第139話 王都正式所見、届く
王都から正式所見が届いたのは、昼の鐘が鳴る少し前だった。
その日のリベル村は、朝から妙に落ち着かなかった。
中央井戸の水は澄んでいる。
旧水路の黒粒子は、青土封じ札のおかげで浮き上がりが抑えられている。
薬草予定地の傷洗い草は、新芽を倒さず、薬草土壌緩衝帯の小区画も安定していた。
目に見える異常はない。
けれど、全員が待っていた。
王都の正式な返答を。
中間所見では、リベル村の管理体制はかなり認められた。
だが、正式所見ではない。
ローゼン侯爵家は反論した。
黒薔薇工房は旧組織であり現侯爵家の責任ではない、と。
金属資料の危険性など認識していなかった、と。
リベル村の中枢室が誤作動した可能性がある、と。
ダリオさんは除名技師であり、俺は追放鑑定士であり、判断の中立性に疑問がある、と。
王都がどこまで踏み込むのか。
それ次第で、黒石祠命令核分離作業の扱いも変わる。
中央井戸の朝記録を終えたニコルは、何度も村の入口の方を見ていた。
「落ち着かないな」
トマが言う。
ニコルは素直に頷いた。
「落ち着きません」
「俺もだ」
「トマさんもですか」
「今日は水量板の前にいても、そっちが気になった」
「水量板は?」
「未操作」
「記録します」
「いや、今のは雑談でいいだろ」
「大事なので」
トマは苦笑した。
「それ、ほんと強いな」
昼前、村の入口から馬の蹄の音が聞こえた。
早馬ではない。
しかし、普通の使者でもない。
行政庁の紋をつけた馬車が一台。
後ろに防衛局の小さな旗。
さらに、外部監査部の封印箱を乗せた荷台がついていた。
村の入口に立っていた若者が声を上げる。
「王都便!」
広場にいた者たちが、同時に顔を上げた。
トマが一歩走りかけた。
リーゼさんが遠くから言う。
「走るな」
トマは即座に歩いた。
「急いで歩いてる!」
「それでいい」
使者は村長宅へ通された。
封書は厚かった。
封蝋は行政庁。
添え印は防衛局、外部監査部、技師組合再審査室。
最後の印を見て、ダリオさんの顔がわずかに変わった。
「再審査室までついてるのか」
声は低い。
軽口ではなかった。
村長が封書を机へ置く。
「読め」
俺は封を切った。
紙は数枚ではなかった。
正式所見本体。
技術照合結果。
安全条件。
ローゼン侯爵家への通達写し。
そして、ダリオ・ヴェント除名処分再審査開始通知。
広間の空気が、紙の重さに合わせて沈む。
俺はまず、正式所見本体を読み上げた。
『王都行政庁正式所見。
リベル村における黒石災害封じ祠関連現地管理、ならびに水土見守り基点、旧水路、水量板補助印、薬草土壌緩衝帯、周辺村共同記録網について、行政庁、防衛局、外部監査部は以下の通り所見を示す』
ニコルが筆を構えた。
トマは拳を握っていない。
セリアは静かに座り、リーゼさんは壁際で目を閉じずに聞いている。
ダリオさんは腕を組んだまま、紙から目を逸らさなかった。
俺は続けた。
『一、リベル村の現地管理は、現時点において適切と認める。
中央井戸、旧水路下流、薬草予定地、および周辺村共同記録網に関し、日次記録、異常時記録、失敗記録、未解決事項の明記が確認された。
危険情報の隠蔽、記録改竄、強行的作業の証拠は確認されない』
ニコルの筆が止まりかけた。
彼は一瞬、何かを飲み込むように喉を動かし、すぐに書き続けた。
トマが小さく呟く。
「認められた……」
村長は黙っている。
だが、杖を握る手から、少し力が抜けた。
『二、水土見守り基点は、黒石災害封じ祠本体と同一施設ではなく、地域水土保全機能を有する周辺基点として扱う。
同基点が黒石祠命令核により同期干渉を受けていた可能性は高い。
リベル村が実施した同期解除作業については、危険を伴ったものの、段階的記録および安全制限下で行われたものと判断する』
セリアが静かに息を吐いた。
水土見守り基点。
あの青い反応が、ようやく王都の正式文書でも“地域水土保全機能”として認められた。
俺は次を読む。
『三、ローゼン侯爵家代理人が持ち込んだ金属資料は、黒薔薇工房系統の旧式命令補助印と一致する。
同資料は、単なる参考資料として無申告で現地へ持ち込むには危険性が高く、保管経緯、取得経緯、過去の使用履歴について追加調査を要する』
トマの眉が上がる。
「一致……」
今度はダリオさんが短く言った。
「踏み込んだな」
「はい」
ニコルが書きながら頷く。
「“類似”ではなく、“一致”です」
それは大きかった。
これまで王都は慎重だった。
可能性が高い。
類似する。
照合候補。
