第142話 同じ砂が落ちる時
王都の砂時計は、小さな木箱に入っていた。
箱の蓋には行政庁の封印。
横には、防衛局と外部監査部の小印。
中の砂は、白ではない。
淡い灰色をしていた。
トマがそれを覗き込み、眉を寄せる。
「なんか、普通の砂より重そうだな」
ダリオさんが答えた。
「時刻合わせ用の標準砂だ。湿気を吸いにくい。落ちる速さが変わりにくい」
「へえ。王都って、そういうところはちゃんとしてるんだな」
「そういうところだけちゃんとしてる時もある」
「褒めてるのか悪口なのか分からない」
「半分ずつだ」
ニコルは笑わなかった。
砂時計の横に、自分の記録板を置き、王都から届いた時刻照合手順を何度も確認している。
今日、王都第三鐘後。
黒薔薇工房関連の低危険度資料が、反応遮断下で開封される。
高危険度の金属資料ではない。
紙の資料だ。
ただし、黒薔薇工房の旧水脈事業に関わるもの。
王都はその開封時刻に合わせて、リベル村へ同時記録を求めた。
中央井戸。
旧水路。
薬草予定地。
森入口。
地下工房の中枢室。
同じ時刻に、それぞれを見る。
王都の机で紙が開かれた瞬間、森の奥の黒石祠が反応するのか。
その確認だった。
朝の記録は、いつも通りに始まった。
ニコルが中央井戸で読み上げる。
「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定。王都方面反応なし」
トマが隣で水面を覗き込む。
「いつも通りだな」
「はい」
「いつも通りって、今はありがたいな」
「記録しますか」
「雑談でいい」
「分かりました」
ニコルは少しだけ笑った。
以前なら、王都との同時記録などと聞いただけで手が震えていたかもしれない。
今も緊張はしている。
けれど、震えだけではない。
井戸を見る人の目になっていた。
旧水路では、トマが五人の水路班を並べていた。
「確認するぞ。水量板担当」
「未操作確認」
「青土封じ札担当」
「一枚目、二枚目とも安定」
「下流黒粒子担当」
「微弱。浮き上がりなし」
「上流水流担当」
「変化なし」
「採水補助」
「瓶、札、封印布、準備済み」
トマは頷く。
「よし。俺は全体を見る。何か変だと思ったら、“たぶん”でも言え。言ってから確認する」
若者の一人が聞いた。
「勘でもいいんですか」
「勘だけで決めるな。でも勘を黙るな」
その言葉を、近くにいた副記録係が慌てて書いた。
トマが気づいて顔をしかめる。
「今のも書くのか?」
「班長発言なので」
「班長じゃない」
「水路全体見張り役発言として書きます」
「ならいい」
「ほぼ同じでは」
「言い方が大事なんだよ」
薬草予定地では、セリアが青根布を三枚並べていた。
第一安全線用。
第二安全線用。
退避路用。
どれも小さい。
布というより、足元に置く札に近かった。
傷洗い草の本株は、葉先に薄い青を残している。
新芽はまだ小さいが、昨日より少しだけ背を伸ばしていた。
ハンナが言う。
「新芽、元気そうですね」
「はい。ただ、今日は王都の資料開封があります。反応が出るかもしれません」
「水腐れの核に?」
「直接ではないと思います。黒薔薇工房の資料が、命令核や補助印に関わっていれば、黒石祠側が揺れる可能性があります。その揺れに、傷洗い草が反応するかもしれません」
ミラが青根布を見て言った。
「これ、怖いものを止める布なんですか」
「止めるというより、少し待ってもらう布です」
「待ってもらう?」
「逃げる時間を作るためです」
セリアの声は穏やかだった。
けれど、その内容は重い。
ミラは真剣に頷いた。
「じゃあ、大事な布ですね」
「はい。とても」
森入口には、リーゼさんがいた。
今日は第一安全線まで。
黒石祠本体へは近づかない。
彼女は足元の土を見て、昨日の地図と比べている。
森は静かだった。
静かすぎるほどだった。
風がない。
鳥の声も少ない。
リーゼさんは通信札へ短く報告した。
『森入口、第一安全線。足元変化なし。黒紫反応なし。灰青の滲みなし』
地下工房では、俺とダリオさんが中枢室の前にいた。
村長は広間で全体報告を受ける。
副記録係が横に座り、報告順を固定している。
井戸。
水路。
薬草。
