第130話 黒石祠は、最初から悪だったのか
その日の朝、リベル村の中央井戸は静かだった。
水面に濁りはない。
風が弱いせいか、井戸の底に映る空まで揺れていなかった。
ニコルはいつも通り記録板を開き、声に出して確認する。
「朝。中央井戸、水温正常。濁りなし。匂いなし。青反応、微弱安定」
村長が水面を覗き、短く頷く。
「よい」
それだけで、村の一日は始まる。
けれど、広間へ戻った時、全員の顔には少し重いものが残っていた。
昨日届いた王都からの照合結果。
ローゼン家分家筋の旧水脈事業担当技師工房――黒薔薇工房。
侯爵家金属資料と、リベル村の旧水量板裏面に残っていた黒色金属粉。
その双方が、同じ旧式命令補助印系統に属する可能性が高い。
責任の紙と、安全の紙を分ける。
そう決めたばかりだった。
だが、その翌朝に届いた追加資料は、さらに別の問いを村へ投げ込んできた。
黒石祠は、最初から悪だったのか。
王都行政庁からの追加便は、朝食が終わる頃に届いた。
使者は昨日ほど急いでいなかったが、封書には「照合資料写し」と赤い札がついている。
封蝋は行政庁。
添え印は外部監査部。
そして、古い工房記録照合室の印。
ニコルが封筒を受け取った瞬間、顔を引き締めた。
「黒薔薇工房関係ですね」
「だろうな」
ダリオさんは椀を置いた。
今日は豆の汁が残っている。
珍しい。
それだけ、彼も落ち着かないのだろう。
村長が封書を机に置く。
「読め」
俺は封を切った。
中には、王都で見つかった古い資料の写しが入っていた。
紙は古く、文字もかすれている。
ところどころ欠けており、王都側の補注が欄外に加えられている。
最初の表題を読んだ瞬間、広間の空気が変わった。
『黒石災害封じ祠 旧管理覚書』
トマが小さく呟く。
「黒石……災害封じ祠?」
俺も、もう一度見た。
黒石祠ではない。
黒石災害封じ祠。
それが、王都資料に残っていた旧称だった。
セリアがゆっくり口を開く。
「災害を……封じる祠、ですか」
「はい」
俺は続きを読んだ。
『本祠は、地域水脈の腐食、土壌毒化、魔力滞留による作物枯死を防ぐため、旧水脈封印事業の一環として設置されたものと推定される。
本来用途は、災害反応の封じ込めおよび周辺水土への影響遮断。
後年、黒薔薇工房系資料において、水脈管理命令系との接続試験記録あり。
ただし、当該試験の完了記録、廃止記録、責任者署名は焼失または欠落』
読み終えたあと、誰もすぐには言葉を出さなかった。
黒石祠。
俺たちは、それを危険なものとして扱ってきた。
実際、危険だった。
水土見守り基点を命令線で縛り、井戸や土を乱し、残滓影を生み、いまも残存命令核が新しい反応先を探している。
けれど、王都の古い資料は言っている。
黒石祠は、本来、災害を封じる施設だった。
最初から村を傷つけるためのものではなかった。
トマが、困ったように頭をかいた。
「じゃあ、あいつも元は守る側だったのか?」
誰も笑わなかった。
セリアは机の上の写しを見つめている。
リーゼさんは腕を組んだまま、森の方角を見ている。
ダリオさんは顔をしかめ、しかし何かを否定するでもなく、ただ黙っていた。
村長が低く言った。
「守るものが、命令するものへ変えられたか」
「その可能性があります」
俺は答えた。
「水土見守り基点と同じです。本来は見守る施設だった。でも、黒石祠に同期干渉され、命令線の一部にされていた。黒石祠も、本来は災害封じだったものが、命令核によって転用された可能性があります」
トマが顔をしかめる。
「ややこしいな。悪いやつを倒せば終わり、じゃないのか」
「違うようです」
セリアが静かに言った。
「もし黒石祠が災害を封じているなら、壊したら中の災害が出るかもしれません」
その言葉で、広間が一段冷えた。
リーゼさんが言う。
「だが、今の黒石祠は人を傷つける命令を出している」
「はい」
セリアは頷いた。
「だから、今のままにはできません。でも、悪いものとして全部壊すのも違うのだと思います」
ダリオさんが深く息を吐いた。
「最悪に面倒なやつだな」
トマが聞く。
「面倒?」
「悪いところだけ外して、残すべきところを残す必要がある」
