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第158話 記録より命を優先する

 最大同時記録表の一番下に書かれた一文は、翌朝になっても消されなかった。


『異常時、記録より命を優先』


 ニコルが書いた文字だ。


 最初にそれを見た時、広間にいた全員が少し黙った。


 記録係が、自分でそれを書く。


 最後まで書きたいはずの者が、途中で記録を捨ててもいいと決める。


 それは、ただの注意書きではなかった。


 覚悟だった。


 朝の中央井戸では、副記録係が主担当として水温を測っていた。


 ニコルは横に立っている。


 今までなら、ニコルが自分で測り、書き、読み上げていた。けれど、最大同時記録の日は、彼は広間で総合記録を取る。


 だから今、中央井戸の記録を誰かへ渡す練習をしていた。


 副記録係の少年は、少し緊張した声で読み上げる。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。最大同時記録準備中、継続異常なし」


 読み終えてから、彼はニコルを見る。


「どうですか」


「よいです」


 ニコルは頷いた。


「ただ、“濁りなし”の前に水面の揺れも見てください。水温、濁り、匂い、青反応だけでなく、水面の動きも今回重要です」


「水面の動き……はい」


 少年は慌てて書き足した。


 トマが井戸の縁に立って、ぽつりと言う。


「ニコル、先生みたいだな」


 ニコルは少し困った顔をした。


「先生ではありません」


「じゃあ、仮先生」


「仮をつければいいわけではありません」


「でも仮記録係だろ?」


「それは……そうですが」


 少年が少し笑った。


 その笑いで、張り詰めていた肩が少し下がる。


 ニコルはそれを見て、少しだけほっとした顔をした。


「緊張してもいいです。でも、緊張したまま記録してください。分からないところは、分からないと言ってください」


 少年は頷いた。


「はい」


 トマが腕を組む。


「それ、俺にもよく言われるやつだ」


「トマさんは特に必要です」


「今日は否定しない」


 その後、広間に全員が集まった。


 机の中央には、最大同時記録表。


 十一地点の配置。

 報告順。

 中止条件。

 撤退条件。

 報告遅れ・重複・不明欄。


 そして、一番下の一文。


『異常時、記録より命を優先』


 村長はその文字を見て、静かに言った。


「今日は、この一文を決める」


 トマが首をかしげる。


「もう書いてありますよね」


「書いただけでは足りぬ。全員が同じ意味で分かっておらねばならぬ」


 ダリオさんが頷いた。


「一番危ないのは、言葉は同じでも解釈が違う時だ」


 セリアが言う。


「記録より命を優先する、ということは……記録途中でも逃げる、ということですよね」


「そうだ」


 ダリオさんが答える。


「書きかけの紙を置いて逃げる。採水瓶を捨てて逃げる。青根布を回収せず逃げる。通信札の返事を待たず逃げる。そういうことだ」


 広間が静かになった。


 捨てる。


 置いて逃げる。


 それは簡単なようで難しい。


 これまでリベル村は、残すことを大事にしてきた。


 記録を残す。

 写しを残す。

 証言を残す。

 反応を残す。

 失敗も残す。


 だからこそ、記録を捨てる判断は重い。


 ニコルは記録板を膝の上に置いたまま、静かに言った。


「僕は、最後まで書きたくなると思います」


 その正直な言葉に、誰も笑わなかった。


 ニコルは続ける。


「報告が途中で止まったら、何が起きたか分からなくなるかもしれません。だから、もう少しだけ、あと一行だけ、と思うかもしれません」


 トマがすぐ言った。


「その時は、俺が引っ張る」


「トマさんは旧水路班です」


「じゃあ旧水路の副記録係を引っ張る。ニコルは……誰が引っ張る?」


 リーゼさんが短く答えた。


「私が近ければ、私が運ぶ」


 ニコルの顔が少し青くなる。


「運ばれないように逃げます」


「それがいい」


 セリアが穏やかに言った。


