表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

153/173

第153話 旧水量板の施工者痕

 ロッサ家の名が、旧水量板へ繋がった。


 その事実は、トマにとって思っていた以上に重かったらしい。


 朝の中央井戸では、いつものように記録が進んだ。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。ロッサ系施工者痕照合度上昇後、継続異常なし」


 ニコルが読み上げると、トマは井戸の水面を見ながら、少しだけ黙った。


「……なあ、ニコル」


「はい」


「俺が水量板を触らなかったのって、そんなに大きかったのか?」


 ニコルは、すぐには答えなかった。


 記録板を閉じ、トマの方を見る。


「大きかったと思います」


「でも、最初はただ怒られたくなかっただけだぞ」


「それでもです」


 ニコルは静かに言った。


「理由が立派だったかどうかより、結果として残ったものがあります。水量板を動かしていたら、裏の金属粉も、欠けた施工者痕も、今ほど残っていなかったかもしれません」


 トマは照れたように頭をかいた。


「……なんか、褒められると落ち着かない」


「記録しますか」


「するな」


「村内記録なら」


「するなって」


 少しだけ笑いが起きた。


 だが、トマの表情はすぐ真剣に戻った。


 旧水量板。


 最初は、ただの古い設備だった。


 水路の水量を測る板。


 動かせるように見えるから、触りたくなる。

 ずれているように見えるから、直したくなる。

 見やすくしたいから、持ち上げたくなる。


 けれど、触らなかった。


 そのおかげで、裏面に残った粉と傷が、黒薔薇工房、ロッサ家、外縁杭へと繋がっていった。


 今日、その旧水量板を再確認する。


 ただし、また同じ合言葉だ。


 動かさない。

 外さない。

 押さえない。

 見えにくいまま見る。


 旧水路へ向かう時、トマは水路班の若者たちを集めた。


「今日は、水量板裏の施工者痕をもう一回見る」


 若者の一人が頷く。


「はい」


「でも、板は動かさない。押さえない。傾けない。水をかけて見やすくするのもなし」


「はい」


 別の若者が少し不安そうに聞く。


「でも、見えない時はどうします?」


 トマは一瞬だけ考えた。


 そして、昨日まで誰かから聞いた言葉を、自分の言葉として口にした。


「見えにくいまま見ろ」


 若者たちが黙る。


 トマは続けた。


「見やすくするために動かしたら、見たかったものを壊すかもしれない。見えないなら、“見えない”って記録する。分かったふりをしない」


 副記録係が、そのまま書く。


『トマ発言:見えにくいまま見ろ。見えないなら、見えないと記録する』


 トマが気づいて顔をしかめた。


「それ、書くのか」


 副記録係は真面目に頷いた。


「班の方針なので」


「……ならいい」


 少し前なら、照れ隠しで止めていただろう。


 でも今日は止めなかった。


 旧水路は静かだった。


 水は浅く流れ、下流の石陰に黒粒子が微かに沈んでいる。青土封じ札は二枚とも安定。水量板は、古い木と金属でできた板が水路脇に斜めに固定されている。


 何度見ても、動かしたくなる形をしていた。


 少し傾いている。

 少し浮いているように見える。

 板の裏に、まだ何か隠れていそうに見える。


 だが、動かさない。


 ダリオさんは旧水路の縁にしゃがみ、反射板を取り出した。


 俺は鑑定針を準備する。


 ニコルは少し離れた乾いた場所で記録板を構えた。


 セリアは青根布を一枚だけ持って立っている。水路には入れない。水路脇の土へ置くためのものだ。


 リーゼさんは少し離れて、周囲の安全を見ていた。


 村長は通信札で広間から参加している。


 ダリオさんが言う。


「確認する。板は動かさない」


 トマが即座に返す。


「水量板、未操作」


「押さえない」


「未押さえ」


「傾けない」


「未傾け」


「水をかけない」


「未加水」


 ダリオさんが一瞬止まった。


「未加水って言い方、いるか?」


 ニコルが真面目に言う。


「分かりやすいので記録します」


 トマが少し得意そうにした。


「ほら、採用された」


「調子に乗るな」


「止まった」


 そのやり取りで、現場の空気が少しだけ柔らかくなった。


 しかし作業は慎重だった。


 反射板を使い、板の下へ光を入れる。


 直接触れない。


 細い鑑定針も、板の表面から指一本ぶん離したまま。


 水量板の裏面は、ほんの一部しか見えない。


 そこに、欠けた印がある。


 棘のような小さな刻み。

 曲がった線。

 削れた点。

 そして、昨日中枢室がロッサ系施工者痕との照合度上昇を示した部分。


 俺は息を整えた。


「鑑定します」


 表示が浮かぶまで、いつもより時間がかかった。


 水の揺れがある。

 木の摩耗がある。

 金属粉の残滓が弱い。


 焦ると、別の反応まで拾ってしまう。


 だから、待つ。


 見えにくいまま見る。


《旧水量板裏面》

《水流変化検知補助印:残存》

《後世命令補助印:黒薔薇工房系》

《施工者痕:欠損》

《ロッサ系技師印:部分照合》

《照合候補:オルド系外縁施工記録/ロッサ系補助印工法》

《現状態:低位安定》

《操作非推奨》


 俺は読み上げた。


「水流変化検知補助印、残存。後世命令補助印、黒薔薇工房系。施工者痕は欠損。ロッサ系技師印、部分照合。照合候補、オルド系外縁施工記録、ロッサ系補助印工法。現状態、低位安定。操作非推奨」


