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第129話 侯爵家の刻印、欠けた半分

王都からの返書が届いたのは、旧水量板裏面の反応写しを送ってから二日後の昼だった。


 その日は朝から、旧水路の水が妙に澄んでいた。


 黒い粒子が完全に消えたわけではない。けれど、青土封じ札を置いてから、粒子の浮き上がりは明らかに減っている。


 トマは水量板の前に立ち、いつものように腕を組んでいた。


 以前なら「水量板、未操作」と声に出していたところだが、最近は言わない時も増えた。


 言わなくても見ている。

 見ているから、触らない。

 触らないから、残ったものが見える。


 それを自分でも少し分かってきたのだろう。


 ただ、王都から使者が来たと聞いた瞬間、トマは水路から全力で戻ってきた。


「走るなって言われる前に言っとく! 急いで歩いた!」


 息を切らしながらそう言うものだから、ダリオさんが呆れた顔をした。


「それは急いで歩いた顔じゃない」


「途中までは歩いた」


「途中から走ったな」


「気持ちが走った」


「足も走ってる」


 そんなやり取りを横に、村長宅の広間では封書が机の上に置かれていた。


 封蝋は行政庁。

 添え印は外部監査部、防衛局。

 さらに、今回はもう一つ、古い工房記録照合室の小印が押されていた。


 ニコルがそれを見て、少し緊張した顔になる。


「照合室印です」


「王都の金属板と、水量板裏の反応写しを照合した結果でしょうね」


 俺が言うと、ダリオさんは腕を組んだまま低く息を吐いた。


「来たか」


 村長が頷く。


「読め」


 封を切る。


 紙は数枚あった。


 最初の一枚は行政庁からの通達。

 二枚目は外部監査部の技術照合概要。

 三枚目に、復元図の写しが添えられていた。


 俺はまず、一枚目を読み上げた。


『リベル村より提出された旧水量板裏面採取粉反応写し、および王都共同封印中の侯爵家金属資料について、初期照合を実施した。

現段階の照合結果として、両者はいずれも旧式命令補助印系統に属する可能性が高い。

また、侯爵家金属資料裏面に削り取られていた家紋状刻印について、部分復元を行ったところ、ローゼン家旧水脈事業記録に残る工房印の一部と一致する箇所を確認した』


 トマが机に手を置きかけて、止めた。


 自分で手を引っ込める。


「……叩いてない」


 ダリオさんが小さく言った。


「偉い」


「それどころじゃないだろ」


「それでも偉い」


 ニコルはもう筆を走らせている。


 セリアは文面をじっと見つめていた。


「ローゼン家旧水脈事業記録……」


 俺は頷いた。


「ただし、続きがあります」


 読み進める。


『一致した工房印は、現ローゼン侯爵家本家印ではない。

旧水脈事業の一部を担当していた分家筋技師工房の印であり、王都資料上の名称は、黒薔薇工房。

黒薔薇工房は、現在は廃止扱いとなっている』


 広間の空気が、そこで止まった。


 黒薔薇工房。


 名前からして、嫌な響きがあった。


 トマが顔をしかめる。


「黒薔薇って……いかにも悪そうなんだけど」


 ダリオさんは少しだけ苦い顔をした。


「名前だけで悪と決めるな。……と言いたいところだが、今回は趣味が悪いな」


 ニコルが記録板に書く。


『黒薔薇工房。旧水脈事業担当。ローゼン家分家筋技師工房。現在廃止扱い』


 彼は筆を止めずに続けた。


「本家ではなく、分家筋。現在は廃止扱い。つまり、ローゼン侯爵家側は“今の本家の責任ではない”と言う可能性がありますね」


 ダリオさんが頷いた。


「言うだろうな。古い工房が勝手にやった。今は存在しない。現侯爵家は知らない。そういう紙が来る」


「嫌な予想が早いですね」


「王都の嫌な紙は、だいたい形が決まってる」


 リーゼさんが静かに聞いた。


「だが、その工房がローゼン家の水脈事業に関わっていたことは確かか」


「王都の資料上は、そうです」


 俺は二枚目を見た。


「外部監査部の技術照合概要を読みます」


 紙を持ち替える。


『外部監査部初期所見。

侯爵家金属資料表面の旧式命令補助印と、リベル村旧水量板裏面採取粉に残る反応は、完全一致ではないが、同系統の設計思想を示す。