「記録は、生きて続きを書くためにあります。逃げて、あとで“ここで逃げました”と書けばいいんです」


 ニコルはその言葉を見つめるように聞いていた。


「逃げたことも、記録になる……」


「はい」


 セリアは頷いた。


「逃げたから、次に同じ場所へ行く準備ができます。逃げずに倒れたら、そこで終わってしまいます」


 ダリオさんが低く言った。


「記録係が死ぬ記録は、最悪の記録だ」


 昨日も聞いた言葉だった。


 けれど、改めて広間で言われると重い。


 ニコルは小さく頷いた。


「はい」


 村長が杖を鳴らした。


「撤退合図を決める」


 ニコルが新しい紙を出した。


『最大同時記録・撤退合図』


 ダリオさんが説明を始める。


「音で統一する。通信札が乱れても分かるようにするためだ。もちろん、場所によって鐘、笛、板打ちになるが、回数は同じにする」


 ニコルが書く。


 一短音。注意。

 二短音。作業停止。

 一長音。即撤退。

 連続音。記録放棄、命優先。


 トマが手を上げる。


「一短音と二短音は分かる。長音も分かる。連続音って、どれくらい?」


 ダリオさんが答える。


「迷うくらいなら連続音だ。鳴らし続ける。聞いた者は、理由を聞かずに逃げる」


「理由を聞かずに?」


「ああ」


 トマは少し眉を寄せた。


「でも、何が起きたか知りたいだろ」


「知りたがって死ぬな」


 ダリオさんの声は厳しかった。


 トマは黙る。


 ダリオさんは少しだけ声を緩めた。


「理由はあとで聞く。逃げてから聞く。逃げられなかったら聞けない」


 リーゼさんが頷いた。


「連続音は、考えるなという合図だ」


 ニコルが書き足す。


『連続音:理由確認不要。ただちに退避』


 セリアが言う。


「青根布や隔離箱を回収している時間がない時も、置いて逃げるんですね」


「そうだ」


 ダリオさんが頷く。


「青根布を置いて逃げるのは怖い。でも、人が残る方がもっと悪い」


 セリアは唇を結んだ。


「……はい」


 ハンナが隣で言った。


「セリアさんが取りに戻りそうなら、私が止めます」


 セリアは少し驚いてハンナを見た。


「私、そんなに戻りそうですか?」


「戻りそうです」


 ミラも頷く。


「青根布がもったいないとか、土が疲れるとか言って戻りそうです」


 セリアは言葉に詰まった。


 トマが少し笑った。


「言われてる」


「否定できません……」


 セリアは肩を落とした。


 それから、自分で記録表に一文を加えた。


『青根布回収より人命優先。セリアも戻らない』


 トマが吹き出しかけた。


「自分で書いた」


「必要なので」


 セリアは真面目だった。


 ダリオさんが満足そうに頷く。


「いい。自分がやりそうな危険行動を先に書くのは大事だ」


 トマが少し不安そうに聞いた。


「俺も書くべき?」


「書け」


「即答かよ」


 ニコルが紙を差し出す。


 トマは少し考えて、書いた。


『水量板が動いても、止めに行かない』


 それを見て、広間が静かになった。


 トマは照れ笑いしようとして、できなかった。


「たぶん、俺が一番やりそうなの、それだから」


 ダリオさんは静かに頷いた。


「よく書いた」


「褒めるなよ。重くなる」


「重いから書くんだ」


 ニコルはその文字を、最大同時記録表の旧水路欄にも転記した。


 リーゼさんは、自分の欄に短く書いた。


『通さないために残りすぎない』


 セリアがその文字を見る。


「リーゼさん……」


 リーゼさんは淡々と言った。


「私は残りすぎる可能性がある」


 誰も否定しなかった。


 彼女は、そういう人だ。


 通さないためなら、自分が最後まで立とうとする。


 だから、自分で書いた。


 残りすぎない。


 退く。


 守るために退く。


 村長はリーゼさんの文字を見て、深く頷いた。


「よい」


 ニコルは自分の欄を見つめた。


 しばらく筆が動かない。


 トマが声をかける。


「ニコル?」


「考えています」


「何を書けば自分が止まるか?」


「はい」