 トマは黙っていた。


 ニコルの筆が走る音だけが聞こえる。


 ダリオさんが低く言った。


「出たな」


「はい」


 俺は頷いた。


「完全断定ではありませんが、ロッサ系技師印との部分照合です」


 セリアが静かに言う。


「オルド・ロッサの外縁施工記録とも関係する可能性があるんですね」


「はい」


 トマは、ようやく息を吐いた。


「俺が触らなかったから、まだ残ってたんだな」


 今度は、誰もすぐに言葉を挟まなかった。


 トマ自身の口から出た。


 それが大事だった。


 ダリオさんが少しだけ笑った。


「そうだな」


 トマが照れたように顔を背ける。


「いや、別に偉そうに言ったんじゃなくて」


「分かってる」


「ほんとに?」


「半分くらい」


「そこは全部分かれよ」


 ニコルが小さく笑った。


 しかし、そのすぐ後だった。


 旧水路上流の担当が声を上げた。


「上流側、水の色……少し変です」


 全員の視線がそちらへ向く。


 水そのものが濁ったわけではない。


 だが、水路の上流側、石の影に、薄い灰青のにじみが見えた。


 ほんの少し。


 目を離せば見落とす程度。


 けれど、セリアが瞬時に顔を引き締めた。


「灰青反応です」


 トマが即座に指示する。


「水量板担当、その場維持。上流担当、近づきすぎるな。採水補助、瓶を準備。でも水に触れるな。副記録、時刻」


 若者たちが一瞬緊張したが、動きは乱れなかった。


 訓練の成果だった。


 ダリオさんが低く言う。


「旧水路上流に灰青か」


 俺は鑑定針を上流へ向ける。


《旧水路上流》

《灰青反応:微弱》

《水腐れ系反応:疑い》

《残存命令核反応:低位連動》

《拡大:現時点なし》

《推奨:水中非介入/水路脇土壌緩衝》


 背筋が冷えた。


「灰青反応、微弱。水腐れ系反応疑い。残存命令核反応、低位連動。拡大は現時点なし。推奨、水中非介入、水路脇土壌緩衝」


 セリアはすぐ青根布を見た。


「水には入れません。水路脇の土へ置きます」


 トマが頷く。


「どこだ?」


「灰青が見える石の少し下流、岸の土です。水に触れない位置」


「了解。足場、空けろ」


 リーゼさんがすっと動き、セリアの前に立つ。


「私が先に立つ」


「ありがとうございます」


 セリアは水路脇の土に、青根布の小片を置いた。


 布は水に触れない。


 土の表面にそっと乗る。


 その瞬間、青根布の端が薄く灰色を帯びた。


 だが、広がらない。


 セリアは膝をつき、土に手を近づける。


「土壌保持、低下なし。青根布、灰青反応を一時留置。水中への戻りなし」


 ニコルが記録する。


 トマは上流担当へ声をかける。


「灰青、増えてるか?」


「増えていません。少し薄くなっています」


「黒粒子は?」


「下流、微弱のまま」


「水量板?」


「未操作」


「よし」


 トマは深く息を吐いた。


「よし、って言っていいのか分からないけど、今はよし」


 ダリオさんが頷く。


「今はよしでいい。広がってない」


 しばらく観察を続けた。


 灰青のにじみは、少しずつ薄くなった。


 青根布の灰色は残ったが、拡大しない。


 旧水路の流れは変わらない。


 中央井戸からも異常なしの報告が来た。

 薬草予定地の傷洗い草にも、強い反応は出ていない。


 村長の声が通信札から届く。


『追加作業はするな。観察継続後、撤収』


「はい」


 俺は答えた。


 トマも頷く。


「水路班、今日はここまでだ。見たいからって上流を追うな」


 若者の一人が少し悔しそうに言った。


「でも、原因が……」


「追うな」


 トマの声は強かった。


「今追ったら、何を踏むか分からない。見つけた場所を記録する。今日はそれで十分」


 ダリオさんが小さく笑った。


「言えるようになったな」


 トマは少しだけ肩をすくめた。


「言われ続けたからな」


 現場を撤収する前に、使用済み青根布を処理した。


 水には戻さない。

 土へ埋めない。

 焼かない。


 乾いた隔離箱へ入れる。


 セリアは箱の蓋を閉じながら言った。


