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第154話 旧水路上流、灰青の滲み

 旧水路上流に出た灰青の滲みは、翌朝には見えなくなっていた。


 けれど、消えたからといって、なかったことにはできない。


 旧水路班は朝から上流側に集まっていた。


 トマは水路の縁にしゃがみ、昨日セリアが青根布を置いた場所を見ている。


 布はもうない。

 使用済みとして乾燥隔離箱へ移された。


 だが、土の表面には、ほんのわずかに色の違う部分が残っていた。


 灰色ではない。


 青でもない。


 ただ、他の土より少しだけ締まって見える。


「……ここで受けたんだよな」


 トマが呟く。


 隣にいた若者が頷いた。


「はい。昨日、青根布を置いた場所です」


「水には入れてない」


「入れてません」


「土も掘ってない」


「掘ってません」


「水量板は?」


「未操作です」


「よし」


 トマはそこでようやく立ち上がった。


 以前なら、こういう確認を誰かに言われていた。


 今は自分で言う。


 それが旧水路班の空気を変えていた。


 村長宅の広間では、朝の記録が終わっていた。


 ニコルが中央井戸の記録を読み上げる。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。旧水路上流灰青反応確認後、継続異常なし」


 村長は頷いた。


「井戸は安定か」


「はい」


「なら、今日は旧水路を見る」


 ダリオさんが机の上に地図を広げる。


 旧水路の下流。

 水量板。

 昨日、灰青反応が出た上流の石陰。

 青土封じ札の位置。

 そして、新しく候補に上がった「旧水路緩衝線」。


 トマが広間に入ってくると、すぐに地図を見た。


「緩衝線って、どこに置くんだ?」


 セリアが薬草記録を持って答える。


「水路の中ではなく、水路脇の土です。昨日の反応が出た上流側から、下流の青土封じ札までの間に、浅い土壌保持の線を作ります」


「線ってことは、布を並べるのか?」


「布だけではありません。青根布は反応が出た時の一時留置用です。普段から置きっぱなしにすると、土も布も疲れます。緩衝線は、薬草土壌、青土、乾いた根繊維、観察札を組み合わせます」


