第16話 査察官の警告
査察官たちがリベル村に泊まることになった夜、村は妙に落ち着かなかった。
悪い意味ではない。
むしろ、悪い結果にならなかったことで、誰もが少し浮き足立っていた。
井戸のそばでは、村の女たちが小声で話している。
「セリア、連れていかれなくてよかったねえ」
「本当に。あの神官みたいな人が何か言い出すかと思ったよ」
「レオンさんも王都に呼ばれなくてよかった」
「先生がいなくなったら、水車も結界も困るもの」
全部、聞こえている。
こういう時、自分の名前が会話に混じるのは、まだ慣れない。
勇者パーティーにいた頃も名前は呼ばれていたが、その多くは指示か注意か、あるいは不満だった。
ここでの呼ばれ方は違う。
困る。
いてほしい。
助かった。
そういう言葉が混じる。
重い。
でも、嫌な重さではなかった。
「先生、顔がまた難しいぞ」
トマが木柵の近くで弓を点検しながら言った。
「考えごとをしていただけです」
「それを難しい顔って言うんだよ」
「トマさんは、よく見ていますね」
「先生ほどじゃない」
トマは弦を指で弾き、音を確かめた。
「王都の連中、明日帰るんだよな」
「その予定です」
「で、報告書を書かれる」
「はい」
「それで、また誰か来る」
俺は少し黙った。
トマは顔を上げずに続ける。
「俺でも分かるぞ。今日の査察官は、悪い奴じゃなかった。少なくとも、村をすぐ取り上げようとはしなかった。でも王都ってのは、あの三人だけで動いてるわけじゃねえ」
「そうですね」
「先生の力も、セリアの力も、結界も。欲しがる奴は出るだろ」
トマは真っ直ぐだった。
楽観しすぎない。
かといって、絶望もしない。
この数日で、彼もずいぶん変わったと思う。
「その時、俺たちは何をすればいい」
その問いは、村人としてのものだった。
俺は木柵の外を見た。
夜の森は静かだ。外周結界の薄い光が、境界線のように揺れている。
「まず、記録です」
「記録?」
「井戸も水車も結界も、村人たちが管理しているという証拠を残す。俺ひとりの力ではなく、村全体の復旧作業だと示す必要があります」
「先生を持っていかれないように?」
「それもあります」
「正直だな」
「あと、村が自立していると見せるためです。王都から見て“危ないから管理する”と思われるのが一番まずい」
トマはゆっくり頷いた。
「つまり、俺たちがちゃんとやってるって見せる」
「はい。実際にちゃんとやる必要もあります」
「なるほどな」
彼は弓を置き、立ち上がった。
「明日から、俺も字の練習するか」
「本気ですか」
「本気だ。弓の状態とか、柵の補修とか、毎回ニコルに頼むのも悪いしな」
「助かります」
「ただし、先生が教えろよ」
「俺が?」
「先生だろ」
「……分かりました」
訂正するのを諦めた俺を見て、トマは満足そうに笑った。
治療所では、セリアが片づけをしていた。
査察中、彼女はずっと気を張っていた。神殿に近い立場のオルデン師に問い詰められ、自分の意思を記録に残し、治療補助者として振る舞った。
疲れているはずだ。
なのに、彼女は棚の布を一枚ずつ整えている。
「セリア」
声をかけると、彼女は振り返った。
「あ、レオンさん。どうしました?」
「それは明日でもいいのでは」
彼女は手元の布を見る。
「そうですね」
「分かっている顔ではありませんね」
「落ち着かなくて」
セリアは少しだけ笑った。
「片づけていると、手が震えないので」
その言葉に、胸が詰まる。
彼女は強くなった。
でも、怖くなくなったわけではない。
神殿に戻らないと言えたこと。
治療補助を続けたいと言えたこと。
それは大きな一歩だったが、一歩で恐怖が消えるほど、人の心は簡単ではない。
「座りましょう」
俺は治療所の椅子を引いた。
「でも」
「座りましょう」
少し強めに言うと、セリアは目を瞬かせたあと、小さく笑った。
「私の言い方に似てきましたね」
「学びました」
「では、座ります」
セリアは素直に椅子へ腰を下ろした。
俺も向かいに座る。
治療所の中には、井戸から運んだ浄化水の瓶が並んでいる。淡い光はもうほとんど見えないが、水は澄んでいた。
