表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

135/173

第135話 証言は、人にも残る

翌朝、ニコルはいつもより早く地下工房にいた。


 中央井戸の朝記録を終えたあと、彼はそのまま村長宅へ戻らず、記録板と数枚の白紙を抱えて階段を下りた。


 中枢室の青白い光は、静かに柱の中心を通っている。


 外側の黒紫は低位。

 昨夜と変わらない。


 だが、表示の一行だけは、まだ消えずに残っていた。


《追加情報要求:王都技師組合除名記録》


 ニコルはそれを見上げ、しばらく黙っていた。


 人の記憶。


 紙ではないもの。

 刻印でもないもの。

 封印瓶に入れられる金属粉でもないもの。


 けれど昨日、ダリオさんの記憶証言を登録した瞬間、中枢室は黒薔薇工房施工痕の照合度上昇を示した。


 つまり、あれはただの昔話ではなかった。


 少なくとも、中枢室にとっては、照合に使える情報だった。


 ニコルは白紙の上に、何度か筆を置きかけて、やめた。


 最後に、ゆっくり書いた。


『記憶証言記録』


 その文字を見て、後ろから声がした。


「また新しい台帳か」


 ダリオさんだった。


 階段を下りてきたらしい。

 片手に湯気の立つ椀を持っている。


 ニコルは少し驚いて振り返った。


「おはようございます」


「おはよう。で、それは何だ」


「記憶証言記録です」


「見れば分かる」


 ダリオさんは椀を机に置いた。


「俺の負け話専用か?」


「違います」


 ニコルは即答した。


「人の記憶を、断定ではなく照合候補として扱うための分類です」


 ダリオさんは眉を上げた。


「ずいぶん難しいことを言うようになったな」


「昨日、必要だと思いました」


 ニコルは白紙を見つめる。


「紙の記録は強いです。でも、紙は燃えます。没収されます。並べ替えられます。刻印は削られます。でも、人が見たものが残っていることもあります」


「人の記憶は間違う」


「はい」


 ニコルは頷いた。


「だから、断定には使いません。記憶だけで誰かを裁かない。でも、記憶を捨てたら、照合の入口も消えます」


 ダリオさんはしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ笑う。


「本当に記録係になったな」


「仮です」


「まだ言うか」


「正式にすると、怖いので」


「怖いままでも、もうやってるだろ」


 ニコルは返事に困ったように筆を見た。


 その時、セリアが階段を下りてきた。


 手には薬草予定地の朝記録を持っている。


「お二人とも、早いですね」


「こいつが新しい怖い台帳を作ってる」


 ダリオさんが言うと、ニコルは慌てた。


「怖い台帳ではありません」


 セリアは見出しを見て、静かに頷いた。


「記憶証言記録……いいと思います」


「いいのか?」


 ダリオさんが聞くと、セリアは少し考えてから答えた。


「薬草を見る時も、全部が数字になるわけではありません。昨日より葉が硬い、とか、土が落ち着かない、とか。曖昧だけど、捨てると見落とすものがあります」


「俺の記憶も葉っぱ扱いか」


「大切な観察記録です」


 セリアは真顔で言った。


 ダリオさんは、からかう言葉を探したようだったが、結局見つからなかったらしい。


「……そうか」


 短く答えただけだった。


 広間へ戻ると、村長と俺、リーゼさん、トマも集まっていた。


 ニコルは新しい台帳を机に置き、少し緊張した顔で説明を始めた。


「記憶証言記録を作りたいです」


 トマがすぐに聞く。


「記憶証言?」


「はい。紙や物証ではなく、人の記憶として残っている情報を記録します。ただし、断定には使いません。照合候補として扱います」


 トマは腕を組んだ。


「たとえば、ダリオさんが昔見た黒い印?」


「はい。他にも、ハルマ村の井戸番さんが最初に濁りを見た時の記憶、ミード村の薬草係さんが葉の丸まり方を覚えていたこと、北沢の井戸番さんの土の冷えの感覚。全部、紙になる前は人の記憶です」