 トマは一度で理解しようとして、眉間に皺を寄せた。


「つまり?」


「普段は土で受ける準備だけしておく。異常が出たら青根布を足す」


「ああ、それなら分かる」


 ダリオさんが頷いた。


「青根布を最初から全部並べるな。布は最後の受け止めだ。まず土の逃げ道を作る」


 リーゼさんが壁際から言った。


「逃げ道は、撤退路と同じだな」


 セリアが頷く。


「はい。水腐れ反応を深い土や水へ入れず、浅い土壌の外側へ逃がして、弱まるのを待つ道です」


 ニコルは記録する。


『旧水路緩衝線:水中ではなく水路脇土壌に設置。普段は土壌保持線、異常時に青根布追加。目的は水腐れ系反応を水へ戻さず、深土へ入れず、浅層で勢いを散らすこと』


 トマがそれを見て、小さく息を吐いた。


「また大事な線が増えたな」


「はい」


 ニコルが答える。


「でも、昨日見えたから作れます」


 トマは頷いた。


「見えたから、か」


 その言葉は、最近のリベル村の合言葉みたいになっていた。


 見えたから記録する。


 見えたから止まる。


 見えたから、準備できる。


 午前中、旧水路上流で緩衝線作りが始まった。


 もちろん、土を大きく掘るわけではない。


 水路脇の表面を整え、乾いた根繊維を薄く敷き、薬草予定地の安定土をほんの少しだけ混ぜる。


 セリアは土を手に取る前に、必ず薬草予定地の記録札を確認した。


「今日使う土は、これだけです」


 トマが覗き込む。


「少なくないか?」


「少ないです」


「足りるのか?」


「足りる量しか使いません。足りないからといって薬草予定地を弱らせたら、本末転倒です」


 ダリオさんが横から言う。


「いい判断だ」


 トマはうなずいた。


「なるほど。守るための土を取りすぎて、元を傷つけたら意味ないもんな」


「そうです」


 セリアは少し嬉しそうに答えた。


 トマが理解してくれる。


 それだけで、作業は進めやすくなる。


 若者の一人が青根布の箱を持ってきた。


「セリアさん、布はどこに置きますか?」


「今は置きません」


「でも、昨日は灰青が出た場所です」


「だからこそです」


 セリアは丁寧に答えた。


「青根布は、反応が出てから使います。先に置いて疲れさせません。今日は緩衝線の土を作るだけです」


 トマが若者に言った。


「布は切り札。最初から切るな」


 若者が頷く。


「切り札」


 ダリオさんが少し笑う。


「分かりやすいが、調子に乗るなよ。切り札でも万能じゃない」


 トマはすぐ返す。


「万能視しない」


「よし」


 ニコルが記録板に書く。


『青根布は切り札。ただし万能視しない』


 トマが顔をしかめる。


「それ書くのか」


「班に伝えるのに便利です」


「……ならいい」


 作業は地味だった。


 土を薄く均す。

 根繊維を置く。

 青土を混ぜた細い札を立てる。

 水に触れないよう、石の上ではなく土の上に置く。

 流れの近くには置きすぎない。


 見た目には、ただ水路脇に細い土の帯ができただけだ。


 だが、中枢室へ繋いだ携帯札には、変化が出ていた。


《旧水路緩衝線:形成中》

《土壌保持:微弱安定》

《水中流入:なし》

《水腐れ反応:現時点なし》

《青根布:未使用》


 ニコルが読み上げる。


「旧水路緩衝線、形成中。土壌保持、微弱安定。水中流入なし。水腐れ反応、現時点なし。青根布、未使用」


 トマが頷く。


「未使用まで出るんだな」


「使っていないことが大事なので」


「分かるようになってきた。使ってない記録、偉い」


 ニコルは少し笑った。


「はい。使っていない記録も大事です」


 昼前、緩衝線の試験を行うことになった。


 試験といっても、灰青反応を出すわけではない。


 昨日使った青根布の隔離箱を、閉じたまま水路から離れた位置に置き、反応が出るかを見るだけだ。


 水路へ近づけない。


 土へ直接触れさせない。


 隔離箱越しに、ほんの弱い痕跡を見る。


 トマが箱を見て言った。


「危ない布、箱に入ってても緊張するな」


 セリアが頷く。


「危ないというより、仕事を終えた布です。もう使いません」


「仕事を終えた布」


「はい」


 リーゼさんが短く言う。


「退役布だな」


 トマが思わず笑った。


「リーゼがそういうこと言うの珍しいな」


「言い方は大事だと聞いた」


 ニコルが筆を構える。


 リーゼさんが先に言った。


「書くな」


「はい」


 緊張の中に、ほんの少しだけ笑いが混じる。


 それでも、全員の目は旧水路から離れなかった。


 隔離箱を定位置へ置く。


 しばらく何も起きない。


 土の帯も変わらない。


 水も濁らない。


 青土封じ札も安定。


 やがて、携帯札に表示が出た。


《旧水路緩衝線:弱反応受容》

《水中流入:なし》

《土壌保持低下:なし》

《青根布追加:不要》


 セリアが息を吐いた。


「受けています。でも、水へ戻していません」


 トマがすぐ確認する。


「黒粒子は?」


「変化なし」


 若者が答える。


「水量板?」


「未操作」


「上流灰青?」


「見えません」


「よし」


 今回は、トマの「よし」に迷いはなかった。


 ダリオさんも頷いた。


「旧水路緩衝線、第一段階は成功だな」


「まだ第一段階です」


 セリアがすぐに言う。


「実際の灰青反応ではありません。隔離箱越しの弱反応です。水腐れ系反応が直接出た時に耐えられるかは、まだ分かりません」


「分かってる」


 ダリオさんは笑わずに頷いた。


「だから、第一段階だ」


 昼食は旧水路の少し離れた場所で取った。


 作業現場のすぐそばで食べるのは避けた。


 トマが握り飯をかじりながら言った。


「なんか、だんだん戦う話じゃなくて、畑仕事と水路仕事の話になってきたな」


 ダリオさんが豆の入った包みを開きながら言う。


「最初からそういう話だ」


「そうか?」


「水と土を守る話だ。派手な戦いより、畑仕事と水路仕事の方が本筋だろう」


 トマは少し考え、頷いた。


「確かに」


 セリアが笑った。


「薬草仕事も入れてください」


「もちろん」


 トマはすぐ言った。


「薬草仕事がないと、布がない」


