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第140話 黒石祠命令核分離作戦、準備開始

王都正式所見が届いた翌朝、リベル村は浮かれていなかった。


 もちろん、少しは安堵した。


 リベル村の現地管理は適切。

 水土見守り基点は地域水土保全機能を持つ周辺基点として扱う。

 黒石祠命令核分離作業は、条件付きでリベル村主導を認める。


 それらの言葉は、村にとって大きかった。


 だが、王都の紙がどれほど重くても、森の奥にある黒石災害封じ祠が軽くなるわけではない。


 水腐れの核は、まだ封じられている。

 残存命令核は、まだ封印層に癒着している。

 旧水路には、まだ黒石祠由来の残滓が微弱に残っている。


 中央井戸の水は、今日も澄んでいた。


 ニコルが水温を測り、記録板へ書く。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定」


 その声を聞きながら、トマが井戸の水面を見下ろしていた。


「正式所見が来ても、水は勝手に守られないんだな」


「そうですね」


 ニコルは記録板を閉じた。


「だから、今日も書きます」


「お前、ほんと強くなったよな」


「そうでしょうか」


「うん。前なら王都の紙が来たら、もっと震えてた」


 ニコルは少し考えたあと、苦笑した。


「今も震えています」


「そうなのか?」


「はい。でも、震えながら書けるようになりました」


 トマは一瞬黙り、それから真面目に頷いた。


「それ、たぶん一番強いやつだ」


 その言葉を、ニコルは記録しなかった。


 けれど、少しだけ嬉しそうだった。


 朝食のあと、村長宅の広間に全員が集まった。


 机の中央には、昨日届いた王都正式所見の写し。


 その隣に、ニコルが作った新しい台帳が置かれている。


『黒石祠命令核分離作戦・準備台帳』


 “作業”ではなく、“作戦”。


 昨日までは、黒石祠命令核分離作業と呼んでいた。


 しかし、今日からは準備が本格化する。

 森の安全経路。

 旧水路の封じ。

 薬草土壌緩衝帯。

 周辺村同時記録。

 王都への事前通告。

 撤退条件。


 一つの作業では収まらない。


 村全体を使う作戦になる。


 トマが台帳を見て言った。


「作戦って書くと、急に大ごと感が出るな」


 ダリオさんが腕を組む。


「実際、大ごとだ」


「そこは否定してくれよ」


「嘘は記録に悪い」


「最近みんなそれ言えばいいと思ってるだろ」


 セリアが小さく笑った。


 だが、彼女の手元には薬草土壌緩衝帯の試験記録がある。


 笑っていても、目は真剣だった。


 村長が杖を鳴らした。


「始めよう」


 広間が静かになる。


 村長は王都正式所見を机に置いたまま、全員を見回した。


「王都は、条件付きで作業を認めた。じゃが、認めたからといって今日森へ入るわけではない。条件を一つずつ満たす」


「はい」


 俺は頷いた。


「まず、準備項目を確認します」


 ニコルが台帳の最初のページを開いた。


 一、薬草土壌緩衝帯の設置準備。

 二、旧水路残滓封じの強化。

 三、黒石祠周辺の安全経路再確認。

 四、命令核影写しの再試験。

 五、残滓影、命令影、水腐れの滲みへの対策。

 六、王都への作業前通告。

 七、周辺村同時記録再開の準備。


 読み上げ終えると、トマが額を押さえた。


「七つか。多いな」


 ダリオさんが言う。


「七つで済んでよかったと思え」


「まだ増える可能性ある?」


「ある」


「聞かなきゃよかった」


 村長は動じない。


「増えたら書き足せばよい」


 ニコルが即座に頷いた。


「はい」


 トマが小声で言う。


「村長も記録係っぽくなってきたな」


「聞こえておる」


「すみません」


 少し笑いが起きる。


 その笑いを残したまま、最初の準備に入った。


 薬草土壌緩衝帯。


 昨日までの小規模試験では、薬草予定地の安定土と中央井戸水、傷洗い草の青反応札、ミード村から届いた薬草種を使い、土壌保持揺れ受容の微弱反応が出た。


 中枢室にも、薬草土壌緩衝帯は構築可能と表示されている。


