第151話 王都から届いた黒薔薇工房名簿
青根緩衝帯の運用条件が定まった翌朝、リベル村の空は薄く曇っていた。
雨が降るほどではない。
けれど、日差しは弱く、山の稜線も少しぼやけている。
中央井戸の水面には、灰色の空が映っていた。
ニコルは水温を測り、いつものように記録板へ書き込む。
「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。青根緩衝帯運用条件登録後、継続異常なし」
トマが横で水面を覗き込む。
「継続異常なし。よし」
「その言い方、本当に気に入っていますね」
「だって安心するだろ。異常が続いてないってことだから」
「はい」
ニコルは素直に頷いた。
その時、村の入口の方から馬の音がした。
早馬ではない。
しかし、普通の荷馬車でもない。
蹄の音が一定で、村へ近づくにつれて、広場にいた者たちの視線がそちらへ向いた。
行政庁の使者だった。
赤札はついていない。
だが、封筒は厚い。
行政庁、防衛局、外部監査部。
さらに、技師組合再審査室の印も押されている。
ニコルが記録板を抱え直した。
「王都からです」
トマが低く言う。
「今度は何だろうな」
「黒薔薇工房関係でしょう」
「当たりだろうけど、当たってほしくないやつだな」
使者は村長宅へ通された。
広間には、すぐにいつもの顔ぶれが集まった。
村長。
俺。
ダリオさん。
セリア。
リーゼさん。
トマ。
ニコル。
机の上には、青根緩衝帯記録、外縁杭地図、王都正式所見の写しが並んでいる。
そこへ、新しい封書が置かれた。
村長は封蝋を確認し、俺に目で合図する。
俺は封を切った。
中には、数枚の文書と、一冊分に近い名簿写しが入っていた。
表題はこうだった。
『黒薔薇工房関係者名簿・提出写し』
広間の空気が少し沈んだ。
トマが椅子の背に手を置く。
「出してきたのか」
ダリオさんは腕を組んだまま、紙を見ている。
「全部かどうかは分からん」
ニコルがすぐ記録する。
『王都より黒薔薇工房関係者名簿提出写し到着。完全性未確認』
ダリオさんがそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
「いい書き出しだ」
「ありがとうございます」
「相手が出した紙を、そのまま信じるな」
「はい」
村長が言った。
「読め」
俺は最初の添え状を読み上げた。
『王都行政庁より。
ローゼン侯爵家に対する黒薔薇工房関係資料提出命令に基づき、同家より提出された関係者名簿の写しを送付する。
ただし、当該名簿には欠落、黒塗り、焼失扱いの項目が複数含まれる。
行政庁、防衛局、外部監査部は、提出内容の完全性について確認中である』
トマが顔をしかめる。
「黒塗り?」
ニコルが名簿の一枚を開いた。
確かに、いくつもの名前が墨で塗られていた。
役職だけ残っているもの。
姓だけ残っているもの。
完全に黒く塗られているもの。
欄外に「焼失」と書かれているもの。
見るだけで嫌な紙だった。
セリアが静かに言う。
「出したようで、隠している感じですね」
ダリオさんが頷く。
「貴族の紙だな」
トマが聞く。
「黒塗りって許されるのか?」
「許される場合もある。家の安全、個人情報、王都機密。理由をつければな」
「でも今回は?」
「理由書が要る」
ニコルがすぐ名簿の末尾を確認した。
「あります。黒塗り理由書。ただ……」
「ただ?」
「“家門保護のため”が多いです」
ダリオさんが鼻で笑った。
「便利な言葉だ」
リーゼさんが短く言う。
「隠すための布か」
「そうだな」
ダリオさんは名簿を一枚ずつめくった。
「だが、黒く塗りすぎると、逆に形が見えることもある」
