表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

137/173

第137話 水腐れの核

水腐れの核。


 その言葉は、朝になっても広間の机の上に残っていた。


 王都から届いた焼け残り資料片の写し。

 黒く欠けた縁。

 文脈のほとんどを失った紙。

 その中央に、かろうじて読み取れる一語。


 水腐れの核。


 昨日の夜、誰もその紙をすぐ封印箱へ入れられなかった。


 危険な反応が出たわけではない。

 中枢室が警告を鳴らしたわけでもない。


 ただ、名前が重かった。


 水脈腐食性災害反応。


 そう呼んでいた時は、まだ少し距離があった。性質を説明する言葉だったからだ。


 だが、水腐れの核という名は違う。


 昔の人間が、それを見て、恐れ、短く呼んだ名前のようだった。


 水が腐る。

 土が弱る。

 根が傷む。

 作物が枯れる。

 井戸が死ぬ。


 その中心にあるもの。


 トマは朝から妙に黙っていた。


 中央井戸の水面を覗き込んでから、ぽつりと言う。


「この水が腐るって、想像したくないな」


 ニコルは水温を測りながら頷いた。


「はい」


「濁るのとも違うんだよな」


「たぶん、違います」


 ニコルは記録板へ書き込んだ。


「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定」


 それを書いたあと、少し迷って欄外に小さく足した。


『水腐れの核旧称候補確認後、中央井戸異常なし』


 トマがその文字を見た。


「それも書くのか」


「はい。名前が分かっても、水はまだ澄んでいることを残します」


「そっか」


 トマは井戸の縁に手を置きかけ、やめた。


「触らない方がいいか?」


 ニコルは少し考えた。


「井戸の縁は大丈夫です。でも、今日は触らない判断も記録できます」


「いや、そこまでしなくていい」


 トマは苦笑した。


「俺、何でも未操作にしすぎだな」


「大事です」


「出た」


 少しだけ笑いが起きた。


 その小さな笑いに、中央井戸の空気が少し戻った。


 広間では、村長が昨日の写しをもう一度読んでいた。


 ダリオさんは机に腕を組み、目を細めている。


 セリアは、薬草予定地の朝記録を持ってきたところだった。


「傷洗い草本株、葉先青反応微弱。新芽、倒伏なし。薬草土壌小区画、土壌保持安定。昨夜から大きな変化はありません」


「よい」


 村長が頷く。


 セリアは机の上の紙へ視線を落とした。


「水腐れの核……」


 彼女がその名を口にすると、広間が少し静かになる。


 ダリオさんが言った。


「王都資料の焼け残りに出た旧称候補だ。まだ断定はしない」


「はい。でも、昨日の封印層外縁写しとは合います。水脈を通じて土壌保持を弱らせる。傷洗い草が嫌がる。止血草の葉も丸まった。全部、同じ方を向いています」


 ニコルがすぐに記録台帳を開く。


『水腐れの核・関連反応整理』


 一、封印層外縁写し:水脈腐食性災害反応。

 二、性質推定:水脈を通じて土壌保持を弱らせる。

 三、傷洗い草:葉先青反応、拒否反応の可能性。

 四、ミード村止血草:葉の丸まり、土壌不安定の可能性。

 五、黒石災害封じ祠:本来機能、災害封印。

 六、旧称候補:水腐れの核。断定不可。


 トマが台帳を覗き込む。


「こう並べると、だいぶ見えてきた感じがするな」


「見えすぎて怖いくらいです」


 ニコルは正直に言った。


 ダリオさんが頷く。


「怖い名前が出た時こそ、項目に分けろ。怖いまま眺めると、全部まとめて怪物になる」


「怪物じゃないんですか」


 トマが聞く。


「怪物みたいなものかもしれんが、少なくとも今は封印内にある災害反応だ。水か。土か。命令核か。封印層か。分けて見ないと、外すものと残すものを間違える」


 セリアが静かに言った。


「水腐れの核は、外すものではないんですね」


「ああ」


 ダリオさんは即答した。


「絶対に外すな。外すのは命令核だ。水腐れの核は封じたままにする」


 リーゼさんが壁際から言う。


「命令核は、その封印に絡んでいる」


「そこが最悪だ」


 ダリオさんは机に指で簡単な図を描いた。


 丸を一つ。

 その周りに輪。

 さらに外へ伸びる黒い線。


「中心が水腐れの核。周りが封印層。本来の黒石災害封じ祠は、ここで止めていた。だが後から命令核が絡んだ。封印層の力を使って、水脈管理命令へ転用した可能性がある」


 彼は外へ伸びる黒い線を指した。


「この線が、水土見守り基点や旧水路、水量板補助印へ繋がっていた。水土見守り基点は外した。旧水路は沈静中。水量板の補助印も見つけた。だが、根元の命令核はまだ残っている」