 ニコルは長く息を吸い、書いた。


『最後の一行を書こうとしない』


 その一文に、セリアが目を伏せた。


 ダリオさんが静かに言う。


「それでいい」


 ニコルは少しだけ笑った。


「最後の一行は、逃げたあとに書きます」


「そうしろ」


 こうして、撤退合図だけではなく、それぞれの“やりそうな危険行動”が書かれた。


 トマは水量板を止めに行かない。

 セリアは青根布を回収しに戻らない。

 リーゼさんは残りすぎない。

 ニコルは最後の一行を書こうとしない。

 ダリオさんは中枢室の表示を深追いしない。

 俺は境界鑑定を続けすぎない。


 俺の欄を書いた時、ダリオさんがこちらを見た。


「お前も書け」


「はい」


 俺は書いた。


『見えているからといって、見続けない』


 ダリオさんが頷く。


「それだ」


 見えるから、見たくなる。


 あと少しで分かりそうだから、踏みとどまりたくなる。


 だが、命令核や水腐れ封印層を相手に、その“あと少し”は危ない。


 見えていても、止まらなければならない時がある。


 昼前、各班で撤退合図の練習をした。


 中央井戸。


 一短音。


「注意。水面、再確認」


 二短音。


「作業停止。水温測定中断。記録板を閉じる」


 一長音。


「即撤退。井戸から離れる」


 連続音。


「記録放棄。何も持たず退避」


 副記録係が最初、記録板を持って逃げようとした。


 ニコルが止める。


「連続音では、記録板を置いてください」


「でも、記録が」


「命が先です」


 少年は記録板を見て、悔しそうに唇を結んだ。


「置きます」


「はい」


 旧水路では、トマが班員に笛の合図を聞かせた。


 一短音。

 二短音。

 一長音。

 連続音。


 連続音が鳴った瞬間、若者の一人が水量板の方を見た。


 トマがすぐ言う。


「見るな。逃げる」


「はい!」


「水量板が変でも、逃げる」


「はい!」


「俺が見てても引っ張れ」


 若者たちが一瞬戸惑った。


 トマは真顔だった。


「俺が水量板見て動かなかったら、引っ張れ。班長命令」


 副記録係がすぐ書く。


『班長命令:トマが水量板を見て動かない場合、引っ張って退避』


 トマはもう止めなかった。


 薬草予定地では、セリアが青根布の箱を置いたまま逃げる練習をした。


 一回目、彼女は無意識に箱へ手を伸ばした。


 ハンナが即座に手首をつかむ。


「駄目です」


 セリアははっとした。


「……今、伸ばしましたね」


「伸ばしました」


 ミラが真面目に記録する。


『一回目、セリア青根布箱へ手を伸ばす。ハンナが制止』


 セリアは顔を赤くした。


「記録してください。必要です」


 ハンナが頷く。


「二回目、やり直しましょう」


 二回目、セリアは箱を見たが、動かなかった。


 連続音で退避。


 ミラが書く。


『二回目、青根布箱を見たが回収せず退避成功』


 セリアは深く息を吐いた。


「怖いですね」


 ハンナが言う。


「箱を置いて逃げるのが?」


「はい。でも、それ以上に、自分が戻りそうだったことが怖いです」


「だから練習したんです」


 セリアは小さく頷いた。


「はい」


 森安全線では、リーゼさんが一番苦労した。


 一長音では退ける。


 だが、連続音でも、彼女は最後尾を見ようとする。


 護衛役が言った。


「リーゼさん、また後ろを見ています」


「確認だ」


「連続音では確認せず退避です」


「……分かっている」


 三回目でようやく、リーゼさんは後ろを見ずに退いた。


 戻ってきて、短く言った。


「難しい」


 護衛役が驚いた。


「リーゼさんでもですか」


「難しい。だからやる」


 その言葉は、森安全線の記録に残された。


 午後、広間で全体確認を行った。


 ニコルが報告する。


「中央井戸班、連続音時に記録板を置いて退避する練習完了。旧水路班、水量板への視線固定時の強制退避手順追加。薬草予定地、青根布回収未遂一回、二回目成功。森安全線、リーゼさん後方確認傾向あり、三回目で退避成功」


