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第157話 最大同時記録の準備

 王都金属資料の再封印処理まで、あと三日。


 その言葉が、リベル村の朝に重く乗っていた。


 中央井戸の水は、今日も澄んでいる。


 旧水路も落ち着いている。

 薬草予定地の傷洗い草も倒れていない。

 森の第一安全線も、昨日の報告では大きな異常なし。


 目に見える危機はない。


 けれど、王都では封印箱の外縁が微かに劣化している。


 開いていない金属資料が、内側から封印を軋ませている。


 そして、その金属資料は黒石祠残存命令核と遠隔共鳴している可能性がある。


 ニコルは中央井戸で、いつもの記録を読み上げた。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。王都再封印処理準備開始後、継続異常なし」


 トマは水面を見ながら、小さく頷いた。


「継続異常なし。よし」


 ニコルがちらりと見る。


「少し、声が硬いです」


「そりゃ硬くもなるだろ。最大同時記録だぞ」


「はい」


「王都三地点、リベル村、三つの村、森、水路、薬草、井戸、地下工房……もう何が何だか分からなくなりそうだ」


 ニコルは記録板を抱え直した。


「分からなくならないように、表にします」


「頼む。俺、表がないと本当に分からなくなる」


「分からないと言えるのは大事です」


「最近、それを言うのにも慣れてきた」


 トマは少し笑った。


「分からないまま分かったふりして動くより、たぶんマシだ」


「はい。とても大事です」


 広間に戻ると、すでに机の上は紙で埋まっていた。


 王都再封印処理の通知。

 中止条件案。

 青根緩衝帯運用表。

 旧水路緩衝線記録。

 外縁杭三地点地図。

 王都・リベル村・周辺三村の同時記録予定表。


 そして、ニコルが新しく用意した大判の紙。


『最大同時記録網・配置案』


 トマはそれを見て、思わず声を漏らした。


「でかい」


 ダリオさんが腕を組む。


「でかくないと収まらん」


「本当に最大って感じだな」


 ニコルは緊張した顔で説明を始めた。


「参加地点は十です」


 トマがすぐ言った。


「十……」


「王都側が三地点。王都開封室、王都資料庫跡、王都行政庁別室」


 ニコルは紙の左側を指す。


「リベル村側が五地点。中央井戸、旧水路、薬草予定地、森第一・第二安全線、地下工房中枢室」


「それで八」


「はい。さらにハルマ村井戸、北沢集落石列、ミード村薬草畑」


「十を超えてないか?」


「リベル村側の森安全線を一項目として扱えば十です。細かく分けると十一になります」


「もう十一でいいんじゃないか?」


 ニコルは少し困ったように眉を寄せた。


「王都へ送る表は十地点でまとめます。村内用は詳細版で十一地点です」


 トマは両手を上げた。


「分かった。俺は村内用を見る」


 セリアが少し笑う。


「私も村内用が必要です。薬草予定地と森安全線では、青根布の扱いが違いますから」


 リーゼさんが短く言った。


「森は二地点で見る。第一線と第二線は違う」


 ニコルは頷く。


「はい。村内用では分けます」


 村長が杖を鳴らした。


「配置を決める」


 広間の空気が引き締まる。


 まず、地下工房。


 中枢室を見るのは、俺とダリオさん。


 黒石祠残存命令核の反応、水腐れ封印層の揺れ、王都方面反応を見る。


 手動閉鎖板の近くには、補助者を置く。


 ダリオさんが言った。


「俺は中枢室に入る。手動閉鎖板は別の者に任せる」


 リーゼさんが顔を上げる。


「私ではないのか」


「お前は森だ」


 ダリオさんは即答した。


「森第二安全線は、今回重要になる。王都の金属資料が揺れた時、黒石祠本体の外縁に反応が出る可能性がある。そこを見られるのはお前だ」


 リーゼさんは少し黙った。


 そして頷いた。


「分かった」


 セリアが迷うように手元の記録を見た。


「私は薬草予定地でしょうか。それとも森の第二安全線でしょうか」


 その問いは、前から出ると分かっていた。


 青根緩衝帯を扱えるのはセリアだ。


 薬草予定地の傷洗い草と青根布を見るのもセリアの役目だ。


 だが、森安全線で灰青の滲みが出た場合も、セリアの判断が必要になる。


 トマが言った。


「セリアさんが二人いればいいんだけどな」


「二人はいません」


 セリアは真面目に返した。


 トマが少し笑う。


「ですよね」


 ダリオさんは地図を見ながら言った。


「セリアは薬草予定地だ。青根緩衝帯の中心はそこにある。森には青根布の扱いを覚えた補助を送る」


 セリアは不安そうに眉を寄せた。


「でも、森で灰青が出たら」


「通信で判断を仰ぐ」


 リーゼさんが言った。


「私は勝手に布を使わない。セリアの合図を待つ。ただし、退避は私の判断で行う」


 セリアはリーゼさんを見る。


「退避判断は、待たないでください」


「分かっている」


 リーゼさんの返事は短い。


 でも、その短さが逆に信頼できた。


 ニコルが書く。


『セリア:薬草予定地主担当。森安全線の青根布使用判断は通信補助。ただし退避判断はリーゼ独自判断可』


 トマが紙を覗く。


「独自判断可、いいな」


「撤退判断者を責めない、とつながります」


 ニコルが答える。


「現場でしか見えないものがありますから」


 次は旧水路。


 トマが班長。


 水量板担当。

 上流担当。

 緩衝線担当。

 青土封じ札担当。

 下流黒粒子担当。

 採水補助。

 副記録係。


 トマは人数を見て、少し顔をしかめた。


「多いな」


 ダリオさんが言う。


「多いから班長が必要だ」


「もうそこは受け入れた」


「成長したな」


「半分?」


「八割くらい」


「上がった」


 少し笑いが起きる。


 だが、トマはすぐに真顔へ戻った。


「旧水路班の撤退条件、もう一回確認する。灰青が水中で広がったら撤退。緩衝線が受けられなくなったら撤退。青土封じ札が二枚とも反応過多なら撤退。水量板が勝手に動いたら……」