「布だけではありません」


「青根緩衝帯」


「はい」


 ニコルが横で記録板を見ながら言った。


「井戸仕事、石仕事、薬草仕事、水路仕事。全部、黒石祠の外縁を支えています」


 トマがニコルを見る。


「今の、いいな」


「書きますか?」


「自分で言ったんだから書けよ」


 ニコルは少し照れながら書いた。


『井戸仕事、石仕事、薬草仕事、水路仕事。すべて外縁を支える』


 ダリオさんがそれを見て、珍しく何も茶化さなかった。


 午後、旧水路緩衝線の位置をさらに細かく記録した。


 どの石から何歩。

 水量板からどれくらい離れているか。

 青土封じ札との距離。

 水路脇の土の湿り。

 風の向き。

 日当たり。


 若者の一人が言った。


「ここまで細かく書くんですか?」


 ニコルが答える。


「次に同じ場所へ来る人が迷わないようにです」


「僕たちじゃなくても?」


「はい。明日の自分たちも、今日と同じように覚えているとは限りません」


 若者は少し驚いた顔をした。


「明日の自分たちも?」


「はい。記憶はずれます」


 トマが横から言った。


「俺はよくずれる」


「自信満々に言うことじゃないです」


「でも事実」


 若者たちが笑った。


 その笑いで、疲れが少し抜けた。


 しかし、作業終盤にまた小さな反応が出た。


 上流側、昨日と同じ石陰。


 今度は目に見える灰青ではない。


 ただ、水面の影が一瞬だけ鈍くなった。


 トマが即座に反応した。


「上流担当、報告」


「水面影、鈍化。灰青は見えません」


「副記録、時刻」


「記録中」


「セリアさん」


 セリアは緩衝線を見る。


「土壌保持、微弱揺れ。青根布はまだ不要です」


 ダリオさんが携帯札を見る。


《旧水路上流:水腐れ系微反応》

《旧水路緩衝線:受容中》

《水中拡大:なし》

《青根布追加:不要》

《観察継続推奨》


「緩衝線が受けてる」


 ダリオさんが低く言った。


「青根布なしで?」


 トマが聞く。


「ああ。土の線だけで、今の微反応は受けている」


 セリアは緊張したまま頷いた。


「ただし、反応が強くなれば布が必要です。今は追加しません」


「分かった」


 トマは水路班へ言った。


「誰も動くな。見るだけ。追わない」


 若者たちは頷いた。


 数十呼吸ほどで、水面の影は戻った。


 緩衝線の土も落ち着く。


 何も起きなかった。


 だが、何も起こさずに済んだ。


 それは大きかった。


 夕方、広間で報告会が開かれた。


 村長はすべての記録を読み、ゆっくり頷いた。


「旧水路緩衝線、第一段階は成功か」


 セリアが答える。


「はい。ただし、まだ小規模です。実戦条件ではありません」


「実戦条件には何が要る」


「上流、下流、青土封じ札、水量板の四点を同時に見る体制。青根布の予備。使用済み布の隔離箱。薬草予定地の疲労確認。水路班の撤退手順です」


 トマがすぐに言う。


「撤退手順、作る」


 村長が頷く。


「よい」


 ニコルは条件表に新しい項目を追加した。


『命令核分離前条件:旧水路緩衝線設置。水路班撤退手順。青根布予備と隔離箱。薬草予定地疲労確認』


 トマがそれを見て、少し苦い顔をした。


「また本番、遠くなったな」


 ダリオさんが言う。


「遠くなったんじゃない」


「見えてなかった条件が見えた、だろ」


 トマが先に言った。


 ダリオさんは少し笑った。


「分かってるならいい」


 王都への報告書は、慎重にまとめられた。


『旧水路上流に確認された灰青反応を受け、旧水路緩衝線第一段階を設置。

水路内ではなく、水路脇浅層土壌に形成。薬草予定地安定土、乾燥根繊維、青土封じ札補助を使用。青根布は常設せず、異常時追加。

隔離箱越しの弱反応試験では、水中流入なし、土壌保持低下なし、青根布追加不要。

作業終盤、上流に水腐れ系微反応。旧水路緩衝線が受容。水中拡大なし。青根布追加不要。

現段階で第一段階成功。ただし命令核分離作業前には、撤退手順、青根布予備、隔離箱、薬草予定地疲労確認が必須』


 ニコルは最後に、トマの班方針も添えた。


『水路班方針:誰も動くな。見るだけ。追わない』


 トマはそれを見て、少し照れた。


「また俺の言葉、王都行きか」


「必要です」


 ニコルが答えた。


「現場の合図なので」


 セリアも頷いた。


「とても大事です。追わない、という判断があったから、緩衝線の反応を見られました」


 トマは頭をかいた。


「褒められるの、まだ慣れないな」


 ダリオさんが言う。


「慣れすぎるなよ」


「半分くらいにしとく」


「それでいい」


 夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。


『旧水路緩衝線第一段階設置。

水路脇浅層土壌に、薬草予定地安定土、乾燥根繊維、青土封じ札補助を用いて形成。水中には入れず。青根布は常設せず、異常時追加方針。

隔離箱越しの弱反応試験:旧水路緩衝線が弱反応を受容。水中流入なし。土壌保持低下なし。青根布追加不要。

作業終盤、上流の水面影に鈍化。水腐れ系微反応と表示。緩衝線が受容し、水中拡大なし。青根布追加不要。

旧水路緩衝線は、第一段階成功。ただし実戦条件には撤退手順、青根布予備、隔離箱、薬草予定地疲労確認が必要』


 最後に書く。


『灰青の滲みは、今日もかすかに旧水路上流へ顔を出した。

だが、水へ広がらなかった。

土の線が受けた。

青根布を使わずに済んだ。

何も起こらなかったのではない。

起こりかけたものを、浅い土が受け止めた。

トマは、追わないと決めた。

セリアは、布を急がなかった。

ダリオは、第一段階とだけ言った。

ニコルは、使わなかった布まで記録した。

こうして、本番ではない一日が、本番を生き残るための条件になっていく。』


 地上では、水車が回っている。


 旧水路の水も、今は静かだ。


 その脇に、目立たない細い土の線ができた。


 誰かが見れば、ただの土だと思うだろう。


 けれどリベル村にとって、それは水腐れの核を外へ出さないための、最初の小さな堤だった。

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