 トマが言った。


「失敗だらけだな」


 ダリオさんが即座に返す。


「今日失敗してよかった」


 セリアも頷いた。


「本番で初めて気づくより、ずっといいです」


 リーゼさんが短く言う。


「難しいことが分かった」


 ニコルは総合記録表の撤退欄を見て、赤で書き足した。


『撤退練習で発見した危険癖は、各班手順へ反映済み』


 村長はそれを読んで頷いた。


「よい」


 そして、全員を見回した。


「もう一つ決める」


 広間が静かになる。


「撤退後の集合場所じゃ」


 ダリオさんが頷いた。


「必要です。逃げたあと、どこへ集まるか決めていないと、誰かが誰かを探しに戻る」


 トマが顔をしかめる。


「それ、やりそうだな」


「全員やりそうじゃ」


 村長は即答した。


「だから決める。第一集合場所は村長宅前。第二集合場所は中央井戸の西側広場。森班は森入口の赤杭前へ一度集合してから村へ戻る。旧水路班は水車小屋前へ集まり、人数確認後に広間へ」


 ニコルが書き取る。


『撤退後集合場所』

 一、広間班:村長宅前。

 二、中央井戸班:中央井戸西側広場。

 三、旧水路班:水車小屋前。

 四、薬草予定地班:薬草小屋前。

 五、森班:森入口赤杭前。

 六、最終集合:村長宅前。

 七、人数確認前に戻らない。


 最後の一文に、トマがうなずいた。


「人数確認前に戻らない。大事だな」


 セリアも言う。


「戻りたくなりますから」


 リーゼさんも頷いた。


「戻りたくなる。だから戻らないと書く」


 ニコルは、その言葉をもう一枚に大きく書いた。


『戻りたくなる。だから戻らないと書く』


 トマが苦笑した。


「今日の合言葉、重いな」


 ダリオさんが答える。


「重い合言葉ほど、生き残る」


 夕方、王都へ撤退合図と中止条件の更新版を送った。


『最大同時記録時の撤退合図を確定。

一短音:注意。

二短音:作業停止。

一長音:即撤退。

連続音:記録放棄、命優先。

リベル村側では、記録板、青根布、採水瓶、隔離箱、現場資料を置いて退避する訓練を実施。

撤退判断者を責めない。撤退後、人数確認前に現場へ戻らない。

王都側にも同等の撤退合図または中止合図の明文化を求める』


 ニコルは最後にこう書いた。


『記録は、生きて続きを書くためにある』


 セリアがその一文を見て、微笑んだ。


「入れてくれたんですね」


「はい。必要だと思いました」


 トマが言う。


「王都の役人にも読ませよう」


 ダリオさんが頷く。


「読んで顔をしかめるだろうが、それでいい」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『最大同時記録に向け、撤退合図を確定。

一短音:注意。二短音:作業停止。一長音:即撤退。連続音:記録放棄、命優先。

各班で撤退練習実施。中央井戸班は記録板を置いて退避。旧水路班は水量板への接触・視線固定時の強制退避手順追加。薬草予定地ではセリアが青根布箱へ手を伸ばし、ハンナが制止。二回目で回収せず退避成功。森安全線ではリーゼが後方確認傾向あり、三回目で退避成功。

各自の危険癖を記録。トマ:水量板が動いても止めに行かない。セリア:青根布回収より人命優先。リーゼ:通さないために残りすぎない。ニコル:最後の一行を書こうとしない。レオン:見えているからといって見続けない。

撤退後集合場所を設定。人数確認前に戻らない』


 最後に書く。


『記録より命を優先する。

それは、記録を軽んじる言葉ではない。

記録を続けるための言葉だ。

今日、私たちは自分がやりそうな危険行動を書いた。

戻りそうな人は、戻らないと書いた。

見続けそうな人は、見続けないと書いた。

最後の一行を書きたくなる人は、逃げてから書くと決めた。

本番前の本番まで、あと二日。

生きて続きを書くための準備が、ようやく形になった。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は今日も変わらない。


 だが、村のあちこちで笛と鐘の合図が繰り返された。


 逃げる練習。


 捨てる練習。


 戻らない練習。


 守るために退く練習。


 そのどれもが、黒石祠命令核分離作戦へ向かうための、欠かせない一歩だった。

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