 言葉が止まる。


 水量板が勝手に動く。


 考えたくないことだった。


 ダリオさんが続けた。


「即撤退だ。触るな。押さえるな」


「分かってる」


 トマは強く頷いた。


「水量板が動いても、止めようとしない。見る。逃げる。記録は、できたら後で書く」


 ニコルがそれを記録する。


『水量板自動変位時、接触禁止。旧水路班即撤退』


 中央井戸は、副記録係を主担当にする。


 ニコルは総合記録へ回る。


 そのことを告げられた時、ニコルは少しだけ固まった。


「僕が……総合記録ですか」


 村長が頷いた。


「そうじゃ」


「全地点の報告を、僕がまとめるんですか」


「そうじゃ」


 ニコルの喉が動く。


 トマが心配そうに見る。


「ニコル、大丈夫か?」


「大丈夫ではありません」


 ニコルは正直に言った。


「でも、やります」


 広間が静かになった。


 ニコルは記録板を胸元に抱えた。


「中央井戸の記録を離れるのは怖いです。でも、最大同時記録では、報告順を崩さないことが大事です。僕が一番、表の位置を覚えています」


 ダリオさんが頷く。


「そうだ。総合記録は、お前が一番向いてる」


「仮の記録係ですが」


 トマが言った。


「もう誰も仮って思ってないぞ」


 ニコルは少しだけ笑った。


「それでも、仮と言わせてください。怖いので」


 村長が静かに言う。


「怖いまま、やれ」


 ニコルは深く頭を下げた。


「はい」


 配置表は、少しずつ埋まっていった。


 王都側。


 王都開封室。

 金属資料再封印処理を行う場所。

 行政庁、防衛局、外部監査部の立会い。


 王都資料庫跡。

 黒薔薇工房旧資料庫焼失跡。

 火災跡の残留反応確認。


 王都行政庁別室。

 低危険度資料と写し保管場所。

 遠隔反応の比較点。


 リベル村側。


 地下工房中枢室。

 俺、ダリオさん。


 中央井戸。

 副記録係と水温・水面・匂い担当。


 旧水路。

 トマ班。


 薬草予定地。

 セリア、ハンナ、ミラ。


 森第一・第二安全線。

 リーゼさんと護衛役、青根布補助。


 三村。


 ハルマ村井戸。

 井戸番と若い母親。


 北沢集落石列。

 マルタと土を見る若者。


 ミード村薬草畑。

 薬草係の老女と孫娘。


 ニコルはそのすべてを、砂時計の時刻に合わせて書く表を作った。


『最大同時記録・報告順』


 一、王都開封室。

 二、王都資料庫跡。

 三、王都行政庁別室。

 四、地下工房中枢室。

 五、中央井戸。

 六、旧水路。

 七、薬草予定地。

 八、森安全線。

 九、ハルマ村。

 十、北沢集落。

 十一、ミード村。


 トマが表を見て言った。


「すごいな。これ、間違えたら大変だ」


 ニコルの顔が少し青くなる。


 トマは慌てた。


「いや、脅したわけじゃない。ごめん」


 ニコルは首を振る。


「大変です。だから、間違えた時の欄も作ります」


「間違えた時の欄?」


「はい」


 ニコルは表の下に書いた。


『報告遅れ・重複・不明欄』


 ダリオさんが感心したように見る。


「いいな」


 ニコルは説明した。


「間違えないようにするだけだと、間違えた時に混乱します。だから、間違えた時に入れる場所を先に作ります」


 トマが目を丸くする。


「それ、めちゃくちゃ大事じゃないか?」


「大事です」


 セリアも頷いた。


「失敗を書く場所があると、失敗を隠さなくて済みます」


 リーゼさんが短く言った。


「逃げ道と同じだ」


「はい」


 ニコルは頷いた。


「記録にも逃げ道が必要です」


 その日の午後、最大同時記録の予行練習が行われた。


 実際に王都と繋ぐわけではない。


 王都側三地点は、仮の報告役が代読する。


 広間中央に王都の砂時計。


 ニコルは総合記録席へ座った。


 いつもの中央井戸ではない。


 全地点からの報告を受ける席。


 彼の指先は少し震えていた。


 トマがそっと近づく。


「ニコル」


「はい」


「震えてるぞ」


「はい」


「逃げたい?」


「少し」


「じゃあ、大丈夫だ」


 ニコルが顔を上げる。


「どうしてですか」


「逃げたいって言えるなら、まだ周りが見えてる」


