未操作』
薬草予定地。
『傷洗い草本株、青反応微増。新芽二本、倒伏なし。青根布未使用』
森安全線。
『第二安全線、土の冷えやや増。灰青なし。退避路確保』
ハルマ。
『古井戸、水面静か』
北沢。
『石列、下の冷え小。普段より少し重い』
ミード。
『止血草、葉端わずかに硬い。祖母、東側を見ると言っています』
老女の声が遠くで入る。
『まだ抜くな。見るだけだよ』
ニコルはその声まで書いた。
その時、王都開封室から通信が入った。
『露出工程へ入ります』
広間で、誰かが息を呑んだ。
俺は中枢室から目を離さなかった。
黒紫が、ゆっくり濃くなる。
まだ中位ではない。
だが、確実に上がろうとしている。
水腐れ封印層は、維持。
外縁杭の青白い線が細く強まる。
王都の声が続く。
『命令補助印、露出します』
その瞬間、中枢室の表示が一気に走った。
《残存命令核:上昇準備》
《王都方面反応:強化予兆》
《水腐れ封印層:維持》
《外縁杭:受圧開始》
《警告:遠隔共鳴、強化予兆》
ダリオさんが叫んだ。
「読み上げろ!」
俺は表示をそのまま声にした。
「残存命令核、上昇準備。王都方面反応、強化予兆。水腐れ封印層、維持。外縁杭、受圧開始。警告、遠隔共鳴、強化予兆!」
広間でニコルの筆が走る音が、通信越しにも聞こえた気がした。
村長の声が低く響く。
『全地点、最大警戒。三呼吸を数えよ』
一。
王都の命令補助印が、開く。
二。
リベル村の水と土が、それを待ち受ける。
三。
まだ誰も、逃げていない。
だが、逃げる準備はできている。
そして、三呼吸目が終わる直前。
中枢室の黒紫が、さらに一段、濃くなった。