「今日、よく言えましたね」
「神殿へ戻らない、ですか」
「はい」
セリアは少し俯いた。
「本当は、足が震えていました」
「見えませんでした」
「必死で隠していました」
「それでも言えたなら十分です」
彼女は膝の上で手を重ねる。
「オルデン師は、怖い人ではありませんでした」
「そうですね」
「でも、聖印を見た時、神殿を思い出しました。白い廊下と、冷たい部屋と、試験の鐘の音を」
「……」
「私は失敗するたびに、もっと祈れと言われました。もっと清くあれ、もっと正しくあれ、もっと聖女らしくあれ、と。でも、どうすれば聖女らしいのかは、誰も教えてくれませんでした」
セリアの声は静かだった。
泣いてはいない。
ただ、思い出している。
「ここでは、皆が先に“どうしたい?”と聞いてくれます。痛いのか、怖いのか、休みたいのか。だから、少しずつ分かるようになりました」
「何がですか」
「私は、聖女になりたかったんじゃなくて、誰かを助けたかったんだと思います」
その言葉は、治療所の静かな空気に溶けた。
俺はしばらく何も言えなかった。
セリアは自分の手を見る。
「聖女じゃなくても、助けていいんですよね」
「もちろんです」
「治療補助者でも」
「はい」
「村のセリアでも」
「はい」
彼女はようやく顔を上げた。
少しだけ、笑っていた。
「それなら、私はしばらく村のセリアでいます」
「いいと思います」
「レオンさんは?」
「俺?」
「勇者パーティーの鑑定士ではなくて、何になりますか」
すぐには答えられなかった。
修復鑑定士。
村の先生。
リベル村の復旧担当。
追放された元勇者パーティーの鑑定士。
いくつも言葉は浮かぶ。
でも、どれもしっくり来ない。
「まだ分かりません」
正直に答えた。
「でも、勇者パーティーの荷物持ちではないことだけは、分かりました」
セリアは少しだけ目を細めた。
「それ、大事ですね」
「はい」
「じゃあ、ゆっくり決めましょう」
「そうします」
その時、治療所の外から声がした。
「レオン・アスター殿はいるか」
ラウル査察官の声だった。
俺とセリアは顔を見合わせる。
「俺に用みたいです」
「一緒に行きましょうか」
「いえ、大丈夫です。セリアは休んでください」
「……分かりました。でも、長くなりそうなら呼びに行きます」
「監視が厳しい」
「必要です」
セリアは真面目な顔で言った。
治療所を出ると、ラウル査察官が井戸の近くに立っていた。
昼間の硬い制服姿のままだが、今は少しだけ表情が柔らかい。手には小さな木椀を持っている。中には井戸水が入っていた。
「呼び立ててすまない」
「いえ」
「少し話せるか。非公式に」
非公式。
その言葉に、少し警戒する。
「分かりました」
俺たちは井戸から少し離れた木柵のそばへ移動した。夜の風が冷たい。結界の光が足元に薄く流れている。
ラウル査察官はしばらく村を眺めていた。
「良い村だな」
「そう思います」
「数日前までは、終わりかけていたと聞いた」
「はい」
「今は、終わりかけの村には見えない」
その言葉は、査察官としてではなく、一人の人間としての感想に聞こえた。
「村人たちが頑張っています」
「君がそう言うのは分かっていた」
「俺が?」
「今日一日、君はずっとそうだった。自分一人がやったとは言わない。村人と協力した、セリアの補助があった、トマが動いた、村長が判断した。そう言い続けていた」
「事実です」
「だろうな」
ラウル査察官は木椀の水を見る。
「だが、王都ではそう見ない者もいる」
来た。
俺は黙って続きを待った。
「報告書には、君の名前が必ず載る。古代結界を再稼働させた鑑定士。元勇者パーティー所属。辺境村の復旧に関与。これだけでも十分、目を引く」
「……はい」
「さらに、セリア・ルミナスの件もある。神殿記録では危険とされた元聖女候補が、この村では安定して治療を行っている。なぜだ、誰が調整した、どの技術を使った。そう考える者が出る」
ラウル査察官は、そこで俺を見た。
「君だろう」
短い一言だった。
俺は答えなかった。
ラウル査察官も、答えを強要しなかった。
「私は、今日見たものを報告する。誇張はしない。だが、隠しもしない」