「修理じゃん」
「そうだ」
ダリオさんは、少しだけ俺を見た。
「レオンの一番嫌いで、一番得意なやつだ」
「嫌いとは言っていません」
「顔が言ってる」
否定できなかった。
壊れた才能を直す。
壊れた仕組みを直す。
壊された役目を戻す。
それは俺の力の中心にある。
けれど、黒石祠は道具でも人でもない。
災害を封じる施設でありながら、命令装置へ転用されている。
しかも、その内部に何が封じられているのかは、まだ分からない。
間違えれば、水脈も土も村も傷つく。
ただ壊すより、ずっと難しい。
ニコルは、資料の欄外補注を読み込んでいた。
「ここに、“水脈腐食”“土壌毒化”“魔力滞留”とあります。昨日の核影調査で見えた内部封印層と関係があるかもしれません」
「はい」
俺は中枢室の前回表示を思い出す。
黒石祠本体内部封印層。
封印対象不明。
そこに封じられているものが、黒石災害封じ祠の本来の対象だとすれば、絶対に不用意に触れてはいけない。
村長は資料をゆっくり机に置いた。
「方針を変える必要があるな」
広間の全員が村長を見る。
「黒石祠を解除する、では足りぬ。黒石祠を壊す、でもない。命令核を外し、本来の封印機能を残せるかを調べる」
ダリオさんが頷く。
「そうなる。外すべきは、命令核。残すべきは、災害封印層。ただ、その境目がまだ見えてない」
セリアが言う。
「薬草予定地の土壌保持線は、何かの役に立つでしょうか」
「立つ可能性は高い」
俺は答えた。
「水土見守り基点を取り戻す時も、薬草予定地の青反応が本来導線を支えました。もし封印対象が水や土を傷つける災害なら、薬草土壌の反応は対抗手段になるかもしれません」
セリアは、膝の上で手を握った。
「なら、もっと薬草側の記録を増やします。傷洗い草だけでなく、ミード村の止血草記録とも合わせます」
トマが少し心配そうに見る。
「無理するなよ」
セリアは意外そうに瞬いた。
「トマさんに言われるとは思いませんでした」
「俺も成長してるからな」
ダリオさんが即座に言う。
「調子に乗るな」
「乗りかけた」
「止まれ」
「止まった」
少しだけ笑いが起きた。
笑えるだけ、まだ大丈夫だった。
ニコルは新しい台帳を開いた。
表紙に、少し迷ってから文字を書く。
『黒石災害封じ祠・本来機能調査台帳』
書き終えた彼は、自分でその文字を見つめた。
「これで、黒石祠の扱いが変わりますね」
「はい」
俺は頷いた。
「危険な命令装置としてだけでなく、本来は災害封じだった施設として調べる必要があります」
ニコルはさらに項目を書いていく。
一、本来名。黒石災害封じ祠。
二、本来機能。水脈腐食、土壌毒化、魔力滞留の封じ込め。
三、後年改変。黒薔薇工房系資料に水脈管理命令系との接続試験記録。
四、現状態。残存命令核により封印機能転用の疑い。
五、内部封印層。未確認。
六、対応方針。破壊不可。命令核分離と封印層保全を検討。
トマが横から覗き込む。
「破壊不可って、はっきり書くんだな」
「はい」
ニコルは真面目に答えた。
「書かないと、誰かが“壊せばいい”と言うかもしれないので」
リーゼさんが静かに頷く。
「書いておくべきだ」
戦う人間の彼女が、破壊不可という文字を否定しない。
それが、この問題の難しさを示していた。
昼前、俺たちは地下工房へ降りた。
王都資料を中枢室に登録するためだ。
もちろん、登録にも危険がある。
黒石祠本体の本来名に近い情報を入れた時、中枢室がどう反応するか分からない。
だから、登録は短く、段階的に行う。
セリアは青反応札を用意し、リーゼさんは入口で警戒。
ダリオさんは手動閉鎖板のそば。
ニコルは記録。
トマは旧水路班と連絡が取れる位置に立った。
俺は資料写しの最初の一文だけを、中枢室へ読み込ませる。
『黒石災害封じ祠』
結晶柱の黒紫が、ぴくりと揺れた。
だが、暴れない。
青白い水土見守り基点の光も維持されている。
表示が浮かぶ。
《名称照合中》
《旧称候補:黒石災害封じ祠》
《照合度:上昇》
《本来機能記録:不足》
《追加情報要求》
「追加情報要求」
俺は二文目を登録する。
『地域水脈の腐食、土壌毒化、魔力滞留による作物枯死を防ぐための災害封印施設』