 リーゼさんが静かに言う。


「記憶は、人にも残る」


「はい」


 ニコルは頷いた。


「でも、人に残るものは揺れます。だから、記録する時に決まりを作ります」


 彼は台帳の最初のページを開いた。


『記憶証言記録の扱い』

 一、証言者本人の言葉をできるだけ残す。

 二、日時、場所、当時の立場を明記する。

 三、証言者が「確か」と言える部分と「たぶん」と言う部分を分ける。

 四、断定には使わず、照合候補として扱う。

 五、物証、紙記録、中枢室反応、他者証言と照合する。

 六、証言者を責めるためではなく、消された記録の入口を残すために使う。


 読み終えると、広間は少し静かになった。


 村長がゆっくり頷く。


「よい」


 その一言で、ニコルの肩が少し下がった。


 ダリオさんは腕を組み、目を伏せていた。


「消された記録の入口、か」


「はい」


 ニコルは小さく答える。


「ダリオさんの手控えが没収されたなら、残っている入口はダリオさんの記憶です。そこから王都の除名記録や没収記録へ繋げます」


 トマが言う。


「人を責めるためじゃないって、そこ大事だな」


「はい。記憶違いもありますから」


「俺、昔のこと結構間違えるしな」


 ダリオさんがすかさず言った。


「最近のことも怪しいぞ」


「ひどい」


「水量板を触らなかったことは覚えてるだろ」


「それは一生覚えてる」


 少し笑いが起きた。


 その笑いが、重くなりすぎた空気をほどいた。


 昼前、王都へ送る新しい照会文が完成した。


 題名は、


『黒薔薇工房施工痕および記憶証言に基づく照合候補提出』


 だった。


 内容には、三つの柱があった。


 一つ目は、ダリオの記憶証言。


 王都技師組合時代、旧水脈事業資料に黒薔薇工房印と思われる棘蔓印と、水脈管理資料としては不自然な命令補助線を見たこと。


 二つ目は、物証側の照合。


 旧水量板裏面の黒色金属粉。

 侯爵家金属資料の削除刻印。

 黒薔薇工房印の一部一致。

 中枢室の照合度上昇。


 三つ目は、王都への確認要求。


 ダリオの除名記録。

 没収された手控えの保管状況。

 黒薔薇工房資料棚の閲覧禁止措置。

 外部監査役カリム・ロッサの所属。


 ニコルは最後に、慎重な一文を書き加えた。


『本記憶証言は断定根拠ではなく、照合候補として提出する。紙記録および物証による確認を求める』


 ダリオさんはそれを読んで、少しだけ目を細めた。


「いい紙だ」


「本当ですか」


「ああ。俺の昔話を都合よく盛ってない」


 ニコルはほっとしたように息を吐いた。


「盛ったら駄目なので」


「そこがいい」


 セリアは別の紙を用意していた。


 薬草土壌緩衝帯の小規模試験記録だ。


「王都へ送る照会とは別に、ミード村にも写しを送っていいですか」


「薬草係さんへ?」


 俺が聞くと、セリアは頷いた。


「はい。傷洗い草の新芽と、土壌保持揺れ受容の反応について、見てもらいたいです。王都より先に、薬草を見る人へ確認した方がいいこともあります」


 村長は即座に頷いた。


「送れ」


 トマが笑う。


「王都とミード村、両方に紙が行くのか」


「はい」


 セリアは少しだけ微笑んだ。


「責任の紙は王都へ。土の紙は、土を見る人へ」


 ニコルがその言葉を聞き逃さず、欄外に書いた。


 セリアが慌てる。


「それは正式記録ではなくて」


「村内記録です」


「それなら……」


 最近、全員が少しずつ「残される」ことに慣れてきている。


 恥ずかしい言葉も。

 迷った判断も。

 失敗未満も。

 怖かった気持ちも。


 記録されるのは、完璧だったからではない。


 次に同じ場所へ来た誰かが、間違えないためだ。


 午後、王都から逆に早馬が来た。


 リベル村の照会文を出す準備をしている最中だったため、広間の全員が顔を上げる。


 使者は息を切らしていた。


 封蝋は行政庁。


 赤札がついている。


『緊急通知』


 嫌な予感がした。


 村長が封を切るよう目で促す。


 俺は文面を開いた。


『王都行政庁より緊急通知。

黒薔薇工房旧資料庫の一部にて、昨夜遅く火災発生。

火は短時間で鎮火したが、旧水脈事業関連資料の一部が焼失。

詳細調査中。

リベル村より先に提出されていた黒薔薇工房印復元図、侯爵家金属資料写し、水量板反応写しについては、行政庁別室保管のため無事。

ただし、黒薔薇工房旧資料庫本体の資料には損傷あり』


 広間が完全に静まり返った。


 最初に声を出したのは、トマだった。


「都合よく燃えすぎだろ」


 今度は誰もすぐには止めなかった。


 ダリオさんの顔から、いつもの軽さが消えている。


「燃えたか」


 低い声だった。


 セリアが口元に手を当てる。


「資料庫が……」


 ニコルは、紙を見つめたまま青ざめていた。


「記録が、燃える……」


 その声が小さかったからこそ、広間に重く落ちた。


 記録は強い。


 だが、燃える。


 没収される。


 消される。


 だから写しがいる。

 分散がいる。