そういう表現を使ってきた。
だが今回は違う。
黒薔薇工房系統の旧式命令補助印と一致。
金属板は、ただの古い資料ではなくなった。
『四、黒薔薇工房旧資料庫焼失について、行政庁および防衛局は原因調査を開始した。
ローゼン侯爵家側は自然火災の可能性を主張しているが、現段階で原因は未確定。
焼失前に行政庁別室へ移送されていた資料、ならびにリベル村より提出済みの写しは保全済み。
今後、資料庫管理責任、資料移送記録、火災発生時刻の照合を行う』
トマが言う。
「未確定か」
ダリオさんが答える。
「それでいい。未確定のまま調査に入ったなら、十分だ」
「でも腹立つ」
「それも記録しろ」
ニコルが顔を上げた。
「感情は村内記録にしますか」
トマが慌てた。
「いや、今のはいい」
「必要なら」
「必要じゃない!」
少しだけ笑いが出た。
それで、張り詰めた空気がほんのわずかにほぐれた。
だが、次の一文で、また静まった。
『五、ダリオ・ヴェントの技師組合除名処分について、王都技師組合再審査室は再審査を開始する。
黒薔薇工房資料への接触時期、資料棚閲覧禁止措置、没収手控え、除名立会人カリム・ロッサの所属について、記録照会を行う』
ダリオさんは動かなかった。
腕を組んだまま、目だけが少し細くなる。
トマが彼を見る。
「師匠……」
「師匠じゃない」
反射のように返ってきた。
声は普段より少しだけ低い。
トマは、そこで笑わなかった。
「再審査だって」
「聞こえてる」
「よかった、って言っていいのか?」
ダリオさんはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ肩をすくめる。
「今さら肩書きが戻ってもな」
トマが言う。
「戻るかもしれないんだろ」
「戻ったところで、俺はここで豆を食ってる方がいい」
ダリオさんは真顔だった。
トマは一拍置いて、吹き出しかけた。
「師匠、村に馴染みすぎ」
「師匠じゃない」
「豆で残留決めるなよ」
「豆は重要だ」
セリアが小さく笑った。
ニコルも、少しだけ肩の力を抜いた。
けれどダリオさんの目には、笑いきれないものが残っていた。
再審査。
それは救いかもしれない。
同時に、古い傷をもう一度開くことでもある。
ニコルは何も言わず、ただ丁寧に記録した。
『ダリオ・ヴェント除名処分、再審査開始』
俺は続きを読んだ。
『六、黒石祠命令核分離作業について、王都行政庁、防衛局、外部監査部は、リベル村主導の現地作業を条件付きで認める。
ただし、以下の条件を厳守すること』
広間が完全に静かになった。
ついに来た。
王都が、リベル村主導の作業を認める。
ただし、条件付き。
俺は条件を読み上げた。
『一、黒石災害封じ祠本体の破壊禁止。
二、水腐れの核封印層の開放禁止。
三、命令核分離作業に関する全記録の作成および提出。
四、異常時即撤退。
五、薬草土壌緩衝帯、旧水路残滓封じ、周辺村同時記録体制が整うまで実施不可。
六、王都監査部への逐次報告。
七、作業前通告必須。
八、防衛局が必要と判断した場合、王都側安全担当の派遣を検討する』
セリアは条件を一つずつ聞きながら、薬草土壌緩衝帯の記録を握っていた。
トマは旧水路の項目で顔を引き締めた。
リーゼさんは「異常時即撤退」のところで、わずかに頷いた。
ニコルは全部を書き取る。
書きながら、彼は小さく言った。
「中枢室の実施条件と、かなり一致しています」
「はい」
俺は頷いた。
「王都も、こちらの条件を受け入れた形です」
村長は正式所見を受け取り、最初から最後まで目を通した。
やがて、静かに言った。
「つまり、王都はこう言ったのじゃな」
全員が村長を見る。
「リベル村は、危険を隠しておらぬ。
水土見守り基点は、守る施設である。
黒薔薇工房と侯爵家資料には疑義がある。
黒石祠の命令核分離は、条件付きでリベル村に任せる」
そのまとめは、紙より短かった。
でも、誰にでも分かる言葉だった。
トマがゆっくり息を吐いた。
「やっと、少しこっち向いたな」
ダリオさんが言う。
「全部じゃない。少しだ」
「でも、少し向いた」
「ああ」
ダリオさんは頷いた。
「少し向いた」
その時、封書の最後に挟まっていた薄い紙が落ちた。
俺はそれを拾う。
表題を見た瞬間、手が止まった。
『ローゼン侯爵家に対する行政庁提出命令写し』
広間の空気が、また変わる。
俺は読み上げた。
『王都行政庁は、ローゼン侯爵家に対し、黒薔薇工房旧資料、関連水脈事業記録、金属資料保管台帳、旧工房関係者名簿、黒石災害封じ祠関連施工記録の全面提出を命じる。