侯爵家金属資料は中核印に近く、旧水量板裏面採取粉は水流変化検知用の派生補助印と推定される。

双方に共通する欠けた施工者痕は、黒薔薇工房印の一部と照合可能。

ただし、現段階では施工者個人、施工時期、現ローゼン侯爵家の指示系統までは断定不可』


 ダリオさんが腕を組んだまま、目を細める。


「外部監査部らしい書き方だ」


「慎重ですね」


「慎重だが、かなり踏み込んでる。完全一致ではない。同系統。中核印と派生補助印。施工者個人は未断定。だが、黒薔薇工房印の一部と照合可能」


 トマが頭をかいた。


「難しい。つまり?」


 セリアが、紙を見ながらゆっくり言った。


「王都へ持ち込まれた金属板と、リベル村の水量板の裏に残っていたものは、同じ技術の系統かもしれない。でも、まったく同じものではない」


「ふむ」


「金属板は中心に近いもの。水量板の裏のものは、水の流れを拾うための補助。どちらにも、同じ工房の印の一部が残っている」


「おお、分かった」


 トマはセリアを見て、素直に感心した。


「セリアの説明、最近ほんと分かりやすいな」


「私も、まだ全部分かっているわけではありません」


「分からないって言いながら説明うまいの、ずるいな」


 セリアは少し困ったように笑った。


 ニコルが復元図の写しを広げる。


 紙には、金属板裏面の削り取られた刻印の復元線が描かれていた。大部分は欠けている。削られて、潰され、読めない。


 それでも、残った曲線と小さな棘のような模様が、別紙の工房印と重ねられている。


 黒い薔薇を簡略化したような印。


 ただの花ではない。


 蔓が水路のように伸び、その周囲に小さな点が並ぶ。


 ダリオさんはその図を見た瞬間、顔を変えた。


「……見たことがある」


 広間が静かになる。


 ニコルの筆が止まった。


 俺はダリオさんを見る。


「どこでですか」


 彼はすぐには答えなかった。


 指先で復元図の端を押さえ、目を細める。


「王都だ。技師組合にいた頃、古い資料の整理で……いや、たぶんその時だ」


「黒薔薇工房の資料ですか」


「名前までは覚えてない。ただ、この蔓みたいな線と、薔薇の棘の印は見た」


 トマが身を乗り出す。


「師匠、それ大事なんじゃ」


「師匠じゃない」


 反射で訂正したが、声に力はなかった。


 ダリオさんは図から目を離さない。


「だが、記憶だけだ。今すぐ証拠にはならん」


 ニコルが静かに言った。


「記憶証言として記録できます」


 ダリオさんが顔を上げた。


「記憶証言?」


「はい。井戸番さんの言葉や、薬草係さんの絵と同じです。断定には使わない。でも、照合候補にはなります」


 ダリオさんは一瞬、何か言い返そうとした。


 だが、結局何も言わなかった。


 ただ、小さく息を吐く。


「あとで話す」


「はい」


 ニコルはそう言って、記録板に短く書いた。


『ダリオ、黒薔薇工房印に類似する印を技師組合時代に見た記憶あり。後ほど記憶証言として聴取予定』


 トマが小声で言う。


「聴取って言うと怖いな」


 ニコルは真面目に返した。


「大事なので」


「それ、万能だな」


 村長は王都からの通達を最後まで読んでいた。


「王都は何と言っておる」


「責任追及はまだです」


 俺は答えた。


「ただ、ローゼン侯爵家へ再照会を始めるとあります」


 読み上げる。


『行政庁は、ローゼン侯爵家に対し、黒薔薇工房に関する旧水脈事業記録、金属資料の保管経緯、ならびに現地確認へ持ち込んだ理由について再照会を行う。

リベル村においては、安全確認を優先し、旧水路残滓および水量板補助印に関する現地保全を継続されたい』


 村長はゆっくり頷いた。


「よい。責任は王都が追えばよい。こちらは安全を見る」


 ニコルが顔を上げる。


「それ、分けた方がいいですね」


「何をじゃ」


「責任の紙と、安全の紙です」


 広間の全員がニコルを見る。


 ニコルは少し緊張したが、続けた。


「ローゼン侯爵家や黒薔薇工房が何をしたかを追う紙は、責任の紙です。王都が中心になるべきです。でも、黒石祠本体がどう反応するか、旧水路に何が残っているか、水量板をどう保全するかは、安全の紙です。これはリベル村が中心で書く必要があります」