森。
地下。
予行練習で決めた順番だ。
砂時計は広間の机の中央に置かれている。
王都第三鐘後に合わせるため、使者が持ってきた時刻砂を村の鐘と照合した。
完全に同じではない。
だが、誤差は小さい。
今日は、王都で資料が開かれる予定時刻の少し前から、砂時計をひっくり返す。
砂が落ち切る前後を重点記録する。
ダリオさんは中枢室の表示を見ながら言った。
「低危険度資料とはいえ、油断するな」
「はい」
「王都が低危険度と言っても、黒石祠がどう反応するかは別だ」
「分かっています」
「分かってる顔だな」
「最近、言われすぎて慣れました」
「いい傾向だ」
そう言った直後、通信札から村長の声がした。
『時刻合わせ開始』
広間で砂時計がひっくり返された。
灰色の砂が、細い首を通って落ち始める。
全班が配置につく。
中央井戸。
「待機」
旧水路。
「待機。水量板未操作」
薬草予定地。
「待機。傷洗い草、青反応微弱」
森入口。
「待機。第一安全線、異常なし」
地下工房。
「中枢室、黒石祠残存命令核低位。王都方面反応なし」
ニコルの声が、中央井戸から届く。
『砂時計、半分』
全員が息を整える。
広間の副記録係が、決められた順番で確認を取る。
『井戸』
『水温正常。水面揺れなし』
『水路』
『水量板未操作。黒粒子微弱』
『薬草』
『新芽倒伏なし。青根布変化なし』
『森』
『第一安全線、異常なし』
『地下』
「王都方面反応なし」
砂が落ちる。
細い音は聞こえないはずなのに、地下工房にまで響いている気がした。
やがて、広間から声が飛ぶ。
『王都開封予定時刻、十呼吸前』
十。
九。
八。
誰も声には出さない。
だが、全員が同じ数を数えていたと思う。
五。
四。
三。
二。
一。
広間の副記録係が言った。
『王都開封予定時刻』
その瞬間、中枢室の黒紫が、ほんのわずかに揺れた。
強い反応ではない。
だが、確かに揺れた。
表示が浮かぶ。
《王都方面反応:微弱》
《黒薔薇工房資料照合:感知疑い》
《残存命令核:低位揺れ》
《水土見守り基点:安定》
《水腐れ封印層:維持》
「王都方面反応、微弱。黒薔薇工房資料照合、感知疑い。残存命令核、低位揺れ」
俺が読み上げる。
ダリオさんが即座に言う。
「封印層は?」
「維持」
「水土見守り基点は?」
「安定」
広間へ報告する。
『地下、王都方面反応微弱。命令核低位揺れ。封印層維持』
すぐに順番通り、他班から報告が来る。
『井戸、水面に微弱揺れ。濁りなし。水温変化なし』
ニコルの声は少し硬い。
『水路、黒粒子一瞬浮きかけ。青土封じ札一、反応。水量板未操作』
トマの声が続く。
『浮き上がりは止まった。繰り返す、水量板未操作』
『薬草、傷洗い草葉先の青反応やや強。新芽倒伏なし。青根布一、端に微弱灰色』
セリアの声が入る。
『森、第一安全線の土に冷え小。灰青の滲みなし』
リーゼさんの声は落ち着いていた。
広間の副記録係が、順番通りに復唱する。
村長が言う。
『全班、継続観察。動くな。追加作業なし』
動くな。
その言葉が大事だった。
何かが起きたから、すぐ対応するのではない。
まず見る。
次の砂が落ちるまで、状態を見る。
中枢室の黒紫は、しばらく微かに揺れていた。
やがて、少しずつ落ち着いていく。
《王都方面反応:低下》
《残存命令核:低位》
《水腐れ封印層:維持》
《危険度:低》
「反応低下。危険度低」
俺が報告すると、広間から次の確認が飛ぶ。
『井戸』
『水面揺れ収まりました。濁りなし』
『水路』
『黒粒子、沈静。青土封じ札安定へ。水量板未操作』
『薬草』
『傷洗い草、青反応弱まりつつあります。青根布一の灰色、拡大なし』
『森』
『土の冷え、収まりつつある』
村長はしばらく沈黙した。
それから言った。
『予備照合、継続。二巡目も同じ順で記録』
同じ作業を繰り返す。
井戸。
水路。
薬草。
森。
地下。
二巡目では、どの地点も落ち着き始めていた。
三巡目で、ほぼ通常値へ戻った。
王都からの直接の声はない。
だが、同じ時刻に何かが起きたことは、リベル村側の記録だけでも明らかだった。
低危険度資料。
その開封で、黒石祠残存命令核は微弱に反応した。
中央井戸の水面が揺れた。