 だが、まだ森へ持ち込める段階ではない。


 セリアは地図の薬草予定地に小さな印をつけた。


「今日は、灰青反応写しを小区画へ直接入れません。近づけるだけです」


 トマが言う。


「前も近づけるだけって言ってたな」


「はい。まだ、それ以上は危険です」


「近づけるだけで反応を見るんだよな」


「そうです。土壌保持線がどう揺れるか。傷洗い草と新芽がどう反応するか。青土封じ札と相性が悪くないか。それを見るだけです」


 ダリオさんが頷く。


「いい。焦って実用化するな。緩衝帯そのものが不安定だと、作戦中に頼れない」


 セリアは小さく息を吸った。


「それと……青根布を作りたいです」


 広間の視線が集まる。


 リーゼさんが顔を上げた。


「昨日言っていたものか」


「はい」


 セリアは持ってきた布を机に置いた。


 白い布ではない。


 薄く青みがかった、やや粗い布。


 薬草予定地の安定土を溶かした水に浸し、傷洗い草の青反応をほんの少し写し、ミード村の止血草種の袋と一晩並べておいたものだという。


「浄化布ではありません。水腐れの反応を吸い取るものでもありません」


「では、何をする布だ」


 リーゼさんが聞く。


「一時的に留める布です。封印層が揺れた時、もし灰青の滲みが出たら、それを土へ戻さず、水へ流さず、ごく短時間だけ留める。そういう布を目指しています」


 トマが顔をしかめた。


「短時間だけ?」


「はい。長く持たせようとすると、布が腐ると思います」


「怖いこと言うな」


「怖いので、長く持たせません」


 セリアは布の端をそっと押さえた。


「この布は、解決する道具ではありません。撤退する時間を作るための道具です」


 広間が静かになった。


 撤退する時間。


 それは派手な言葉ではない。


 だが、この作戦には一番必要な言葉だった。


 リーゼさんは青根布を見つめた。


「足元に置くと言っていたな」


「はい。リーゼさんが立つ安全線の足元、あるいは作業者の退避路の手前に敷きます。鞘に巻くのは、まだ危険です。水腐れの滲みを人が近くで受ける形になるので」


「分かった」


 リーゼさんはあっさり頷いた。


「私は布の上に立つ」


 セリアは少し慌てた。


「まだ試験前です」


「試験してからだ」


「はい」


 トマが小声で俺に言った。


「リーゼ、試験前から覚悟決めるの早すぎないか」


「いつも通りです」


「それが怖い」


 次は、旧水路残滓封じの強化だった。


 トマが地図の旧水路下流を指した。


「青土封じ札二枚は安定してる。黒粒子の浮き上がりは減ってる。水量板は未操作。昨日も今日も、未操作」


「記録済みです」


 ニコルが言う。


「でも、分離作戦をやるなら、旧水路班を増やした方がいい。作業中に黒粒子が増えたら、俺一人じゃ見きれない」


 トマの声は、以前よりずっと落ち着いていた。


 ダリオさんが頷く。


「水路班は三人から五人へ増やす。見る場所を分ける。水量板、下流の石陰、青土封じ札、採水地点、上流側の流れ」


「あと、記録係がほしい」


 トマが言う。


 ニコルが顔を上げる。


「水路班用の副記録係を置きます。トマさんは見張りと指示に集中してください」


「俺が書かなくていいのか」


「水辺で紙を濡らす危険があります」


「そこか」


「そこです」


 トマは少し不満そうにしたが、すぐ納得した。


「分かった。濡らさない担当も大事だ」


 ダリオさんが低く笑う。


「やっと分かってきたな」


 森の安全経路再確認は、リーゼさんが中心になる。


 前回、水土見守り基点へ向かった経路を基準にするが、黒石祠本体へ近づくなら危険度は段違いだ。


 残滓影だけではない。

 命令影。

 灰青の滲み。

 足元の土壌弱化。

 水脈の急な冷え。


 それらを想定する必要がある。


 リーゼさんは地図に三本の線を引いた。


「主経路。退避経路。使わない経路」


 トマが聞く。


「使わない経路も書くのか?」


「書く。迷った時、人は近そうな道へ行く。そこが危険なら、先に“使わない”と書く」


 ニコルがすぐ記録した。


『使わない経路も明記。迷走防止』


 リーゼさんは続けた。