黒紫が一度濃くなった。
セリアが青反応札を見て言う。
「札、揺れています。でも低下ではありません」
ダリオさんが手動板に手を置く。
「続けられるか?」
俺は中枢室を鑑定する。
《黒石祠本来機能:照合》
《災害封印層:存在可能性高》
《残存命令核:封印機能転用》
《内部封印層:未確認》
《警告:封印対象不明》
さらに、表示が増える。
《黒石災害封じ祠》
《本来機能:災害封印》
《現在状態:命令核による封印機能転用》
《内部封印層:未確認》
《警告:封印対象不明》
ニコルが震える手で書き取る。
トマが小さく言った。
「本当に……最初から悪じゃなかったんだな」
誰も返事をしなかった。
中枢室の表示が、さらに一行だけ変わる。
《推奨:命令核と封印層の分離可能性調査》
《禁止:本体破壊》
《禁止:封印層開放》
禁止。
はっきりと出た。
ダリオさんが手動板から手を離さずに言う。
「よし。これで方針は確定だな」
村長が静かに頷いた。
「壊さぬ。開けぬ。命令核だけを見極める」
セリアが、青反応札を胸元に抱くように持った。
「封じているものを、まだ知らないんですよね」
「はい」
俺は答えた。
「だから次は、封印対象の輪郭を見ます。ただし、今日はここまでです」
トマが驚いた顔をする。
「もう止めるのか?」
「はい」
ダリオさんが即答した。
「本来名を登録して、禁止事項が出た。今日は十分すぎる」
トマは少しだけ不満そうにしたが、すぐ頷いた。
「欲張らない、か」
「そうだ」
地上へ戻ると、薬草予定地を見に行った。
傷洗い草の芽は、倒れていない。
ただ、葉の先が少し青く光っていた。
セリアがしゃがみ込む。
「反応しています」
「黒石祠の本来名に?」
「たぶん……内部封印層の話に、です」
彼女は土に触れ、目を閉じた。
「嫌がっている、というより、警戒している感じがします」
トマが困った顔をした。
「芽が警戒するのか?」
「私にも、うまく言えません。でも、土の反応が少し硬いです」
セリアは記録札を取り出した。
『黒石災害封じ祠の本来名登録後、傷洗い草の葉先に微弱青反応。土壌保持線、硬化気味。ただし低下なし』
その字は、以前より迷いが少なかった。
神殿の浄化ではない。
薬草と土を見るセリアの記録だった。
夕方、王都への返信を作成した。
『黒石災害封じ祠に関する資料写しを受領。
中枢室登録により、旧称照合度上昇。
本来機能は災害封印である可能性高。
現在状態は、命令核による封印機能転用と表示。
内部封印層未確認。封印対象不明。
中枢室は禁止事項として、本体破壊および封印層開放を提示。
リベル村では今後、破壊ではなく、命令核と封印層の分離可能性調査を行う』
ニコルは最後に一文を加えた。
『責任照合とは別に、安全保全上、黒石祠本体を単純な危険物として破壊することは不可と判断する』
村長がそれを読んで頷いた。
「よい。はっきり書け」
夜、俺は地下工房で個人記録を書いた。
『王都資料により、黒石祠の旧称候補が判明。
黒石災害封じ祠。
本来機能は、地域水脈の腐食、土壌毒化、魔力滞留による作物枯死を防ぐ災害封印施設。
中枢室へ登録した結果、照合度上昇。現在状態は、命令核による封印機能転用と表示。
内部封印層は未確認。封印対象不明。
本体破壊、封印層開放は禁止。
今後は、命令核と封印層の分離可能性を調査する』
筆を止める。
黒石祠は、悪だった。
少なくとも、今は村を傷つける危険を持っている。
だが、最初から悪だったわけではないかもしれない。
守るために作られたものを、誰かが命令するために変えた。
水土見守り基点と同じように。
俺は最後に書いた。
『黒石祠は、最初から悪だったのか。
今日、その答えは少し変わった。
黒石祠は、黒石災害封じ祠だった。
壊すべき敵ではなく、壊されてはいけない封印でもある。
外すべきものと、残すべきものを見分けなければならない。
それができなければ、直したことにはならない。』
地上では、水車が回っている。
森の奥には、黒石災害封じ祠が眠っている。
命令核に歪められながら。
その奥に、まだ名も分からない災害を封じたまま。