「命令核を切ればいい、とはいかない」


 俺が言うと、ダリオさんは頷いた。


「切り方を間違えると、封印層まで傷つく。封印層が傷つけば、中の水腐れが漏れる」


 トマが顔をしかめた。


「うわ、嫌な構造だな」


「嫌な構造だ」


 ダリオさんは否定しなかった。


「誰かがそうした。偶然じゃない。封印の力を使おうとした奴がいる」


 黒薔薇工房。


 その名前は誰も口にしなかったが、全員の頭に浮かんでいた。


 昼前、セリアはミード村へ送る手紙を書いた。


 昨日の薬草土壌緩衝帯の試験記録だけでは足りない。


 水腐れの核という旧称候補が出た以上、薬草を見る人の意見が必要だった。


 セリアは何度も書いては止めた。


 王都向けの文書ではない。

 だから難しい言葉は不要だ。


 でも、雑には書けない。


 迷った末、彼女はこう書いた。


『ミード村薬草係様。

王都で焼け残った資料片から、“水腐れの核”という言葉が見つかりました。

まだ断定ではありません。

ただ、黒石祠の奥に封じられているものが、水脈を通じて土を弱らせる災害反応である可能性が高くなっています。

傷洗い草は強く嫌がりました。

止血草の葉の丸まりとも、関係があるかもしれません。

水を急に流さず、土を落ち着かせる方法について、もう少し教えてください。

薬草土壌緩衝帯という小さな試験区画を作りました。

消すのではなく、揺れを受け止める土を作りたいです』


 書き終えると、セリアは小さく息を吐いた。


 トマが横から覗こうとして、リーゼさんに襟をつかまれた。


「勝手に見るな」


「いや、ちゃんとした手紙か気になって」


「ちゃんとしている」


「リーゼ、読んだのか?」


「読んでいない」


「なんで分かるんだよ」


「セリアが書いた」


 トマは一瞬黙り、それから頷いた。


「それはそうだな」


 セリアは少し頬を赤くした。


「そんなに大した手紙ではありません」


 ダリオさんが言う。


「大した紙かどうかは、受け取った相手が決める」


「……はい」


 手紙は、薬草土壌緩衝帯試験記録の写しと一緒にミード村へ送られることになった。


 午後、地下工房で中枢室への追加登録を行った。


 昨日届いた焼け残り資料片の写し。


 『水腐れの核』という旧称候補。


 これを登録するかどうか、少し議論になった。


 名前を登録することで、中枢室が反応を強める可能性がある。


 だが、登録しなければ照合が進まない。


 村長が決めた。


「短く。旧称候補として登録する。断定ではないと添えよ」


 セリアは青反応札を用意し、リーゼさんは手動閉鎖板の近くに立つ。

 ダリオさんは中枢室の表示を見て、俺は登録文を読み上げた。


『封印対象旧称候補。水腐れの核。王都黒薔薇工房旧資料庫焼け残り資料片より。断定不可』


 中枢室の黒紫が、ほんの少し揺れた。


 灰青の影が、柱の奥ににじむ。


 だが、前回ほど強くはない。


 表示が浮かび上がる。


《旧称候補:水腐れの核》

《封印対象照合度:上昇》

《性質:水脈腐食/土壌保持低下/根系損傷》

《封印状態:維持》

《残存命令核:封印層に癒着》

《命令核除去時:封印層損傷危険》


 ニコルが読み上げながら書く。


 その声が、一行ごとに重くなった。


「残存命令核、封印層に癒着……命令核除去時、封印層損傷危険」


 広間ではなく、地下工房の中だ。


 それでも、その言葉は村全体へ響いたように感じた。


 癒着。


 ただ絡んでいるだけではない。


 命令核と封印層が、剥がしにくい形でくっついている。


 トマが通信札越しに聞いていたらしく、声を上げた。


『癒着って、無理に剥がすと破れるやつだよな』


「そうです」


 俺は返事をした。


『最悪じゃん』


「はい」


 今度は否定できなかった。


 ダリオさんが表示を見ながら言う。


「これで確定したな。命令核分離は、ただの解除作業じゃない。封印層を傷つけない外科手術みたいなものだ」


「外科手術……」


 セリアが青反応札を握る。


「では、薬草土壌緩衝帯は必須ですね。もし少しでも封印層が揺れたら、受け止める場所が必要です」


「必須だ」


 ダリオさんは頷いた。