提出期限、十日。
不提出、欠落、焼失等の申し立てがある場合、理由書および保管責任者署名を添付すること』
トマの目が丸くなる。
「全面提出命令……」
ニコルの筆が止まった。
セリアが小さく息を呑む。
ダリオさんは、低く笑った。
「とうとう、侯爵家の倉庫を開ける気になったか」
リーゼさんが言う。
「出すとは限らない」
「出さないなら、出さない理由が記録に残る」
ニコルが静かに言った。
その声は、以前よりずっと強かった。
ダリオさんが満足そうに頷く。
「そうだ。紙の戦いは、そこからだ」
村長は正式所見を封筒へ戻さず、机の中央へ置いた。
「これは村の転換点じゃ」
誰も茶化さなかった。
「だが、浮かれるな。黒石祠は残っておる。水腐れの核も封じられたまま。命令核も癒着しておる。王都の紙が味方になっても、森の奥の危険は減らぬ」
「はい」
俺は答えた。
セリアも、トマも、ニコルも頷く。
ダリオさんが言う。
「今日やるべきことは?」
ニコルがすぐ答えた。
「正式所見を三種類に分けて記録します。村内原本、周辺村写し、作業条件台帳。王都提出命令写しは責任照合台帳へ。命令核分離作業の条件は安全保全台帳へ」
トマが感心した顔で言う。
「早いな」
「大事なので」
「それ聞くと安心するようになってきた」
「本当ですか」
「たぶん」
セリアは薬草土壌緩衝帯のページを開く。
「私は、王都条件に合わせて緩衝帯試験計画を整理します。灰青反応写しへの弱反応試験は、今日ではなく明日以降に」
「急がないんですね」
俺が確認すると、セリアは頷いた。
「正式所見が来たからこそ、急ぎません。条件が整うまで実施不可と書かれたので」
リーゼさんが言う。
「森の安全経路も再確認する。だが、今日は入口までだ」
トマが続ける。
「旧水路は、青土封じ札と水量板。王都条件に入ったなら、もっときっちり班で回す」
ダリオさんは立ち上がった。
「俺は地下工房で、命令核分離針の設計を見直す。王都の条件が入ったなら、記録提出用に構造図も必要だ」
村長は全員を見た。
「よい。今日は喜ぶ日ではない。整える日じゃ」
しかし、全員が動き出そうとした時、トマがぽつりと言った。
「でもさ」
全員が彼を見る。
トマは少し照れたように鼻をこする。
「ちょっとだけ、よかったって思ってもいいよな」
広間が静かになる。
村長は、ゆっくり頷いた。
「少しならよい」
トマは笑った。
「じゃあ、少しだけ」
ニコルも小さく笑った。
セリアは胸元の記録札を抱え、少しだけ目を細める。
ダリオさんは窓の外を見ながら言った。
「豆を一杯増やすくらいなら許す」
トマがすぐ反応する。
「結局豆かよ」
「重要だ」
「はいはい」
笑いが、ようやく広間に広がった。
大きな勝利ではない。
まだ何も終わっていない。
けれど、リベル村が積み重ねた記録は、王都の正式所見になった。
危険を隠さなかったこと。
失敗も書いたこと。
人の記憶も捨てなかったこと。
井戸も土も薬草も見続けたこと。
それが、紙になって戻ってきた。
その日の夜、正式所見は三つの箱へ分けられた。
原本は村長宅の封印棚へ。
写しは地下工房へ。
要約は周辺村へ送る準備。
ニコルは最後に、命令核分離作業台帳へ新しい項目を書いた。
『王都正式所見により、リベル村主導の黒石祠命令核分離作業は条件付きで認可。
実施不可条件は継続。
準備段階へ移行』
俺は地下工房で個人記録を書いた。
『王都正式所見、到着。
リベル村の現地管理は適切。
水土見守り基点は地域水土保全機能を有する周辺基点として扱う。
侯爵家金属資料は黒薔薇工房系統の旧式命令補助印と一致。
黒薔薇工房旧資料庫焼失について行政庁・防衛局が調査開始。
ダリオ・ヴェント除名処分再審査開始。
黒石祠命令核分離作業について、王都はリベル村主導の現地作業を条件付きで認可。
ローゼン侯爵家に対し、黒薔薇工房旧資料および関連水脈事業記録の全面提出命令』
最後に書く。
『王都の紙が、初めてはっきりとこちらを向いた。
だが、森の奥の危険は減っていない。
水腐れの核は封じられたまま。
命令核は封印層に癒着したまま。
今日得たのは勝利ではない。
作業を始めるための正式な重みだ。
リベル村は、条件をそろえる段階へ入る。』
地上では、水車が回っている。
その音は、今日も変わらない。
けれど、その水を守るために、リベル村はついに王都の正式所見を背に受けることになった。
次は準備だ。
黒石祠命令核分離作業。
名前だけだった作業が、いよいよ現実のものへ近づき始めていた。