「森の入口に第一安全線。水土見守り基点外縁に第二安全線。黒石祠本体手前に第三安全線。第三線より奥は、作業者以外入らない」


「作業者は誰ですか」


 ニコルが聞く。


 全員が少し黙った。


 ダリオさんが答える。


「レオン、俺、セリア。リーゼは第三線。トマは旧水路。ニコルは中枢室記録。村長は村側の最終判断」


 トマが少し不満そうにした。


「俺、森には行かないんだな」


「行かない」


 ダリオさんが即答する。


「お前の戦場は旧水路だ。黒石祠が水路へ反応を飛ばしたら、そっちが危ない」


 トマは口を開きかけて、閉じた。


 そして頷く。


「分かった。水路を見る」


 その返事に、もう拗ねた響きはなかった。


 次に、命令核影写しの再試験。


 これは地下工房で行う。


 黒石祠本体へ行く前に、命令核と封印層の癒着部分をもう一度、薄く写す必要がある。


 ただし、水腐れの核の封印層を刺激しないため、前回よりさらに弱く行う。


 ダリオさんは、薄い透明板を二枚用意していた。


「前回は一枚板だった。今回は二重板にする」


「二重写しですか」


 俺が聞くと、彼は頷いた。


「一枚目で命令核影を受ける。二枚目で封印層との境目だけを見る。直接見ない。影の影を見る」


 トマが顔をしかめる。


「影の影、多くないか?」


「多い方が安全な時もある」


「見えにくくならない?」


「なる」


「いいのか?」


「いい。見えすぎる方が危ない」


 セリアが静かに頷いた。


「私はそれに賛成です」


 その声に迷いはなかった。


 午後、各班が実際に動いた。


 セリアは薬草予定地で青根布の小試験をした。


 布を薬草土壌小区画の外縁に置き、灰青反応写しを直接ではなく、閉じた小瓶のまま近づける。


 傷洗い草の葉先が、わずかに青くなる。


 新芽は倒れない。


 青根布の端が、ほんの少し灰色を帯びた。


 セリアが息を止める。


「広がりません」


「布の中で止まってる?」


 トマではなく、ハンナが聞いた。


「はい。ほんの少しだけ、留めています。でも、長くは危険です」


 セリアはすぐ小瓶を遠ざけた。


 青根布の灰色はゆっくり薄くなる。


 完全には消えない。


 ニコルの副記録係が読み上げる。


「青根布、灰青反応を一時留置。拡大なし。長時間使用不可」


 セリアは頷いた。


「撤退時間を作る道具としては、可能性があります」


 一方、旧水路ではトマが水路班を五人に分けていた。


「水量板を見る人。青土封じ札を見る人。下流の黒粒子を見る人。上流の流れを見る人。採水補助。俺は全部を回る」


 若者の一人が聞く。


「トマさん、全部見るんですか」


「全部は見ない。全部を見てる人を見る」


「え?」


 トマは少し考えてから言い直した。


「俺一人の目じゃ足りない。だから、お前らの目がちゃんと見てるかを見る」


 若者は少し驚いた顔をした。


 それから笑った。


「班長みたいですね」


「やめろ。むずがゆい」


 だが、嫌そうではなかった。


 リーゼさんは森の入口へ向かった。


 俺も同行した。


 今日は黒石祠本体へ近づかない。


 入口から水土見守り基点外縁までの安全経路を確認するだけだ。


 森の空気は、少し湿っていた。


 水腐れの核の名を知ってから、湿り気すら前と違って感じる。


 リーゼさんは足元を見て、木の根を避け、土の沈み方を確かめていた。


「ここは使わない」


「なぜ?」


「足元が柔らかい。逃げる時に沈む」


 彼女は地図へ印をつけた。


「こっちは?」


「低木が邪魔だが、足場はいい。切らずに紐で寄せれば通れる」


「切らないんですね」


「切ると目印が変わる。戻る時に迷う」


 その判断は、やはり護衛のものだった。


 ただ戦うのではなく、生きて戻る道を作る人の判断。


 村へ戻る頃には、地図に三色の線が増えていた。


 通る道。

 退く道。

 使わない道。


 夕方、すべての班の報告が広間に集まった。


 セリアの青根布試験は、小規模成功。

 ただし長時間使用不可。


 旧水路班は、五人体制の試験運用成功。

 水量板未操作。

 青土封じ札維持。

 黒粒子微弱。


 森の安全経路は、第一線から第二線まで再確認。