「分かっています」
「だから警告しておく。王都は君を欲しがる」
冷たい風が吹いた。
「防衛局も、ギルドも、神殿も、貴族も。立場は違えど、価値があるものを放っておくほど善良ではない」
「ラウル査察官もですか」
思わず聞いていた。
ラウルは少しだけ笑った。
「私も王都の人間だ。善人面はしない」
それから、真面目な顔に戻る。
「だが、少なくとも私は、この村から君を引き抜くのは悪手だと思っている」
「理由は?」
「君がいなければ、この村の結界管理が不安定になる。セリアの魔力も、まだ経過観察が必要だ。何より、この村は今、直り始めたばかりだ」
直り始めたばかり。
その言葉を、査察官の口から聞くとは思わなかった。
「壊れたものを直すには、時間が必要なんだろう」
「……はい」
「今日、君が何度も言っていた」
ラウル査察官は井戸水を一口飲んだ。
「いい水だ」
「ありがとうございます」
「礼を言う相手は村か」
「はい」
「君は本当に、自分の手柄にしないな」
「手柄というほどのものでは」
「そこが危うい」
ラウル査察官の声が少し鋭くなった。
「君のような人間は、自分を安く扱いすぎる。そういう者は、利用される」
心臓の奥に、重いものが落ちた。
勇者パーティーにいた頃の自分を見られたようだった。
「覚えておけ。謙虚さと自己軽視は違う。君が自分の価値を低く見積もれば、その差額を他人が奪う」
何も言えなかった。
ラウル査察官は続ける。
「君はこの村を守りたいのだろう」
「はい」
「なら、自分の価値も守れ。交渉の場で、自分は大したことをしていないと言いすぎるな。それは美徳ではなく、村の不利益になる」
「村の不利益……」
「君の力が正当に評価されれば、村は支援を受けられる。だが、君が自分をただの補助だと言いすぎれば、王都は君だけを安く持っていこうとする」
痛いほど現実的な忠告だった。
俺は今日、力を隠すことばかり考えていた。
それは必要なことだったと思う。
だが、隠すことと、価値を低く見せすぎることは違う。
俺は黙って頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない。私は、防衛局として辺境防衛の安定を望んでいるだけだ」
「それでも、助かります」
ラウル査察官は少しだけ肩をすくめた。
「もう一つ」
「はい」
「セリア・ルミナスを守りたいなら、彼女自身の意思を記録に残し続けろ。今日のようにだ」
「意思を記録に」
「神殿は形式を重んじる。なら、形式で対抗しろ。彼女が自分の意思でリベル村に残り、治療補助を行い、危険な暴走を起こしていない。日々の記録があれば、強制帰還の根拠は弱くなる」
なるほど。
記録は村を守るだけではない。
セリア本人を守る盾にもなる。
「明日から、治療所にも本人記録をつけます」
「それがいい。本人署名があればなお良い」
「セリアに相談します」
「そうしろ。本人の意思を軽んじるな」
その言葉に、俺は少し驚いた。
地下工房の心得と同じだった。
ラウル査察官は俺の表情に気づいたのか、少し眉を上げる。
「何か?」
「いえ。同じことを、古い記録で見たので」
「古い記録?」
「修復に関する心得のようなものです」
「そうか」
彼は深くは追及しなかった。
「昔の職人は、今の役人より賢いことがある」
そう言って、木椀を俺に返した。
「話は以上だ。明朝、私たちは王都へ戻る」
「お気をつけて」
「君たちもだ。魔物より面倒なものが来るかもしれん」
「王都ですか」
「王都だ」
ラウル査察官は、少しだけ皮肉な顔で笑った。
彼が去った後、俺はしばらく木柵のそばに立っていた。
自分の価値を守れ。
その言葉が、頭から離れない。
勇者パーティーでは、俺は自分の価値を守らなかった。
必要とされるために、便利でいようとした。怒られないように、目立たないように、何でも黙って引き受けた。
その結果、俺は「鑑定しかできない無能」として追放された。
同じことを、この村で繰り返してはいけない。
村を守るためにも。
セリアを守るためにも。
俺自身を守るためにも。
治療所へ戻ると、セリアがまだ起きていた。