ニコルがすぐ筆を構える。
「どういうことですか」
「塗った場所が、見せたくない場所だと分かる」
トマが「ああ」と頷いた。
「隠したせいで、そこが怪しいって分かるやつか」
「そういうことだ」
村長が言う。
「まず、読める名を拾え」
「はい」
ニコルは名簿を分類し始めた。
黒薔薇工房長。
副工房長。
水脈印設計係。
封印補助具管理係。
外部技術顧問。
外部技術顧問補佐。
金属資料保管係。
現地施工記録係。
いくつかは黒塗り。
いくつかは欠落。
いくつかは読める。
そして、その中に、一つの名があった。
ニコルの筆が止まる。
「……ありました」
ダリオさんが顔を上げた。
「何が」
ニコルは紙をこちらへ向けた。
そこには、こう書かれていた。
『カリム・ロッサ
黒薔薇工房外部技術顧問補佐
担当:旧水脈補助印照合、外部技師組合連絡』
広間が、完全に静まった。
トマがダリオさんを見る。
「カリム・ロッサって……」
「ああ」
ダリオさんの声は低い。
「俺の除名に立ち会った外部監査役だ」
ニコルは震えそうになる筆を、両手で支えた。
『カリム・ロッサ。黒薔薇工房外部技術顧問補佐。旧水脈補助印照合、外部技師組合連絡。ダリオ・ヴェント除名立会い外部監査役と同名』
トマが思わず言う。
「同名っていうか、同じ人じゃないのか?」
ダリオさんがすぐ返した。
「まだ断定するな」
「でも」
「断定するな」
その声は強かった。
トマは口を閉じる。
ダリオさんは紙を見たまま、ゆっくり言った。
「同名同姓の可能性は低い。肩書きから見ても、かなり近い。だが、まだ“同一人物の可能性が極めて高い”までだ」
ニコルがそのまま書き直す。
『同一人物の可能性高。断定は王都照合待ち』
セリアが静かに聞いた。
「ダリオさん、大丈夫ですか」
ダリオさんは、少しだけ笑おうとした。
だが、うまく笑えなかった。
「大丈夫ではないな」
広間がまた静かになる。
彼は続けた。
「ただ、倒れるほどでもない」
トマが小さく言う。
「座る?」
「座ってる」
「豆いる?」
「今はいらん」
「豆より重いの来たな」
ダリオさんは今度こそ少しだけ笑った。
「そうだな。豆より重い」
その小さな笑いで、全員が少し息をついた。
ニコルは名簿をさらにめくる。
カリム・ロッサの欄には補足があった。
『外部技師組合との照会、旧施工資料の分類、黒薔薇工房資料棚管理補助』
ダリオさんの表情が変わる。
「資料棚管理補助……」
ニコルが顔を上げる。
「ダリオさんが見た資料棚と関係しますか」
「可能性は高い」
ダリオさんは、少しだけ遠くを見る目になった。
「俺が黒薔薇工房らしき印を見た資料棚。上役に報告したあと、閲覧禁止になった。そこにこの男が関わっていたなら……」
トマが拳を握った。
だが、机は叩かない。
「怒るけど、記録する」
自分に言い聞かせるように言った。
ニコルは頷く。
「はい。怒りは村内記録に。王都へは照合事項として」
ダリオさんは名簿を受け取り、カリムの名をじっと見た。
そして、ぽつりと言った。
「名前が紙に戻ったな」
その声は、誰かを責めるものではなかった。
嬉しそうでもない。
ただ、消されたものが見つかった時の、重い実感があった。
セリアが小さく言う。
「戻った……」
「俺の記憶の中だけにいた名前が、紙に戻った」
ダリオさんは名簿を机へ置いた。
「これで、俺の昔話ではなくなった」
ニコルはその言葉を、ゆっくり記録した。
『ダリオ発言:名前が紙に戻った。これで、俺の昔話ではなくなった』
今度は誰も止めなかった。
名簿の確認は続いた。
黒塗りが多い。
焼失扱いも多い。
だが、読める名前の中に、もう一つ気になるものがあった。
『オルド・ロッサ