 ダリオさんが、感心したように口元を緩めた。


「水土記録係、本当に仕上がってきたな」


「仮です」


 ニコルはいつも通り訂正したが、少しだけ顔が赤い。


 セリアも頷いた。


「責任追及に引っ張られすぎると、現地の水と土を見るのが遅れます。分けるのは大事だと思います」


 リーゼさんが言う。


「怒りと警戒も分けた方がいい」


 トマが少し驚いた顔をした。


「それ、俺に言ってる?」


「全員にだ」


「俺にもだよな」


「もちろん」


 トマは苦笑した。


「分かった。怒る紙と、安全の紙を分ける」


「怒る紙は作るな」


 ダリオさんが即座に言う。


「え、駄目?」


「駄目だ。怒りは記録に混ぜると読みにくい」


「じゃあ、心の中に置いとく」


「それでいい」


 村長は杖を鳴らした。


「方針は決まった。責任の紙は王都へ渡す。安全の紙は村で進める」


 その日の午後、ニコルは二冊の台帳を作った。


 一冊目。


『黒薔薇工房関連責任照合台帳』


 内容は、王都返書、金属板復元図、ローゼン家旧水脈事業記録の写し、ダリオの記憶証言予定、水量板採取粉との照合項目。


 二冊目。


『黒石祠・旧水路安全保全台帳』


 内容は、旧水路残滓反応、青土封じ札の設置状況、水量板未操作記録、水量板裏面採取粉、黒石祠残存命令核の新規反応先候補。


 トマがその二冊を見比べる。


「責任の紙と、安全の紙、本当に分かれたな」


「はい」


「俺はどっちに出てくる?」


「両方です」


「え」


 ニコルは真面目に説明した。


「水量板を未操作で保全したことは安全の紙。水量板裏面の補助印を見つけたことは責任照合にも関わります」


「俺、思ったより重要人物じゃん」


 ダリオさんが言う。


「調子に乗るな」


「乗りかけた」


「止まれ」


「止まった」


 そのやり取りに、少しだけ笑いが起きた。


 ただ、ダリオさんだけはまだ復元図を気にしていた。


 夕方、彼は一人で地下工房に下りようとしていた。


 リーゼさんが階段の前で止める。


「一人で行くな」


「地下工房だぞ。森じゃない」


「今の顔は、森へ入る時と同じだ」


 ダリオさんは一瞬黙った。


 そこへ、セリアが来た。


「ダリオさん。記憶証言は、急がなくてもいいです」


「記憶なんて、後にすると曖昧になる」


「でも、無理に掘ると傷みます」


 セリアの言葉に、ダリオさんは苦笑した。


「薬草みたいに言うな」


「似ています」


「俺の記憶が土か?」


「少なくとも、乱暴に掘らない方がいいものです」


 ダリオさんは少し困った顔をした。


 だが、階段を下りるのはやめた。


「分かった。明日話す」


 リーゼさんが頷く。


「それでいい」


 王都への返書には、ニコルの提案通り、二つの台帳形式で回答することにした。


『黒薔薇工房関連責任照合については、王都行政庁の再照会に協力する。

一方、リベル村では現地安全確保を優先し、旧水路残滓および水量板補助印の保全を継続する。

責任照合と安全保全を混同せず、記録を分けて提出する』


 村長はその一文を読んで、満足そうに頷いた。


「よい。怒りで水を濁らせぬための紙じゃ」


 トマが小声で言う。


「怒りで水って濁るのか?」


 セリアが答えた。


「人の判断は濁ります」


「なるほど」


 夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。


『王都より、侯爵家金属資料および旧水量板裏面採取粉の初期照合結果が届く。

両者はいずれも旧式命令補助印系統に属する可能性が高い。

侯爵家金属資料は中核印に近く、水量板裏面採取粉は水流変化検知用の派生補助印と推定。

双方に共通する欠けた施工者痕は、黒薔薇工房印の一部と照合可能。

黒薔薇工房は、ローゼン家分家筋の旧水脈事業担当技師工房。現在は廃止扱い。

現ローゼン侯爵家の意図的関与は未断定』


 続けて書く。


『ニコルの提案により、責任の紙と安全の紙を分ける。

責任追及は王都中心。

安全保全はリベル村中心。

ダリオは、黒薔薇工房印に類似する印を王都技師組合時代に見た記憶があると発言。後日、記憶証言として記録予定』


 最後に、筆を少し止めた。


 黒薔薇工房。


 削られた刻印。


 水量板の裏に残った印。


 ダリオの記憶。


 線が増えるたびに、黒石祠はただの古い危険施設ではなくなっていく。


 誰かが、守るためのものを、命令するためのものに変えた。


 その疑いが濃くなっていく。


 俺は最後に書いた。


『侯爵家の刻印は、欠けていた。

削られていた。

だが、欠けた半分が王都の金属板に残り、もう半分がリベル村の水量板に残っていたのかもしれない。

責任を追う紙と、安全を守る紙を分ける。

怒りで判断を濁らせないために。

次は、黒石祠の本来名を見ることになる。

黒石祠は、最初から悪だったのか。』


 地上では、水車が回っている。


 その音は変わらない。


 けれど、その水を誰かが命令の材料にしようとした痕跡は、少しずつ紙の上に浮かび上がっていた。

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