 第三線は未確認。黒石祠本体へ近づくため、後日。


 命令核影写し再試験は、準備のみ。実施は翌日以降。


 王都への作業前通告は、まだ出さない。

 条件がそろっていないため。


 周辺村同時記録については、ハルマ村、北沢集落、ミード村へ予告文を送る準備を開始。


 ニコルがまとめを読み上げる。


「黒石祠命令核分離作戦、準備初日。実施条件、未達。準備段階継続」


 トマが言った。


「未達って言われると、失敗みたいだな」


「失敗ではありません」


 ニコルはすぐに返した。


「まだやらない条件を確認しただけです」


 ダリオさんが頷く。


「それが一番大事だ。できることが増えると、できないことを忘れやすい」


 その時、中枢室へ繋いでいた携帯札が淡く光った。


 警告ではない。


 だが、ただの通知でもない。


 俺は札を開いた。


《黒石祠残存命令核》

《反応:低位》

《王都方面反応:微弱》

《黒薔薇工房資料照合に反応》

《注意:遠隔共鳴兆候》


 広間の空気が一瞬で変わった。


 トマが顔を上げる。


「王都方面?」


 ニコルが震える声で読み上げた。


「黒薔薇工房資料照合に反応……遠隔共鳴兆候」


 ダリオさんの表情が険しくなる。


「王都で資料を開けてるな」


 セリアが青根布を握る。


「それが黒石祠本体を刺激しているんですか」


「可能性がある」


 俺は表示を見つめた。


 反応は低位。


 危険な上昇ではない。


 だが、王都での調査が黒石祠残存命令核に届いている。


 距離があるにもかかわらず。


 ローゼン侯爵家への全面提出命令。

 黒薔薇工房資料照合。

 王都側も、ついに本格的に動き始めた。


 そして、その動きが森の奥の命令核を揺らしている。


 村長が静かに言った。


「王都へ警告を出せ」


「はい」


 ニコルはすぐ紙を取った。


 俺は文面を口にする。


『黒石祠残存命令核に、王都方面反応の微弱兆候あり。

黒薔薇工房資料照合に反応した可能性。

危険度は現時点で低位。ただし、資料開封・照合時には反応遮断下、複数立会い、段階的照合を徹底されたい。

黒石祠命令核分離作戦準備中につき、王都側作業と現地反応の同時記録を提案する』


 ニコルが書き終え、顔を上げる。


「王都とリベル村、同時記録ですか」


「はい」


 俺は頷いた。


「これからは、村だけで見ていては足りません。王都で資料を触るたび、黒石祠が反応するなら、同じ時刻で記録を合わせる必要があります」


 ダリオさんが言う。


「面倒だが、やるしかない」


 トマが苦笑する。


「また記録が増えるな」


 ニコルは静かに答えた。


「増やします」


 その声は、怖がっていないわけではなかった。


 だが、止まる声でもなかった。


 夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。


『黒石祠命令核分離作戦、準備開始。

薬草土壌緩衝帯:青根布の小試験を実施。灰青反応を一時留置可能。ただし長時間使用不可。

旧水路:五人体制の監視試験。水量板未操作。青土封じ札維持。

森の安全経路:第一線から第二線まで再確認。通る道、退く道、使わない道を記録。

命令核影写し再試験:準備のみ。

王都への作業前通告:未実施。条件不足。

周辺村同時記録再開準備中』


 筆を止める。


 そして、最後の項目を書く。


『夕方、中枢室が王都方面反応を微弱検知。黒薔薇工房資料照合に反応した可能性。遠隔共鳴兆候。王都へ、資料照合時の反応遮断と同時記録を警告。

黒石祠命令核分離作戦は、リベル村だけの作業ではなくなりつつある。

王都が資料を開けば、森の祠が揺れる。

森の祠が揺れれば、村の水と土が反応する。

これからは、王都とリベル村が同じ時刻を見なければならない。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は、今日も変わらない。


 けれど、遠い王都で開かれる紙が、森の奥の命令核を揺らした。


 黒石祠命令核分離作戦は、準備初日にして、村と王都を同じ線で結び始めていた。

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