第159話 一瞬だけ開く危険
王都から再封印手順の詳細が届いたのは、朝の記録が終わってすぐだった。
封筒には、行政庁、防衛局、外部監査部の印が並んでいる。
赤札ではない。
だが、封書を受け取った使者の顔は、赤札がついている時と同じくらい硬かった。
村長宅の広間に全員が集まる。
机の上には、最大同時記録表、撤退合図表、青根緩衝帯運用条件、旧水路緩衝線記録が並べられていた。
その中央に、新しい封書が置かれる。
トマが椅子に座りながら、小さく言った。
「来たな」
ダリオさんは腕を組んだ。
「ああ。来た」
セリアは青根布の記録箱を抱えている。
ニコルは総合記録用の大判台帳を前に置き、筆を握っていた。
村長が封を切るよう目で示す。
俺は文書を取り出した。
表題はこうだった。
『ローゼン侯爵家提出金属資料・再封印処理手順案』
広間の空気が、わずかに沈んだ。
俺は読み始める。
『再封印対象。
ローゼン侯爵家提出、黒薔薇工房系旧式命令補助印を含む金属資料。
現封印箱外縁に微弱劣化を確認。
資料本体は未露出。
再封印処理では、現封印箱外層を補強し、内側命令補助印との共鳴を遮断する追加封印層を重ねる』
ここまでは、想定内だった。
問題はその次だった。
『ただし、追加封印層を固定するため、既存封印層の内側にある命令補助印の反応面を、一瞬のみ確認する必要がある。
露出予定時間、三呼吸以内。
王都側では反応遮断幕、防衛局封鎖陣、外部監査部記録立会いのもと実施』
広間が完全に静まった。
トマが低く言う。
「一瞬だけ、開くのか」
誰もすぐには答えなかった。
開封ではない。
王都の文面は、そう言っている。
資料本体の全面露出ではない。
命令補助印の反応面を三呼吸以内だけ確認する。
追加封印層を固定するため。
けれど、こちらから見れば同じだ。
命令補助印が、一瞬だけ外へ向く。
黒石祠残存命令核と繋がるかもしれない反応面が、三呼吸だけ開く。
たった三呼吸。
だが、その三呼吸で何が起きるか分からない。
セリアが口を開いた。
「三呼吸でも、青根布が反応する可能性があります」
ダリオさんが頷く。
「ある。むしろ反応すると考えた方がいい」
トマが顔をしかめた。
「王都は、それを“必要な一瞬”って言うんだろうな」
「そうだろうな」
ダリオさんの声は硬い。
「だが、必要な一瞬だから安全とは限らん」
ニコルは文面を写しながら言った。
「露出予定時間、三呼吸以内。ここを中止条件に入れますか」
「入れる」
俺は即答した。
「三呼吸を超えたら、王都側は即中止。こちらも最大警戒へ移行します」
村長が頷いた。
「強く書け」
文書の続きを読む。
『王都側中止条件。
封印箱外縁劣化拡大。
命令補助印反応面の黒紫化。
遮断幕破損。
立会人いずれかの中止判断。
リベル村側から中止合図が入った場合。
以上のいずれかで作業停止』
ダリオさんが少しだけ息を吐いた。
「こちらの中止合図を入れたか」
トマが言う。
「王都、ちゃんと条件飲んだんだな」
「完全じゃないが、前よりはましだ」
「三割から何割?」
「五割」
「上がった」
少しだけ笑いが起きた。
しかし、その笑いはすぐに消える。
一瞬だけ開く危険。
それが明日、実際に来る。
村長は言った。
「配置を最終調整する」
ニコルが最大同時記録表を開いた。
「はい」
まず、地下工房。
俺とダリオさんが中枢室を見る。
命令補助印露出の三呼吸の間、残存命令核反応、水腐れ封印層、王都方面反応を読み上げる。
手動閉鎖板には、村の技術補助二人を置く。
ダリオさんが言った。
「俺は表示を読む。レオンは境界を見る。補助二人は閉鎖板。閉鎖合図が出たら、俺たちの返事を待たずに閉じる」
補助の若者が緊張した顔で頷いた。
「返事を待たずに、ですか」
「そうだ」
ダリオさんの声は厳しい。
「俺が“待て”と言っても閉じろ」
若者は目を見開いた。
トマが思わず言う。
「ダリオさんが言っても?」
「ああ」
ダリオさんは淡々としていた。
「俺が見続けようとする可能性がある。だから閉じる役を別に置く」
ニコルが書く。
『ダリオが待てと言っても、閉鎖合図時は閉じる』
ダリオさんはそれを見て、少し苦い顔をした。
