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第136話 王都資料庫焼失

 王都で資料庫が燃えた。


 その知らせは、夜が明けてもリベル村から消えなかった。


 中央井戸の水は、いつも通り澄んでいる。

 旧水路の流れも大きく乱れてはいない。

 薬草予定地の傷洗い草も、新芽を倒さず朝露を受けている。


 それでも、村の空気はどこか焦げ臭かった。


 実際に煙が届いたわけではない。王都は遠い。風向きがどうであれ、燃えた紙の匂いがここまで来ることはない。


 けれど、記録を扱ってきた者たちには、その火が見えていた。


 黒薔薇工房旧資料庫の一部焼失。


 ローゼン侯爵家側は、老朽化による自然火災の可能性を主張。


 行政庁と防衛局は調査開始。


 行政庁別室に移されていた一部資料は無事。


 紙の上では、まだ何も断定されていない。


 だが、リベル村の誰もが思っていた。


 燃えるのが、早すぎる。


 都合が良すぎる。


 中央井戸の記録を終えたニコルは、いつもより強く記録板を抱えていた。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定」


 読み上げる声は落ち着いていた。


 けれど、筆をしまう時の手が少し硬い。


 村長はそれに気づき、何も言わず井戸の水面を見た。


「水は、今日も澄んでおる」


「はい」


 ニコルが頷く。


「だから、書けます」


 村長は小さく頷いた。


 広間には、朝から紙が広げられていた。


 王都火災通知。

 黒薔薇工房関連責任照合台帳。

 ダリオ記憶証言記録。

 旧水路・水量板安全保全台帳。

 薬草土壌緩衝帯試験記録。

 そして、新しく作られた一枚の大きな表。


『記録分散保管表』


 ニコルが夜のうちに作ったものだった。


 トマがそれを覗き込み、眉を寄せる。


「すごいな。村の地図じゃなくて、紙の逃げ道みたいだ」


「逃げ道ではありません」


 ニコルは真面目に返した。


「残る道です」


「残る道」


「はい。一か所が燃えても、別の場所に残るようにします」


 ダリオさんが腕を組んだ。


「王都が燃えたからな」


 声は低い。


 昨日から、彼の軽口は少ない。


 自分の過去に関わる資料棚。

 没収された手控え。

 黒薔薇工房の印。

 それらが燃えたかもしれない。


 ただの記録ではない。


 ダリオさんにとっては、自分が除名される前に見たものへ繋がる紙だった。


 トマは怒っていた。


 誰かへ拳を向けるような怒りではない。

 もっと持て余す怒りだ。


「老朽化って、そんな都合よく燃えるのかよ」


 ダリオさんが答える。


「燃える時は燃える」


「師匠までそんなこと言うのか」


「師匠じゃない。だが、燃える可能性はある。古い紙、乾いた棚、管理不足。火種があれば燃える」


「じゃあ自然火災かもってことか?」


「そうかもしれん」


 トマは言葉に詰まった。


 ダリオさんは、そこから静かに続けた。


「だが、自然火災かもしれないことと、調べなくていいことは別だ」


 トマの顔が上がる。


「……そうだよな」


「ああ。偶然かもしれない。だからこそ、記録する。調べる。断定せずに残す。怒りで犯人を作ると、向こうと同じになる」


 トマは拳を握り、それから開いた。


「怒るけど、記録する」


「そうだ」


 ニコルは、そのやり取りも欄外に残そうとして、少し迷った。


 村長が気づき、言った。


「書け。今のは村の方針じゃ」


 ニコルは頷き、欄外へ小さく書いた。


『怒るが、断定せず記録する』


 セリアは薬草土壌緩衝帯の試験記録をまとめていた。


 昨日の新芽。

 土壌保持揺れ受容。

 灰青反応写し未使用。

 ミード村へ送る写し。


 彼女は紙を見つめながら言った。


「薬草の記録も、分けます。私の手元だけではなく、ミード村にも見てもらいます」


「はい」


 ニコルが頷く。


「ミード村には薬草土壌緩衝帯記録の写し。ハルマ村には中央井戸と現地公開確認記録の写し。北沢集落には旧水路・水量板記録の写し。王都には要約と照会。地下工房には封印記録。リベル村の原本は村長宅と地下工房で分けます」