黒薔薇工房水脈封印補助主任
担当:黒石災害封じ祠関連外縁施工記録』
セリアが息を呑んだ。
「黒石災害封じ祠関連……」
トマが低く言う。
「ロッサ、また出た」
ダリオさんは目を細めた。
「カリムの親族かもしれないな」
「オルド・ロッサ」
ニコルが書く。
『オルド・ロッサ。水脈封印補助主任。黒石災害封じ祠関連外縁施工記録担当』
俺は名簿の補足欄を見る。
オルドの欄は一部が欠けている。
だが、かろうじて読める行がある。
『外縁杭調整』
『旧薬草緩衝帯照合』
『井戸縁反応印確認』
『石列冷却逸らし記録』
それを読み上げた瞬間、広間の空気が変わった。
ハルマ村の井戸。
北沢の石列。
ミードの薬草帯。
すべて、オルド・ロッサの担当欄に関係する言葉がある。
セリアが木札の写しを見た。
「旧薬草緩衝帯照合……」
ダリオさんが地図を引き寄せる。
「オルド・ロッサは、本来の外縁杭構造を知っていた可能性がある」
トマが言う。
「知ってて、黒薔薇工房が上書きした?」
「そこはまだ分からん」
ダリオさんは慎重に言った。
「オルドが本来構造を守ろうとしたのか、改変したのか。名簿だけでは判断できない」
ニコルが頷く。
「担当欄は責任ではなく、関与の証拠候補ですね」
「そうだ」
リーゼさんが短く言う。
「ロッサ家が鍵か」
「その可能性は高い」
俺は名簿を見ながら答えた。
「ローゼン侯爵家は保管者、あるいは管理者。ロッサ家は実務技師家系。そういう構図が見え始めています」
セリアが言う。
「でも、責任を分けすぎると、誰も責任を取らなくなりませんか」
その問いは鋭かった。
ダリオさんが頷く。
「なる。貴族の紙はそこが得意だ。ローゼンは“ロッサがやった”と言い、ロッサがいなければ“旧技師の責任”と言い、技師組合は“当時の規定”と言う」
トマが顔をしかめる。
「最低だな」
「だから、ニコルの出番だ」
ニコルが驚いて顔を上げる。
「僕ですか」
「ああ。責任線を分けろ。ただし、安全線をぶらすな」
ニコルは少し緊張した顔で、新しい紙を出した。
『責任線整理』
一、ローゼン侯爵家。
資料保管、提出、現地持ち込み、管理責任。
二、黒薔薇工房。
旧水脈補助印、命令補助線、外縁杭上書きの実務組織。
三、ロッサ家。
黒薔薇工房の実務技師家系の可能性。カリム・ロッサ、オルド・ロッサ。
四、王都技師組合。
ダリオ除名処分、黒薔薇工房資料棚閲覧禁止、没収手控えの管理。
五、現地安全。
責任追及の進行に関わらず、リベル村と周辺村が管理継続。
ニコルは最後の項目に赤線を引いた。
『責任線が複雑化しても、安全線をぶらさない』
トマがそれを読んで、深く頷いた。
「いいな、それ」
セリアも頷く。
「責任の話で揉めている間に、水や土が悪くなったら意味がありません」
「はい」
ニコルの声は少し震えていたが、目はしっかりしていた。
「誰が悪いかを追う紙と、今どこを守るかの紙は分けます」
村長が静かに言った。
「よい」
その一言で、ニコルの表情が少し和らいだ。
王都への返書を作る前に、名簿を中枢室へ登録することになった。
ただし、全名簿ではない。
まずは読み取れたロッサ家関係二名のみ。
カリム・ロッサ。
オルド・ロッサ。
セリアは青根布を用意し、リーゼさんは手動閉鎖板近くへ立つ。
トマは旧水路から通信参加。
俺は登録文を読み上げた。
『黒薔薇工房関係者名簿提出写し。カリム・ロッサ。黒薔薇工房外部技術顧問補佐。旧水脈補助印照合、外部技師組合連絡。ダリオ・ヴェント除名立会い外部監査役と同一人物可能性高。
オルド・ロッサ。水脈封印補助主任。黒石災害封じ祠関連外縁施工記録担当。外縁杭調整、旧薬草緩衝帯照合、井戸縁反応印確認、石列冷却逸らし記録の記載あり』