「自分で言うと、なかなか嫌な文だな」
トマが小さく笑った。
「俺の“水量板が動いても止めに行かない”と同じですね」
「そうだな。嫌な文ほど必要だ」
次に旧水路。
トマが班長。
上流灰青、旧水路緩衝線、青土封じ札、水量板、下流黒粒子。
それぞれ担当を置く。
青根布は水路脇に二枚。
隔離箱は水車小屋前。
ただし、青根布を使うのは、緩衝線が受けきれない場合のみ。
セリアが確認する。
「旧水路では、青根布を常設しません。灰青が出ても、まず緩衝線が受けるか見ます。水中へ入れない。布を増やしすぎない。過負荷なら撤退です」
トマが頷く。
「水路班、了解。布で粘らない。粘るくらいなら逃げる」
ニコルが記録する。
『旧水路班方針:青根布で粘らない。過負荷なら撤退』
トマはもう止めなかった。
薬草予定地。
ここが一番悩ましかった。
セリアが主担当。
ハンナが青根布担当。
ミラが薬草記録担当。
傷洗い草本株、新芽、青根緩衝帯、青根布予備を見る。
問題は、青根布の枚数だった。
トマが聞く。
「全部で何枚使えるんだ?」
セリアは箱を開けた。
「準備できている新品は七枚です。でも、全部は使いません」
「使わない?」
「はい。薬草予定地が疲れます。青根布を作るには安定土と薬草反応を使います。全部の地点へ配ると、作戦前に緩衝帯そのものが弱ります」
ダリオさんが頷く。
「危険の高い地点に絞れ」
「はい」
セリアは地図に印をつける。
「旧水路用二枚。森第二安全線の退避路用二枚。薬草予定地用一枚。地下工房には置きません。中央井戸にも置きません。ハルマ、北沢、ミードにも配りません」
トマが少し驚いた。
「三村には配らないのか?」
「はい。青根布は扱いを間違えると危険です。三村には普段の観察をお願いします。異常が出たら撤退してもらいます」
ニコルが書く。
『青根布配布地点を限定。旧水路、森第二安全線退避路、薬草予定地のみ。三村には配布せず、観察と撤退優先』
村長が頷いた。
「よい。道具を増やせば安全になるとは限らぬ」
リーゼさんが森の地図を見る。
「森第二安全線は、青根布を足元ではなく退避路に置く」
「はい」
セリアが答える。
「灰青が出る場所へ直接置くのではなく、退く先を守るためです」
「分かった」
「リーゼさんは、布を取りに行かないでください」
リーゼさんは短く頷いた。
「戻らない」
それだけで十分だった。
中央井戸は、青根布なし。
副記録係が少し不安そうに言う。
「もし井戸に反応が出たら?」
俺が答えた。
「井戸には何も入れません。水が濁る、匂いが出る、水面が強く揺れる。その場合は記録ではなく退避です。井戸を助けようとして、何かを入れないでください」
トマが小声で言った。
「助けようとして悪化させるやつだな」
「はい」
ニコルが頷いた。
「井戸班方針に入れます」
『中央井戸班:井戸へ何も投入しない。異常時は退避。井戸を助けるために触らない』
副記録係は真剣に頷いた。
「分かりました」
次は三村への通知。
ハルマ村、北沢集落、ミード村。
最大同時記録には参加してもらう。
だが、危険作業はさせない。
ハルマ村は井戸を見るだけ。
北沢集落は石列と土を見るだけ。
ミード村は薬草を見るだけ。
異常が出たら、記録より退避。
ニコルが文面を作る。
『明日の王都再封印処理時、同じ砂時計で井戸、石列、薬草を見てください。
ただし、強い異常が出た場合は記録をやめて離れてください。
井戸へ何も入れないでください。
石を動かさないでください。
薬草を抜かないでください。
逃げた場合は、あとで“逃げた”と書いてください。それが大事な記録です』
セリアが頷く。
「ミード村には、青根布を配らない理由も書きます」
老女なら理解してくれるだろう。
むしろ、配った方が叱られるかもしれない。
トマが言った。
「“逃げた”って書くの、大事だな」
「はい」
ニコルは真剣に答える。
「逃げた時刻が分かれば、反応の強さも分かります」
昼過ぎ、王都からさらに短い通信が届いた。
王都側が、リベル村の条件を最終的に了承したというものだった。
『命令補助印反応面の露出は三呼吸以内。
リベル村中枢室反応が中止条件に達した場合、王都側作業を即時停止。