旧水路の黒粒子が浮きかけた。
傷洗い草が青くなった。
森の第一安全線の土が冷えた。
すべて微弱。
危険度は低い。
だが、同じ時刻だった。
広間に戻ると、全員が無言だった。
王都の砂時計は、落ち切っている。
灰色の砂が下に溜まっていた。
トマが最初に言った。
「……繋がってるな」
誰も否定しなかった。
ニコルは記録板を抱えたまま、唇を結んでいる。
「低危険度資料で、これです」
セリアが青根布を机に置いた。
布の端には、ほんの小さな灰色の点が残っていた。
「青根布一、灰色拡大なし。ただし、反応痕が残りました。使い回しは不可です」
ダリオさんがそれを見る。
「低危険度で布に痕が残るなら、高危険度金属資料は絶対に遮断室でやらせる必要がある」
「王都へ報告しましょう」
俺は頷いた。
リーゼさんは森の地図に新しい印をつけた。
「第一安全線で土の冷えあり。第二線以降は未確認。次の同時記録では第二線にも人を置くべきかもしれない」
「危険では?」
セリアが聞く。
「一人では置かない。布も置く」
リーゼさんは青根布を見た。
「足元用が要る」
「作ります」
セリアは即答した。
トマは水路班の記録を机に置いた。
「旧水路は、青土封じ札が効いた。黒粒子が浮きかけたけど、戻った。札の追加、いるかもしれない」
ニコルがまとめに入る。
「王都同時記録一回目。低危険度資料開封時、各地点で微弱反応。危険度低。各地点、自然沈静。青根布一、反応痕あり。青土封じ札、有効」
村長は砂時計を見つめていた。
「王都へ送る」
「はい」
俺は返書の内容を口にした。
『王都第三鐘後の低危険度資料開封予定時刻に合わせ、リベル村側同時記録を実施。
中枢室に王都方面反応微弱、黒薔薇工房資料照合感知疑い、残存命令核低位揺れを確認。
同時刻、中央井戸水面微弱揺れ、旧水路黒粒子浮上未遂、薬草予定地傷洗い草青反応増加、青根布一に灰色反応痕、森第一安全線に土の冷え小。
いずれも短時間で沈静。危険度低。
低危険度資料でも現地反応が確認されたため、今後の資料照合は必ず反応遮断下、段階的開封、王都・リベル村同時記録で行うことを強く推奨』
ニコルが書き終え、付け加えた。
『高危険度金属資料の開封は、現時点では不適切。薬草土壌緩衝帯および旧水路残滓封じ強化後に再協議を求める』
ダリオさんが頷いた。
「強いが、必要な紙だ」
村長も頷く。
「送れ」
使者はすぐに出立することになった。
王都から来た砂時計は、返さない。
しばらくリベル村で使うよう、行政庁から許可されていた。
トマがそれを見て言う。
「同じ砂、しばらくこっちにいるんだな」
ダリオさんが言う。
「砂にも仕事ができた」
「記録される?」
ニコルが真面目に答える。
「時刻照合具として記録します」
「砂時計まで記録対象か」
「大事なので」
今度は、誰も笑わなかった。
その言葉が、本当にその通りだったからだ。
夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。
『王都・リベル村同時記録一回目。
王都第三鐘後、黒薔薇工房関連低危険度資料を反応遮断下で開封。
同時刻、リベル村中枢室に王都方面反応微弱。黒薔薇工房資料照合感知疑い。残存命令核低位揺れ。水腐れ封印層維持。
中央井戸:水面微弱揺れ、濁りなし。
旧水路:黒粒子浮上未遂、青土封じ札反応、水量板未操作。
薬草予定地:傷洗い草青反応増加、新芽倒伏なし、青根布一に灰色反応痕。
森第一安全線:土の冷え小、灰青の滲みなし。
全地点、短時間で沈静。危険度低』
最後に書く。
『繋がっていた。
王都の机で開かれた低危険度資料が、リベル村の水と土を微かに揺らした。
大きな危険ではなかった。
だが、偶然では片づけられない同時性だった。
王都と同じ砂が落ちる時、森の祠もまた反応した。
これからの黒石祠命令核分離作戦は、村だけで進められない。
王都の紙、村の水、森の土、薬草の芽。
すべてを同じ時刻で見なければならない。』
地上では、水車が回っている。
水は澄んでいる。
しかし今日、王都の紙がその水面を微かに揺らした。
リベル村はもう、遠い王都を遠い場所とは思えなくなっていた。