 トマは照れくさそうに笑った。


「俺が言うのも変だけど」


 ニコルは少し笑った。


「ありがとうございます」


 予行練習が始まった。


 砂時計が落ちる。


 王都開封室、異常なし。

 王都資料庫跡、異常なし。

 王都行政庁別室、異常なし。

 地下工房、黒石祠反応低位。

 中央井戸、水温正常。

 旧水路、緩衝線安定。

 薬草予定地、青根布未使用。

 森安全線、異常なし。

 ハルマ、北沢、ミード、異常なし。


 最初の練習は、ニコルの声が少し詰まった。


「七、薬草予定地……いえ、六、旧水路」


 すぐに表の下へ書く。


『報告順言い直し一回』


 トマが小さく言った。


「隠さないの、えらい」


 ニコルは頷いた。


 二回目の練習では、旧水路班の報告が早すぎた。


 トマが自分で言った。


「旧水路、報告早すぎ。次から合図を待つ」


 ニコルが記録する。


 三回目。


 森安全線の報告が遅れた。


 リーゼさんが戻ってきて、淡々と言った。


「通信札の持ち方が悪かった。直す」


 それも記録。


 四回目。


 ようやく流れが整った。


 ニコルの声も、少しずつ通るようになった。


「井戸、水路、薬草、森、地下、三村、順に」


 トマが聞いて、にやりとする。


「総合記録係っぽい」


「怖いので、あまり言わないでください」


「分かった。でも、合ってる」


 練習後、ニコルは表の最後に一文を書いた。


『異常時、記録より命を優先』


 それを見た瞬間、広間が静かになった。


 トマが口を開く。


「それ、入れるのか」


「はい」


 ニコルは筆を置いた。


「記録係としては、最後まで書きたいです。でも、書くために逃げ遅れたら、次がありません」


 セリアが静かに言った。


「記録は、生きて続きを書くためにあります」


 リーゼさんが頷く。


「撤退命令が出たら、記録係も運ぶ」


 ニコルが少し青ざめる。


「運ばれる前に逃げます」


「それがいい」


 ダリオさんは表を見ながら言った。


「記録係が死ぬ記録は、最悪の記録だ」


 トマが真面目に頷いた。


「ニコルが逃げないなら、俺が引っ張って逃げる」


「トマさんは旧水路です」


「じゃあ旧水路の記録係を引っ張る」


「お願いします」


 広間に、小さな笑いが戻った。


 しかし、その一文は誰も消さなかった。


『異常時、記録より命を優先』


 それは、最大同時記録網の一番下に、太く残された。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『最大同時記録の配置を決定。

王都三地点:開封室、資料庫跡、行政庁別室。

リベル村:地下工房中枢室、中央井戸、旧水路、薬草予定地、森第一・第二安全線。

周辺三村:ハルマ井戸、北沢石列、ミード薬草畑。

ニコルが総合記録を担当。中央井戸は副記録係へ移行。

トマは旧水路班長を受け入れる。セリアは薬草予定地主担当、森安全線の青根布使用は通信判断。リーゼは森安全線の独自撤退判断を持つ。

予行練習四回。報告順言い直し、旧水路報告早すぎ、森通信遅れを記録。四回目で流れ安定。

最大同時記録表の最後に、“異常時、記録より命を優先”を明記』


 最後に書く。


『最大同時記録網は、ただ多くの場所を見る仕組みではない。

多くの場所から、同じ時刻に逃げるための仕組みでもある。

ニコルは総合記録係になる。

怖いと言いながら、逃げなかった。

トマは班長になった。

照れながらも、撤退判断を引き受けた。

セリアは薬草予定地に残る。

リーゼは森を見る。

それぞれが一番怖い場所に立つのではなく、一番必要な場所に立つ。

三日後、王都の封印箱が再び閉じられる時、リベル村と三つの村は同じ砂を見る。

だが、記録より命を優先する。

それを書けたことが、今日の一番大きな準備だった。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は、いつもと変わらない。


 けれど、広間の机には十一地点を結ぶ大きな表が置かれている。


 水と土と根と石、王都の箱と森の祠。


 すべてを同じ時刻で見る準備が、ようやく形になり始めた。

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