露出工程は王都第二鐘後、砂時計三分の二落下時点で実施予定。
作業前に王都より通信。“命令補助印、露出します”と通告する』
最後の一文で、広間が静かになった。
「命令補助印、露出します」
その通信が来た瞬間、全地点が最大警戒へ入る。
たった三呼吸。
けれど、その三呼吸のために、村中と三村と王都が準備している。
トマが低く言った。
「合図、聞きたくないな」
ダリオさんが答える。
「聞かなきゃ止められない」
「分かってる」
「怖いか」
「怖い」
トマは即答した。
その即答に、ダリオさんは少しだけ笑った。
「いい。怖いと言えるなら、まだ見えてる」
ニコルが顔を上げた。
「その言葉、昨日トマさんも僕に言いました」
トマが驚く。
「そうだっけ」
「はい」
セリアが微笑む。
「広がっていますね」
トマは少し照れた。
「なんか、俺の言葉が勝手に旅してる」
リーゼさんが言う。
「良い言葉は使う」
「リーゼに言われると、なんかすごいな」
夕方、薬草予定地で最後の確認をした時だった。
セリアが傷洗い草の本株の前で立ち止まった。
ハンナが気づく。
「どうしました?」
セリアは膝をつき、葉の根元を見た。
昨日まで一つだった新芽の横。
土を押し上げるように、小さな二本目の芽が顔を出していた。
まだ薄い緑。
触れれば折れてしまいそうなほど細い。
けれど、確かに出ている。
「二本目……」
ミラが息を呑む。
「新芽、二本目ですか?」
「はい」
セリアの声が震えた。
不安ではない。
喜びだけでもない。
この時期に、二本目の新芽が出る意味。
青根緩衝帯が、最低限の根の力を持ち始めた可能性。
すぐに中枢室へ連絡が送られた。
俺とダリオさんが地下工房で表示を見る。
《傷洗い草新芽:二本目確認》
《青根緩衝帯:根系安定上昇》
《青根緩衝帯:最低条件達成》
《命令核分離時補助条件:一部達成》
《注意:過負荷不可》
俺は表示を読み上げた。
「青根緩衝帯、最低条件達成」
通信札の向こうで、セリアの息を呑む音がした。
『最低条件……達成……』
ダリオさんがすぐに言う。
「浮かれるな。注意も出ている」
「はい」
セリアの声は震えていたが、落ち着いていた。
『過負荷不可。分かっています』
トマが旧水路から通信に入る。
『でも、よかったんだよな?』
セリアは少し間を置いて答えた。
『はい。よかったです』
その一言に、全員が少しだけ息をついた。
青根緩衝帯は、万能ではない。
過負荷もできない。
だが、最低条件は達成した。
本番前の本番を迎えるための足場が、一つ整った。
夜、俺は個人記録を書いた。
『王都再封印手順詳細到着。
追加封印層固定のため、命令補助印反応面を三呼吸以内だけ露出する工程あり。王都側は反応遮断幕、防衛局封鎖陣、外部監査部記録立会いのもと実施予定。
リベル村側は中止条件を追加。三呼吸超過、残存命令核中位上昇、水腐れ封印層揺れ、旧水路緩衝線受容不能、青根布複数同時反応、森安全線灰青滲み、三村強反応で中止要請。
青根布配布地点を限定。旧水路、森第二安全線退避路、薬草予定地のみ。中央井戸と三村には配布せず、観察と撤退を優先。
各班へ“助けようとして触らない”方針を再確認。
夕方、傷洗い草新芽二本目を確認。中枢室表示:青根緩衝帯、最低条件達成。命令核分離時補助条件、一部達成。ただし過負荷不可』
最後に書く。
『一瞬だけ開く危険。
王都はそれを三呼吸以内と言う。
けれど、三呼吸は短くない。
水が揺れるには十分で、命令核が反応するには十分で、誰かが焦って手を伸ばすにも十分だ。
だから、手を伸ばさない準備をした。
布を配りすぎない準備をした。
井戸へ何も入れない準備をした。
石を動かさない準備をした。
薬草を抜かない準備をした。
そして夕方、傷洗い草が二本目の芽を出した。
青根緩衝帯は、最低条件に届いた。
明日、王都から“命令補助印、露出します”という通信が来る。
その三呼吸を、生きて越えるために。』
地上では、水車が回っている。
薬草予定地では、二本目の新芽が夜露を受けていた。
小さな芽だ。
頼りない。
けれど、その細い緑は、明日の三呼吸へ向けて、確かに土の中から顔を出していた。