椅子に座り、白い布を膝に置いている。片づけは終わっているはずなのに、手持ち無沙汰だったらしい。
「長かったですね」
「すみません」
「ラウル査察官と何を話していたんですか」
「警告を受けました」
「警告?」
「王都は俺を欲しがるかもしれないと」
セリアの表情が曇る。
「レオンさんを、連れていくんですか」
「そういう動きが出るかもしれません。でも、すぐではないと思います」
「……嫌です」
思ったよりはっきりした声だった。
言ったセリア自身も驚いたように目を開く。
「す、すみません。今のは、その」
「いいんです」
「でも、私が決めることでは」
「嫌だと言ってもらえるのは、嬉しいです」
セリアは赤くなった。
「レオンさんは、時々本当にずるいです」
「またそれですか」
「はい」
彼女は少し俯いたあと、小さく言った。
「レオンさんがいなくなったら、この村が困ります。私も、困ります」
「俺も、まだここにいたいです」
今度は自然に言えた。
「ラウル査察官に、自分の価値を守れと言われました」
「いいことを言う方ですね」
「はい」
「守りましょう」
セリアは顔を上げた。
「レオンさんの価値も、この村も、私の意思も」
彼女の言葉は、静かに強かった。
「そのために、記録をつけます」
「記録?」
「セリアが自分の意思で村にいること。治療補助をしていること。暴走せずに安定していること。そういう記録が、神殿への対抗になるそうです」
セリアは驚いたあと、真剣に頷いた。
「書きます」
「無理に毎日長く書く必要はありません」
「でも、自分の言葉で残したいです」
「それが一番いいと思います」
セリアは棚から小さな板を取り出した。
「今、書いてもいいですか」
「もちろん」
彼女は筆を手に取り、少し迷ってから、ゆっくり書き始めた。
『私は、今日もリベル村に残ることを自分で選びました。
治療所で、小さな傷の手当てをしました。
怖かったけれど、神殿へ戻らないと言えました。
私は、ここで自分の力を学び直したいです。』
文字は少し震えていた。
けれど、最後まで彼女自身の字だった。
「これでいいでしょうか」
「はい」
「変じゃありませんか」
「とてもいいと思います」
セリアはほっと息を吐いた。
「明日も書きます」
「俺も記録を書きます」
「レオンさんの意思も?」
「はい」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも、必要なことだと思った。
自分が何を選び、何を望み、どこに立つのか。
それを他人任せにしないために。
その夜、空き家へ戻った俺は、羊皮紙を広げた。
いつもの設備記録とは別に、新しい紙を用意する。
題名をどうするか迷った。
そして、こう書いた。
『レオン・アスター個人記録』
少し大げさだと思った。
でも、消さなかった。
その下に、今日のことを書く。
査察を受けた。
リベル村での復旧継続が認められた。
セリアは神殿に戻らない意思を記録された。
ラウル査察官から、自分の価値を守れと警告された。
最後に、少し迷ってから書き加えた。
『俺は、今のところリベル村に残りたい。
ここで直すべきものがある。
そして、俺自身もまだ直りきっていない。』
筆を置くと、胸の中が少し軽くなった。
記録は、装備や結界だけのためにあるのではない。
自分を見失わないためにも、必要なのかもしれない。
翌朝。
査察官たちは村を出る準備をしていた。
ラウル査察官は村長と正式な挨拶を交わし、ミリア監査員はニコルに報告書の書式を渡した。ニコルは緊張しながら、それを宝物のように抱えている。
オルデン師は、出発前にセリアの前へ立った。
セリアは少し身構えたが、逃げなかった。
「セリア・ルミナス」
「はい」
「昨日の治療補助は、丁寧だった」
「……ありがとうございます」
「神殿記録と現状の差について、私は照会をかける」
セリアの表情が少し強張る。
オルデン師は続けた。
「だが、私は見たものをそのまま報告する。あなたが暴走しておらず、村で安定して治療を行っていたこと。本人が帰還を望んでいないこと」