 トマが手を上げた。


「俺、水路班の写し持つんだよな」


「はい」


「どこに置けばいい?」


 ニコルは少し考えた。


「水路小屋は湿気が多いので駄目です」


「だよな」


「水路班の写しは、トマさんの家ではなく、旧倉庫の乾いた棚に置きます。水路班の人が確認できるようにしますが、鍵は村長とトマさんとニコルが持ちます」


「俺、鍵持つのか」


「はい」


 トマは一瞬、嬉しそうな顔をした。


 すぐに真顔へ戻る。


「責任重大だな」


「重大です」


「濡らしたら?」


「記録します」


「燃やしたら?」


「もっと記録します」


「怖いな、記録」


 ダリオさんが言った。


「だから気をつけるんだろ」


「はい」


 トマは珍しく素直に返事をした。


 午前中、分散保管のための写し作業が始まった。


 ニコル一人では無理だった。


 村の若者たち、ハンナ、ミラ、セリア、トマまで手伝う。


 ただし、写しは誰でも自由に書けばいいわけではない。


 誤写を防ぐため、読み上げ係と書き写し係、確認係を分ける。


 ニコルが説明する。


「一人が読み上げます。一人が書きます。最後に別の人が原本と照らします。分からない文字は、推測で埋めず空欄にして確認します」


 トマが言った。


「面倒だな」


「面倒です」


「でも必要?」


「はい」


「大事なので?」


「はい」


「便利だな、それ」


 セリアが横で笑った。


 写し作業は、思った以上に神経を使った。


 特に、黒薔薇工房印の復元図。


 棘の位置。

 蔓の角度。

 欠けた部分の線。

 水量板裏面の採取粉反応写し。


 少しでも写し間違えれば、照合の意味が変わる。


 絵の得意な村の少女が呼ばれた。


 彼女は普段、祭りの飾り札に花を描くのが好きな子だった。


 最初は震えていたが、ミード村の薬草係が葉を描いた話を聞くと、顔つきが変わった。


「きれいに描くんじゃなくて、同じに描くんですね」


「そうです」


 ニコルが頷く。


「上手い絵ではなく、残す絵です」


「分かりました」


 少女は、息を詰めるようにして黒薔薇工房印を写した。


 その絵は飾りには向かない。


 けれど、線は正確だった。


 トマが覗き込み、感心したように言う。


「すげえ。俺が描いたら絶対バラじゃなくて虫になる」


「トマさんは文字も危ないので」


 ニコルが真顔で言う。


「ひどくない?」


「大事なので」


「またそれか」


 笑いが起きた。


 しかし、笑いながらも作業は止めない。


 午後には、三つの封筒ができた。


 一つ目。


『ハルマ村保管用写し』


 内容は、現地公開確認記録、中央井戸安定記録、水土見守り基点奪還要約。


 二つ目。


『北沢集落保管用写し』


 内容は、旧水路残滓封じ、旧水量板未操作記録、水量板裏面補助印反応写し。


 三つ目。


『ミード村保管用写し』


 内容は、薬草土壌緩衝帯小規模試験、傷洗い草新芽記録、水脈腐食性災害反応外縁写し要約。


 王都用には、別に要約を作る。


 こちらは行政庁へ。


『黒薔薇工房旧資料庫火災を受けたリベル村記録分散保管開始報告』


 村長はそれを読んだ。


「よい。これは王都へ見せるだけではない。王都にも、見習えと言う紙じゃな」


 ダリオさんが少し笑った。


「かなり刺さるな」


「刺すつもりはない」


 村長は淡々と言った。


「だが、刺さるなら仕方あるまい」


 トマが小声で「村長、たまに怖いよな」と言い、リーゼさんに「聞こえている」と言われて背筋を伸ばした。


 夕方前、三方向へ使いが出た。


 ハルマ村へ向かう若者には、井戸番へ直接渡すよう伝えた。


 北沢集落への使いには、土袋を持ってきた井戸番の女性へ渡すよう頼んだ。


 ミード村へは、薬草係の老女宛てに、セリアが手紙を添えた。


『昨日の新芽について、写しを送ります。

まだ分からないことばかりです。

ですが、土を急がせないというお言葉で、試験区画を無理に進めずに済みました。

傷洗い草の反応について、ご意見をいただければ助かります』


 その手紙を封じる時、セリアは少し緊張していた。


 トマが横から言う。


「王都への紙より緊張してないか?」


「しています」


「なんで?」


「薬草を見る方に見てもらう方が、誤魔化せません」