中枢室の光が一瞬だけ揺れた。
黒紫ではない。
青白い外縁線が、細く震える。
表示が出る。
《ロッサ系統名簿登録》
《黒薔薇工房施工痕:照合度上昇》
《旧水量板補助印:施工者痕照合度上昇》
《外縁杭三地点:ロッサ系外縁施工記録と照合可能》
《追加情報要求:オルド・ロッサ関連施工図》
《注意:責任線未確定》
トマの声が通信から飛ぶ。
『旧水量板も反応したのか?』
「はい。旧水量板補助印の施工者痕照合度が上がりました」
『ロッサ系か……』
トマの声は低かった。
水量板。
ずっと見張ってきた板。
その裏に残っていた欠けた施工者痕が、ロッサ家へ近づいた。
ダリオさんは表示を見て、深く息を吐いた。
「カリムだけじゃない。オルドも絡むか」
セリアが言う。
「オルド・ロッサは、本来構造を知っていた人かもしれません」
「知っていた。だから守ったのか、知っていたから利用できたのか」
ダリオさんの声は硬い。
「そこが分からない」
ニコルが表示を写しながら言った。
「責任線未確定、と出ています」
「そうだ。ここで決めつけると間違える」
村長が頷いた。
「王都へ求める。オルド・ロッサ関連施工図。カリム・ロッサの所属照合。技師組合除名記録。全部じゃ」
返書は長くなった。
だが、今は長くてもよかった。
『黒薔薇工房関係者名簿受領。
カリム・ロッサが黒薔薇工房外部技術顧問補佐として記載され、ダリオ・ヴェント除名立会い外部監査役と同一人物の可能性が高い。正式照合を求める。
オルド・ロッサが黒石災害封じ祠関連外縁施工記録担当として記載され、外縁杭、旧薬草緩衝帯、井戸縁反応印、石列冷却逸らし記録と関係する可能性がある。関連施工図の提出を求める。
中枢室登録により、黒薔薇工房施工痕、旧水量板補助印、外縁杭三地点との照合度上昇。
ただし責任線は未確定。現地安全管理は継続』
ニコルは最後に、自分で一文を加えた。
『責任線が複雑化しても、安全線をぶらさない』
村長はそれを見て頷いた。
「入れよ」
ダリオさんも言った。
「王都にも読ませろ」
トマが少し笑った。
「ニコルの言葉、王都行きだな」
ニコルは赤くなった。
「言葉というより、整理です」
「いい整理だよ」
セリアが静かに言う。
「私もそう思います」
ニコルはさらに赤くなったが、今度は否定しなかった。
夜、俺は個人記録を書いた。
『王都より黒薔薇工房関係者名簿提出写し到着。欠落、黒塗り、焼失扱い多数。
カリム・ロッサ:黒薔薇工房外部技術顧問補佐。旧水脈補助印照合、外部技師組合連絡。ダリオ・ヴェント除名立会い外部監査役と同一人物の可能性高。
オルド・ロッサ:水脈封印補助主任。黒石災害封じ祠関連外縁施工記録担当。外縁杭調整、旧薬草緩衝帯照合、井戸縁反応印確認、石列冷却逸らし記録の記載あり。
中枢室登録結果:黒薔薇工房施工痕、旧水量板補助印、外縁杭三地点との照合度上昇。追加情報要求:オルド・ロッサ関連施工図。責任線未確定』
最後に書く。
『カリム・ロッサの名が紙に戻った。
ダリオの記憶の中だけにいた名前が、黒薔薇工房名簿に現れた。
オルド・ロッサは、外縁杭を知っていた可能性がある。
守るために知っていたのか。利用するために知っていたのか。まだ分からない。
責任線は、ローゼン侯爵家から黒薔薇工房へ、そしてロッサ家へ分かれ始めた。
だが、安全線は一本のまま。
水を守る。土を守る。封印層を開けない。命令核だけを外す。
責任を追う紙が複雑になっても、現地の安全はぶらさない。』
地上では、水車が回っている。
その音の下で、ダリオさんの昔話は、もう昔話ではなくなった。
名前が紙に戻った。
そして、その紙は黒石祠の外縁へ、さらに深く繋がっていった。