セリアは目を見開いた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。記録するだけだ」
そう言いながら、彼は少しだけ声を和らげた。
「治療は、力の大きさではない。続けなさい」
それだけ言って、彼は馬車へ向かった。
セリアはしばらくその背中を見ていた。
やがて、小さく呟く。
「続けなさい、って」
「はい」
「神殿に近い人から、初めて言われました」
彼女の目に、また涙が浮かぶ。
でも、昨日までのような痛みだけの涙ではなかった。
ミリア監査員は俺に書式を一枚渡した。
「月次報告の形式です。難しければ、最初の一回は簡略で構いません」
「ありがとうございます」
「正直に言うと、あなたの鑑定能力には興味があります」
彼女は淡々と言った。
「ただ、今は村の復旧を優先すべきという査察官の判断に同意します。報告書は丁寧に書いてください。雑だと、追加調査の口実になります」
「気をつけます」
「字が読めれば多少下手でも構いません。数字と日付を忘れないように」
実務的な助言だった。
ありがたい。
最後にラウル査察官が俺の前へ来た。
「レオン・アスター」
「はい」
「昨日の話を忘れるな」
「忘れません」
「ならいい」
彼はそれだけ言って馬車に乗り込んだ。
二台の馬車が村を出ていく。
村人たちは街道の先へ消えるまで見送っていた。
やがて、トマが大きく息を吐く。
「帰ったな」
「はい」
「終わったか?」
村長が静かに首を振った。
「始まったのだろうな」
誰も反論しなかった。
王都は、この村を知った。
査察官たちは、報告書を持ち帰る。
そこにはリベル村の復旧、セリアの治療補助、俺の鑑定能力が記されている。
静かな村の日々は、もう完全には戻らないかもしれない。
でも、恐怖だけではなかった。
村は査察を乗り越えた。
セリアは自分の意思を言えた。
俺は自分の価値を守る必要を知った。
昨日より、ましだ。
確かに。
「さて」
村長が杖を鳴らした。
「今日は水車の記録と、結界の巡回じゃな」
トマが笑う。
「休む暇なしかよ」
「村は動いておるからな」
セリアが治療所の方を見る。
「私は、昨日の記録の続きを書きます。それから、傷の手当てを」
俺も頷いた。
「俺は中枢室の確認と、月次報告の準備をします」
「その前に朝飯だ」
トマが言った。
「全員、まず飯。先生もセリアも。これは村の決定だ」
村人たちが笑う。
村長も頷く。
「異議なし」
セリアがこちらを見る。
「村の決定だそうです」
「従います」
俺たちは井戸のそばへ向かった。
朝の水は澄んでいた。
水車はゆっくり回り始めている。
結界は薄い光で村を包んでいる。
壊れた村は、今日も直り続ける。
そして遠く王都では、やがて一枚の報告書が机に置かれることになる。
そこには、こう記されている。
――辺境村リベルにて、古代防衛結界の一部再稼働を確認。
――治療補助者セリア・ルミナス、低位浄化を安定行使。
――鑑定士レオン・アスター、復旧作業において中心的役割を果たす。
――追加調査の価値あり。
その報告書が、次の波を呼ぶ。
王都の防衛局。
冒険者ギルド。
神殿。
そして、レオンを追放した勇者パーティー。
いくつもの視線が、リベル村へ向き始めていた。
けれど今はまだ、朝食の湯気が立っている。
黒パンと豆の煮込み。
井戸水で薄めた山羊乳。
村人たちの笑い声。
俺は木椀を受け取り、セリアとトマと村長の隣に座った。
「いただきます」
そう言うと、セリアが小さく笑った。
「はい。ちゃんと食べてくださいね」
「分かっています」
「記録しますよ」
「それは困ります」
トマが吹き出し、村長が肩を揺らして笑った。
王都が来る。
新しい問題も来る。
たぶん、厄介なことも増える。
でも、この朝だけは確かに穏やかだった。
俺は黒パンをかじりながら、井戸の水音を聞いた。
自分がどこにいるのか。
その答えは、もう前よりずっとはっきりしていた。
俺は今、リベル村にいる。
勇者パーティーの荷物持ちではなく。
鑑定しかできない無能でもなく。
壊れたものを、ここで少しずつ直している。
それが今の俺だ。