 トマは少し考え、頷いた。


「なるほど。王都より怖いおばあちゃんか」


「そういう意味では……少し」


 セリアが小さく笑う。


 その笑いを見て、トマも少し安心したようだった。


 夜になって、王都から追加の小包が届いた。


 正確には、昨夜の緊急通知に続く、焼け残り資料片の写しだった。


 封筒は薄い。


 中に入っていたのは、焼け焦げた紙片を写したもの一枚だけ。


 文字のほとんどは欠けている。


 王都側の補注がついていた。


『黒薔薇工房旧資料庫焼失部より回収された焼け残り。

読解可能部分のみ写し』


 俺は紙を広げた。


 黒く焼けた縁。

 中央に残った、かすれた文字。


 そこに、短い一語があった。


『水腐れの核』


 広間の空気が固まった。


 セリアが、思わず手元の薬草記録を握る。


 トマが低く呟く。


「水腐れ……」


 ダリオさんは眉を深く寄せた。


「水脈腐食性災害反応の、旧称か」


 ニコルが慎重に紙を見る。


「焼け残ったのは、この言葉だけですか」


「ほぼそうです」


 俺は補注を読む。


『周辺文脈は焼失。

ただし、黒石災害封じ祠関連資料束内の紙片と推定。

“水腐れの核”は、封印対象を指す可能性あり。断定不可』


 断定不可。


 それでも、名前が出た。


 水脈を腐らせ、土壌保持を弱らせる災害反応。


 その旧称らしきもの。


 水腐れの核。


 トマが、明らかに嫌そうな顔をした。


「名前、短くなったけど、余計怖いな」


「はい」


 セリアは小さく頷いた。


「長い名前は性質を説明していました。でも、この名前は……昔の人が見た怖さそのものみたいです」


 リーゼさんが言う。


「水が腐る核」


「そうです」


 ダリオさんは焼け残り写しを見つめた。


「黒石災害封じ祠は、こいつを封じている。命令核は、その封印層に絡んでいる。なら、命令核を外す時に間違えたら、水腐れの核へ触る」


 広間に重い沈黙が落ちた。


 水腐れの核。


 名前が付いたことで、怖さが増した。


 見えないものより、名のあるものの方が怖い時がある。


 ニコルは新しい項目を台帳へ加えた。


『封印対象旧称候補:水腐れの核』


 その下に、小さく書く。


『断定不可。焼け残り資料片より。黒石災害封じ祠関連資料束内の紙片と推定』


 トマが見て、ため息をついた。


「断定不可、ほんと大事だな」


「はい」


 ニコルは頷く。


「でも、名前は残します」


 村長は目を閉じて、少し考えた。


「王都へ返す。写しを受け取ったこと。水腐れの核という旧称候補を、封印対象調査台帳へ追加したこと。薬草土壌緩衝帯の試験を急がず進めること」


「はい」


 俺は頷いた。


 その夜、リベル村では新たに四つ目の写し封筒が作られた。


『封印対象旧称候補・水腐れの核 保管写し』


 原本ではない。


 王都から来た写しの、さらに写し。


 それでも残す。


 燃える前に。

 消える前に。

 誰かの机の奥へ入る前に。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『王都黒薔薇工房旧資料庫焼失を受け、リベル村記録分散保管を開始。

原本は村、写しは周辺村、要約は王都、封印記録は地下工房。

ハルマ村、北沢集落、ミード村へそれぞれ写しを送付。

資料は一か所に置かない。記録を燃やしきれないものにする。

同日夜、王都より焼け残り資料片の写しが届く。読解可能語句:“水腐れの核”。

黒石災害封じ祠の封印対象旧称候補として台帳へ追加。断定不可』


 最後に書く。


『王都の資料庫は燃えた。

自然火災かもしれない。

そうでないかもしれない。

まだ断定しない。

だが、燃えたことは事実だ。

だからリベル村は、記録を分けた。

紙は燃える。

だから、人へ、村へ、土へ、水へ、写しを散らす。

そして焼け残った一語が、封じられたものに名を与えた。

水腐れの核。

森の奥に封じられているものの怖さが、少しだけ形を持った。』


 地上では、水車が回っている。


 その水は澄んでいる。


 だからこそ、腐らせてはならない。


 そのために、リベル村は燃えた紙の灰を見つめながら、次の記録を作り始めていた。

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