 人の記憶も、入口として残さなければならない。


 さっき作ったばかりの記憶証言記録の意味が、いきなり別の重さを持った。


 俺は続きを読んだ。


『なお、火災原因について、ローゼン侯爵家側は老朽化した資料庫における自然火災の可能性を主張。

行政庁および防衛局は原因調査を開始。

外部監査部は、リベル村より提出予定の追加照会および記憶証言記録を受領次第、焼失前資料との照合可能部分を再確認する意向』


 ダリオさんが机に手を置いた。


 叩きはしない。


 ただ、指先に力が入っている。


「自然火災、ね」


 トマが低く言う。


「怒るけど、記録する」


 ダリオさんが頷いた。


「ああ。怒るけど、記録だ」


 ニコルは震える手で新しい紙を出した。


『王都黒薔薇工房旧資料庫火災記録』


 書き始める。


 一、発生日。

 二、焼失範囲。

 三、行政庁別室保管資料は無事。

 四、ローゼン侯爵家側は自然火災の可能性を主張。

 五、行政庁・防衛局が原因調査。

 六、外部監査部がリベル村追加照会との照合予定。


 書きながら、ニコルは唇を噛んでいた。


「写しを……もっと分けないと駄目です」


 彼は顔を上げた。


「リベル村の記録も、一か所に置くのは危険です」


 村長が頷く。


「言え」


「原本は村に残します。写しはハルマ村、北沢集落、ミード村へ分散。要約は王都。封印記録は地下工房。薬草記録はセリアさんの管理写し。旧水路記録はトマさんの水路班写し。全部、同じ場所に置かない方がいいです」


 トマが驚いた顔をした。


「俺も写し持つのか」


「水路班の記録は、トマさんが見た方が早いです」


「責任重大だな」


「はい」


 トマは一瞬不安そうになったが、すぐに頷いた。


「分かった。燃やさない」


 ダリオさんが言う。


「まず濡らすな」


「そっちか」


「水路担当だからな」


「気をつける」


 こんな時でも、少し笑いが起きた。


 でも、その笑いはすぐに消えた。


 王都で資料庫が燃えた。


 偶然かもしれない。


 老朽化かもしれない。


 だが、あまりにもタイミングが良すぎる。


 黒薔薇工房の名が出て、ダリオの記憶証言が出て、除名記録の照会を作った直後。


 燃えた。


 村長は静かに言った。


「こちらの紙を、すぐ送れ。記憶証言も、照会も、分散保管案もじゃ」


「はい」


 ニコルが返事をした。


 そして、少しだけ声を震わせながら言った。


「燃える前に、届くものを増やします」


 その日の夕方、三方向へ使いが出た。


 王都へは、黒薔薇工房施工痕の追加照会と、ダリオ記憶証言記録。


 ハルマ村へは、現地公開確認記録の写しと、黒石祠安全保全要約。


 北沢集落へは、旧水路・水量板関係の要約写し。


 ミード村へは、薬草土壌緩衝帯試験記録と、傷洗い草新芽の写し。


 記録が村を出ていく。


 失われないために。


 散らばるために。


 夜、地下工房でニコルは封印箱を前にしていた。


 俺も一緒だった。


 箱の中には、今日の記録が入っている。


 記憶証言記録。

 王都火災通知。

 分散保管表。


 ニコルは箱の蓋を閉じる前に、小さく言った。


「記録は、強いと思っていました」


「はい」


「でも、燃えるんですね」


「燃えます」


 俺は答えた。


「だから、写します。分けます。人にも残します」


 ニコルは少しだけ目を伏せた。


「怖いです」


「僕も怖いです」


「でも、やります」


「はい」


 ニコルは蓋を閉じ、封印札を貼った。


 その手は震えていたが、止まらなかった。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『記憶証言記録の分類を作成。

人の記憶は断定根拠ではなく、照合候補として扱う。本人の言葉、日時、場所、当時の立場、確かな部分と曖昧な部分を分ける。

ダリオ記憶証言を王都へ送付準備。

同日午後、王都より緊急通知。黒薔薇工房旧資料庫の一部が火災により焼失。行政庁別室保管資料は無事。ローゼン侯爵家側は自然火災の可能性を主張。行政庁・防衛局が調査開始。

リベル村では記録分散保管を決定。原本は村、写しは周辺村、要約は王都、封印記録は地下工房』


 最後に書く。


『証言は、人にも残る。

紙が燃えるなら、写しを作る。

写しが奪われるなら、別の村へ渡す。

刻印が削られるなら、見た人の記憶を照合候補として残す。

記録は一枚の紙ではない。

人と村と水と土に分けて残すものだ。

今日、王都で資料庫が燃えた。

だからリベル村は、記録を散らすことを決めた。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は、いつもより少し遠く聞こえた。


 王都で燃えた紙の匂いは、ここまでは届かない。


 けれど、その火は確かにリベル村の記録棚まで影を落としていた。


 だからこそ、明日から記録は村の外へも広がる。


 燃え残るためではなく、燃やしきれないものになるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