「それと、旧水路残滓封じも強化する。水腐れの核が水脈へ逃げるなら、旧水路は通り道になりかねない」


 リーゼさんが言う。


「森の安全経路も、今までとは違うな」


「はい」


 俺は表示を見つめた。


「残滓影だけではなく、灰青の滲み――水腐れ反応が出る可能性があります」


「鞘で止めるものではないか」


「たぶん、違います」


 リーゼさんは短く頷いた。


「なら、通さない方法を別に考える」


 それだけだった。


 だが、その言葉に不思議な安心感があった。


 リーゼさんは、分からないものを分からないまま斬ろうとはしない。


 通さないために、また方法を探す。


 それもリベル村が学んできたことだった。


 中枢室登録はそこで中止した。


 深掘りしない。

 癒着が分かっただけで、今日は十分だった。


 地上へ戻ると、薬草予定地へ向かった。


 傷洗い草の葉先は、昼より少し青が濃い。


 新芽は倒れていない。


 薬草土壌小区画は、静かに湿りを保っている。


 セリアは土に手を近づけ、目を閉じた。


「土壌保持、安定。新芽も無事です。でも、葉先は水腐れの核という名前に反応したのかもしれません」


 トマが聞く。


「名前だけで?」


「名前というより、中枢室が照合した反応に、かもしれません」


 ニコルが補足する。


「記録が増えると、中枢室の見え方が変わります。昨日もそうでした」


「記録って、便利だけど怖いな」


 トマの言葉に、セリアが頷いた。


「だから、急がないことが大事です」


 その後、薬草土壌緩衝帯の次の試験計画が作られた。


 次は、灰青反応写しを本当に微量だけ、薬草土壌小区画の外縁へ近づける。


 ただし、直接入れない。


 近づけるだけ。


 その時に、土壌保持がどう揺れるかを見る。


 トマが言う。


「近づけるだけって、また地味だな」


 ダリオさんが返す。


「地味だから生き残れる」


「それ、名言っぽい」


「名言じゃない。経験だ」


 ニコルが書きかけた。


 ダリオさんがすぐ止める。


「今のは書くな」


「村内記録なら」


「やめろ」


 少し笑いが戻った。


 夕方、王都への追加報告を作成した。


『封印対象旧称候補“水腐れの核”を中枢室へ登録。

照合度上昇。性質として、水脈腐食、土壌保持低下、根系損傷を表示。

封印状態は維持。

ただし、残存命令核が封印層に癒着しており、命令核除去時に封印層損傷の危険あり。

リベル村では、命令核分離作業を行う前提条件として、薬草土壌緩衝帯、旧水路残滓封じ強化、森の安全経路再確認を進める』


 ニコルが最後に付け加える。


『黒石災害封じ祠本体の破壊、および封印層開放は引き続き禁止事項として扱う』


 村長が頷いた。


「よい。強く書け」


 夜、俺は個人記録を書いた。


『水腐れの核。

王都焼け残り資料片より出た封印対象旧称候補。

中枢室登録により照合度上昇。

性質:水脈腐食、土壌保持低下、根系損傷。

封印状態は維持。

残存命令核が封印層に癒着。命令核除去時、封印層損傷危険。

黒石災害封じ祠は、水腐れの核を封じるための施設だった可能性が高い。

黒薔薇工房は、その封印構造を命令系統へ転用した可能性あり』


 筆を止める。


 水腐れの核。


 名前がついたことで、怖さは増した。


 だが、同時に見えたものもある。


 水脈を腐らせる。

 土壌保持を弱らせる。

 根を傷める。


 ならば、守るべき場所も分かる。


 水路。

 井戸。

 土。

 薬草の根。


 俺は最後に書いた。


『外すべきものは、残存命令核。

残すべきものは、水腐れの核を封じる封印層。

この二つが癒着している。

だから、次の作業は壊すことではない。

剥がすことだ。

ただし、破らずに。

薬草土壌緩衝帯は、その時のための受け皿になる。

水腐れの核の名は怖い。

だが、怖さの性質が見えたなら、守る場所も見える。』


 地上では、水車が回っている。


 その水はまだ澄んでいる。


 だからこそ、守らなければならない。


 森の奥で封じられた水腐れの核を、決して外へ出さないために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