「使用済み青根布一枚。旧水路上流灰青反応を一時留置。再利用不可。乾燥隔離保管」


 ニコルがそのまま書いた。


 トマが箱を見て言う。


「布にも仕事の記録があるんだな」


「あります」


 セリアは頷く。


「受けたものは、休ませます」


 広間へ戻ると、全員の報告がそろった。


 水量板裏面の再確認。


 ロッサ系技師印との部分照合。

 オルド系外縁施工記録との照合候補。

 そして、旧水路上流の微弱灰青反応。


 村長は記録を読み、険しい顔になった。


「旧水路上流に水腐れ系反応か」


「疑いです」


 俺は慎重に言った。


「微弱で、拡大はありません。青根布で一時留置できました。ただ、中枢室は“水腐れ系反応疑い”と表示しました」


 セリアが続ける。


「水中へは介入していません。水路脇の土で緩衝しました。土壌保持の低下はありません」


 ダリオさんは地図へ新しい印をつける。


「命令核分離前、旧水路緩衝線が必須だな」


 ニコルが新しい条件欄に書く。


『旧水路緩衝線:必須候補』


 トマが顔をしかめた。


「また条件増えたな」


 ダリオさんはすぐに返した。


「増えたんじゃない。見えてなかった条件が見えた」


「それ、最近の決まり文句だな」


「何度でも言う。生き残るためだ」


 トマは反論しなかった。


 その代わり、水路班の記録を見て言った。


「旧水路緩衝線、俺たちで見る。水に入れない。土で受ける。青根布は使い捨て。見つけたからって追わない」


 ニコルがそれを記録する。


「水路班方針として残します」


「残してくれ」


 今度は、トマが自分から言った。


 広間に少しだけ驚きが広がった。


 トマは照れくさそうに顔をそらした。


「……大事だから」


 セリアが小さく微笑んだ。


「はい。大事です」


 王都への報告書は、二部に分けて作られた。


 一つは責任照合。


『旧水量板裏面の施工者痕再確認。

ロッサ系技師印との部分照合。オルド系外縁施工記録およびロッサ系補助印工法との照合候補。

完全断定ではないが、照合度上昇。

水量板は未操作。押さえ、傾け、水掛け等なし。非接触確認』


 もう一つは安全報告。


『旧水路上流に微弱灰青反応を確認。水腐れ系反応疑い。拡大なし。

水中介入せず、水路脇土壌へ青根布を置き、一時留置。土壌保持低下なし。青根布は再利用不可として乾燥隔離保管。

命令核分離前、旧水路緩衝線の設置が必要と判断』


 ニコルは最後に書き足した。


『証拠採取より外縁支えと水路安定を優先』


 村長はそれを読んで頷いた。


「よい」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『旧水量板裏面の施工者痕再確認。

水量板は未操作、未押さえ、未傾け、未加水。非接触確認。

結果:水流変化検知補助印残存、後世命令補助印は黒薔薇工房系、施工者痕欠損、ロッサ系技師印と部分照合。オルド系外縁施工記録、ロッサ系補助印工法との照合候補。現状態は低位安定、操作非推奨。

トマ発言:“俺が触らなかったから、まだ残ってたんだな”。

その後、旧水路上流に微弱灰青反応。水腐れ系反応疑い。残存命令核反応と低位連動。拡大なし。

青根布を水路脇土壌へ置き、一時留置。水中介入なし。土壌保持低下なし。使用済み青根布は乾燥隔離保管』


 最後に書く。


『水量板を触らなかったことが、また意味を持った。

裏面の欠けた施工者痕は、ロッサ系技師印へ近づいた。

だが、その直後に旧水路上流で灰青の滲みが見えた。

証拠を追えば、安全が揺れる。

安全だけを見れば、責任の線が消える。

だから分ける。

責任照合と安全報告。

水量板は触らない。

灰青は水に戻さない。

青根布は使い捨てる。

見つけたからといって追わない。

今日、トマはその言葉を自分で言った。』


 地上では、水車が回っている。


 旧水路の流れも、今は静かだ。


 けれど、その上流に微かな灰青の滲みが出た。


 命令核分離作戦の前に、旧水路にも新しい守りが必要になる。


 また本番は遠くなった。


 しかし、足元は少しずつ見えている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